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人生最後のチャンスかもしれない『秒速5センチメートル』を映画館で観るのは。

サブスクで見放題なのは知ってる。くり返し見たから。

けれど、映画館で観たらまるで違う作品だった。

音が違う。

ホームを吹き抜ける風の音や、覆いかぶさってくる波の轟音、ブレーキをかける列車の車輪が軋む不協和音が耳を聾するばかりで怖いくらいだった。そして沈黙。深々と降りしきる雪の「無音」がよく聴こえた。列車の連結部の鉄板の音が、第1話と第3話で違うことも分かった。液晶テレビのペラッペラなスピーカーとはまるで違う音響にどっぷり浸った。

光が違う。

恐ろしいほどの解像度で描かれる世界の広がりが、丸ごと目に入ってくる。第1話の暗く沈んだ冬の夜の闇と、第2話の広い青い海原と、そしてラストの桜吹雪と雪のひとひらが対照的で、闇と光の映像対比がやっと分かった。あの手紙を書いている机の単語帳に「confession」とあるのが分かったし、第1話で夜を駆けるアカゲラの翼が翻る様と、第2話で彼女が飛ばした紙飛行機が転回する角度が同期していることも見て取れた。貧相なディスプレイでは分からなかった違いだ。

『秒速5センチメートル』は、現在進行する桜前線に同期して、3/29からリバイバル上映している。やっている期間は非常に限られているので、ディスプレイで観た方は、ぜひ劇場で確かめてほしい。

以下、『秒速5センチメートル』を見たことのない人への紹介。

これは、3編の短編で構成されたオムニバスで、初恋が記憶から思い出となり、思い出から心そのものとなる様を、驚異的なまでの映像美で綴っている。

わたしの心に大ダメージを与えた傑作

私の人生に大ダメージを与えたアニメーションだと言っていい。

ノスタルジックで淡く甘い恋物語を予想していたから、強い痛みに見舞われたのだ。わたしの心が身体のどこにあってどのような姿をしているのか、痛みの輪郭で正確になぞることができた。「痛い」と感じる場所が、心の在処だ。

徹底的に打ちのめされた。涙と鼻汁だけでなく、口の中で血の味がした(奥歯を噛みしめていたから)。それほど長い映画でもなかったのに、疲労感で起き上がれなくなった(ずっと全身に力を込めていたから)。

何度も観ているうちに、「観たときの出来事」が層のように積まれていく。どんな季節に、誰と、何を思い出しながら観たかが、痛みとともに刻まれていく。あるときは彼の気持ちになり、またあるときは彼女に寄り添い、「観た」という記憶が思い出になる。「桜花抄」の焦燥感も、コスモナウトの広大さも、そして「秒速5センチメートル」の切なさも、ぜんぶ宝物だ。

何度も観ているうちに、わたし自身の記憶と重なる。思春期のときに罹る「ここじゃない」感も覚えている。社会人になって心が少しずつ死んでいく感覚も知っている。だからこそ彼にシンクロしてしまい、そのキスが完璧であればあるほど、それに囚われてしまっていることにもどかしく、やるせない気持ちになる。その背中を見ている彼女が純粋でまっすぐで情熱的で、いじらしさを通り越して痛ましさまで感じてしまう。

もっと違う未来があったはずで、何度も観ているうちに、その望む未来になっているかもしれないと期待するのだが、そんな訳もなく。あのラストの一瞬はあのままとなる。

もやもやを引きずって、作品そのものに囚われて、いつまでも未練たらたらでいる。

これは、青春の呪いだ。

一生消えないやつ。ええ歳こいたおっさんになって、ようやく分かった。ちゃんと青春してこなかった私が抱えている呪いで、心の中に大きな穴が空いている。なぜあのとき、あの手を放してしまったのか。もう少しだけ力を込めて引き寄せていたなら、「好きだ」というただ一言を伝えていたなら、違う未来になっていたはず。

でも、現実はそうじゃなく、思慕は日常に圧し潰される。傷心を癒すのに時間ほど最適なクスリはない。ただし、時は恐ろしいほど残酷で、痛みを回復するだけでなく、痛みの元となった思いすらなかったことにしてしまう。

「時間は人にとって最もやさしくて残酷なもの」という、とある昔の物語を思い出す。思いが日常によって上書きされた結果から導かれる、残酷な未来だ。その未来が現実として描かれてるのが第3話の「秒速5センチメートル」になる。君が望もうと望むまいと、君が望む未来は永遠に叶わない。そう宣告されるのは、自分自身なのだ。

