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「ミスを罰する」より効果的にミスを減らす『失敗ゼロからの脱却』

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ミスや失敗をなくすため、ヒューマンエラーに厳罰を下すとどうなるか?

一つの事例が、2001年に起きた旅客機のニアミス事故だ。羽田発のJAL907便と、韓国発のJAL958便が駿河湾上空でニアミスを起こしたもの。幸いにも死者は無かったものの、多数の重軽傷者が出ており、一歩間違えれば航空史上最悪の結果を招いた可能性もあった。

事故の原因は航空管制官による「便名の言い間違い」にあるとし、指示をした管制官と訓練生の2名が刑事事件に問われることになる。裁判は最高裁まで行われ、最終的には2名とも有罪となり、失職する。判決文にこうある。

そもそも、被告人両名が航空管制官として緊張感をもって、意識を集中して仕事をしていれば、起こり得なかった事態である

[Wikipedia:日本航空機駿河湾上空ニアミス事故]より

芳賀繁『失敗ゼロからの脱却』は、これに異を唱える。

事故は単一の人間のミスにより発生するのではなく、直接・間接、様々な要因が複合的に関連している。便名の呼び間違えの他に、次のような要因があるという。

  • 管制システムの異常接近警報が出るのが遅れたため、管制指示を出す時間的余裕が短かった
  • 2名は別便への呼びかけに応答がなく気を取られていた上、直前の類似の便名の航空機と交信をしていた
  • 管制官は訓練生に対する訓練実施方法のレクチャーを受けていなかった
  • 907便はTCAS(空中衝突防止システム)の回避指示(上昇)と管制指示(降下)が逆指示になっていたが、この場合どちらに従うべきかは制度上明記されていなかった
  • シートベルト着用サイン消灯直後だったため、非着用、装着不十分な乗客が多数いた

システム上の問題や、制度上の不備、偶発的な不運が重なり、切迫した状況が作り出され、事故に至ったのであり、ヒューマンエラーは原因ではなくむしろ結果なのだという。

正直者がバカを見る

にもかかわらず、因果関係が把握しやすい特定個人にのみ責任を追及するとどうなるか?

被告席に立たされることを回避するため、自分に不利となることには、極力、口をつぐむことになるだろう。不利益な証言を正直に話すほど有罪判決が下される、「正直者がバカを見る」ことになるからだ。

過失をゼロにすることは不可能だ。だが、過失を重大事故に結びつけるリスクを減らすことはできる。そのためにも、当事者を免責にした上で真実を全て語ってもらい、原因究明や再発防止の手立てに役立たせる―――最高裁の判断は、この考えに逆行しているという。

裁判官は一罰百戒のつもりかもしれない。だが、このような人が多くなると、ただでさえぶ厚いマニュアルはさらに厚くなり、インシデントの報告書はさらに増え、安全確認をするための手順はもっと煩雑になる。

いくら対策を積み上げても事故そのものはなくならず、徒労感だけが増す。ミスを報告すると厳しく追及されるのなら、大事に至らないものは自己判断で見逃したりモミ消したりするだろう。

1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300のヒヤリハットがあるというハインリッヒの法則で喩えるならば、この土台の部分が崩されることになる。

[Wikipedia:ハインリッヒの法則]

こうした危機的状況を回避するため、目指すのは「エラーゼロ」ではないというのが本書の主旨だ(エラーゼロからの『脱却』と言っている根拠はここにある)。

安全を再定義する

エラーゼロから脱却するために、まず安全を再定義せよと説く。

今までは、「安全」とは事故やリスクといった「安全でないこと」「うまくいかないこと」が極力少ない状態を指していた。

例えば、原発やワクチンや水道水の安全性について語るとき、ある基準値を定め、その値より低ければ、「安全である」とみなしていた。リスクが許容水準以下であることが、安全だとする考え方だ。

だから、安全を測定するときは、事故の数やトラブルの件数で表すし、安全目標は事故件数やミスの削減になる。

しかし、これは逆じゃない?と問いかけてくる。

「安全である」ことをリスクの反比例で考えるのではなく、「うまくいくこと」の正比例で考えるのだ。

例えば、料理の美味しさを表現するのに、「不味くない度合い」を持ってくるのは変だ。料理の美味しさは「どれくらい美味しいか」で評価するべきだろう。安全についても同様に、ポジティブな面から測定せよと説く。

