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ある種のホラーがとてつもなく怖い理由『恐怖の美学』

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ホラーは2種類ある。

血みどろ臓物、怨念呪殺、ゴシック、ゾンビ、モンスター、SF、サイコなど、人を震え上がらせるホラー作品は様々だ。だが、あらゆるホラーは2つに分けることができる。

この2つを分けるのは、「枠」だ。枠の内側に留まっているものと、枠の外に出てくるもので、ホラーは2つに分けることができる。

「枠」とは、私が便宜上そう呼んでいるもので、例えば、恐ろしい絵が収まっている額縁になる。アマプラでホラーを観ているならPCのベゼル(モニター枠)になる。映画館ならスクリーンを縁取るカーテンだし、紙の本で読んでるなら、文字の周囲の余白を「枠」と置き換えてほしい。

「枠」を越境するもの

つまり「枠」とは、コンテンツと、コンテンツ外を分け隔てる境界のことだ。

私たちは、本を開くとき、ゲームをするとき、映画館の暗がりに身を潜めるとき、まさにそうした行為によって、現実ではないホラーが始まることを意識する。そして、本の余白に縁取られた物語や、ディスプレイの枠内のゲームプレイに没頭する。

だが、真に迫る描写や予想外の驚きのあまり、時として目を背けたり、思わずページを閉じたりする。さらに強烈である場合は、電源を切って寝入った後も悪夢として蘇ったり、手元に置くのもイヤになってブックオフに売ったりする。

どんなによくできていても、ほとんどは枠の内側で完結しており、「ああ面白かった」で終わる。だが、ごくわずかだが、物語が終わった後もじくじくと後を引き、枠からこっちに染み出し、悪夢に現れたり、現実の行動に影響を及ぼすものがある。

例えば、スティーブン・キング『シャイニング』はめちゃくちゃコワい。雪で隔絶された山荘の怪異もさながら、狂気に蝕まれてゆく様子が真に迫っている。だがそれは、枠の外からの感想だ。「真に迫っている」形容は現実ではないからそう言える。

一方、小野不由美『残穢』も怖い。物語の怖さもさることながら、そのお話を知ってしまったことで、こっちが呪われるような気分になる。「穢れ」といった感覚で、不浄なものに触れたかのような記憶が後を引く(読後、本に触るのも嫌で処分した)。これは枠から出た物語に感染した例だろう。

つまり、ホラー作品を、「作品」というカギカッコ内に留めて、あくまで愉しむものにしているのが、「枠」なのだ。

第4の壁

樋口ヒロユキ『恐怖の美学』で知ったのだが、この「枠」とは、演劇の世界では「第4の壁」というそうだ。

演劇は、舞台で繰り広げられる。そして舞台は、背景と左右によって仕切られている。この他に、舞台そのものと観客の前に、見えない壁が存在するというのだ。

通常、この壁は意識されない。俳優は壁の内側で、自らの役を演じる。王、殺し屋、道化師と、それぞれの存在を全うする。

西洋の舞台ではプロセアム・アーチという額縁のような縁取りが設けられていた。俳優はこのアーチを超えて客席にせりだすことはせず、観客は額縁の内側を、「動く絵画」として鑑賞していた。この額縁が、第4の壁の境界となっていたのだ。

ところが、壁の内側の俳優が、いきなり観客に向かって、問いかけてくることがある。観客のいる世界(現実)と舞台の上での物語(フィクション)は不可侵であるにもかかわらず、承知しているかのごとく語り掛けるのだ。

演劇の世界だけでなく、テレビドラマでもある。それまで役を演じていた俳優がカメラを直視して視聴者に問いかけるのもある。ゲームや映画などで、飛び散った血しぶきがカメラに付着して被写体がぼやけるとき、透明な壁が意識される。

ホラーとは何か

本書によると、ホラーとはこの第4の壁を突き破ろうとする芸術だという。

私たちは、死の危険を直接恐れるだけでなく、暗闇や廃墟、墓場など、死体や衰退にまつわる死の表象を怖れているという。そして、その恐れが第4の壁を超えて現実に迫るとき、メタレベルで生や死の問題を考えることができるというのだ。

確かに、ホラー作品を「作品」として愉しむだけでなく、物語が終わってもヒヤっとさせられるものがある。

例えば、VHSビデオで観た『リング』は怖いというより嫌だった。VHSビデオを観た人に呪いが感染していく話だ。だから、「その」VHSビデオが、まさに映画に出てくるもののように思えてくる。

VHSビデオがピンと来ない若者なら、「霊を呼び寄せるアプリ」とかなら嫌だろう。たった今思いついたアイデアだが、位置情報を元に霊を招く音を発する呪いのアプリが勝手にインストールされてしまう話だ。で、そのドラマを観ている人が持っているスマホも、そのドラマを通じて呪いが感染してゆく。

あるいは、曰く付きの怪談として、「絶対に人に話してはいけない話」がある(例の話とか件の話とか呼ばれる)。なぜなら、その話を聞いた人が呪われるから。でも、だとすると話を知っている人は皆呪われているのでは? と思うのだが、それはそれ、この話そのものに仕掛けがあるのだ(ここで書いてはいけないものなので、ご容赦を)。

『恐怖の美学』では、古今東西のホラー百冊を取り揃えて、恐怖のワンダーランドへ招待してくれる。『リング』よりも遥かに怖い作品として折り紙付きで紹介してくるこれは、私も同感だ。このタイトルを思い出すたびに恐怖が更新される。第4の壁を易々と突破して、今晩も悪夢に現れてくる。

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好きなマンガを好きなだけ語り合うオフ会レポート(37作品を紹介)

はじめに

好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、それがスゴ本オフ。

本に限らず、映画や音楽、ゲームや動画、なんでもあり。なぜ好きか、どう好きか、その作品が自分をどんな風に変えたのか、気のすむまで語り尽くす。

この読書会の素晴らしいところは、「それが好きならコレなんてどう?」と自分の推し本から皆のお薦めが、芋づる式に出てくるところ。まさに、わたしが知らないスゴ本を皆でお薦めしあう会なのだ。

今回のテーマは「マンガ」、何回読んでも爆笑してしまう作品や、ヘコんだときに癒してくれる短編集、価値観の原点となったマスターピースなど、様々な作品が集まった。いわゆるコミック本に限らず、アニメーションや物語詩など、王道から知る人ぞ知るやつ、直球変化球取り揃えて、キリがないほど集まった。

▼気になるマンガに手が伸びる

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▼懐かしいものから未知の作品まで

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▼マンガが縁で「読み友」が増える

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まず私ことDainの紹介。

『ガールクラッシュ』タヤマ碧(新潮社)

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ガールクラッシュ

日本のJKがK-POPのアイドルを目指す。努力・根性・仲間との絆で、泥臭く試練を乗り越えるスポ根の王道ストーリー。限られた時間とリソースで、もがきながら克服していくところは『ブルーピリオド』に似ている。アイドル好きのおっさんにもお薦め。

『せんせいのお人形』藤のよう(comico)

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せんせいのお人形

育児ネグレクトされているスミカと、彼女を引き取り、向き合おうとする昭明の物語。「人はなぜ学ぶのか」という問いに、スミカが自分でたどり着いくシーンは感動的。引き取った子どもとの共同生活で魂の成長を描くストーリーは、スペンサーの『初秋』や『違国日記』『うさぎドロップ』を彷彿とさせる。

