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ジョージ・オーウェル『1984年』を山形浩生訳で読んだら驚くほど面白かった

N/A

有名だけど退屈な小説の代表格は、『一九八四年』だ。全体主義による監視社会を描いたディストピア小説として有名なやつ。

2017年、ドナルド・トランプが大統領に就任した際にベストセラーになったので、ご存知の方も多いだろう。「党」が全てを独裁し、嘘と憎しみとプロパガンダをふりまく国家が、現実と異なる発表を「もう一つの事実(alternative facts)」と強弁した大統領側近と重なったからかもしれぬ。

『一九八四年』は、学生の頃にハヤカワ文庫で読んだことがある。「ディストピア小説の傑作」という文句に惹かれたのだが、面白いという印象はなかった。

主人公のウィンストンは優柔不断で、あれこれグルグル考えているだけで、自ら行動を起こすというよりも、周囲の状況に流され、成り行きで選んでゆく。高尚な信念というより下半身の欲求に従っているように見える。

「党」を体現する人物との対話も、やたら小難しく何を言っているのかさっぱりだった。

例えば、「二重思考(double think)」という概念が登場する。「2つの矛盾する信念を同時に抱き、かつ両方とも受け入れる」というのだが、そんなことが可能だとは思えなかった。党のプロパガンダを洗脳するだけで充分じゃないの?と考えていた。

ところが、山形浩生さんがボランティア(?)で翻訳した『1984年』を手にしたら、一変した。

翻訳が変える読後感

主人公はノスタルジックな記憶にしがみつき、現実が何なのか分からなくなっている不安定なキャラが浮かび上がる。「書く」ことで自分を確かめようとする態度がいじらしくも哀れに見える。

  オレンジにレモン、とセントクレメントの鐘
  お代は三ファージング、とセントマーチンズの鐘
  お支払いはいつ、とオールドベイリーの鐘
  ……

折に触れて言及される詩の意味も分かった。子どもの頃の童歌だったのだが、中年になったウィンストンは、どうしても続きが思い出せない。その内容のノスタルジックな響きと、続きを思い出させてくれる人たちの立ち位置が秀逸なり。

初めて読んだとき、適当に読み流していたけれど、これ、物語の根幹に関わるキーとなっている。特に最後のフレーズを教えてくれる人物の皮肉が利いている(まさに「過去を支配する者は今を支配する」だ!)。これを伏線として読み直すことができたのは、巻末の解説のおかげだ。

恋仲となるジュリアも、別のキャラになった。

乙に澄ました女というイメージが壊され、いたずらめいた下品さが醸しだされ、性に(生に)忠実であることがよく伝わってくる。原文は読んでいないが、翻訳だけでここまで生き生きとキャラが立ってくるのか、と驚いた。彼女がウィンストンに持ちかける内容に似合った口汚さがいい。

そして「党」の主張も、よく理解できるようになった。これも、分かりやすい翻訳のおかげ。

二重思考の「矛盾する信念を同時に抱く」とは、その信念を適用させる対象をコントロールすればいい。辞書を編纂し、人々を教育し、その言葉が指し示す範囲のうち、党に不利益となるものをキャンセルする。ある概念を適用する範囲を狭めることで、本来であれば並び立たないような表現を成立させるのだ。

例えば「自由(free)」という言葉について。「フリーランチ(無料の食事)」や「アレルギーフリー(アレルギー原因物質を含まない)」という意味として使える。しかし、「言論の自由」や「信教の自由」といった使われ方はしない。「自由」という言葉を適用する範囲から、知的や思考を指し示す概念そのものが存在しなくなっているのだ。

それでも、昔を知る人は「知的自由」という言葉が成立していた時代を覚えているかもしれない。知的には党に従うのが当然のため、知的自由という言葉の代わりに知的には隷属することになる。

「知的自由」を知る人は粛清されるか年老いて死んでいくだろうが、そこに至るまでは「自由」という言葉は矛盾した使われ方をしているように見えるだろう。アレルギーからの束縛を受けないという意味で自由である一方で、思想や信仰、知的には党の束縛を受けることが「自由」になる。

「矛盾する信念を同時に抱く」という定義のキモはここにある。二重思考というのは、そこに至るまでの過渡期として、推奨される考え方なのだ。「党」が意味付けたい言葉が完全に浸透したならば、そこに矛盾は無くなり、二重思考という概念すら不要となる。

人生経験による変化

作品は変わらないが、作品を読む「私」が変化する。

別の作品に触れたり、人生経験を通じて識ったことにより、より豊かな読み方ができるようになった。

例えば、意味をコントロールすることで思考を変えることについて。かつて、無邪気にも、そんなことはあり得ないと考えていた。

だが、新しい言葉が古い言葉を上書きすることは、普通にあり得る。

そして、当たり前のことだが、昔の意味を知らない人にとっては、今の意味が全てになる。「スパム」は缶詰ではなく迷惑メールだし、「KY」は捏造報道ではなく「空気を読む」意味に上書きされている。これらはコントロールされた訳ではないが、全体主義国家がやれば意図的に変えることも可能だろう。

あるいは、ウィンストンが101号室で被る壮絶な恐怖も、より生々しく感じられるようになった。

その人にとって最も恐ろしいものを突き付ける展開は、スティーヴン・キング『IT』やクライブ・バーカー『腐肉の晩餐』を読んだ身としては、気持ち悪い汗が出るほどエグかった。

死んだ方がマシというよりも、早く殺して欲しいと心から願うくらい、「死ぬことが希望」になる。目的は洗脳ではないのだから、これは効果的だろう。

『一九八四年』が、あらためてディストピア小説の傑作だと思い知った。それと同時に、ウィンストンの悲しみに寄り添えるようになった。すべて新訳のおかげ(山形さん、ありがとうございます)。

