こづかいアップとか、相談しにくいことを持ちかけるベストなタイミングは、夕飯後のくつろいでいる時間帯だ。自然に話を持っていくのには創意工夫を要するが、ほぼ100%で了承される。長年の経験で身につけた夫の知恵と言っていい。
これ、私だけの経験則だと思っていたら、2011年の研究で実証されている。”Extraneous factors in judicial decisions”によると、司法判断に食事が影響するらしい。
調査対象は、仮釈放の審理になる。
服役中の囚人から提示された仮釈放の申請を認可するか、あるいは却下するか……という審理だ。裁判官は過去の事例や法的根拠を厳密に適用し、可否を判断するはずだ。
ところが、調査により奇妙な傾向が炙り出されている。それは1日に2回ある食事休憩だ。仮釈放の申請は、ほとんどが棄却となるのだが、休憩した直後の申請が許可される割合が高くなる。具体的には、休憩直後だと65%が認可され、時の経過とともにこの低下してゆき、最後には0%になるという。お腹が空いてくると、より秋霜烈日になるのだろうか。
身体の状態が、認知や行動を左右する。さもありなんとは思うものの、ここまであからさまとは思わなんだ。『なぜ世界はそう見えるのか』を読むと、私たちが「ありのまま」に見ていると思っている世界が、身体性に大きく影響されていることが分かる。
身体性が認知に及ぼす影響
身体の状態を自覚していなくても、認知に影響を及ぼすという実験が教訓的だ。
この実験は、被験者に一定の運動量でエアロバイクを漕いでもらった後、「どれくらい長い距離を漕いだか」を見積もってもらう。運動中には決められた量のスポーツ飲料を飲む必要があるのだが、この飲み物に仕掛けがある。
あるグループは、糖質で加糖されたゲータレードで、別のグループは、人工甘味料を加えてありカロリーゼロのものになる(味は同じ)。被験者は自分が口にしたゲータレードが普通のものだと思っている。
45分間漕いでもらった後、自分が漕いだ距離を見積もってもらう。結果は瞭然で、カロリーゼロの被験者の方が、糖分をとったほうよりも、より長い距離を漕いだと申告したという。
お腹が空いているときは物事をネガティブに考えがちだというが、「お腹が空いている」ことを自覚しているかによらないようだ。むしろ、物事をネガティブに捉え始めたら、ひょっとして糖分が足りなくなっているのかも……と考えたほうがよいかも。
他にも、糖分に限らず身体性が認知を歪ませる実験が紹介されている。
例えば、坂の傾斜を見積もる研究が面白い。老若男女の様々な被験者を集め、色々なシチュエーション下で、これから上る坂の傾斜度がどれくらいかを答えてもらう。
結果はこうだ。スポーツ選手など、運動能力の高い人ほど、坂の傾斜を低く見積もる傾向があるという。運動能力の高さはそのまま身体の効率的な使い方につながるため、坂の傾斜という障害も、より楽に見えるのかもしれぬ。
「身体を鍛えれば、世界が変わる」というフレーズは陳腐に聞こえるかもしれないが、比喩ではなくホンモノなのだろう。
「身体能力」が、あなたが世界にどのように「適応」しているかを左右する。自分は世界をありのままに見ているというのが私たちの共通感覚だ。だがそうではなく、私たちは「自分が世界にどのように適応しているか」を見ているのである。
(『なぜ世界はそう見えるのか』デニス・プロフィットp.77)
これ、逆に考えると腑に落ちやすい。体調を悪くしたとき、普段は何でもない階段がキツく見えたり、衰えてくると駅まで歩く道のりを遠く感じたりする。私は、世界をありのままに見ているというよりも、私が関われる身体能力の範囲に見え方が左右されているのかもしれぬ。
メタファーと認知
「世界をどのように見ているか」というテーマは、ジョージ・レイコフのメタファー論からも解説されている(私のレビューは『レトリックと人生』はスゴ本に書いた)。
例えば、「上」と「下」の表現だ。人の気分や感情は、向きなど存在しない。しかし、「気分が上向く」「ダウナーな感じ」というように、上と下の向きがある。そして、「上」はポジティブで生き生きとした隠喩で扱われ、「下」はその反対だ。
これは、私たちの行動を見ると分かる。気分が良いときは立ち上がるし、なんだったら飛び上がるかもしれない。反対に、元気がないときは座り込み、ひどいときは横たわったまま動けなくなる。
こうした行動に裏付けられるレトリック表現を用いているうちに、世界をそうしたメタファーで理解するようになったのかもしれない。
こうしたイメージについて、「上」や「下」という言葉すら必要ではないことを検証する実験がある。
被験者は、2つの箱に入ったビー玉を、一つ一つ指でつまんで移動させる。箱は上の棚と下の棚に位置しており、ある被験者は、上の棚の箱にあるビー玉をつまんで、下の棚の箱に移動させる。別の被験者は逆で、下の箱のビー玉を上の箱に移動させる。
ビー玉を移動させている被験者には、「昨年の夏はどうでしたか?」とか「小学校の思い出を語ってください」という質問を投げかける。
すると、上から下へ動かしている被験者は、失敗した出来事や不運なエピソードを語る傾向があり、下から上へ移動させている被験者は、楽しかったことやポジティブな思い出を語ったという。
正直、できすぎている感じもするが、動作イメージが認知を形作ることはありうると思う。ビー玉での実験ではなく、例えば高層ビルのエレベーターに乗って、上昇している時と下降している時でエピソードが変わるかを調査したら面白いかも。
口と手の並行性
身体性と認知のテーマのうち、口と手の並行性の研究も面白い。
まず手から。手は大きいものを握ったり抱えたりできる。一方で、小さなものを摘まみ上げることもできる。手は扱う対象の大きさによって「握る」行為と「摘まむ」行為を使い分けることができる。
そして口について。小さいものを形容するとき、英語では「little」「tiny」など、口をすぼめた形になる。一方で、大きいものは「large」「huge」など開いた口の形になる。「小さい/大きい」は、スペイン語では「chico/gordo(チコ/ゴルド)」、フランス 語では「petit/grand(プティ/グランド)」、ギリシャ語では「µικρός/μακρος(ミクロス/マクロス)」、日本語は「チイサイ/オオキイ」になる。