『秒速5センチメートル』新海誠・清家雪子(講談社)

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秒速5センチメートル

恋をする人は3種類いる。恋に名前を付けて保存できる人と、恋を上書き保存できる人と、恋が呪いになる人だ。映画のラストが辛かった男どもにお薦め。映画館でリバイバル上映して観てきた。一緒に観てた娘の感想は「酷い」←分かる。

少女の引っ越しで始まる文通と遠距離恋愛の話。やがて文通は日常生活の中で途切れてしまうのだけど、男はずっと引きずって呪いになり、女は上書きしてしまう。映画で傷ついた魂は、コミック版を読んで浄化される。そして『秒速』のラストの踏切シーンは、『君の名は。』の並走する電車のシーンに繋がっていく。男は本当に面倒くさい。

『Spirit of Wonder』鶴田謙二(講談社)

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Spirit of Wonder

タイムマシン、水没都市、エーテル航行、空間ワープなどのスチームパンクっぽい古典的SF世界で紡がれる、人間くさい物語。今月末に豪華復刻版が出るので、廉価コミック版は高騰するかも。ラブストーリー味が強く、SFと恋愛は相性が良いことが分かる。

『ひきだしにテラリウム』九井諒子(イースト・プレス)

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ひきだしにテラリウム

奇想天外なアイデアを超大真面目につきつめたショートショートの漫画集。寝る前に1~2話読むと妙な夢に化けるかも。ダンジョン飯よりこっちが好き

『違国日記』ヤマシタトモコ(祥伝社)

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違国日記

両親を事故で亡くした少女と、それをひきとった作家(少女のおば)の話。人はなぜわかり合えないのか、それでもなぜわかり合おうとするために言葉があることが分かる。ラストでは、人を愛するということはどういうことか、震えるほど分かる。6月にガッキー主演で映画化される。

よしおか(hyoshiok)さん。

『チ。―地球の運動について』魚豊(小学館)

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チ。地球の運動について

天動説が絶対だったキリスト教世界で、地動説に気がついてしまった主人公達の話。なにかを固く信じてしまうと、頭を切り替えることは難しいのは、中世も現代も同じ。

地動説に気がついた人たちは、どんどん先鋭化して次の世代に伝えようとするが、弾圧側もどんどん巧妙になる。読書猿さんも強力に推している。友人に勧められたときに「これヤバイっすよ」と言われて一読ハマった。知識が世界を変えることが本当にあるんだと知れた。割と残酷なので、万人にお勧めするのは難しい。でも、オススメしたい。

Yukiさん。

『それでも町は廻っている』石黒正数(少年画報社)

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それでも町は廻っている

とにかく伏線回収の妙が堪らない16巻。大まかな時系列は主人公の高校3年間の日常を描いたものなんだけど、各エピソードが時系列順に収められている訳でなく、最終16巻の最終話が、最終話じゃなく、最終話1話前のエピソードが実は16巻より前の巻のエピソードに繋がっていたり、万感胸に迫るものがある。

SF要素に満ちたエピソードもあれば、ミステリ要素満載のエピソードもあり。当代でも有数のストーリーテラー石黒正数の傑作。『天国大魔境』もお勧め。

『魔境斬刻録 隣り合わせの灰と青春』稲田晃司、ベニー松山(リイド社)

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魔境斬刻録 隣り合わせの灰と青春

1988年、小学生の頃、今でも忘れ難い一冊の小説と出会った。JICC出版局(現・宝島社)発行の「ファミコン必勝本」に連載されていた、ベニー松山・著の「隣り合わせの灰と青春」だ。小学校の僕のクラスだけで何故か局地的にウィザードリィが流行っており、本作はある種の歓喜を以て迎え入れられた。1988年といえば、角川書店から水野良がロードス島戦記の第一巻を刊行した年でもあり、ファンタジー作品が隆盛を極め出した年でもある。

「隣り合わせの灰と青春」はウィザードリィ第一作目「狂王の試練場」を題材にした作品で、ゲーム自体はダンジョンに潜ってレベル上げとアイテムハントが主たる目的で、所謂ドラクエチックなストーリーラインがある訳ではないが、小説は著者の解釈と考察、ゲームを進めるとプレーヤーが経験する「あるある」が随所に散りばめられた本格的な冒険譚である。

著者はそもそもゲームライターがメインで、小説は寡作で数える程の作品しか発表していないが、それが極めて惜しい程、いずれの作品も読み応えがあるものである。その作品が、いったいどの様な経緯でコミカライズに至ったのかは定かではないけれども、小説の発表から三十数年を経て、令和の御代に蘇ったのである。著作権の関係で原作由来の固有名詞は本作独自のモノに置き換えられてしまっているけれども、作品の雰囲気は、ウィザードリィに熱狂していたあの頃の気持ちを喚起する良作である。小説自体は繰り返し読み返したので当然結末は承知しているけれども、これから先の連載で、あの場面やあの場面はどの様なカンジで絵に起こされるのだろう、と興味を掻き立てられる一品。ベニー松山は『アラビアの夜の種族』古河日出夫にも影響を与えているように思える。

ほそかわさん。RECOMAN という、。好きな漫画を登録してお勧めしあうサービスをやってる。

『バンビ〜ノ!』せきやてつじ(小学館)

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バンビ〜ノ!

スポ根グルメ漫画。No.1だと信じて挑戦してコテンパンになるが、それでも学び続けて成長していく姿がいい。自分も料理が好きで、CookPadやTikTokで勉強。弓削シェフの動画で勉強してたら、なんとこの人のお店が『バンビ〜ノ!』のモデルだった。面白いだけでなく、人生に刺さる。(「スープ作りの失敗するエピソードが好きでした」by Rootportさん)

ノリとしてはガラスの仮面とかヒカルの碁などに近い。成りたい自分と成れる自分は一致しない。『バンビ〜ノ!』でもホールやらされたり、パティシエやらされたり、でもそれでも挫けず学び続ける。折れない主人公が好き。ベルセルクとかにも通じるものあり。

えりさん。

『スキップとローファー』高松美咲(アフタヌーンコミックス)

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スキップとローファー

石川県の超ド田舎から、単身進学校に上京したヒロインの話。主人公の自己肯定感が好き。はじめて都会に出てきて人間関係の距離のとりかたとかうまくいかないこともあるけれど、基本マインドポジティブなので「私なんて〜」と卑屈にもならないし、逆に嫌な感じの傲慢さもないのでいい奴。主人公がいわゆる美少女じゃないのもいい。可愛い子が困っているから助けよう、可愛い子だから仲良くなろうみたいな安易な展開にならない。人間関係はみつみちゃんの人柄の良さとコミュニケーションで獲得していくところが信頼できる。

特に2年生になってからの展開がいい。仲良しグループは別のクラスになったり、後輩がはいってきたりと変化がある。派手さはないけど、変わりゆく人間関係と状況にどう向かっていくかというドラマに主軸が置かれていて、主人公の前向きな性格もあって読んでいて気持ちのいい作品になっている。

ゆかさん。

『きみにかわれるまえに』カレー沢薫(日本文芸社)