以下、Typoが散見されたのでまとめておく。

原文に当たって確認した訳ではないので、私の指摘が誤っているかもしれぬ。そして、(これはありそうだが)「党」がコントロールする言葉の歪曲を表現するために、あえて誤植のように翻訳しているのかもしれない(こっちのほうが怖い)。

天真楼文庫のKindle版第一刷(2023年12月1日)のを元にしている(いま確認したら、12月15日版が出ており、かなり修正されているものと思われる)。

該当ページ 修正前 修正後
p.12 それから穴だらけになってまわりの生みがピンク色になって穴から水が入った見たいにいきなり沈んで、 それから穴だらけになってまわりの海がピンク色になって穴から水が入った見たいにいきなり沈んで、
p.21 ウィンストンは内蔵が冷え込むように感じた。 ウィンストンは内臓が冷え込むように感じた。
p.27 献身的なドタ作業要員で、 献身的な作業要員で、
p.43 新潮に構築されたウソを語ること。 慎重に構築されたウソを語ること。
p.56 特別なに規則を曲げることで規定より一歳早く――スパイ団に入った。九歳にして部隊長となった。十一歳のとき、叔父の会話を盗み聞きして 特別な規則を曲げることで規定より一歳早く――スパイ団に入った。九歳にして部隊長となった。十一歳のとき、叔父の会話を盗み聞きして
p.56 人生の目的は敵ユーラシアの妥当と、スパイ、妨害工作者、 人生の目的は敵ユーラシアの打倒と、スパイ、妨害工作者、
p.70 数字は終えなかったが、それが何らかの形で満足すべきものなのだということはわかった。 数字は追えなかったが、それが何らかの形で満足すべきものなのだということはわかった。
p.70 選集の配給量は30グラムだったと示唆するものを全員追跡し、 先週の配給量は30グラムだったと示唆するものを全員追跡し、
p.71 その深いと汚れと物不足、果てしない冬、 その不快と汚れと物不足、果てしない冬、
p.79 だが一つのことさえなければ、彼女との暮らしも絶えられただろう。 だが一つのことさえなければ、彼女との暮らしも耐えられただろう。
p.81 だが本当の常時などほとんど考えられないできごとだった。 だが本当の情事などほとんど考えられないできごとだった。
p.86 連中は疑惑など受けるほどのドン材ではなかった。 連中は疑惑など受けるほどの鈍才ではなかった。
p.91 いつもしれは、昔のテーマを焼き直していた―― いつもそれは、昔のテーマを焼き直していた――
p.91 唇はぶあつく黒人敵だった。 唇はぶあつく黒人的だった。
p.96 石は固く、水は塗れていて、支持のない物体は地球の中心に向かって落ちる。 石は固く、水は濡れていて、支持のない物体は地球の中心に向かって落ちる。
p.101 酸っぱいビールの匂いが漂ってきた。 酸っぱいビールの臭いが漂ってきた。
p.103 そしてさほど遠からぬ小さな文具やで、 そしてさほど遠からぬ小さな文具屋で、
p.104 醜悪なチーズめいた酸っぱいビールの匂いが 醜悪なチーズめいた酸っぱいビールの臭いが
p.106 ダーツの試合はまた全開となり、バーにかたまった男たちは宝くじの話を始めた。 ダーツの試合はまた再開となり、バーにかたまった男たちは宝くじの話を始めた。
p.106 その戦争ですか?」とウィンストン どの戦争ですか?」とウィンストン
p.108 その言葉Wをきくのは、 その言葉をきくのは、
p.108 そのreg’larには連れ戻されるよ、いやホント。 その連中には連れ戻されるよ、いやホント。
p.108 ロバ年も前だったか―― ロバ年も前だったか――
p.108 アイドパークにときどき出かけて、 ハイドパークにときどき出かけて、
p.111 というのもそれを懸賞できるような基準は存在せず、 というのもそれを検証できるような基準は存在せず、
p.112 質問だれたら、カミソリの刃を買いたいと 質問されたら、カミソリの刃を買いたいと
p.112 髪はほぼマッ尻だが、 髪はほぼ真っ白だが、
p.112 彼に漠然とした地勢の雰囲気を与えていて、 彼に漠然とした知性の雰囲気を与えていて、
p.119 セーターでの一晩をサボるより センターでの一晩をサボるより
p.122 肉体はふくれあがって宇宙を見たし 肉体はふくれあがって宇宙を満たし
p.122 飢えや寒気は睡眠不足、 飢えや寒気や睡眠不足、
p.123 クラやミンのない場所とは 暗闇のない場所とは
p.127 すでに本能の息に達し他習慣ではあり、 すでに本能の域に達した習慣ではあり、
p.140 ある巨大な一家であふれかえるほどの満員ぶりで、話の曾祖母から生後一ヶ月の赤ん坊までいて、 ある巨大な一家であふれかえるほどの満員ぶりで、曾祖母から生後一ヶ月の赤ん坊までいて、
p.141 肌の毛穴にすすまみれのロンドンのほころが詰まっているように感じ 肌の毛穴にすすまみれのロンドンのほこりが詰まっているように感じ
p.142 顔に浮かんだ無精はかすかに皮肉っぽく、 顔に浮かんだ微笑はかすかに皮肉っぽく、
p.153 どのみちジュリアは完全に明いた晩がめったにない。 どのみちジュリアは完全に空いた晩がめったにない。
p.153 ハトの糞の匂いがプンプンしていた。 ハトの糞の臭いがプンプンしていた。
p.162 最後の訪問時に勝ったガラスの文鎮が、 最後の訪問時に買ったガラスの文鎮が、
p.166 人はそれが起こるまでの感覚を短縮する道を選んでしまうのだ。 人はそれが起こるまでの間隔を短縮する道を選んでしまうのだ。
p.172 ウィンストンはそれを彼女の手から鳥 ウィンストンはそれを彼女の手から取り
p.188 そのページを破って運ストンに渡した。 そのページを破ってウィンストンに渡した。
p.191 さらに一部のルートで異同するトラックの通過 さらに一部のルートで移動するトラックの通過
p.191 すえた匂いの部屋で、 すえた臭いの部屋で、
