「美」とは客観的に測定できるのか、見る者の目に宿る存在なのか『近代美学入門』
A:客観的に測定できる | B:見る者の目に宿る |
長い時間をかけて伝統的に作られる | 天才の閃きによって成し遂げられる |
黄金比や円など、均整の取れたものを評価 | 個性的で多様で自然なものを評価 |
数学的に計算可能、再現可能 | そもそも数値化できない |
模倣的、伝統的、定形的、トラディショナルといった属性を持つ | 独創的、革新的、クリエイティブ、イノベーティブといった属性を持つ |
職人によって作られる(make) | 芸術家によって創られる(create) |
よく「美とは観る者の目に宿る」と言われるし、均整の取れた肉体を美しいと感じる。どちらが「美」かを選ぶことは難しい。
強いて言うならば「B」だろうか。
絵画や音楽、文芸や舞踊などの芸術作品で、「これは美しい」と評価されるものは、独創的で唯一無二であることが重要な要素であるように思える。もちろんそこに、伝統的な「型」があるかもしれないが、それを踏まえたうえであえて破ったものが「美」とされているのではないだろうか。
『近代美学入門』(井奥陽子、ちくま新書)によると、AとB、どちらも正解になる。
「美しい」とは何か?この疑問について、「芸術」「美」「崇高」「ピクチャレスク」という概念からアプローチしたのが本書だ。
これらの概念がいつ・どのように成立し、時代の中でどうやって変遷していったかをたどることで、わたしが抱えていた「常識」が常識ではないことに気づかせてくれる、優れた解説書であり啓蒙書でもある。この本に出会えたのはシノハラさんやまつながさんのおかげ。ありがとうございます!)
美は客観的に測定できる
古代ギリシャ・ローマまで遡ると、美を数学的にとらえていたという。
例えば、万物を数でできているとしたピタゴラスは、複数の音が美しく調和するのは数学的に示せるとした。黄金比や白銀比など、美しさとは均整や調和のとれた状態であり、美は幾何学的に解き明かすことができるとされた。
この考え方をプロポーション理論と呼び、初期近代まで支配的だった考え方だという。神は宇宙を幾何学に従って創造したのであり、この世界は美しく秩序づけられたものだというのだ。
そこでは、見た目の美しさ(均整、均衡、シンメトリー)だけでなく、性能の良さも美しいとされていたという。古代ギリシャ語の「カロカガティア」は「善い」と「美しい」を合成した言葉で、機能美や用の美を指している(英語ならbeautifulよりfineが近い)。
プロポーション理論は、ニュートンにも通じる。万有引力の法則に代表されるように、宇宙や自然現象は神によって形作られているのだから、それを解明することが神の意思に従うことになる。世界には美が潜んでおり、それを解き明かすのが数学になる。美は計算可能なのだ。
美は観る者の目に「も」宿る
この流れのターニングポイントは科学革命になる。
科学革命に伴う実証主義や経験主義の台頭で、それまでの自然観が根本から見直され、美への意識も影響を受けることになる。
世界について知ることができるのは、わたしたちの感覚を通じてのみとなる。従って、美はそれを備えている対象のうちにあるだけでなく、それを感じ取る主観のうちにもあるとする考え方が広まっていく……といった知的変化だ。
本書では、様々な哲学者や作家を挙げて説明するが、例えば、カントの「美の自律性」が面白い。
古代ギリシャ語の「カロカガティア」(善美)は、「〇〇だから美しい」ということが前提となる。「機能的に役に立つから」「シンメトリーだから」「巧みに作られているから」といった前提があり、だから美しいのだというロジックだ。
しかし、カントはこうした前提から美を解放したという。美は概念や目的に基づかない。「〇〇だから」というのではなく、ただ美しいというものがあることを示す。例えば壊れた懐中時計は時計としての用を成さないものの、それでも美しいと感じることはある。
カントの「自律」とは、外部の権威や伝統から外れて、自分の理性に従うことになる。これを用いるならば、誰が何と言おうとも主観的に美を感じとることは可能だ。
「常識」を手に取る
美は客観的な側面をもつだけでなく、主観的に感じ取れるものにも存在する。美とは、客観主義と主観主義と、双方から説明することができるのだ。