手を使う対象の大きい/小さいと、発話する口の開きの大きい/小さいについて、並行性があるのではないかという仮説を立て、これを検証した実験がある(※1)。
被験者は特殊なスイッチを手にする。このスイッチは、2つの部分に分けられている。一つは、掌で握りしめることでONにする部分、もう一つは、指で摘まむことでONにする部分である。被験者は画面に表示された課題に応じて、握ってONにするか、摘まんでONにする。
”Effect of Syllable Articulation on Precision and Power Grip Performance”より引用
そして、ONにするとき、特定の子音を声に出して発話することが求められている。発話する子音は、口を大きく開けるものや、唇を突き出すもの、口をすぼめるもの等、様々なものが用意された。
発話する口の大きさと、スイッチを入れる手の開き方の組み合わせはこうなる。
- 口を大きく開けながら、掌で握ってONにする
- 口を小さくすぼめながら、指で摘まんでONにする
- 口を大きく開けながら、指で摘まんでONにする
- 口を小さくすぼめながら、掌で握ってONにする
そして、課題への反応速度、正答率が最も高かったのが、1と2になる。つまり、口の大きさと手の開き方が同じとき、早く正確に回答できたというのだ。一方で、3や4のように、口と手の形が異なるとき、成績が悪くなった。
手の制御と発話、それぞれ全く異なる行動でありながら、神経系が共通していることが炙り出されている。ヒトになるまでの長い間、私たちの祖先は四つ足で行動していた。その間はモノを運ぶ際は、口を使っていたはずだ。
やがて二本の足で歩くようになり、両手を用いてモノを掴めるようになり、なおかつ発話でコミュニケートできるようになるまでにも、長い年月を必要としただろう。口と手の進化に並行性があることは、ここからも想像できる。
口と手の並行性は、私の経験からも思い当たる。赤ちゃんに向かって、「いないいない、ばぁ」というとき、私は両手を広げる。ひと仕事終えて「ぱあっとやろうぜ!」というとき、私は両手を広げる。「むむむ……」と唸りながら考えごとをするとき、私の両手はグーのはずだ。確かに、口の形と手の形は同期している。
身体を通じた理解
私たちが何かを「理解」するにあたって、身体が関与している。このレイコフのメタファー論を裏付ける研究成果も出ている。
例えば、fMRI を用いた脳機能イメージングによる研究だ。行為に関する様々な文章を読んでもらい、それに応じて脳のどこが反応しているかをリアルタイムに測定する。
Wikipedia 一次運動野より
脳の運動野と呼ばれる場所には、身体部位がマッピングされている。図は脳の断面から見た皮質上の場所と、それに対応する身体部位を示している。例えば「手」の場所が損傷すると、手が自由に動かせなくなる。
被験者には「蹴る」「摘まむ」「なめる」といった行為に関する文を読んでもらい、その時の脳の状態を fMRI で検査する。その結果、「蹴る→足」「摘まむ→手」「なめる→舌」とそれぞれ対応する運動野が活性化することが明らかになっている(※2)。
単純な行為の文章だけでなく、複雑な状況を読んだ場合の研究も進められている。例えば、責任の委譲に関する文を読むとき、両手の筋肉が微動する。これは、「皿を片づける」といった物体を移動させる文を読んだときと同じだという(※3)。
他者の行為を「観察する」ときと、自分が同じことを「行動する」ときの両方で活性化するニューロンをミラーニューロンと呼ぶ。ミラーニューロンの研究は「見る」を契機とする脳の観察だが、このように「読む」を契機とした研究もある。
行為を示す言語表現を読んだり聞いたりするとき、その行為を受け手がシミュレートしていると言えるだろう。
これは、物語が私たちに与える影響そのものになる。
そこに登場する人々が様々な出来事を経て、何らかのリアクションをする。非道な目に遭って辛くて痛い思いをするかもしれない。あるいは、この世のものとは思えない快楽を堪能する場合もある。
私たちは演劇や語りや文章を通じて、そうした経験や感情を「追体験」するというが、ミラーニューロンや身体各部位の神経系によって、文字通り「体感」しているのかもしれない。
この「体感」を引き出すメカニズムを、様々な文学作品から分析しているものが、『文學の実効』になる。文学作品から人の認知の仕組みを解き明かしている。私が物語を面白いと感じるのは、読むことが私の身体に及ぼす影響に薄々気づいているからかもしれぬ。
面白いと感じるとき、私の身体に何が起きているのか。このテーマを考える上で、『なぜ世界はそう見えるのか』は改めて読み解いていきたい一冊。
※1 “Effect of Syllable Articulation on Precision and Power Grip Performance” L. Vainio, M. Schulman, M. Vainio Published in PLoS ONE 9 January 2013 Psychology [URL]
※2 “Somatotopic representation of action words in human motor and premotor cortex” Olaf Hauk 1, Ingrid Johnsrude, Friedemann Pulvermüller,Neuron. 2004 Jan 22;41(2):301-7 [URL]
※3 ”Processing abstract language modulates motor system activity” A. M. Glenberg, M. Sato, L. Cattaneo, L. Riggio, D. Palumbo, and G. Buccino, 2008.Quarterly Journal of Experimental Psychology 61: 905-19. [URL]
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