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『プロジェクト・ヘイル・メアリー』好きにお薦め『太陽の簒奪者』

N/A

面白い本に出会うコツは「これ面白いよ!オススメ!」と公言すること。すると、「それが面白いならコレなんてどう?」とオススメ返しされることがある。その面白さは高確率で「あたり」だ。

『太陽の簒奪者』なんてまさにそう。

野尻抱介『太陽の簒奪者』は、実は10年前に読んでいる。だから、ストーリーも展開もラストも全部知っている。

けれども、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を読んだ身で改めて読むと、めちゃくちゃ興奮した。もちろん展開は全く異なるんだけど、物語世界への没入感覚が酷似している。

西暦2006年11月9日、水星から何らかの質量あるものが噴き上げられていることが観測された。宇宙望遠鏡で観測したところ、噴出物は鉱物で、水星の赤道上から射出されていることが確認された。

水星には大気がない。従って地表から射出されれば、そのまま宇宙空間に広がっていくことになる。噴出は継続し、鉱物は幅数キロのリボン状を保ちつつ、太陽を中心とする半径4千万キロのリングが出現する。

リングはしだいに明瞭になり、地球上から観測できるようになる。

肉眼では絹糸のように見えるリングは軌道運動をしておらず、太陽に対して静止している。太陽に落下しないのは、ソーラーセルとして動いているのだという仮説が立てられる。

さらに、リングが成長していることが観測される。毎日50キロメートル、植物のように幅が拡張していることが確認される。

このままだと50年後には太陽を覆う「リングによる皆既日食」が始まり、年間日照の10%が奪われることが判明する―――タイトルが『太陽の簒奪者』という理由はここにある。

そして、50年を待たずして壊滅的な寒冷化が始まるという気象学者の予測に、人類は危機に陥りつつあることを自覚する……という入口だ。

  巨大なリングは、誰が、なぜ作ったのか。

  リングの成長を止める手立てはないのか。

  人類はどうなってしまうのか。

こうした疑問に対し、現代科学の技術の総力を注ぎ込むなら、何ができるのか? これを描いたのが前半だ(ここがヘイルメアリーしてる)。

だが、人類がやれることは驚くほど限られている。

例えば核兵器。あれは人間同士が殺し合うのには効率的でも、太陽系規模の脅威に対してだと、絶望的なまでに役に立たない。

だから、まずは現場に行って何が起きているのかを確認する他ない。宇宙船を作るのも飛ばすのも時間がかかる。

緊急事態だから、どうしても急ごしらえの船になる。限られた時間で、科学者を送り込み、かつ、現地調査しなければならない。現場は水星だから、太陽フレアやコロナ質量放出からの粒子が飛び交い、原子力エンジンからの放射線も脅威になる。さらには、機材の故障も考慮する必要が出てくる―――

この、「何を優先して何を犠牲にするか」と「冗長性をどうするか」についての沢山のアイデアと一つの決断が示されており、そこがリアルに感じた。

そして後半。ヘイルメアリーを読んだ方なら、「そうクるのか!」と別の意味で驚くだろう。もちろん全く違う展開だし、終わり方も異なる。でも、このテーマのSFにガチに取り組んでいる傑作だという点は請け合う。

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』とは別の読み応え・違う興奮にうち震えるべし。



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徹夜したらもったいない長編小説『ザリガニの鳴くところ』

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イッキ読みした。物語はゆったりと進むのに、先を知りたくてページをめくってしまう。

この作品のテーマはここに集約されている。

ここには善悪の判断など無用だということを、カイアは知っていた。そこに悪意はなく、あるのはただ拍動する命だけなのだ。たとえ一部の者は犠牲になるとしても。生物学では、善と悪は基本的に同じであり、見る角度によって替わるものだと捉えられている。

生きること、ただ命をつないでいくことには善悪の区別などない。行為や結果について「善」や「悪」というレッテルを貼るのは人間の性であり、そこから自由であろうとすると、どういう人生になるかが物語られている。