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きみにかわれるまえに

ネコや犬を飼った人たちの1話読みきり短編集。最近、犬と暮らし始めた。人間の男は裏切るが、犬は裏切らない。犬は先に死ぬとしても可愛い。犬が病気だから仕事を休みますって今の時代はまだ難しいけど、そんなことを考えさせられる。泣かせる本じゃないけど、読むと泣いてしまう。今日も半蔵門線で泣きそうになった。

「犬の十戒」とか噛みしめると涙が出そうになる(ここで犬や猫を飼っている参加者たちの涙腺が動揺する)。結果でなくプロセスが幸せであればよいのだと再発見できたマンガでお勧め。

じゅんこさん

『ワンゼロ』佐藤 史生(小学館文庫)

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ワンゼロ

かつて神と魔の戦いがあって、魔物が負けた。その魔物の遺伝子が20世紀の東京にたどり着き、現代に4人の人間に集約される。機械による覚醒者も登場する。主人公たちは魔物側で、悪いことは企んでないし、殲滅はされたくない。少女マンガなんだけど哲学をも取り込んだ異色SFになっている。

『オリエンタルピアノ』ゼイナ・アビラシェッド (河出書房新社)

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オリエンタルピアノ

ベイルートのピアノの調律師が、オリエンタル音楽をピアノで再現したいと考えてバイリンガルのピアノを作る。アラビア語とフランス語を操るバイリンガルな少女が登場する。西洋とアラブ世界の音楽を愛する家族の話。漫画だけど文章も素晴らしい(詩的)。音読したくなる。

パームシリーズ『お豆の半分』獸木野生(新書館)

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お豆の半分

人間の泥臭さを描いた話。さまざまな人種が米国で一緒に暮らしながらの「日常系」だけど、マフィアの抗争があったりオカルトな話があったり、説明が難しい。前半の泥臭い絵が好きだった。途中まで素晴らしかったけど、絵柄が美しくなりすぎてしまった。作者もオーストラリアに移住したとか。

ズバピタさん。

『私を月まで連れてって!』竹宮惠子(eBookJapan)

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私を月まで連れてって

自分にとって原点となる作品で、スゴ本オフの出席者にとっても外せない1冊(というかシリーズ)。当初SF専門誌に掲載されて、その後女性漫画誌で続きが連載された。2080年代を舞台に、エリート宇宙飛行士のダン・マイルド(26歳)と9歳(のちに10歳)のエスパー美少女ニナの恋人コンビ(!!!)とその仲間が毎回事件に巻きこまれて解決するラブコメディ。1話読みきり型で毎回SFやファンタジーの名作がモチーフになりっているという点でも、不条理な展開の多さ、コメディというよりはスラップスティック、そして究極のロリコンの話という意味で、完全に竹宮恵子版『不条理日記』であり、竹宮恵子と吾妻ひでおの中身が実は一緒だと今になってわかる。

普段は昼行灯(あんどん)だけどイザとなると活躍するダン・マイルドは、10歳のエスパー美少女(中身はほぼ大人=擬似合法ロリ)を恋人にするロリコンという点でも僕の理想のロールモデル。ニナは、『Papa told me』の的場知世(ちせ)ちゃんと並ぶ少女マンガ界の美少女だけど中身はけっこう大人の擬似合法ロリの2大巨頭じゃないか。

すぎうらさん。

『戦国女子高生 龍と虎』いくたはな(竹書房)

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戦国女子高生 龍と虎

いわゆる異世界転生モノなんだけど、戦国武将の武田信玄と上杉謙信が現代の女子高生に転生してキャッキャウフフする話。このワンアイディアで色々突破してしまった尊い百合作品。信玄×謙信だけでなく周囲の武将たちも同じ学校に転生していたりして、つきあおうとする二人に妨害をして謎の鍔迫り合を迫るのも可愛くてよき。

類型的な戦国武将のイメージをあえてそのまま使っているところが面白い。最近の「女子高生」は、現実の女子高生とは異なる概念としての女子高生なところがあるけど、『龍と虎』は戦国武将という概念が女子高生という概念に転生するという点が面白い。なんだこれ、最高すぎる。

『ストロボライト』青山景(太田出版)

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ストロボライト

「あのとき、ああしていればよかった」と、めちゃくちゃ心を突き刺してくる青春恋愛あるある話、と思いきや現在と過去と架空の物語と、その狭間にある書き手の心、4つの時間が入れ子になった複雑な構造に唸る作品です。主人公の小説家が、現在の結果を生んだ学生時代の過ちを「書く」ことにより、現在を規定していくのだが、過去を書くことにより現在がわずかに変容していく描写もあって何が本当だったのかを曖昧にしていく(おそらく意図してそうしている)。

作品内作者として「信用ならない書き手」なのだけど、書いている過去がイマココと接続する瞬間は圧巻で鳥肌立ってくる。劇中言及される「間テクスト性」の通り、過去のテクストの上に現在があれば過去をテクストとして書き直すことにより現在を変容させることもできると、また逆に現在を書くことにより過去に別の意味をつけていける(林真理子が清少納言に影響を与える!)という事を言いたいのかも。

穏やかなラストなんだけど、それさえも映画『インセプション』のラストのように、今現在が本当なのか、を読者の側に投げかけてきてゾワゾワします。この本を読んだことすら本当だったのか、と疑うレベルです。面白いです、傑作。特に表現として書いたりする人に読んで欲しい。1巻完結。

Rootport(ルートポート)さん。ブロガーで作家なので、まずは自分が原作のマンガを紹介。

『ぜんぶシンカちゃんのせい』汐里、Rootport(コミックDAYS)

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ぜんぶシンカちゃんのせい

進化心理学をテーマにした漫画。学校イチの清楚系美少女・シンカちゃんと、進化心理学の研究対象になってしまった僕の、進化心理学的ボーイ・ミーツ・ガールのお話。

『ドランク・インベーダー』吉田優希、Rootport(コミックDAYS)

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ドランク・インベーダー

お酒で異世界人の心を懐柔する。でも主人公はお酒が好きすぎて、お酒を侵略の手段にしたくないので、そのなかでお酒の良さを広めようとする。駄目な飲み方をしないためにもお勧め(このマンガで教わった「鼻タレルぐらいうまいビール」ことピルスナーウルケルを試したらうますぎてワロタ。あとIPAビールというのを知ったのもコレ:Dain談)。

ちなみに本作で出てくるビールリスト。ぜんぶ試したけれど、やっぱりピルスナーウルケルが好き。

  • エビスビール
  • サントリー・プレミアム
  • ギネス
  • ドイツビール シュレンケルラ・ラオホ ビア メルツ
  • バス・ペールエール
  • ヴェルテンブルガー
  • パンクIPA
  • ピルスナーウルケル

『ダンジョン飯』九井 諒子 (KADOKAWA)

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ダンジョン飯

ストーリー、作画、演出のすべてにおいて非の打ち所がない「完璧なマンガ」。

ダンジョンのモンスターを料理するという笑えるギャグマンガでありながら、ストーリーが進むと『寄生獣』と同様に「食べる/食べられる」とはどういうことか?という哲学的な思索へと踏み込んでいく。それでも決して説教臭くならず、最後までゲラゲラと笑える。加えて、作画(とくに扉イラスト)は息を飲むほど美しい。『東京喰種トーキョーグール』に通じるものあり。