秒速5センチメートル=気持ち悪い

この作品を「気持ち悪い」「分からない」という人がいる。その心情は理解できる。

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いつまでも未練に塗れて、しかも自ら行動を起こすことのなくどっちつかずの「無」である彼に不気味なものを感じたり、そういう新海誠作品に涙と鼻水でぐしょぐしょになる男どもをキタナイものとして扱いたくなる気持ちは分かる。さらには、「失恋に傷心する」自分自身と作品を重ねて酔う「しぐさ」に辟易したくなるのも分かる。もう若者でないのに、失った青春に執着する見苦しいオッサンを焼却処分したい衝動も覚えるだろう。予定調和もデウスエクスマキナも見えない物語に、落ち着きの無さを感じるかもしれない。

そういう人には、自分の気持ちについて、上書き保存することも、名前を付けて保存することも叶わなかった人の物語だと伝えるようにしている。

「誰かを好きになる」という不思議な感情を、私たちは持っている。たいていの場合は、うまくいくか、うまくいかないかのどちらかだ。そしてどちらの方向であっても、物語は適切に回収してくれる。

しかし、これはどちらにも倒れていない。保存して過去として扱われることなく、いま現在のメモリとCPUを占めている。食品や肉体ならとっくの昔に腐ってただれ落ちているかもしれないが、残念ながら思念は生き延びる。過去は現在を浸食し、物語の形で伝染する。

この物語を「分からない」という人には、川端康成のこの言葉を贈る。

別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。
花は毎年必ず咲きます。

『掌の小説』に出てくる一節だ。

その恋が、君が望む永遠になる可能性は極めて低い。でも、惚れた男に思い出してほしいのであれば、その男に花の名前を教えなさい。男は花の名前なんて頓着しないかもしれない。だが、情を交わしたあなたが教えた花のことは思い出となる。あなたと別れたあとも互いの人生は続く。そして花は毎年、必ず咲く。男はその花を見るたびに、あなたのことを思い出さざるをえない―――プルーストのマドレーヌのように、花の香りをかいでも思い出してしまう。

これは呪いだ。

『秒速5センチメートル』は、この呪いに掛けられてしまった男の物語なのだ。もちろん彼女は意図していない。桜の花びらが散るスピードが秒速5センチメートルであることと、それが舞い散る雪に重ねて見えることを教えてくれた。込められた想いを大切にするあまり、その思い出に名前を付けて保存することも、上書きして保存することもできなくなるあまり、自家中毒に陥っている……と理解してもらえば、あなたの「気持ち悪さ」も幾分か解消され、彼のことを気の毒に思えてくるかもしれない。

『秒速5センチメートル』の呪いを解く方法

彼の呪いは解けない。

そして、彼の呪いと同調してしまっている男も、自分の過去の思いに囚われてしまう。無かったはずだった青春を、秒速5センチの思い出で埋めようとしてしまう(そして失敗する)。

そんな男どもの呪いを解く方法は2つある。

一つは、もう一度『君の名は。』を観ることだ。『秒速』を観ているくらいだから、もちろん『君の名は。』も観ているだろう。だけど、『秒速』を観た後に『君の名』を観るのだ。すると、前者のラストで交錯しかかる視線に覆いかぶさる通過列車と、後者のラストの並走する電車でガチ合う目線のシーンを重ねることで、呪いの一部は解除されるかもしれない。『君の名は。』は、『秒速5センチメートル』で名前を付けて保存できなかった別の世界線の恋物語なのだから。

もう一つは、小説版『秒速5センチメートル』をお薦めする。映画と同じストーリー展開で、映画と相互補完されえちるが、違う角度からその呪いが描かれている。「そういう物語」として名前を付けて保存すれば、少なくとも読者にとって過去のものとできるだろう。

だが、だとすると、彼の思いは結局どうなるのか?物語によって投げ出された彼の思いを受け止めてしまった男どもには辛すぎるのではないか?

そんなあなたに朗報なのが、コミカライズされた『秒速5センチメートル』になる。全2巻で物語が完結している。そして、胸に深く刺さった槍を抜く、ご褒美のようなラストに救われるだろう。そして、あの手紙を見せてくれることで、あなたは優しくなれるだろう。そして、気持ちはあの夜にすでに伝わっていたことに気づいて、2度、救われるだろう。

ちなみに次回の[オフ会]では、このコミカライズ版『秒速5センチメートル』(全2巻)を紹介するつもりだ。欲しい方はぜひジャンケンで勝ち抜いてほしい。

 

 

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