p.193 ドアめがけて欠けだした ドアめがけて駆け出した
p.195 自分もその行動も、二度とだれにもつたわれない。 自分もその行動も、二度とだれにも伝わらない。
p.195 生涯で始めて、ウィンストンはプロレを軽蔑もせず、 生涯で初めて、ウィンストンはプロレを軽蔑もせず、
p.200 テレスクリーンが着られてから、部屋は死んだように静まりかえった テレスクリーンが切られてから、部屋は死んだように静まりかえった
p.201 飲み物をこっちに持ってきて暮れ、 飲み物をこっちに持ってきてくれ、
p.205 我々の下界は、人々をまったく見分けがつかないほど変えてしまえるのだ。 我々の世界は、人々をまったく見分けがつかないほど変えてしまえるのだ。
p.205 立ち上がる都ゆっくり行ったり来たりし始めて、 立ち上がる都度ゆっくり行ったり来たりし始めて、
p.206 だが我々がの戦いが奉じる全般的な目標と、 だが我々の戦いが奉じる全般的な目標と、
p.207 やらねばならないことなのだだが人生が再び生きる価値のあるものとなったら、 やらねばならないことなのだが人生が再び生きる価値のあるものとなったら、
p.214 深紅の垂れ幕をかけた遠大では、 深紅の垂れ幕をかけた演壇では、
p.219 イギリス初頭を含む大西洋の島々、 イギリス諸島を含む大西洋の島々、
p.220 捕虜に対する意趣晴らしといった行為は、 捕虜に対する意趣返しといった行為は、
p.226 馬肉の塊を持っている蚊どうかが、 馬肉の塊を持っているかどうかが、
p.229 戦争の物流兵站面だけを考えテイル。 戦争の物流兵站面だけを考えている。
p.230 公式の合意は決して交わされるれることも野押さされることもなかったが、 公式の合意は決して交わされるれることも直されることもなかったが、
p.245 現実には制服不能であり、ゆっくりした人口変化でのみ制服可能となるが、 現実には征服不能であり、ゆっくりした人口変化でのみ征服可能となるが、
p.248 事実を考えて見たりしなかった 事実を考えてみたりしなかった
p.249 どこかで犯罪を犯すかもしれない人物を一層するため どこかで犯罪を犯すかもしれない人物を一掃するため
p.255 どちらが買っているかは、彼らにとっては完全にどうでもいいことである。 どちらが勝っているかは、彼らにとっては完全にどうでもいいことである。
p.258 旧式の時計を見てみると、まだ23=30でしかなかった。 旧式の時計を見てみると、まだ20=30でしかなかった。
p.269 騒々しい、ひどい匂いの場所だった。 騒々しい、ひどい臭いの場所だった。
p.275 長い時間に思えるものが杉田 長い時間に思えるものが過ぎた
p.277 オレがそう行ったんだ。どうやら何度も何度も言ったらしいぜ。 オレがそう言ったんだ。どうやら何度も何度も言ったらしいぜ。
p.277 オレが行ってることを聞いて、 オレが言ってることを聞いて、
p.278 顔色が一篇したように 顔色が一変したように
p.278 口と目が異様に大きく見栄 口と目が異様に大きく見え
p.284 苦痛に直円したら、英雄などない、 苦痛に直面したら、英雄などない、
p.293 ゆっくりと商人するようにうなずいた。 ゆっくりと承認するようにうなずいた。
p.293 過去はホント運の実在性があるものかね? 過去はホントウの実在性があるものかね?
p.294 記録をどう支配できるんですか? 私の記憶は支配できてないでしょう!」 記憶をどう支配できるんですか? 私の記憶は支配できてないでしょう!」
p.294 だがウィンストン、襲えてやるが、現実は外部にあるものではない。 だがウィンストン、教えてやるが、現実は外部にあるものではない。
p.296 ちても寒く、抑えようもなく震え、歯はカチカチ鳴り、 とても寒く、抑えようもなく震え、歯はカチカチ鳴り、
p.297 自分が絶叫しているかどうかもわからなくあんった。 自分が絶叫しているかどうかもわからなくなった。
p.297 レバーを戻してイットあ。 レバーを戻して言った。
p.298 どこかりら、実際の言葉は決して交わされることがなくても、 どこか、実際の言葉は決して交わされることがなくても、
p.303 どれほど完全に我々に幸福しても、助かるなどとは思うなよ。 どれほど完全に我々に降伏しても、助かるなどとは思うなよ。
p.311 富でもせいたくでも長命でも幸福でもない。 富でも贅沢でも長命でも幸福でもない。
p.311 純粋な権力がどういう井美香はすぐわかる。 純粋な権力がどういう意味かはすぐわかる。
p.312 というのもあらゆる人間は死ぬ運命にあり、誌こそは最大の失敗だからだ。 というのもあらゆる人間は死ぬ運命にあり、死こそは最大の失敗だからだ。
p.315 「その通り。苦しめませるのだ。 「その通り。苦しませるのだ。
p.316 鎮江に、あらゆる瞬間に、勝利のスリルがあり、 あらゆる瞬間に、勝利のスリルがあり、
p.326 ジュリアといっしょにものもあった。 ジュリアといっしょのものもあった。
p.329 決して口に出されたのを効いたことがないのに、 決して口に出されたのを聞いたことがないのに、
p.339 顔の肉付きがマシ、 顔の肉付きが増し、
p.339 ハゲた逃避ですらあまりに深いピンクだった。 ハゲた頭皮ですらあまりに深いピンクだった。
p.340 どんなチェス問題でも黒が買ったことは どんなチェス問題でも黒が勝ったことは
p.341 オブライエンは行った。 オブライエンは言った。
p.342 彼女が何か曰く言い型形で変わったのが感じ取れた。 彼女が何か曰く言い難い形で変わったのが感じ取れた。
p.358 その言葉の存在により、どの範囲の単語がギャンセルできたかを明確にするということ その言葉の存在により、どの範囲の単語がキャンセルできたかを明確にするということ
p.358 そのときいも望ましからぬ意味は そのときも望ましからぬ意味は