Dain:生き延びるために他の生物を食べ、死ぬと食べられる。生きるとは死を食べることで、死ぬとは食べられるという観点からすると、関連書籍として『死を食べる』『捕食動物写真集』をお薦めしたい

Rootport:「生きるとは他者の死を食べること」という観点からだと、『食と文化の謎』マーヴィン・ハリスの本もお薦め。昆虫食、ペット食、人肉食が登場し、「人類=肉食」論が語られる。当時は異端とされていたけれど、今読むと正鵠を射ている。

ふくださん。

『セクシーボイスアンドロボ』黒田硫黄(小学館)

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セクシーボイスアンドロボ

黒田硫黄は控えめに言って天才。

筆で描いたであろう骨太の線で繰り広げられる奔放なストーリー展開の中に、心に刺さる言葉が散りばめられている。本作では、スパイか占い師になる目標を抱いてテレクラのサクラのバイトをする中学2年生の女の子、林二湖(セクシーボイス)と、サクラに見事に引っかかったロボット好きの青年ロボを主人公に、正義の悪役というおじいさん、記憶が3日しか持たない謎の人物など、奇妙な人々が絡む形で事件に巻き込まれていく。どの話も面白い。

マンガ読みでまだ黒田硫黄を知らない方は幸いである、これから読むことができるのだから。黒田硫黄はセリフ回しが素晴らしい。

oyajidonさん。

『ラブ、デス&ロボット』(Netflix)

Netflix

10〜20分の長さが決まっていないアニメ。

ユーモラスなものから、シリアス、ファンタジー、ホラーまで。絵柄もアメコミ調から、実写調など、多彩な作風・画風で飽きさせない。デビッド・フィンチャーがプロデュース。「ヨーグルトの世界戦略」が短くて(6分)お試しには良い。タイトルにロボットがあるけれど、ロボットばかりではない。新しいことがどんどんわかる時代にオススメしたい。

けいこさん。

『ベルリンうわの空』香山哲(イースト・プレス) 

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ベルリンうわの空

 日常系とか淡々とした話が好きなので、これもお気に入り。著者はゲーム系の人で現在はベルリン在住。大きな事件は起きず、とにかく生活をしていく中で、コミュニティや社会をちょっとだけ良くしていく。

ちょっとだけ人のためになることをする、ほんの少しのさじ加減が良い。作者はとにかく人をよく見ており、良いことだけでなく、移民や差別についての話もあるけど、根底に優しさがある。毎日生活していくなかで、こういう考え方で生きていけたらいいなと、何度も読んでいる。日常系やエッセイが好きな人にお勧め。全3巻。

『香山哲のファウスト』香山哲(ドグマ出版)

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香山哲のファウスト

ファウストを下敷きに、まったく違う人が主人公。職場で辞めていく人がゲーテの一節をプレゼントしてくれた。朝起きたときに誰かのためになにかをしてあげたいと考える。そういうのに通じているので好き。

Sさん。

『聖☆おにいさん』中村光(講談社)

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聖☆おにいさん

立川のアパートに同居する、イエス・キリストと仏陀のお話で、シュールなギャグ漫画としても、宗教を考える上での参考書としても読める。十二使徒や仏陀の弟子、悪魔のルシファー、鬼、日本の神道まで幅広く登場し、色々な宗教に詳しくなる。仏陀が本気で考えると光り出すとか、ユダがキリストを裏切った後に自殺したとか。

ただしイスラム教は出てこない。戦争や紛争の問題があるし、偶像崇拝を禁止していることもあって、関連用語すら出てこない。長期連載で、僕が生まれる前から連載されている。2人の容姿も長い連載の中で変わってきている。仏陀も最初は顔も耳たぶも長い、日本人が想像するザ・インド人だったのが、だいぶ日本人に近くなっている。

ヤマケイのササキさん。

『K』谷口ジロー(ヤマケイ文庫)

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谷口ジローの初期作品。好きすぎて、自分の会社で文庫化した。謎の日本人登山家Kが、エベレストやK2で事故が起きると黙々と人助けをする。なぜそんなことをするのかは語られない。文庫化前は誤植についてAmazonでチクチク言ってくるレビュアーがいたので、しっかり修正したけれど、その後音沙汰ナシ(そんなもんか)。

なぜ、登山家でもない谷口ジローが、こんなにリアルに山が描写できるのか?事務所の人に聞いたら、資料写真を読みこんで頭の中で3D化してモデルを作ることで、さまざまな角度から山を再現できたとのこと。原作者はアストロ球団の遠崎史郎で、けっこうトンデモナイ展開がある。

『ハイキュー!!』古舘春一(集英社)

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ハイキュー!!

バレーボール漫画。バレーボールの動きを3Dのように描いている。この漫画を読んでからバレーボールの中継をみる目が変わった。選手の動き、心理などが手に取るようにわかる。今のスポーツマンガの最高峰ではないか。アニメ版も最高(激しく同意!:Dain談)。

『ピークアウト』塚脇永久(竹書房)

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ピークアウト

「なんでそんなことをやるの?」という問いに「とにかく好きだから。やりたいから」という思いをまっすぐに、麻雀を舞台に描いたマンガ。社会的意義とか、役割とか、そんなものは抜きにして、とにかく内面から湧き上がってくる圧力だけで進む、その若さがうらやましくなる。「お前は何をしたいんだ」という問いを突き付けてくる小説『ファイトクラブ』に通じるものがある。

自分を信じるということは、大きな駆動力になる。闘牌シーンも、トッププロが監修しており、麻雀に詳しい人が読んでも読みごたえあり。

一口コンロ(ひとくちこんろ)さん。

『FLIP FLAP』とよ田みのる(アフタヌーンKC)

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FLIP FLAP

ピンボール&ボーイミーツガール。ただ何かに没頭すること、そしてハマったものを共有できる同好の士と関わる楽しさが伝わってくる。で、読むたびにそれらを思い出せるから何度も読んでしまう。ピンボールにどハマりするヒロインに近づきたくてピンボールを始める主人公。最初の動機は不純だけど、次第にハマっていく。

もちろんピンボールは何の役にも立たない。でも「こんな役に立たないものを」「心が震えるんです」というやりとりが好き。役に立つ・立たないではなく、「心が震えること」を大切にしていきたい。紙は絶版だけど、Kindleで読める。

chicaさん。

『ニャイト・オブ・ザ・リビングキャット』ホークマン/ メルカーツ(マッグガーデン)

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ニャイト・オブ・ザ・リビングキャット

最近、人生いろいろあって、疲れていた。本のPRが仕事なのに、本を読めなくなって、おまけにコロナに罹って踏んだり蹴ったりだった(あと太った)。でも、そういうことがあってもいいんじゃないか、と思えて、マンガが読みたくなって最初に買ったのは。有名なゾンビ映画『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』のネコ版。

ネコにモフモフされるとネコになってしまう。一発ネタみたいだけど、けっこう泣ける。もうそれでいいじゃん。人生に意味を求めなくていい。本をPRする仕事だけど、本なんて役に立たない、でも、いつか役に立つことがくるかもね、くらいでちょうど良い。気の向くまま気の向いたものを読めばいい。

オノさん。

『吾輩は猫であるが犬』沙嶋カタナ(祥伝社)

