女の「お尻」は何に縛られてきたのか『お尻の文化誌』
女のお尻のすばらしさについては、室生犀星が力説している。人間でも金魚でも果物でも、円いところが一等美しいのだという。人間でいちばん円いところは、お尻になる。故に、お尻が最も尊くて美しい場所なのだ。どうせ死ぬなら、お尻の上で首をくくりたいという。同感だ。
しかし、『お尻の文化誌』によると、女のお尻というものは、様々な視線を浴び、いろいろな道具に覆われ、拘束されてきた。女のお尻というものは、そのままの状態であったことは少なく、絶えず評価され、比べられ、鍛えられ、覆われ、曝されてきたというのだ。
「女のお尻」を歴史から語ったものが、本書になる。お尻そのものに焦点を当てたのはジャン ゴルダン『お尻とその穴の文化史』だが、本書はお尻そのものに加えて、「そのお尻を見てきた視線」に焦点を当てている(←ここが面白いところ)。
女のお尻は誰が見てきたのか?
「お尻」の部分は、そのままでは自分で見ることができない。合わせ鏡を使うか、スマホで撮影する必要がある。
一方で、他人のその場所を見るのは簡単だ。胸を見ているのはすぐに気づかれてしまうが、お尻であれば、こっそり観察することもできる。つまり、お尻とは見られる人よりも見る人に属しており、他人に委任されている場所だというのだ。
女性のお尻は、人種の序列を作るための道具や、性的や欲望や能力の尺度として利用されてきた。お尻の形や大きさは、お尻の見え方を変えるための手段がほとんどないにもかかわらず(いや、ないからこそ)その持ち主の本質とされ、女性の道徳観、女性らしさ、そして人間性までがお尻で測られてきたのだ。
そして、女のお尻を見る存在を炙り出そうとする。もちろん、女のお尻は老弱男女の視線を浴びてきたが、「女の尻とはかくあるべし」という先入観を形作ってきた視線があるという。
それは、覇権主義的な西洋文化における、白人・男性・ストレートの人々だという。彼らは、政治や科学、メディア、文化の分野で権力を握り続け、何が正常で何が異常かを選別し、お尻にまつわる基準や嗜好やイデオロギーを社会に押し付けてきたというのだ。
ナターシャ・ワグナーのお尻
象徴的な例として、ナターシャ・ワグナーのお尻が挙げられる。
ナターシャ・ワグナーはモデルだ。
Levi's や GAP といった大衆向けから Vince、7 For All Mankind 、Proenza Schouler などの高級ブランドで引っ張りだこになっている、デニム用のフィッティングモデルだ。ビジネス界での最高のお尻と呼ばれており、「このお尻がこの国を形作っている」とヴォーグ誌が評するお尻の持ち主だ。
「あなたが女性なら、彼女にフィットするようにデザインされたジーンズに、一度は足を通したことがある」とまで言われている。
Secret Fit Model Claims She Has the Best Bottom in the Fashion Industry (youtube.com)
では、なぜナターシャのお尻なのか?
それは、彼女の完璧な平均性(perfect average)に拠るからだ。身長とウエストサイズのバランスのつり合いがとれており、体のラインが細すぎず、太すぎず、特定のタイプに限定されない。極めて「平均的なアメリカ人」お尻であるが故に、「理想的なお尻」とされる。
ちょっと待て。
「平均的」というからには、母数があるはずだ。「アメリカ人の女性」といっても、アングロサクソンだけでなく、アジア、ヒスパニック、プエルトリカンなど、背の高さから体形も様々だ。サンプリングしたうえで「平均」を割り出したのだろうか?