 

 

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エンタメの恐怖はニセモノなのか『恐怖の正体』(春日武彦著、中公新書)

恐怖の正体

ネットで肝試しするなら「蓮コラ」画像が手軽だ。ちょっと検索するだけで簡単にゾワゾワできる。「集合体恐怖症(トライフォビア Trypophobia)」で検索するのもあり。生理的にダメな、見てはいけないものを見ている感覚を味わえる。

あるいは、youtubeで「フライングスーツ flyingsuits」を検索してもいい。ムササビみたいな恰好をして滑空する映像を「一人称で」見ることができる。スカイダイビングとは異なり、切り立った崖から飛び降りるのがスタートだ。だから映像は、飛び降り自殺する人が見ている(見ていた)視点と重なる。

高所恐怖症なら、「Raw Run」で検索しよう。スケボーで長い坂道を延々と滑り降りる映像なのだが、背筋ゾゾゾとなるのを請け合う。乗ってる人はほぼ丸腰で、ヘルメットもしていないのもある。公道なので、もちろん対向車も来る。それをかわしながらカッ飛んでいくのだが、時速100kmを超えるらしい。転んだら死ぬ映像を、まるで自分が乗っているかのように体感できる。

こうした映像を見るとき、わたしが感じているものは、間違いなく「恐怖」だ。目が見開かれ、肌が粟立っている。胸がキュっとなり、脳汁ブッシャ―となっているのが分かる。いや、恐怖に直面している時は自覚症状がない。観終わった後、食いしばった歯や、鳥肌が残る腕を見て、恐怖への反応を後追いで知ることになる。

考えてみると、わたしは様々なものを怖いと感じる。

びっしりツブツブが並んでいる様や、制御不能のスピード、こっちへ向かってくるゴキブリ―――この「怖い」という感覚は何なのか。なぜ人は「怖い」と感じるのかについて語ったのが『恐怖の正体』になる。

「怖い」とは何か。色々なアプローチでこの感情(感覚?)を解き明かそうとしてきた。

本書がユニークなところは、恐怖と娯楽との関係から「怖い」の正体に迫っているところ。すなわち、精神科医である著者自身が診てきた患者や、読んできた小説、観てきた映画を通じて、恐怖の正体を示そうとする。

死に対する反応―――「危機感」と「不条理感」

恐怖とは何かついて、さまざまな定義づけがされてきたが、本書ではさらに洗練させ、「危機感」「不条理感」「精神的視野狭窄」の3要素を満たしているという。

最初の2つ要素である「危機感」と「不条理感」については、安全な状態から外れることへの生理的・動物的な反応であり、死もしくは死に関するものに触れたときに起きる人間的な感情になる。さらに、著者は自身の甲殻類恐怖症を挙げ、そこに根源的な不快感も交じっているという。

これは確かにそうだろう。蓮コラを見た時のゾワゾワの根っこには、感染症によって皮膚に出たブツブツや発疹を忌避する感覚がある。発疹に危機感を抱きにくい人は、適応のフィルターにかけられ、生き残っている人はふるいにかけられた結果だと言える。トライフォビアは、感染症から身を守るための進化的なメカニズムなのかもしれない。

本書では、『異形コレクション 恐怖症』(井上雅彦監修、光文社文庫)に収められている柴田よしき「つぶつぶ」を例に挙げる。

そこでは、いちごの表面のあの小さなつぶつぶを爪楊枝の先でほじくりだし、果肉をすっきりさせたくなる衝動に駆られる男が登場する。そして、いちごだけではなく、日常のさまざまな箇所に集合体が潜んでいることを示す。私たちが気づいていないだけで、そこらじゅうに集合体はあるという結論に、おもわず周囲を見回してしまう。

めまいに似た感覚―――「精神的視野狭窄」

最後の「精神的視野狭窄」は、追い詰められて余裕が失われ、認識する対象を無意識のうちに絞り込もうとする反応を指す。時が急に粘り気を増し、視野は狭まり、音はくぐもって聞こえ、焦りばかりが増してくる。

これは体感したことがある。車にはねられたとき、溺れそうになったとき、およそ千人が見ている舞台上でセリフを忘れた時、まさにこの感覚だったことを、はっきりと覚えている。

このめまいに似た感覚は一人称だが、仮に三人称で眺めるならば、映画のドリー・ズーム・ショット(めまいショット)になるだろう。

ドリー(台車)に乗せたカメラを後ろに引きながら、人物をズームアップする。画面の中での人物の大きさは変わらないが、背景は遠ざかるようになる。ヒッチコック『めまい』やスピルバーグ『ジョーズ』で、観客の不安や焦りを掻き立てるのに効果を発揮している。

アドレナリンによる過覚醒が、体感時間の減速や対象のディテールをくっきりと知覚させ、心を鎮めるためのエンドルフィンの分泌が脳の認知を遅らせる。その感覚を引き起こす対象は危険をもたらすものであり、逃げるか戦うかする必要がある。日常モードのままでいたならば、間違いなく命にかかわる。

危険を危険だと察知できず、のほほんとしている人もいただろうが、これも適応の結果、生き残っていないのだろう。

「エンタメの恐怖」は恐怖ではない?