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吾輩は猫であるが犬

飼育放棄されて、首に縄を付けたままネコに見下されて、「来世はネコになりたい」と思っていた犬。女子高生に助けられて、「来世はこの人の役に立ちたい」と思って、ネコに生まれ変わったら、女子高生は犬派だった…みたいな話の連作短編。

自分の犬や猫を頭良いなと思っているような人にはお勧め。中のゲーマーくんとばあちゃんの話に、そうそう、ウチのコ老ペットは言葉わかってた!と共感を呼ぶ。

『バーナード嬢曰く。』施川ユウキ(一迅社)

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バーナード嬢曰く。

バーナード・ショウを「バーナード嬢」と思い込んでいる、本を読まないで読んだフリをする主人公。友達のSFオタクの神林シオリちゃんに感情移入しまくってしまう。最新7巻の表紙が、友達やスゴ本オフや家族から本を薦めてもらえる幸せに満ちていると思った。

「最高の友達が薦める本だから最高の一冊です!」

GoodSun(ぐっさん)さん。

『図書館の大魔術師』泉光(講談社)

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図書館の大魔術師

細かく作り込まれた世界観と、不遇な少年が成長していく王道のストーリーにワクワクする(読書猿さんも強力に推してるやつ。なかなか続刊が出てないので見落としてたけれど、この際まとめて読もう!:Dain談)。

かおるさん。

『ねねね』徒々野雫(ガンガンコミックス)

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ねねね

16歳の小雪と、狐のお面で顔を隠している20以上も年上の清さんの、20歳以上の歳の差夫婦のお話。両者とも純粋無垢すぎてほんわかした話が続く。ぴゅあすぎる展開にほっこりできるのでお薦め。

はるかさん。

『ブルーピリオド』山口つばさ(講談社)

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ブルーピリオド

成績も人付き合いもいいけれど、ちょっと不良っぽい少年が、アートに興味を持って東大より難しいと言われる藝大受験に挑む。自分が絵を目指し、芸術系の学校の受験のきっかけになった。

芸術の見え方は、自分と他人と異なる。だけど、互いに影響されて己のセンスが磨かれていく。美術の授業で、自分の目で見た「青い渋谷」の風景を描いて、誉められたことがきっかけになる。「好きなことをすることは、必ずしも楽しいコトではない」という台詞がある。自分も受験の中で、同じように思って、この本を読んで元気づけられた。絵は言語じゃないからこそ、形容し難いし、それを漫画のコマや人物の表情、その絵を描くに至ったまでのストーリーも踏まえて丁寧に描かれている。

やすゆきさん。

『あの犬が好き』シャロン・クリーチ(偕成社)

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あの犬が好き

詩集だけど、絵が広がっていく感じが漫画っぽいかなと。何の役にも立たないけど、とても良いお話。姉妹本の『Hate That Cat(あのネコが嫌い)』が邦訳されていないのが残念。

おわりに

王道から邪道、メジャーなやつからマイナーなものまで、大漁大漁の一日だった。時期柄、『ドラゴンボール』とか『ワンピース』が並ぶのかと思いきや、欠片も出てこないのが面白かった。

ここで出会った『FLIP FLAP』はKindleUnlimitedだったので速攻で読んだ! なるほど、「役に立つとか立たないとかは度外視して、魂が震える瞬間に何が起きるのか」はシビれるほど伝わった。

ネトフリは目移りするほど観たいのが大量なんだけど、『ラブ、デス&ロボット』は面白い!特に「彼女の声」は鳥肌が立つほど秀逸で、ネトフリ入っているのにコレ観てないのは損なのでぜひどうぞ。

『図書館の大魔術師』は読書猿さんお薦めだったので1巻だけ買って読んでそのままだったことに気づいた(現在は7巻まで出ているみたい)。通勤の楽しみが増えたなり。

『ストロボライト』はお薦めで即ポチった。「信頼できない語り手」をどう読ませるかが面白いし、素直に騙されて読むのも愉しい。

『ブルーピリオド』好きなはるちゃんに『ガールクラッシュ』をお薦めしたけれど、絵を描く人を目指すなら、『かくかくしかじか』(東村アキコ)を推せばよかったことに後から気づいた……ので、ぜひ手に取って欲しい(>>はるちゃん)。

会場をお貸しいただいた天野さん、実況していただいたズバピタさん、司会のやすゆきさん、そしてご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。

次回のテーマは「怖い話」。ぞくぞくする感覚を呼び覚ますスリラーや、ヒヤヒヤさせるサスペンス、逃げ場のないガチホラーなど、怖ければ怖いほど嬉しい。皆さん、腕によりをかけて「こわいやつ」を選んできてほしい。

開催はfacebook「スゴ本オフ」でそのうちお伝えするので、気になる方はチェックどうぞー

▼おまけ:充電中のLOBOT。充電が終わったら仔犬のようにキューキュー鳴いてた。

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科学研究はどこまで信用できるか『あなたの知らない研究グレーの世界』『サイエンス・フィクションズ』

研究不正について、私の認識が間違っているのかもしれない。もし誤っているのであれば、指摘してほしい。

まず、2つのケースを紹介する。次に、私の判断を述べる。

ケース1

薬剤Xがタンパク質の血中濃度を上昇させるという仮説検証のため、動物実験を行った。薬剤Xの投与で濃度の平均値は増加することが判明したが、統計学的検定ではp=0.06と、有意水準の0.05にわずかに届かなかった。教授に相談したところ、追加実験を行うこと、さらに実験のたびに検定をして、p<0.05を得た時点で実験を終了するよう指示を受けた。

ケース2

疾患Yの重症化因子を調べるため、診療録から収集した疾患Y患者のデータを元に、臨床検査値と生活習慣の関連性を分析したところ、生活習慣Zを有している患者の予後が不良となる結果を得た。そこで「生活習慣Zを有する疾患Y患者は予後不良である」と学会発表した。

私の考えはこうだ。

ケース1は、「グレーだけどNGではない」だ。薬剤Xの効果が検証できたのは事実だが、偶然ではなく意味がある(有意)と見なされるp値になるまで実験を行うのはフェアじゃない。他の条件を検討して、可能であれば実験に組み込むべきだろう。

ケース2は、「問題ない」と考える。正当なデータを分析して、そこから導き出される仮説を述べているのだから。ただし、該当の因子がどの程度結果に影響するかは、検証の対象となるだろう。

病理専門医の回答

『あなたの知らない研究グレーの世界』によると、ケース1は「限りなくクロに近いグレー」で、ケース2は「問題行為」だという。

N/A

ケース1は「pハッキング」と呼ばれる行為になる。

「p<0.05」は、仮説が偶然かもしれない可能性が5%より下であることを示す。「5%」という数値は慣例上の値に過ぎない。だが、学術雑誌での論文受理の判断の目安となっている以上、この数値に固執する研究者が多いのも事実だ。

ケース2は「HARKing」と呼ばれている。

HARKing は、「Hypothesizing after the results are known」の略 であり、訳は「結果がわかった後の仮説設定」になる。収集したデータを分析して得られた有意な結果を元に、後付けで仮説を構築し、あたかも「仮説検証研究」の体裁で公表する行為になる。要するに後出しジャンケンだ。

『あなたの知らない研究グレーの世界』は、東大理学部卒で病理専門医が著したものになる。研究不正といっても明確な線引きが難しいグレーなところがあり、どのような場合に問題となるかを様々な事例とともに解説している。