本書によると、そうではなく、あくまでファッション業界にとって「平均」であり「一般的」なサイズになる。言い換えるなら、7 For All Mankind の購買層にとっての平均が、ナターシャのお尻になる。ABCニュースのリポーターと、後ろで手を振っている人々が「アメリカ人」の平均的なサンプリングでないことは、一目瞭然だ。
著者がジーンズを試着するエピソードが象徴的だ。色々なサイズを試すのだが、何かに合わせると、どこかが合わなくなる。ウェストが良くても、お尻がぶかぶかになり、お尻に合わせると、太ももが窮屈になる。最終的に、どこかを押し込むハメになり、その度に、自分の身体は「理想」ではないことを思い知らされ、惨めな気持ちになるというのだ。
サラ・バートマンのお尻
もう一つの象徴が、サラ・バートマンのお尻になる。
サラ・バートマンは、南部アフリカ出身の女性だ。
黒人奴隷として生まれ、18世紀末にイギリスへ渡り、大道芸人として見世物にされ、1815年に没している[Wikipedia:サラ・バートマン]。彼女のお尻は非常に大きく、大きなお尻は好色であるとされ、「ホッテントット・ヴィーナス」と呼ばれた。
バートマンのお尻は、エキゾチックとエロチックが融合した象徴として大人気を博することになる。その人気は根強く、彼女の死後も解剖され、ホルマリン標本として保存され、博物館に展示されることになる(現在は故郷の地に埋葬されている)。
本書によると、バートマンのお尻は、植民地主義と奴隷制度の象徴になる。
アフリカの人々は、ヨーロッパ人よりも原始的であり、それゆえ、キリスト教化や教育による導きが必要であることを正当化するために利用されたというのだ。さらに、彼女のお尻は、「アフリカ人は生まれながらにして白人女性よりも性的だ」という偏見の証拠ともみなされたという。
ノーマのお尻
「正しいお尻」があるとしたら、それはどのようなものか?
一つの解答が、ノーマのお尻になる。
1944年にアメリカで作成され、クリーブランド健康博物館で公開された2体の彫像だ。裸体の立像で、一つは男性で、もう一つは女性になる。ノーマン(Normman)とノーマ(Norma)と名づけられ、「普通のアメリカ人」を表したものとして展示されたものになる。
彫像の制作にあたって、「科学的な」アプローチが取られたという。1万5千人のアメリカ人を調査して、身長体重を始めとし、両足の付け根の周囲や、前股上の長さ、太ももの最大の周囲など、58部位を精密に測定したという。主観を排するため、第一次大戦中に徴兵された米兵のデータも用いたともある。
そこから得られた身体の各部位の「平均値」が元となっている。二人は、アメリカ生まれの「正しい」白人として、たくましく、繁殖力があり、健康的で、唯一無二の存在として、来館者にその裸体を見せつけている。
彫像の写真は、Cabinet THE LAW OF AVERAGES 1: NORMMAN AND NORMA や、ハーバード大学のウォーレン博物館コレクションで見ることができる。正面から撮影された映像のため、お尻そのものを確認することはできないが、若々しい容貌と、豊かな腰回りから、引き締まった大きなお尻であることは想像がつく。
しかし、本書はこれに異議を唱える。調査対象が歪められていることを告発する。
調査対象は1万5千人とあるが、最終的には1万人のデータしか使われていなかったという。捨てられた5千人には共通点がある。
- 中年や老人
- アジアやプエルトリコ系などコーカソイド以外
- 著しく太っている
つまり、太っていない若い白人の平均値を、「普通のアメリカ人」としたのだ。結局のところ、ノーマは「正しいアメリカ人」の女性の合成物となるように創られたという。女性らしさを定義し、誰が子孫を残すべきで、誰が残すべきでないかをはっきりさせる彫像がこれなのだ。
「普通」(normal)という言葉を由来として命名されたノーマだが、果たして「普通のアメリカ人」だったかどうかは、眉唾で見る必要があるだろう。
本書では、他にも「フィットネスで鍛えられた鋼鉄のお尻」や「バッスルで成形された巨大なお尻」「シャロン・ストーンの股に取って代わったジェニファー・ロペスのお尻」など、様々なお尻が登場する。
そして、それぞれのお尻のエピソードから引き出される偏見や先入観、「女とはかくあるべし」というイデオロギーを炙り出す。女のお尻は、その持ち主から奪われてきたというだけでなく、現代の女性も、そうしたイデオロギーに囚われていることが見えてくる。
お尻はなぜ人々を魅了するのか、美の基準はなぜ時代ごとに変わるのかを、人種、ファッション、科学、文化からたどった、女のお尻史。

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