「カイア」はこの物語の主人公だ。舞台は米国ノースカロライナ州の広大な湿地帯になる。親兄姉に見捨てられ、極貧の中、ただひとりで暮らす彼女は、貝を掘ったり魚を釣ったりして生き延びようとする。町の人々からはつまはじきにされる、貧困白人(ホワイトトラッシュ)なのだ。

一方、捨てる神あれば拾う神あり。わずかだが支えようとする人もいて、彼女が掘ってきた貝を買い取ったり、文字を教えようとする人もいる。そのおかげで暮らしが成り立ち、本を読む喜びを知り、生物学に興味を抱き、湿地の生態系をより深く知ろうとする。

「湿地の少女」と呼ばれるようになったカイアは、大人の女性へと美しく成長していくのだが、ある日、町の青年が死体で発見される―――湿地で。差別と偏見に満ちた目がカイアに注がれ、警察は証言と証拠を集めていくのだが……というのが大枠のストーリー。

古くはシンデレラの元ネタのロドピスで、ユゴー『レ・ミゼラブル』の少女コゼット、バーネット『秘密の花園』のメアリを思い出す。悲惨な状況にいる少女がさらに酷い目に遭いつつも、生まれ持つ何か縁として逃れ出で、幸せになろうとする―――その健気さに、分かってながらも絆されてしまう。

カイアの過去と事件が起きた現在を行ったり来たりしながら、次第に事実が明らかになっていくのだが、伏線と情報の出し方が上手い。

レイチェル・カーソンばりの自然描写の中、健気&したたかに生きる少女の成長譚としても面白いし、貧困と差別と不平等を描く社会派小説としても読める。恋の甘さと愛の苦味を知るラブロマンスとしてもいい。あるいは青年の死の謎を解き明かすミステリ&法廷モノにもなっている。

様々な物語要素を織り合わせながら、冒頭のテーマを問いかけてくる。善とか悪といった人間のレッテルから離れ、生き物たちが自然のままの姿で生きていける場所はあるのか、という問いだ。そこは、本書のタイトルでもある「ザリガニの鳴くところ」と呼ばれている。

ページを繰る手が止まらなくなる語りだが、その手をおさえつつ、味読してほしい(とってもおいしいから)。

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SFの世界を一冊で一望する『サイエンス・フィクション大全』

Sf

見てくれ! これがサイエンス・フィクションの家系図だ。

図の左上に、SFの祖先「Fear and Wonder(恐れと驚き)」がある。

アニミズムや神話・伝説・迷信の流れと、テクノロジーや実験・観察・啓蒙主義の流れが混交し、自然科学とユートピアとロマン主義を養分として、ゴシック小説の巨大な畑が出来上がっている。

ゴシック小説から、科学と技術と恐怖を組み合わせた最初のSF『フランケンシュタイン』が生み出され、ウェルズやハクスリー、ヴェルヌ、アシモフ、ブラッドベリ、ギヴソン、イーガンを始めとする大きな流れがある。これらを支えてきたのはダイムノヴェル(10セントで買える大衆小説)やペーパーバックによる文学と漫画のメディアだ。

映像メディアからは月世界旅行やメトロポリスを始めとして、トワイライトゾーン、スタートレック、スターウォーズ、エイリアン、マトリックス、E.T.を代表とした巨大な流れがある。映画に限らず、TVやゲーム、動画などの映像メディアは文学と共鳴しながら、サイバーパンクやハードSF、スペースオペラといったサブジャンルを生み出している。

さらにゴシックの源から、ホラーとSFが結びつき、ポーやラヴクラフトを経由して、アン・ライスやスティーブン・キングが待ち構えるモダンホラーに流入している。同様にファンタジーも、トールキンやルイスが世界を広げつつ、互いに共鳴しあい、一つのジャンルを作り上げている。

この一枚でSFの全てを語るのは無謀の極みだが、それでもこの挑戦は素晴らしい。見晴らしはかなり良くなるだろうから。

『サイエンス・フィクション大全』は、この画像のような試みだ。科学から刺激され、科学を刺激する Sense of Wonder が、文学や映像にどのように表現されてきたかをまとめている。