何十回も実験をくり返し、検証に最も都合が良いデータのみを残すチェリーピッキングや、巨額な研究費に見合う成果を求められるあまり結果を粉飾するスピン、一つの成果を複数の論文に小分けして論文数を稼ぐサラミソーセージなど、多種多様の技法が紹介されている。

これらを見ていると、「完全にクロ」から「淡いグレー」まで不正はグラデーションになっていることが分かる。

心理学者の回答

『サイエンス・フィクションズ』によると、pハッキングもHARKingも、どちらもクロになる。

N/A

まず、pハッキングについて。

査読ウケの良いp値を求めるあまり何度も実験するのは論外で、結果が得られない実験(NULL結果)として公表するべきだという。だが、科学者はそうしたネガティブな結果を避ける傾向にあり、NULL結果はお蔵入りとなる。そのため、出版されているデータはポジティブな方に偏るというバイアスが発生するというのだ。

次にHARKingについて。

本書では「テキサスの狙撃兵」と呼んでいる。納屋の壁を適当に撃って、弾丸が集中的に当たったところに的の絵を描いて、ここを最初から狙っていたと主張するやり方だ。詐欺師なら自分のやっている詐欺を自覚しているが、科学者は無自覚にこれをやっている分、悪質だという。

『サイエンス・フィクションズ』は、キングス・カレッジ・ロンドンの精神科医が著したものだ。詐欺、バイアス、過失、誇張など、様々な手口により、科学の世界では悪質な不正が蔓延しており、再現性の危機に瀕しているという。

研究不正の手口

例えば、データの改ざん。

ヒトの胚のクローンのデータを捏造したファン・ウソク、STAP細胞の画像を改ざんした小保方晴子、論文の撤回件数の世界チャンピオンの藤井善隆が紹介されている。権威ある学術誌である『サイエンス』や『ネイチャー』に掲載されたことで、世界中の注目を集め、詮索にさらされ、結果、不正が暴かれることになった。

最高峰の学術誌でないならどうか。生物学の40タイトルの学術誌から2万を超える論文を調査したところ、フォトショップを利用したファン方式のトリミングや、小保方流の画像の切り貼りが検出され、3.8%の論文に問題が発覚したという。

あるいは、チェリーピッキング。

新しい抗がん剤となる化合物の薬効を検証するとき、予想された結果が出ない場合、実験者は仮説を疑うのではなく、自分の技術が未熟なせいだと考える。特に、教授が考えた仮説を助手が実験する場合がそうだ。

助手は、あきらめることなく何十回も実験をくり返し、ついに望む結果を得ることになる。教授は大いに喜び、助手を高く評価するだろう。問題は、誰も悪意を持っていないことだ。むしろ、熱意と野心を持った教授のもとで懸命に努力する若き研究者の美談にすら見える。

だが、やっていることは結果の出なかった実験(NULLの結果)の棄却だ。不都合な事実に目を向けず、売れる(=論文になる)サクランボだけを結果とするチェリーピッキングという技法だ。

悪意の有無に関係なく、自分が携わっている分野の常識が「正しいはず」という前提で、データを分析し、結果にまとめる。さらに、その結果を元にして「正しいはず」という思い込みの元、別の実験が行われ、バイアスが再生産されてゆく。

こうした確証バイアスが分野全体に及んでいたのが、アルツハイマー病のアミロイドカスケード仮説になる。この仮説は、アミロイドβの蓄積が病気の要因とするもので、莫大な研究資金が投入されてきた。だが、アミロイドβと病気は、因果ではなく相関関係であることが明らかになっている。

にもかかわらず、アミロイドカスケード仮説を支持する研究者がいる。かつて教科書で学び、慣れ親しんだ「常識」があまりにも強固であるため、バイアスに気づけないのだ。マックス・プランクがいみじくも言ったように、「古い間違った考えは、データによってではなく、頑迷な支持者が全員死んだときに覆される」まんまだ。

オープンサイエンスという解決策

『サイエンス・フィクションズ』によると、こうした問題の背景には、様々な要因が横たわっているという。

右肩上がりに出版される莫大な論文数や、研究プロジェクトの巨大化、インパクト・ファクターにより決まる人事査定、「論文数=ボーナス」とするインセンティブ、資金提供する企業との癒着、「出版か、さもなくば死を(publish or perish)」とする風潮がある。

これらが、査読による学術論文の品質を歪め、ひいては科学システムの本性を捻じ曲げているという。

査読システムは、性善説に則っている。

査読する人は、そのデータが改ざんされていることなんて考えない。まっとうな科学者がまっとうに研究をした成果なのだから、当然、そのデータは正しいものだとして受け取る。もちろん、データの整合性や生データの乖離をチェックするツールはある。だが、そうしたチェックを見越して改ざんされたデータの場合、悪意を見抜くことはできない。

こうした問題解決のためには、オープンサイエンスを突破口にせよと説く。

オープンサイエンスとは、科学的プロセスのあらゆる部分を、可能な限り自由にアクセスできるようにする試みだ。研究論文の全てのデータと、それを分析するために使用した全てのコードやソフトウェア、関連する全資料が公開され、ダウンロード可能とする。

実験を始める前に、仮説はワーキングペーパーの形でオープンサイエンスフレームワークに登録される。タイムスタンプ付きで記録されることにより、HARKingを困難なものにできる。全ての論文は出版される前のプレプリントの形で公開され、学術誌の編集者は自分が掲載したい論文を選ぶキュレーターのような役割となる。

そして、「再現できなかった」「仮説が否定された」ことを公開するNULL論文の拡充を提唱する。「刺激的だが根拠が薄い」研究よりも、「退屈だが信頼できる」研究を重視し、再現研究により多くのインセンティブを与えることによって、歪められた科学を正せという。

「再現できなかった=仮説の否定」なのか

オープンサイエンスの試みは重要だろうし、科学の品質保証の一つとして、取り入れていく必要があるだろう。

しかし、完璧でないシステムなら壊してしまえというロジックは、おかしいと考える。

科学は人間が作ったものだから、完璧ではありえない。客観性はあくまで目指すべきものであり、無謬であることを科学は保証しない(そう嘯く科学者がいることは否定しないが……)。

オープンサイエンスを取り入れるのは必要だが、そのために現行をガラガラポンするのは、やり過ぎだろう。

さらに、「再現できない=仮説の否定」というスタンスでいるが、本当だろうか?過去のある実験を再現しようとしたら失敗した(=再現できなかった)ということは、過去の実験結果の否定になるのか?