優れた恐怖論だけでなく、怖い作品を紹介するガイドともなっている。

ヨルゴス・ランティモス監督『籠の中の乙女』や岡本綺堂『蛔虫』は、ネタバレを食らったが、それでも観て/読んでみたい(それくらい怖いのが分かる)。

ただ、納得できないのは、こうした小説や映画の恐怖は、本当の恐怖ではないという点だ。

娯楽における恐怖を味わう人は、安全地帯におり、苦痛を受けない。だからそこで味わうものは、抜け殻の、フェイクの恐怖だという。

よく「なぜ恐怖は娯楽となり得るのか」というテーマがあるが、これは言葉のトリックだという。つまり、娯楽となり得る恐怖は恐怖ではないのだから、「なぜ」という設問が成り立たないというのだ。恐怖のまがいものであり、カニカマみたいなものだという。

これは本当かなぁと思う。

同じテーマはノエル・キャロル『ホラーの哲学』でさらに深掘りされている。「フィクションのパラドックス」と呼ばれているものだ。恐怖に限らず、私たちはなぜ、小説や映画に心躍らせ、涙し、憤り、笑うのか。スクリーンやタブレット、紙は媒体に過ぎず、フィクションに過ぎない物語から引き起こされる感情は、果たして本物なのか、というテーマだ。

ホラーの哲学

もし本当に恐怖を感じているのなら、おとなしくページをめくったりシートに座って映画を見ていることなんてしないだろう。現実でモンスターと出会ったならば、危険だと感じて逃げようとする。本を放り出すか、映画館から逃げ出すはずだ。だから、フィクションを「現実」だと信じていないはずであり、そこから導かれる感情が偽物だという主張だ。これを錯覚説という。

あるいは、映画や小説で味わう恐怖は、ごっこ遊び(Make-Believe)のようなカッコつきの偽物のようなものだという。ゾンビや吸血鬼は存在しないかもしれないが、こうしたフィクションが、映画や小説といった形では現実に存在する。私たちは、そうした作品を通じてイメージを共有し、それを楽しむという主張もある。これを「ごっこ説」という。

ノエル・キャロルは、錯覚説、ごっこ説、どちらの主張も追求した後、「フィクションを怖がる」説明について行き詰まることを示す。そして、エンタメを通じて得られる「あの感覚」は、恐怖以外の何物でないと主張する。その上で、思考説を紹介する。

思考説とは、対象が現実だという信念が無くても、本物の恐怖が引き出されるのではないかという考えだ。心に浮かんだことが現実にあるか否かはともかく、その思考内容そのものが感情を誘発するのだという。

例えば、断崖絶壁の上に立っているとする。このとき、「落ちる」という考えが頭をよぎり、ヒヤっとすることはないだろうか。もちろん、足場はしっかりしているし、後ろから押してくる人もいない。自分で飛び降りる意思もないから、落ちる可能性はない。それでも、崖から真っ逆さまに「落ちる」という思考に怯え、身体が震え、足がすくんでしまうかもしれない。落ちるという出来事ではなく、落ちる思考内容が、感情を引き出しているのだ。

高い崖から飛び降りる一人称の映像や、見通しの悪い坂道をスケボーで滑り降りる動画を見る時、私は安全な場所に座っており、何の危険もない。だが、肌が粟立ち、胸がキュっとなり、脳汁ブッシャ―となっているのが分かる。これは「恐怖」ではないだろうか。

youtubeの例だと、「それは『フィクション』ではなく、現実の画像を撮影したものだから」という再反論もできるだろう。この反論には、『天空の城ラピュタ』のフラップターの疾空シーンや『ベイビー・ドライバー』のカーチェイスにある一人称の目線をどうぞ。

スリル溢れるシーンだけでなく、「危機感」「不条理感」「精神的視野狭窄」を与える物語としてなら、例えばミヒャエル・ハネケ『ファニーゲームU.S.A.』やアリ・アスター『ミッドサマー』を推したい。恐怖の正体が何であるか、触れるくらいはっきりと分かるだろう。

あるいは来月公開される、『ボーはおそれている』がそうかも。「みんな、どん底の気分になればいい」と、アリ・アスター監督が笑顔でお届けするホラーらしい(ほぼ3時間、自分の精神が保てるのか心配だ……)。

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「若い頃の自分に教えたいこと」を集めた名言集『他人が幸せに見えたら深夜の松屋で牛丼を食え』

他人が幸せに見えたら深夜の松屋で牛丼を食え

40~60代のおっさん達に、「もし若い頃の自分にアドバイスができるなら、何を伝える?」と聞きまくって集めた名言集。

聞いた場所も、東京なら赤羽・上野、大阪なら新世界、名古屋なら栄の飲み屋街に限定してる。出てきた答えは、下品で下世話で下半身ネタだらけだけれど、心底その通り!と言いたくなる名言ばかり。

誰も教えてくれなかったけれど、長いこと生きてきて、ようやく身に沁みて分かった、何気ない一言が集められている。職場呑みの宴席とか、独りで入った飲み屋のカウンターで、こっそり教わる人生の教訓だ。

わかる人には痛いほどわかるやつで、分からない人は、きっと、幸せな人生だと言えるだろう。

人は、傷ついた分だけ、性格が悪くなる

ラブソングとかで、「傷ついた分だけ、人は優しくなれる」というフレーズがある。手垢にまみれまくっているが、これはウソ。

あんなの心地いいだけで、タワゴトです。真実は真逆で、傷ついた分だけ、性格が悪くなる―――という会社員(40代)の名言。

これは分かる。相手のことを思いやるために必要なのは想像力。「これ言ったらアカンなぁ」という言葉や、「こう伝えると呑んでもらえそうかも」という言い方は、コミュニケーションする相手がどのように感じるかを想像できる能力に尽きる。