SFを道案内する5テーマ

このテの本を作ろうとすると、ぶ厚い無味乾燥なものになる。というのも編集者は、「あれがない」とか「これじゃない」といった批判を怖れるからだ。そして、網羅性やマニア受けを目指すと、とっつきにくい辞書になる。

だが本書は、そうした網羅性よりも、見て楽しく読んで深まるカタログのような事典を目指している。

鍵となるテーマは5つだ。

People and Machines(人間と機械)では、ロボットやフランケンシュタインを入口に、ヒトがどのように機械化していったか、さらにはSFが「現実の」サイボーグにどのような影響を与えていったかが解説される。SFと現実に引かれた境界線は錯覚でしかないことが分かってくる。

Travelling The Cosmos(宇宙の旅)では、スクリーン上のSF作品と、現実の映像を並べた紹介が面白い。スペースシャトル船内での軽装のエンジニアと、『エイリアン』の甲冑のような宇宙服の対比は、狙って並べているはずだ。一般相対性理論で導かれるワームホールの模式図の次に『カウボーイビバップ』を出してくるので、編者は”分かって”並べている(もちろんその次は『スタートレック』のエンタープライズ号なり)。

Communication and Language(コミュニケーションと言語)では、地球外生命との交流が、現実とSFでどう行われてきたかが対比されている。深宇宙探査機パイオニア号に搭載された銘板や、DNAの二重螺旋をM13星雲に送信したアレシポ・メッセージは現実の話だし、『未知との遭遇』の5つの音階や『2001年宇宙の旅』のモノリスは映画の話だ。

Aliens and Alienation(エイリアンと疎外感)は、ヨーロッパの帝国主義と地球を侵略するエイリアンを重ねた紹介が面白い。ウェルズ『宇宙戦争』を始め、『第9地区』『アバター』における征服・被征服の関係を、ポストコロニアリズムで読み解いている。フィクションの話なのに、現実に起きている人種差別の問題とシームレスにつながっている。

Anxieties and Hopes(不安と希望)では、核の時代におけるサイエンスフィクションの可能性を紹介する。広島に投下された原子爆弾で被爆した陶磁器の次に、『渚にて』『ゴジラ』『ザ・ロード』が紹介されている。本書で知ったのだが、原子爆弾が開発される30年以上も前に、核戦争の可能性がSF作品で描かれている(ウェルズの『解放された世界』)。

5つのテーマ、どれから始めてもいいし、もちろん通しで読んでもいい。

『宇宙戦争』から帝国主義を炙り出す

私が最も興味深かったのが、4章「エイリアンと疎外感」だ。

文学理論の一つであるポストコロニアリズムで読み解くと、SFの作品そのものだけでなく、それを読む人々の罪悪感も浮き彫りになってくるからだ。

例えば、ウェルズ『宇宙戦争』に出てくるトライポッドが脅威なのは、かつてヨーロッパ人が他の地域にやってきたことを、まさに当のヨーロッパ人に下せるからだという。交渉や外交の話し合いができる場なんて無くて、エイリアンにとって、人類はただ邪魔で無意味な存在になる。

エイリアンによる人類絶滅計画は、ヨーロッパ人による植民地計画に置き換えると、自分たちがしてきた悪事への報復物語として読み解ける。数多くの「エイリアンもの」が、侵略と抵抗の対立ものとして描かれるのは、それが物語として作りやすいだけでなく、裏返された歴史として馴染みがあるからかもしれぬ……と考えるのは穿ち過ぎだろうか。

地球外生命体の研究を帝国史の文脈に照らし合わせると、西側諸国の人々はひどく居心地悪く感じるだろう。これこそ、H.G.ウェルズが『宇宙戦争』で意図したことなのだ。

この辺りの、作品からイデオロギーをすくい上げる批判的な読み方が面白い。『ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』を「ヨーロッパ人の男性冒険家と”非文明的な”魔物の間で植民地的な条件が交わされることに後味の悪さを感じる」なんて発想は、少なくとも私にはなかった。