そうとは考えにくい。厳密に同じ条件で再現することは不可能だし、有名な実験なら、被験者自身も予備知識として知ってしまっているだろう。「再現できなかった」という実験が一つあったというだけであり、他の実験と同様、「再現できなかった」実験を積み重ねていく必要がある。

本書では、「再現できなかった」実験例を嬉々として挙げている。しかし、「再現できた」実験がどれくらいあったのか、両者を比較してどちらが多いのかは言及されていない。「無いこと」の証明は悪魔の証明と呼ばれ、非常に困難だ。とはいえ、せめて、再現性を試みた実験の全体の数のうち、再現できなかったものの割合を示してほしい。「マスコミが数を持ち出してきたら割合を見ろ、マスコミが割合を出してきたら母数を見ろ」という金言があるが、本書に当てはめると、ツッコミどころが出てくる。

有意性やHARKingは「罪」なのか

「p<0.05」の有意性を求めたり、HARKingする行為を断罪する姿勢もいただけない。

もちろん、p値だけを追求するのはNGだ。しかし、偶然ではないことを示す目安の一つとして、p値は有効だ。仮にこれを無くすとしたら、何を基準にしてその実験が恣意的でも偶然でもないことを示せばよいのだろうか。何をもって有意とするかを、p値も含めて実験前に整理した上で検証するのであれば、p値は有用だと考える。

また、HARKingがダメという主張には納得できない。

大量のデータは、素材のままでは使えない。何らかの観点から「あたり」を付けて、興味深いストーリーを見出し、それを仮説として検証し、「あたり」にそぐわないデータは検証範囲「外」とみなすことで、仮説を理論に仕立て上げる……このプロセスは、科学の営みそのものだ。

結果の「あたり」を付けてデータを舐めまわし、因果やパターンを見出す。これが禁じられたら、少なくとも経済学と量子力学は科学でなくなってしまう。

「テキサスの狙撃兵」よろしく後付けで作られた「的」が充分に興味深ければ、追試や再試験が行われるだろう。そして「的」が正しければ、他の実験結果の指示を受け、より精緻に作り込まれていくに違いない。的がそうなっている理屈は、後から捻出されてゆく。量子力学や経済学の理論は、そうして出来上がっていったものだ。

1回目のHARKingは、追試によってすぐに検証できる。意味が無ければ消えるだけだ。有意性だけで中身のない実験は、再現できなければ見向きもされなくなるだろう。時間はかかるものの、科学は、自分自身で正すことができる。

科学の歴史は、発見と反証の歴史だ。

天動説、瀉血、エーテル、フロギストンなど、広く受け入れられていた理論が、後に誤りであったことが明らかになった例は枚挙にいとまがない。アルツハイマー病の仮説が誤っていた例を始め、科学的発見が間違っていたエピソードが多数紹介されているが、誤りを発見できたというまさにその点で、科学はきちんと機能していると考えていい。

また、改ざんしたり虚偽のデータを捏造する科学者がいるのは認める。科学者だって人間だから、カネや名声の誘惑に負ける人だっているはずだ。だがそれは、嘘吐きの科学者がいるだけであって、科学者が嘘吐きであることにはならない。

そして、エーテル理論の話と同様に、嘘吐きの嘘はいずれバレる。バレたからこそ、本書で紹介されることになったのだから。全ての嘘を即座に暴けるほど、今のシステムは洗練されていないが、遅かれ早かれ、誤りは正されていく。

科学は人間の活動であるが為に、人間の欠点である偏見や傲慢や不注意や虚栄心などが刻み込まれている。だが、科学は人間の活動であるが故に、自分で自分の誤りに向き合うことができる。

ひょっとすると、私の「科学観」は楽観的でおめでたいのかもしれぬ。だが、それでも科学を信じたいと考えさせられたのが、この2冊になる。



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身体を鍛えると世界が変わる科学的な理由『なぜ世界はそう見えるのか 主観と知覚の科学』

N/A
嫁様にお願いごとをするなら、食後が最適だ。

こづかいアップとか、相談しにくいことを持ちかけるベストなタイミングは、夕飯後のくつろいでいる時間帯だ。自然に話を持っていくのには創意工夫を要するが、ほぼ100%で了承される。長年の経験で身につけた夫の知恵と言っていい。

これ、私だけの経験則だと思っていたら、2011年の研究で実証されている。”Extraneous factors in judicial decisions”によると、司法判断に食事が影響するらしい。

調査対象は、仮釈放の審理になる。

服役中の囚人から提示された仮釈放の申請を認可するか、あるいは却下するか……という審理だ。裁判官は過去の事例や法的根拠を厳密に適用し、可否を判断するはずだ。

ところが、調査により奇妙な傾向が炙り出されている。それは1日に2回ある食事休憩だ。仮釈放の申請は、ほとんどが棄却となるのだが、休憩した直後の申請が許可される割合が高くなる。具体的には、休憩直後だと65%が認可され、時の経過とともにこの低下してゆき、最後には0%になるという。お腹が空いてくると、より秋霜烈日になるのだろうか。

身体の状態が、認知や行動を左右する。さもありなんとは思うものの、ここまであからさまとは思わなんだ。『なぜ世界はそう見えるのか』を読むと、私たちが「ありのまま」に見ていると思っている世界が、身体性に大きく影響されていることが分かる。

身体性が認知に及ぼす影響

身体の状態を自覚していなくても、認知に影響を及ぼすという実験が教訓的だ。

この実験は、被験者に一定の運動量でエアロバイクを漕いでもらった後、「どれくらい長い距離を漕いだか」を見積もってもらう。運動中には決められた量のスポーツ飲料を飲む必要があるのだが、この飲み物に仕掛けがある。

あるグループは、糖質で加糖されたゲータレードで、別のグループは、人工甘味料を加えてありカロリーゼロのものになる(味は同じ)。被験者は自分が口にしたゲータレードが普通のものだと思っている。

45分間漕いでもらった後、自分が漕いだ距離を見積もってもらう。結果は瞭然で、カロリーゼロの被験者の方が、糖分をとったほうよりも、より長い距離を漕いだと申告したという。

お腹が空いているときは物事をネガティブに考えがちだというが、「お腹が空いている」ことを自覚しているかによらないようだ。むしろ、物事をネガティブに捉え始めたら、ひょっとして糖分が足りなくなっているのかも……と考えたほうがよいかも。

他にも、糖分に限らず身体性が認知を歪ませる実験が紹介されている。

例えば、坂の傾斜を見積もる研究が面白い。老若男女の様々な被験者を集め、色々なシチュエーション下で、これから上る坂の傾斜度がどれくらいかを答えてもらう。

結果はこうだ。スポーツ選手など、運動能力の高い人ほど、坂の傾斜を低く見積もる傾向があるという。運動能力の高さはそのまま身体の効率的な使い方につながるため、坂の傾斜という障害も、より楽に見えるのかもしれぬ。

「身体を鍛えれば、世界が変わる」というフレーズは陳腐に聞こえるかもしれないが、比喩ではなくホンモノなのだろう。

「身体能力」が、あなたが世界にどのように「適応」しているかを左右する。自分は世界をありのままに見ているというのが私たちの共通感覚だ。だがそうではなく、私たちは「自分が世界にどのように適応しているか」を見ているのである。

(『なぜ世界はそう見えるのか』デニス・プロフィットp.77)

これ、逆に考えると腑に落ちやすい。体調を悪くしたとき、普段は何でもない階段がキツく見えたり、衰えてくると駅まで歩く道のりを遠く感じたりする。私は、世界をありのままに見ているというよりも、私が関われる身体能力の範囲に見え方が左右されているのかもしれぬ。

メタファーと認知

「世界をどのように見ているか」というテーマは、ジョージ・レイコフのメタファー論からも解説されている(私のレビューは『レトリックと人生』はスゴ本に書いた)。

例えば、「上」と「下」の表現だ。人の気分や感情は、向きなど存在しない。しかし、「気分が上向く」「ダウナーな感じ」というように、上と下の向きがある。そして、「上」はポジティブで生き生きとした隠喩で扱われ、「下」はその反対だ。