そして、想像力と、「自分がいかに傷ついたか」は、これっぽっちも関係がない。この会社員さんの義理の兄がまさにそれで、かなり酷い目に遭って、性格がねじ曲がったとのこと。

イヤな目に遭っても、優しくなれるのは聖人君子であって、普通の人はイヤな奴になるのがオチだそうな。

不安はほとんど的中しない

ほんこれ。

私自身がそうだった。仕事を進めていくときに、「こうなったらどうしよう?」「ああなったら終わりだ」とあれこれ心配事が噴出してきて、不安に押しつぶされそうになった。

特に、夜寝る時がサイアクで、悶々と悩むあまり寝られなかったり、ムリヤリ眠るために深酒したりしていた(もちろん翌日は頭が働かない)。今から考えるとバカなことをしたと思う。

東京の公務員のおっさんはこう言う。

心配性の人に教えてあげたいのは、今まで「あー、やっぱり不安が的中した」って経験がありますか?雨が降るとか転ぶとか、小さいことではなく、重病になるとか、予期せぬトラブルになるとか、ないでしょう?どうせ当たらないのなら、不安で眠れないなんて、もったいないですよ。寝なさい。

私が若いころ、こう言ってくれる人は居なかった。

なので、「悩みごとメモ」を1年間記録して、翌年、振り返ってみたら、見事に心配は的中していなかったことを確かめた。ほぼ日手帳を使った具体的なやり方は、「ITエンジニアのメンタルを守る4冊」に書いたので、試してみるといい。

人生の最後の楽しみは美食だから歯だけは大事にしろ

最近、わりと、ひしひしと感じているのがこれ。

60代の自営業のおっさんに言わせると、セックスの愉しみや、酒を呑んで騒ぐ楽しみも、そのうち飽きて、面倒くさくなる。

早い人だと40代で、性欲は急速になくなっていき、釣りとか旅行とか、そういう趣味みたいなものも興味が失せていく。もちろん人によりけりだけれども、ワクワクするものが減っていくのはホントのこと。

それでも、「食事が楽しい」という気持ちは残っていく。

そうすると、食に対するモチベーションは、(他の趣味とは違って)相対的に高くなっていく。入れ歯になると不便になるだけでなく、食事がまずくなる。老いてくると、たくさん食べられなくなる。本当に美味しいものを、少しだけ食べる。これが美食の喜びなんだけれど、これが楽しめなくなるのは悲しい。

めっちゃ分かる。

40歳で吉牛特盛が食いきれなくなって、若くないことを知ったし、天下一品こってりで胸焼けするようになって、老いていることを知った。ビールはロング缶を買わなくなって久しい。歯と胃腸と肝臓は大事にして、できるだけ長いこと「美味しい」を維持していかないと。

女は、お前の意見など、求めてはいない

これも分かる。若かりし頃の自分に、100回ぐらい言いたい。

女から相談をもちかけられたとき、どのように対応するのがベストか?

 1. 相談された内容に応じて、適切なアドバイスをする

 2. ひたすら話を聞く(アドバイスしてはいけない)

この記事を読む方なら、正解は言うまでもない。

だが、私は不正解ばかりを選んできた。もっと言うなら、今でも嫁様の話に不正解を選ぶときがある(あれほど酷い目に遭ってきたにも関わらず!)。ひょっとすると、私は、適切な解答をしようとするあまり、学習能力が無いバカかもしれぬ。

40歳の会社員曰く、

女としょうもない口喧嘩をする原因は、女の話に「そうだね」が言えない自分にある。昔の俺もそうだったんだけど、女の質問にマジで答えてはダメなの。例えば女が「あの映画、面白かったよね」って聞いてきたら、「あの映画はああでこうで」と返しちゃダメなの。女は別にこっちの意見など求めていないのだから、単に同意してほしいだけなんだから、いい関係と続けたいなら、「そうだね」を貫くべし。

これ、ハタチぐらいの私に聞かせたかった。

ただし、これは女に限らず、人間全般に言えるかもしれぬ。

弁護士や医者ではなく、他ならぬ私に「相談したい」というのであれば、そこに求めているものは、専門的なアドバイスではない。「相談する」ことそのものが、したいことなんだ。

「いま抱えているものを吐き出すことで、ラクになりたい」という動機かもしれないし、「モヤモヤを言葉にすることで、少しは客観視したい」のかもしれない。「私というサンドバックを相手に言葉をぶつけて反応を確かめたい」もある。

そこで求められているのは、適切なアドバイス云々というよりも、いい塩梅での相槌とか、一通り聞いた後の短いコメント程度に過ぎない。話すのでいっぱいいっぱいなので、サンドバッグの話なんぞ聞いちゃいないのが真実だろう。そしてこれは、女も男も関係ないはずだ。

そして、どうしても「適切なアドバイス」がしたいのであれば、それは、話を聞いているその場ではなく、後日にしたほうが吉だろう。

「〇〇って、アナタと似てる」という女は、脈あり

これは知ってた。だが、知らない男がいるかもしれないので、念のため書いておく。40代会社員の名言だ。

女の知り合いから「〇〇てアナタと似てるよね?」って言われた経験ない? 別に芸能人だけじゃなくて、絵画に描かれてる人物とか、アニメのキャラとかなんでもいいんだけど。もしそういう経験があるのなら、そのコ、かなりの確率でキミに好意を持ってるよ。

