やり直せない過去は変えてしまえばいい『グレート・ギャッツビー』
おっさんになって再読すると、違った面が浮かび上がって面白い。
若いころに読んだときは、自己中男の醜さや、頭空っぽの女の美しさが印象的だった。自己陶酔的な語り手に鼻白んだことも覚えている。
だが、いま読み返すと、ギャッツビーのひたむきな愛が眩しく、可愛そうなくらい未熟で愚かに見える。人生を折り返して、やり直したくてもできなくなった親爺からすると、ギャッツビーの愚かしさは、一周回って愛おしいものになる。
ギャッツビーを「愚か」というのは言い過ぎじゃない? そういうツッコミが聞こえる。
貧乏な生まれながら身一つでのし上がって大金持ちになったギャッツビーが、有り余るカネを湯水のように使って夜な夜なパーティを開く―――愚かに見えるかもしれないが、ちゃんと理由があるからで、それを「愚か」と呼ぶのは言い過ぎだろう……というツッコミだ。
しかし、私が「愚か」と感じるのは、そこじゃない。例えば、語り手である「私(ニック)」と話すこのシーンだ。
「デイジーに無理な注文をするのもどうだろうね」と、私はあえて口出しめいたことを言った。「過去を繰り返すことはできない」
「できない?」ギャッツビーには心外のようだ。「できるに決まってるじゃないか!」
ギャッツビーが自分の富を見せつけるのは、デイジーに見てもらうためだ。
まだ金持ちになる前の自分とつきあってくれた過去を思い出してもらい、そこからやり直すためだ。デイジーは好きでもない男と結婚し、子どもまで産まされ、不幸な人生を歩んでいる。ならば彼女を救い出し、あの頃に戻って、もう一度初めから愛し合おうとする。
だけど、過去をやり直すことなんてできるのか?
既に時は流れている。「好きでもない男と結婚」といっても、本当に愛情の欠片もなかったと言えるのか。互いに約束をしたわけでもないし、なにしろ若かった。「あの時はギャッツビーを愛していた」とは言えるが、その後は思い出の中にいた人だ。
そんな人が現れ、「やり直そう」と言ってくれる。しかし、過ぎてしまった過去を無かったことにはできない。決定的なシーンでのデイジーの言葉がこれだ。
「いまのわたしは、あなたを愛してる。それだけじゃだめなの? いまさら過去は変えられないのよ」これだけ言うと、泣きだすしかなかった。「あの人を愛したこともあるの──だけど、あなたも好きだった」
もしギャッツビーが、この当たり前のことに気づけていたなら、あんな酷い結果にはならなかっただろう。だが、ダダっ子のように「過去をやり直せる」と我を張る彼は、幼く愚かしく見える。
おっさんになったから言える。過去に戻ることはできないけれど、過去にまつわる焦点を変えることはできる。過去を見ている「今」に働きかけることによって、昔のことのどこに焦点を当てて、どう感じるかを変えるのだ。
例えば、「いまのわたしは、あなたを愛している」というセリフに焦点を当てる。かつてデイジーに不幸な結婚生活があったとしたら、それを「いまの」幸せを味わうためのエピソードとしてしまえばいい。
思い出は、思い出したときに現実化する。だから、何を思い出すかを「今」選べばいい。この取捨選択を意図的にするかどうかは、現在の心情に左右される。そして、過去を思い出す「今」を積み重ねる時間が、その過去がどんなものだったのかを決めるのだから。
ギャッツビーはこれを知らなかったのは、若さゆえだろう。そして、有り余る富ゆえに目が眩んだからかもしれない。だけど、もう若くもやり直せもしない私からすると、この愚かしさは眩しすぎるのだ。
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