これは、私たちの行動を見ると分かる。気分が良いときは立ち上がるし、なんだったら飛び上がるかもしれない。反対に、元気がないときは座り込み、ひどいときは横たわったまま動けなくなる。

こうした行動に裏付けられるレトリック表現を用いているうちに、世界をそうしたメタファーで理解するようになったのかもしれない。

こうしたイメージについて、「上」や「下」という言葉すら必要ではないことを検証する実験がある。

被験者は、2つの箱に入ったビー玉を、一つ一つ指でつまんで移動させる。箱は上の棚と下の棚に位置しており、ある被験者は、上の棚の箱にあるビー玉をつまんで、下の棚の箱に移動させる。別の被験者は逆で、下の箱のビー玉を上の箱に移動させる。

ビー玉を移動させている被験者には、「昨年の夏はどうでしたか?」とか「小学校の思い出を語ってください」という質問を投げかける。

すると、上から下へ動かしている被験者は、失敗した出来事や不運なエピソードを語る傾向があり、下から上へ移動させている被験者は、楽しかったことやポジティブな思い出を語ったという。

正直、できすぎている感じもするが、動作イメージが認知を形作ることはありうると思う。ビー玉での実験ではなく、例えば高層ビルのエレベーターに乗って、上昇している時と下降している時でエピソードが変わるかを調査したら面白いかも。

口と手の並行性

身体性と認知のテーマのうち、口と手の並行性の研究も面白い。

まず手から。手は大きいものを握ったり抱えたりできる。一方で、小さなものを摘まみ上げることもできる。手は扱う対象の大きさによって「握る」行為と「摘まむ」行為を使い分けることができる。

そして口について。小さいものを形容するとき、英語では「little」「tiny」など、口をすぼめた形になる。一方で、大きいものは「large」「huge」など開いた口の形になる。「小さい/大きい」は、スペイン語では「chico/gordo(チコ/ゴルド)」、フランス 語では「petit/grand(プティ/グランド)」、ギリシャ語では「µικρός/μακρος(ミクロス/マクロス)」、日本語は「チイサイ/オオキイ」になる。

手を使う対象の大きい/小さいと、発話する口の開きの大きい/小さいについて、並行性があるのではないかという仮説を立て、これを検証した実験がある(※1)。

被験者は特殊なスイッチを手にする。このスイッチは、2つの部分に分けられている。一つは、掌で握りしめることでONにする部分、もう一つは、指で摘まむことでONにする部分である。被験者は画面に表示された課題に応じて、握ってONにするか、摘まんでONにする。

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”Effect of Syllable Articulation on Precision and Power Grip Performance”より引用

そして、ONにするとき、特定の子音を声に出して発話することが求められている。発話する子音は、口を大きく開けるものや、唇を突き出すもの、口をすぼめるもの等、様々なものが用意された。

発話する口の大きさと、スイッチを入れる手の開き方の組み合わせはこうなる。

  1. 口を大きく開けながら、掌で握ってONにする
  2. 口を小さくすぼめながら、指で摘まんでONにする
  3. 口を大きく開けながら、指で摘まんでONにする
  4. 口を小さくすぼめながら、掌で握ってONにする

そして、課題への反応速度、正答率が最も高かったのが、1と2になる。つまり、口の大きさと手の開き方が同じとき、早く正確に回答できたというのだ。一方で、3や4のように、口と手の形が異なるとき、成績が悪くなった。

手の制御と発話、それぞれ全く異なる行動でありながら、神経系が共通していることが炙り出されている。ヒトになるまでの長い間、私たちの祖先は四つ足で行動していた。その間はモノを運ぶ際は、口を使っていたはずだ。

やがて二本の足で歩くようになり、両手を用いてモノを掴めるようになり、なおかつ発話でコミュニケートできるようになるまでにも、長い年月を必要としただろう。口と手の進化に並行性があることは、ここからも想像できる。

口と手の並行性は、私の経験からも思い当たる。赤ちゃんに向かって、「いないいない、ばぁ」というとき、私は両手を広げる。ひと仕事終えて「ぱあっとやろうぜ!」というとき、私は両手を広げる。「むむむ……」と唸りながら考えごとをするとき、私の両手はグーのはずだ。確かに、口の形と手の形は同期している。

身体を通じた理解

私たちが何かを「理解」するにあたって、身体が関与している。このレイコフのメタファー論を裏付ける研究成果も出ている。

例えば、fMRI を用いた脳機能イメージングによる研究だ。行為に関する様々な文章を読んでもらい、それに応じて脳のどこが反応しているかをリアルタイムに測定する。

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Wikipedia 一次運動野より

脳の運動野と呼ばれる場所には、身体部位がマッピングされている。図は脳の断面から見た皮質上の場所と、それに対応する身体部位を示している。例えば「手」の場所が損傷すると、手が自由に動かせなくなる。

被験者には「蹴る」「摘まむ」「なめる」といった行為に関する文を読んでもらい、その時の脳の状態を fMRI で検査する。その結果、「蹴る→足」「摘まむ→手」「なめる→舌」とそれぞれ対応する運動野が活性化することが明らかになっている(※2)。

単純な行為の文章だけでなく、複雑な状況を読んだ場合の研究も進められている。例えば、責任の委譲に関する文を読むとき、両手の筋肉が微動する。これは、「皿を片づける」といった物体を移動させる文を読んだときと同じだという(※3)。

他者の行為を「観察する」ときと、自分が同じことを「行動する」ときの両方で活性化するニューロンをミラーニューロンと呼ぶ。ミラーニューロンの研究は「見る」を契機とする脳の観察だが、このように「読む」を契機とした研究もある。

行為を示す言語表現を読んだり聞いたりするとき、その行為を受け手がシミュレートしていると言えるだろう。

これは、物語が私たちに与える影響そのものになる。

そこに登場する人々が様々な出来事を経て、何らかのリアクションをする。非道な目に遭って辛くて痛い思いをするかもしれない。あるいは、この世のものとは思えない快楽を堪能する場合もある。

私たちは演劇や語りや文章を通じて、そうした経験や感情を「追体験」するというが、ミラーニューロンや身体各部位の神経系によって、文字通り「体感」しているのかもしれない。

この「体感」を引き出すメカニズムを、様々な文学作品から分析しているものが、『文學の実効』になる。文学作品から人の認知の仕組みを解き明かしている。私が物語を面白いと感じるのは、読むことが私の身体に及ぼす影響に薄々気づいているからかもしれぬ。

面白いと感じるとき、私の身体に何が起きているのか。このテーマを考える上で、『なぜ世界はそう見えるのか』は改めて読み解いていきたい一冊。

※1 “Effect of Syllable Articulation on Precision and Power Grip Performance” L. Vainio, M. Schulman, M. Vainio Published in PLoS ONE 9 January 2013 Psychology [URL]

※2 “Somatotopic representation of action words in human motor and premotor cortex” Olaf Hauk 1, Ingrid Johnsrude, Friedemann Pulvermüller,Neuron. 2004 Jan 22;41(2):301-7 [URL]

※3 ”Processing abstract language modulates motor system activity” A. M. Glenberg, M. Sato, L. Cattaneo, L. Riggio, D. Palumbo, and G. Buccino, 2008.Quarterly Journal of Experimental Psychology 61: 905-19. [URL]



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