システムが想定どおり動作し、パフォーマンスが維持され、期待した結果が得られる。環境要因や人為的なミス、あるいは予想外の突発的な事態が起きたとしても、うまく吸収・回避して、仕事は滞りなく行われている状態―――これを「安全」とせよと説く。

この、新しい安全の考え方のことを、「セーフティII」という。

そこでは、「うまくいっていること」から学ぶ。リスクが発現したら対処するといった後手後手ではなく、プロアクティブに予見し、うまくいく方法を増やそうと行動する。人間はミスを犯すトラブルの元ではなく、環境の変化に柔軟に対応するレジリエンスな必要要素とみなす。

そして、セーフティIIの実践をレジリエンスエンジニアリングと呼び、その手法を紹介している。

例えば、レジリエンスエンジニアリングでは、「なぜ事故が起きたか」ではなく「なぜ事故が起きないか」に着目する。

この視点から取り組むのであれば、インシデントが事故につながらなかったことを称賛する姿勢になる。チームの中で素直に意見が言えることや、職位が上の人にも気がねなく発言できる雰囲気が求められる。

心理的安全性が保証された中で、自分の立場や相手の感情に遠慮することなく、「安全=うまくいく状態」に目を向けるようになる。失敗は避けるものというよりも、そこから学ぶものとして扱われる。

エラーを処罰する基準

では、ミスには目をつぶるのか?

ミスや失敗よりも「うまく行くこと」を重視するのであれば、ミスは懲戒されないのか? それでは再発防止にならないのではないか? といいたい方もいるだろう。

本書では、懲戒する/しないの判断基準を示している。

第一の基準としては、「意図的な違反には厳しく、意図しないエラーは寛容に」という原則だ。

うっかりミスの結果として違反したものは除外して、故意の違反は罰するべきだという。勤務中の飲酒、非常ブレーキの無断解除、報告すべき事象をわざと報告しなかったのであれば、それは処罰する必要がある。

第二の基準としては、誠実な勤務態度にある。

誠実に勤務していてもエラーを犯すことがある。そのようなエラーは咎めても仕方ないという。反対に、不誠実な態度、なげやりな作業の中で起きたエラーは責任追及してもよいという。ただし、誠実/不誠実の判定は難しく、後知恵バイアスの影響もあるという。

そして第三の基準は公正性だという。

同じエラーであっても、上司との人間関係や経営者の判断によって処罰されたりされなかったりすると、従業員は疑心暗鬼に陥る。同じ現場の人が「あれで処分されたらたまらない」と思ったり、「あれで処分されないで済むのか」と感じるような判断ではダメだという。

こうした基準はあるものの、実際に起きたエラーへの適用は難しいものがある。

上司にとってNGである行為であっても、現場からすると「仕方がない」ミスというものがある。誠実/不誠実の線引きも難しい。

こういうときは、置換テストをせよという。エラーを犯した当事者と同じ作業分野で、同等の資格と経験を持つ他の人間に置き換えて、「同じ行動をする可能性があるか?」と問うのだ。その答えがYESなら、当事者を非難するべきではない。

また、どこに線を引くかというよりも、誰がその線を引くかが重要だと説く。

過失を定義する際に用いられる、「適切な注意」「十分な慎重さ」「標準的な技量」は極めてあいまいで、許容できる/できないのどちらにも倒すことができる。そこに「客観的な」境界線を引くことは不可能になる。

だから、組織や社会の中で権威を持ち、「境界線を超えた」と言う正当性を持ち、中立的な立場で判断できるのは誰かを考えよという。その判断に至るルールや価値を説明することができ、かつ、判断の合意に至る透明性を持つ存在になる。

ニアミスが起きた原因を、2名の管制官のせいにした最高裁の裁判官は、その判断基準を、「国民の常識」に照らしたそうな。本書を読む限り、この裁判こそが、ヒューマンエラーの事例に見える。



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