事実として知っていたけれど、この40代会社員の方は、その理由まで説明してくれる。

そのコは誰かの顔を見て、キミの顔を連想したことになる。これは、日ごろから「キミの顔」を意識していないと、そういう連想に至らない。

そして、最も重要なことに、実際はその〇〇〇とキミが似ていなかったときには、ほぼ確実に惚れられていると言える。なぜなら、キミのことを強く意識しているだけに、そんなに似ていなくても、似ているようにみられているから……という理屈だ。

これ、「流れ星が消えるまでに願い事を3回唱えると叶う」と通じるものがある。

流れ星が輝くのは一瞬で、「あっ流れ星!」で終わってしまうくらい短い。でも、常日頃から願い事を考えているのであれば、そんな一瞬でも間に合うだろう。そして、それくらい片時も忘れず強く願っているのであれば、その実現方法も色々と考えるだろうし、いずれ自分のチカラで叶えてしまう……というやつ。

あるいは、ルミネの宣伝コピーの「試着室で思い出したら、本気の恋だと思う」にも近いかも。(女性が)服を選ぶときに、誰かのことを思い浮かべるということは、その人のことが頭の片隅にあるわけで、「服を選ぶ」という自分の好みを反映する瞬間に、片隅から出てくるヒトは本命なのだ。

こんな感じで、飲み屋のオッサンの半分グチ、半分自分に言い聞かせの名言(迷言?)が並んでいる。

正直「?」となるようなものもあるけれど、そのオッサンの半生を知ると、なるほどな、とうなずきたくなる。「他人が幸せに見えたら深夜の松屋で牛丼を食え」なんてまさにそう。20代から30代にかけて、周りが急に「結婚しました」とか「彼女ができました」とか言い出して、ちょっと孤独を感じた夜は、牛丼を腹いっぱい食べるといい、というアドバイスだ。

  • 贅沢して、遊ぶべきは、老後じゃなくて今
  • ハメ撮りする際は、自分を映しても、しゃべっても、いけない
  • ローションオナニーは、やめておけ
  • 合コンで狙うのは「バッグぱんぱん女」
  • 巨乳は、すぐに、飽きる

人生を通じて学んだオッサンの箴言を見ていると、私も何か言いたくなる。どこにも書いて無さそうで、若い人によく言っているのは、銀行口座の話だな。

入社ほやほやの若い連中に、必ず伝えているのは、「給料の振込先の銀行は一生つきあうつもりで選べ。そして変えるな」というやつ。

なぜなら毎月の振込実績が、その銀行からカネを借りるときの評価基準になるから。家なり子の教育なり親の介護なり、ローンを組むときが必ず来るから。これ、『ナニワ金融道』で教わったけれど、同じことを先輩から教わった(入社ほやほやの頃)。

聖人君子や偉人たちの名言集よりも、こっちのほうがしっくりとクる。タイムマシンが発明されたら、若いときの自分に渡したい名言集。

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ミスを責めるとミスが増え、自己正当化がミスを再発する『失敗の科学』

失敗の科学

人はミスをする。これは当たり前のことだ。

だからミスしないように準備をするし、仮にミスしたとしても、トラブルにならないように防護策を立てておく。人命に関わるような重大なトラブルになるのであれば、対策は何重にもなるだろう。

個人的なミスが、ただ一つの「原因→結果」として重大な事故に直結したなら分かりやすいが、現実としてありえない。ミスを事故に至らしめた連鎖や、それを生み出した背景を無視して、「個人」を糾弾することは公正なのか?

例えば、米国における医療ミスによる死亡者数は、年間40万人以上と推計されている(※1)。イギリスでは年間3万4千人もの患者がヒューマンエラーによって死亡している(※2)。

回避できたにもかかわらず死亡させた原因として、誤診や投薬ミス、手術中の外傷、手術部位の取り違え、輸血ミス、術後合併症など多岐にわたる。数字だけで見るならば、米国の三大死因は、「心疾患」「がん」そして「医療ミス」になる。

うっかり見落としたり、忘れてしまうといったミスは、人間だからあたりまえだ。だが、あまりにも多すぎるこの数字は何を物語っているのか。

ミスが再発するメカニズム

マシュー・サイド著『失敗の科学』は、ミスそのものよりも、ミスに対する「姿勢」に着目する。

無謬主義である医療業界には、「完璧でないことは無能に等しい」という考え方が是とされる。失敗は脅威であり不名誉なこととされているため、スタッフはエラーマネジメント(ミスの防止・発見)のトレーニングをほぼ受けていないという。

ミスが起きたとき、人は失敗を隠そうとする。自分を守るために、失敗を認めようとはしない。ちょうど映画のシーンを編集でカットするように、失敗の記憶を消し去ってしまう。自分の過ちを認めるよりも、事実の解釈を変えてしまうこともある。

1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300のヒヤリ・ハットが存在するという。ヒヤリ・ハットは揉み消され、インシデントが共有されることはない。

ひとたび事故が起きて、予期せぬ結果について説明が必要なとき、どう答えるのか?

医療事故の調査によると、「ミス」ではなく「複雑な事態が起こった」と表現されるという。「技術的な問題が生じた」「不測の事態によって」といった婉曲法によって明らかにしない。情報開示に対する抵抗は強く、「患者が知る必要がない」「言っても理解できない」という言葉を盾に取り、事実を語ろうとしない。

疫学的調査によると、受診1万件につき、医療ミスを原因とする深刻な損傷が44~66件発生しているという。しかし、実際にヒアリングをしたところ、この結果通りの申告をしている病院は1%に過ぎなかったという。また、50%の病院は、受診1万件につき5件未満と報告していた。つまり、大半の病院が組織的に言い逃れをしていることになる。

ミスを認めない体質により、インシデントが共有されず、再発が繰り返され、重大事故につながる―――この負のスパイラルは、医療業界に限ったことではないという。あり得ない証拠をでっち上げる検察官や、自己保身のあまり事実を捻じ曲げる経済学者が登場する。

ミスを厳罰化するとミスが報告されなくなる

では、こうしたミスを無くすにはどうすれば良いか?