SFが未来を「予言」しているという見方があるが、むしろ、SFが描いた沢山の未来の中から、私たちが「選択」しているように思えてくる。

SFの世界を一望のもとにするなんて、 B5版のデカいサイズだからこそできる。カタログのように図版をザッピングして眺望を愉しむのもよし、解説をじっくり読み込んで頷いたり反発したりするのもよし。つまみ食いから味読まで楽しめる。 

これは基本読書の冬木さんの紹介で知った。「見てるだけで楽しい、発想の宝庫となる一冊」という一文は、まさにその通り。素晴らしい本を紹介いただき、ありがとうございます!

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最先端テクノロジーを哲学する『技術哲学講義』

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「セックスロボットは悪なのか」という議論がある。

精巧につくられた等身大のドールで、触れると温かい。センサーとAIにより、ユーザーが望む反応を学習して応答する、ロボット工学と人工知能の粋を集めたアンドロイドだ。

愛情を深め合うコミュニケーション手段としてのセックスが蔑ろにされ、女性蔑視や暴力へつながるかもしれない。一方で、感染症の心配もなく安心して愛情を注げるパートナーに救われる人もいるだろう。

あるいは、「アンドロイドが運転する車が事故を起こしたら、誰に責任を問うべきか?」という議論がある。

AIは人間よりも安全運転できるだろうから、自動運転をベースとした車社会を設計すべきだという意見がある。一方で、プログラムや学習データの不具合によってAIが暴走する可能性は残されており、その影響は計り知れないという人もいる。

こうした議論は、論点が噛み合わないか、漠然とした話になりがちだ。意識とは何かが曖昧なまま「AIには心がある/ない」といった水掛け論になったり、トロリー問題を引き合いにしつつ「功利主義なら倫理をプログラミングできる」といった「can(できる)」と「should(すべき)」をすり替える話になる。

ともすると堂々巡りに陥りがちな議論を整理し、概念や価値観を明確にしながら、新たな視点を提供するのは哲学の出番だ。そして、技術にまつわる領域において、技術とは何か、技術の発展は社会にどんな影響を与え、幸福をもたらすのかといった問題を考えるのが、技術哲学になる。

プロパティアプローチの問題

『技術哲学講義』(M.クーケルバーク、丸善出版、2023)は、技術哲学について書かれた教科書だ。技術と社会で生じる様々な課題が整理され、議論の最先端が紹介されている。日本語で読める網羅性の高い一冊で、文系・理系、アカデミック・実社会という枠を超えてお薦めできる。

例えば、冒頭の「AIと倫理」について。様々な主張が飛び交っており、どれかを決めるというより、決め方をどうすればよいか?という所で袋小路に行き当たっていた。

ところが本書では、私が行き詰まっている前提に、プロパティアプローチがあるという。プロパティ(属性)から道徳的な権利が導かれるという考え方だ。つまり、単なるモノに過ぎないのか、あるいは人間とのパートナーなのかといった立場は、対象の属性が決めているという論法である。

ロボットについて考えてみよう。

 1. あらゆる意識をもつ存在は、道徳的な権利を持つ

 2. この存在(このロボット)は、意識を持たない

 3. ゆえに、このロボットは道徳的権利を持たない

ここでは「意識を持つ」かどうかが判断の基準となっているが、「感じることができる」「人間らしい反応をする」など、様々なプロパティ(属性)が挙げられる。これが絶対というものを決めるのは難しいだろうし、そもそも正しい組み合わせがあるのかも分からない。

著者・クーケルバークは、問題は2つあると指摘する。

ひとつめの問題は、そうした属性が何かというのではなく、この1~3の決め方そのものにある。1の「あらゆる意識を持つ存在は、道徳的な権利を持つ」という前提は、なぜそう言えるのか?「意識」の箇所を、感情、心、経験などのいくつか、あるいは全てに置き換えたとしても、その前提が正しいと確信できるのか(いやない)。

もう一つの問題は、そうした「意識」「感情」「心」といったものが特定できていない点にある。ロボットが経験し、感じていることが、私たちの「感情」や「経験」と同じだと断定できない。それにもかかわらず、両者を同じだとする前提から始めていることが問題なのだ。

現象学からAIを位置付ける

議論の対象となる存在の属性を分解し、どの属性を満たせば合格とするかといったプロパティアプローチでは、遅かれ早かれ行き詰まることなる

では、どうすればよいか?

