エンタメの恐怖はニセモノなのか『恐怖の正体』(春日武彦著、中公新書)
ネットで肝試しするなら「蓮コラ」画像が手軽だ。ちょっと検索するだけで簡単にゾワゾワできる。「集合体恐怖症(トライフォビア Trypophobia)」で検索するのもあり。生理的にダメな、見てはいけないものを見ている感覚を味わえる。
あるいは、youtubeで「フライングスーツ flyingsuits」を検索してもいい。ムササビみたいな恰好をして滑空する映像を「一人称で」見ることができる。スカイダイビングとは異なり、切り立った崖から飛び降りるのがスタートだ。だから映像は、飛び降り自殺する人が見ている(見ていた)視点と重なる。
高所恐怖症なら、「Raw Run」で検索しよう。スケボーで長い坂道を延々と滑り降りる映像なのだが、背筋ゾゾゾとなるのを請け合う。乗ってる人はほぼ丸腰で、ヘルメットもしていないのもある。公道なので、もちろん対向車も来る。それをかわしながらカッ飛んでいくのだが、時速100kmを超えるらしい。転んだら死ぬ映像を、まるで自分が乗っているかのように体感できる。
こうした映像を見るとき、わたしが感じているものは、間違いなく「恐怖」だ。目が見開かれ、肌が粟立っている。胸がキュっとなり、脳汁ブッシャ―となっているのが分かる。いや、恐怖に直面している時は自覚症状がない。観終わった後、食いしばった歯や、鳥肌が残る腕を見て、恐怖への反応を後追いで知ることになる。
考えてみると、わたしは様々なものを怖いと感じる。
びっしりツブツブが並んでいる様や、制御不能のスピード、こっちへ向かってくるゴキブリ―――この「怖い」という感覚は何なのか。なぜ人は「怖い」と感じるのかについて語ったのが『恐怖の正体』になる。
「怖い」とは何か。色々なアプローチでこの感情(感覚?)を解き明かそうとしてきた。
- 進化心理学・認知科学から恐怖を科学する『コワイの認知科学』
- ホラー映画を素材に分析した『恐怖の作法』と『ホラーの哲学』
- 心身問題・意識の表象理論から斬り込んだ『恐怖の哲学』
- 各々が自分の「コワイ」を集めたオフ会「ホラーのスゴ本オフ」
本書がユニークなところは、恐怖と娯楽との関係から「怖い」の正体に迫っているところ。すなわち、精神科医である著者自身が診てきた患者や、読んできた小説、観てきた映画を通じて、恐怖の正体を示そうとする。
死に対する反応―――「危機感」と「不条理感」
恐怖とは何かついて、さまざまな定義づけがされてきたが、本書ではさらに洗練させ、「危機感」「不条理感」「精神的視野狭窄」の3要素を満たしているという。
最初の2つ要素である「危機感」と「不条理感」については、安全な状態から外れることへの生理的・動物的な反応であり、死もしくは死に関するものに触れたときに起きる人間的な感情になる。さらに、著者は自身の甲殻類恐怖症を挙げ、そこに根源的な不快感も交じっているという。
これは確かにそうだろう。蓮コラを見た時のゾワゾワの根っこには、感染症によって皮膚に出たブツブツや発疹を忌避する感覚がある。発疹に危機感を抱きにくい人は、適応のフィルターにかけられ、生き残っている人はふるいにかけられた結果だと言える。トライフォビアは、感染症から身を守るための進化的なメカニズムなのかもしれない。
本書では、『異形コレクション 恐怖症』(井上雅彦監修、光文社文庫)に収められている柴田よしき「つぶつぶ」を例に挙げる。
そこでは、いちごの表面のあの小さなつぶつぶを爪楊枝の先でほじくりだし、果肉をすっきりさせたくなる衝動に駆られる男が登場する。そして、いちごだけではなく、日常のさまざまな箇所に集合体が潜んでいることを示す。私たちが気づいていないだけで、そこらじゅうに集合体はあるという結論に、おもわず周囲を見回してしまう。
めまいに似た感覚―――「精神的視野狭窄」
最後の「精神的視野狭窄」は、追い詰められて余裕が失われ、認識する対象を無意識のうちに絞り込もうとする反応を指す。時が急に粘り気を増し、視野は狭まり、音はくぐもって聞こえ、焦りばかりが増してくる。
これは体感したことがある。車にはねられたとき、溺れそうになったとき、およそ千人が見ている舞台上でセリフを忘れた時、まさにこの感覚だったことを、はっきりと覚えている。
このめまいに似た感覚は一人称だが、仮に三人称で眺めるならば、映画のドリー・ズーム・ショット(めまいショット)になるだろう。
ドリー(台車)に乗せたカメラを後ろに引きながら、人物をズームアップする。画面の中での人物の大きさは変わらないが、背景は遠ざかるようになる。ヒッチコック『めまい』やスピルバーグ『ジョーズ』で、観客の不安や焦りを掻き立てるのに効果を発揮している。
アドレナリンによる過覚醒が、体感時間の減速や対象のディテールをくっきりと知覚させ、心を鎮めるためのエンドルフィンの分泌が脳の認知を遅らせる。その感覚を引き起こす対象は危険をもたらすものであり、逃げるか戦うかする必要がある。日常モードのままでいたならば、間違いなく命にかかわる。
危険を危険だと察知できず、のほほんとしている人もいただろうが、これも適応の結果、生き残っていないのだろう。
「エンタメの恐怖」は恐怖ではない?