「失敗は悪」として罰則を設ければよいという考えがある。ミスを厳罰化することで規律を正そうとする発想である。

この仮説を検証するためにリサーチが行われた。投薬ミスが慢性化している複数の病院が選ばれ、一つのグループは懲罰志向で、ミスを厳しく問い詰めさせた。もう一つのグループは非難をしない方針で運営した。

もうお分かりかと思うが、懲罰志向のグループにおいては、ミスの報告は激減した。一方、非難しないグループでは、報告件数は変わらなかった。そして、実際にミスが起きた件数は、懲罰志向のグループが遥かに多かったという。

これと似た経験がある。かつて「品質を向上させるため、バグをゼロにする」というトチ狂った信条の上司が着任し、エラーを見つけ次第、厳しく叱責するようになった。バグは激減したのだが、それは品質が良くなったわけではなく、報告されなくなったに過ぎない(その上司が離任するまで、報告用とは別の管理簿を作ってしのいだ)。

同様に、かつて「いじめ撲滅」を目標にして、いじめが起きた学校や教室を処罰対象にする試みが行われた。数字の上ではいじめは減ったが、告発の手紙を遺して自殺した子どもに対しても、「いじめではなかった」と強弁されていた(レビュー『測りすぎ』参照)。

ミスから学ぶ組織の作り方

では、どうすればよいか?

失敗を認め、そこから学習することで、再発させない。どうすればこれが実現可能になるのか?

本書では、ミシガン州立大学での実験が紹介されている。被験者に単純なテストを受けてもらい、ミスをした時にどのように反応するかを、脳波測定する実験だ(※3)。

着目するべき脳信号は2つあるという。1つ目は、自分のミスに気づいた後50ミリ秒で自動的に現れる信号だ。これは「エラー関連陰性電位(ERN)」と呼ばれ、エラーを検出する機能に関連する前帯状皮質に生じる反応になる。

2つ目は、これはミスの200~500ミリ秒後に生じる信号になる。「エラー陽性電位(Pe)」と呼ばれ、自分が犯したミスに意識的に着目するときに現れる。

自分のミスに気づくERNの信号と、そのミスを意識的に着目するPeの信号、この2つの信号が強いほど、失敗から素早く学ぼうとする傾向があることが分かった。さらに、Peの信号が強い人ほど、「知性や才能は努力によって伸びる」と考える傾向があったという。

ミスから学ぼうとするマインドセットは、個人のみならず組織でも育成できる。

本書では、究極の失敗型アプローチとして「事前検死」が紹介されている。

人の死の原因や状況を明らかにする「検死」は、あたりまえなのだが、人が死んだ「後」に行われるものだ。だが、「事前」とはどういう意味だろうか?

これはpost-mortem(検死)をもじった造語で、pre-mortem(事前検死)になる。プロジェクトが終わった後に振り返るのではなく、実施前に検証するのだ。

まだ始まってもいないのに、「プロジェクトは大失敗でした。なぜですか?」という問いを立て、失敗していないうちから失敗を想定して学ぼうとする手法である。メンバーは、プロジェクトに対し否定的だと受け止められることを恐れず、懸念していることをオープンに話し合うことができる。

これはわたしも行っている。ディスカッションで「もし上手くいかないことがあるとしたら、それはどんな理由?ヤバい順に考えてみよう」と問うて反応を見るやり方だ。荒唐無稽なやつから割と現実的なものまで出てくる。

スイス・チーズの喩え

人だから、ミスが起きるのは当然のこと。そのミスを再発させず、トラブルにまでつなげない仕組みが必要となる。そのためには、まずエラーを受け入れるオープンな姿勢が肝要となる。

フランスでの試みだが、エラーを称賛し、学習・共有する文化を広げようとする『なぜエラーが医療事故を減らすのか』(レビュー)は、まさにこれだろう。

ヒヤリ・ハットから事故への連鎖を止めるための、様々な事例が紹介されている。例えば、成人向けと小児向けの薬剤を同じ棚に置かない。会話のプロトコルをルール化し、「入力の"打つ"」と「注射の"打つ"」と分けて復唱させることで、単に「打つ」だけで伝えないようにする(「この薬剤を打っておいて」と言われたら、「その薬剤データを入力しておくのですよね」と復唱する)。あるいは、多すぎる薬量がオーダーされた場合にはシステムが警告する。

有形無形のさまざまな関所が設けられている。

こうした関所のことを、並べたスイス・チーズで視覚的にモデル化する。一つ一つのチーズは穴だらけだが、並べることにより、エラーという矢の通り道を塞ぐ。幾つもの穴をすり抜け、刺さったチーズが「ヒヤリ・ハット」になる。それぞれのチェックは完璧ではないが、エラーの原因は一つとは限らない。刺さった最後のチーズは確かに目立つかも知れないが、そこへ至る一連の流れを見なおし、各ステップでの不具合を見つけ出し、システム全体としての改善を図ることが必要になる。

スイス・チーズ・モデルに基づけば、不幸にして最後のチーズとなった医療者を責めるのは意味がない。事故の当事者は、たくさんあったはずの防御装置の欠陥を明るみに出した者にすぎないのだから。

ヒューマンエラーは原因ではなく、むしろ結果なのだ。これを報告・学習できる組織になるために、『失敗の科学』をお薦めしたい。

※1

A new, evidence-based estimate of patient harms associated with hospital care - PubMed (nih.gov)

※2

A safer place for patients: learning to improve patient safety - White Rose Research Online

※3

Mind your errors: evidence for a neural mechanism linking growth mind-set to adaptive posterror adjustments - PubMed (nih.gov)

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