著者はデリダやレヴィナスの現象学からのアプローチを紹介する。他者の属性を分解するのではなく、他者と自己の関係性に着目し、他者が自分にとってどのような存在であるか、自分の経験や意識の中で他者がどのように現れるかに焦点を当てる。

例えば、ロボットやAIについて議論をするとき、私たちは、対象を何と呼んでいるかに着目してみる。ある人は、それ(it)と呼ぶだろうし、あるいは彼女(her)と呼ぶ人もいるかもしれない(AIのフランス語 intelligence artificielle は女性名詞)。名詞だけでなく、ロボットを「使う」やロボットと「会う」、ロボットに「話しかける」といった表現にも関係性が現れてくる。

ロボットをモノ(it)として使役する人と、ヒト(her)のように扱う人の意見が異なってくるのは、当然の帰結だろう。前者からは、セックスロボットは「モノ」なのだから壊そうと何しようと勝手だという話になる。後者からは、「ヒト」のようなパートナーだから人倫にもとる扱いは、その人の人間関係にまで悪影響を及ぼすという主張になる。

そして、その人がロボットをどのように語るかは、それ以前のロボットにまつわる経験に依存する。未来の世界のネコ型ロボットに馴染んだ人と、未来から送られてきた殺人マシーンを見てきた人では、全く印象が異なるだろう。

そこには時代や地域性があるかもしれない。ロボットにまつわる物語は、時代や地域によって変わるからだ。「アメリカ製人工知能が暴走すると世界征服を目論むが、日本製人工知能が暴走すると冴えない男と恋に落ちる」という冗句の通り、ロボットとの関係性に地域差があるのかもしれぬ。

著者は、道徳的態度は文化に依存すると説く。

道徳のコミュニティに「誰(who)」が含まれ「何(what)」が排除されるのかの違いを決定する際、それぞれの単語は、「含む」「排除する」という行為の一部となっていて、道徳的に中立ではないのだ。

つまり、対象についての関係性を語るときに、私たちが使っている言葉の中に、既に価値判断や思考が反映されている。従って「AIと倫理」という問題は、関係性の分析によって見えるコミュニティごとに、取り組み方が変わってくるだろう。

ここでは、AIと倫理を巡る議論の一部を紹介したが、本書では、他にも様々な問題が扱われている。ごく一部を紹介する。

採用試験のプログラムに偏りがあり、黒人男性は犯罪リスクが高めに判定されていた。裁判沙汰になりプログラムは改修されたが、そもそもAIがモラル判断をしてもよいのか?

私たちはSNSに個人情報や興味や時間を「搾取」されているのか?あるいはSNSは新しい大衆社会の成立に寄与しているのか?

文字を使うことで記憶力が弱まり知識が表層的になるとプラトンは主張したが、Googleなどの強力な検索エンジンによって、ますます人は覚えなくなるのではないか?

超音波検査によって胎児の異常が把握できるようになる一方、ダウン症などの重い病気の場合に人工中絶するかの判断が求められるようになった。これは「よい」ことなのか?

よく、「哲学は正解の無い不毛な問いに取り組んでいる」とそしる人がいるが、的外れだ。

「正解」を単純に計算したり測定できる問題は、それぞれの学問領域に引き取られており、簡単には出せないものが、哲学に引きつけられている。そして、正解に近づけるための問答が積み重ねられている。

積み重ねを無視して問題に取り組もうとすると、前提の取り違えや議論のすり替え、詭弁によって堂々巡りに陥るだろう。

技術と社会を巡る問題を、より深く・効率的に考えるために。



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