優れた恐怖論だけでなく、怖い作品を紹介するガイドともなっている。
ヨルゴス・ランティモス監督『籠の中の乙女』や岡本綺堂『蛔虫』は、ネタバレを食らったが、それでも観て/読んでみたい(それくらい怖いのが分かる)。
ただ、納得できないのは、こうした小説や映画の恐怖は、本当の恐怖ではないという点だ。
娯楽における恐怖を味わう人は、安全地帯におり、苦痛を受けない。だからそこで味わうものは、抜け殻の、フェイクの恐怖だという。
よく「なぜ恐怖は娯楽となり得るのか」というテーマがあるが、これは言葉のトリックだという。つまり、娯楽となり得る恐怖は恐怖ではないのだから、「なぜ」という設問が成り立たないというのだ。恐怖のまがいものであり、カニカマみたいなものだという。
これは本当かなぁと思う。
同じテーマはノエル・キャロル『ホラーの哲学』でさらに深掘りされている。「フィクションのパラドックス」と呼ばれているものだ。恐怖に限らず、私たちはなぜ、小説や映画に心躍らせ、涙し、憤り、笑うのか。スクリーンやタブレット、紙は媒体に過ぎず、フィクションに過ぎない物語から引き起こされる感情は、果たして本物なのか、というテーマだ。
もし本当に恐怖を感じているのなら、おとなしくページをめくったりシートに座って映画を見ていることなんてしないだろう。現実でモンスターと出会ったならば、危険だと感じて逃げようとする。本を放り出すか、映画館から逃げ出すはずだ。だから、フィクションを「現実」だと信じていないはずであり、そこから導かれる感情が偽物だという主張だ。これを錯覚説という。
あるいは、映画や小説で味わう恐怖は、ごっこ遊び(Make-Believe)のようなカッコつきの偽物のようなものだという。ゾンビや吸血鬼は存在しないかもしれないが、こうしたフィクションが、映画や小説といった形では現実に存在する。私たちは、そうした作品を通じてイメージを共有し、それを楽しむという主張もある。これを「ごっこ説」という。
ノエル・キャロルは、錯覚説、ごっこ説、どちらの主張も追求した後、「フィクションを怖がる」説明について行き詰まることを示す。そして、エンタメを通じて得られる「あの感覚」は、恐怖以外の何物でないと主張する。その上で、思考説を紹介する。
思考説とは、対象が現実だという信念が無くても、本物の恐怖が引き出されるのではないかという考えだ。心に浮かんだことが現実にあるか否かはともかく、その思考内容そのものが感情を誘発するのだという。
例えば、断崖絶壁の上に立っているとする。このとき、「落ちる」という考えが頭をよぎり、ヒヤっとすることはないだろうか。もちろん、足場はしっかりしているし、後ろから押してくる人もいない。自分で飛び降りる意思もないから、落ちる可能性はない。それでも、崖から真っ逆さまに「落ちる」という思考に怯え、身体が震え、足がすくんでしまうかもしれない。落ちるという出来事ではなく、落ちる思考内容が、感情を引き出しているのだ。
高い崖から飛び降りる一人称の映像や、見通しの悪い坂道をスケボーで滑り降りる動画を見る時、私は安全な場所に座っており、何の危険もない。だが、肌が粟立ち、胸がキュっとなり、脳汁ブッシャ―となっているのが分かる。これは「恐怖」ではないだろうか。
youtubeの例だと、「それは『フィクション』ではなく、現実の画像を撮影したものだから」という再反論もできるだろう。この反論には、『天空の城ラピュタ』のフラップターの疾空シーンや『ベイビー・ドライバー』のカーチェイスにある一人称の目線をどうぞ。
スリル溢れるシーンだけでなく、「危機感」「不条理感」「精神的視野狭窄」を与える物語としてなら、例えばミヒャエル・ハネケ『ファニーゲームU.S.A.』やアリ・アスター『ミッドサマー』を推したい。恐怖の正体が何であるか、触れるくらいはっきりと分かるだろう。
あるいは来月公開される、『ボーはおそれている』がそうかも。「みんな、どん底の気分になればいい」と、アリ・アスター監督が笑顔でお届けするホラーらしい(ほぼ3時間、自分の精神が保てるのか心配だ……)。
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