重要なのは、どちらが正解かというより、そうした考え方があることに気づくことだという。
わたしたちが「美しい」と感じるその感覚には、知らず知らずのうちに近代美学の考え方が刷り込まれている。それがダメだというのではなく、意識的に顧みる必要があるというのだ。さもなくば、ヨーロッパ近代の価値観こそが常識であり、このバックグラウンドから外れたものを「間違っている」とか「野蛮」だと考えてしまう恐れがある。
自分たちが無意識のうちに内面化しているものを、ヨーロッパの美術史を解説しながら、あらためて取り出してみせてくれる。
バッハもダ・ヴィンチも、自己表現やオリジナリティを作品で目指したわけではないという。そのため、現代の「芸術作品とは作り手のオリジナルな自己表現を形にしたものだ」という価値観で見てしまうと、バッハやダ・ヴィンチを歪めて見てしまうことになる。
わたしたちが自明の理であるかのように扱っている美や芸術についての考え方は、たかが200~300年前のヨーロッパという一地域で生まれた考え方に過ぎない。自分が囚われている「常識」に自覚的であれと説く。
この主張は、権威に寄り添うことで自分を絶対視したがる人には、かなり耳の痛い話になるだろう。一方、本書を通じて自分の「常識」を手に取って眺めることができるなら、より自由な視点を選ぶことができるだろう。
例えば「〇〇は芸術だ/芸術でない」論争があるが、「それを判断するのは自分にある」と思い込んでいる時点で、美の主観主義に陥っていることが分かる。そこから一歩離れると、より豊かに議論を深掘りできる。
ラーメンは芸術か?
「ラーメンは芸術か?」「おいしいは客観か主観か」といったテーマで、『「美味しい」とは何か』(源河亨、中公新書)をダシにして、「おいしい」について掘り下げたことがある。
「おいしい」というあの感覚はもちろん主観的なものだが、それを作り上げるバックグランドは食文化や食体験によるものだ。だから「蓼食う虫も好き好き」と言えるのか、あるいは、文化的相対性で片が付くのか、一概には言えぬ。
あるいは、ヒトの生理学上の観点から、「人類標準のおいしさ」はあるのかという議論もできる。仮に、標準的なおいしさというものがあるとして、そこからのバリエーションが歴史的にできあがってきたのか、あるいは、それぞれの地域や社会における「おいしい」条件のANDを取ると、おいしいの普遍性が見出せるのか。
この辺りのお話は、美味しいを哲学すると、もっとおいしい『「美味しい」とは何か』に書いた。「おいしい」を美学として捉えると面白い。
『美の歴史』と『醜の歴史』
「美や芸術についての考え方は、たかが200~300年前のヨーロッパという一地域で生まれた考え方に過ぎない」という指摘から、ウンベルト・エーコの2冊を思い出す。
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どちらも博覧強記のエーコ御大が、古代ギリシア・ローマ時代から現代まで、絵画・彫刻・音楽・文学・哲学・数学・天文学・神学、そして現代ポップアートにいたるあらゆる知的遺産を渉猟し、豊富な図版を元に縦横無尽に語り尽くした画集とも哲学的考察とも言えるものだ。
2冊とも何度も読んでいるのだが、面白いことに、何度読んでも面白いのは、ぶっちぎりで『醜の歴史』になる。
『美の歴史』は、西洋人にとっての美学書になる。いわば西洋人の美にまつわる観念の変遷であるため、「そういうもの」として受け取るならば美しい。だがそれは、わたしが美と感じる一部に過ぎないように見える。
一方、『醜の歴史』は、美と対立する概念のように扱われていない。もっと本質的な知見から出発する。
エーコは、「醜い」の類義語を引いてきて、そこに表わされる不安や不快の反応を指摘する。たとえ激しい反感や憎悪、恐怖にまで至らないにしても、不安の反応を引き出す要素があれば、それを「醜」だと定義づける。
さらに、排泄物や腐敗した死体といった、それ自体で「本質的な醜」を孕むものと、全体の中の諸要素の有機的関係の不均衡に由来する(つまり、比例と調和の不一致からくる)醜さを指摘する。
後者は「形式的な醜」で、いわゆる文化と歴史に基づいたものになる。美と対になるのはこちらで、アリストテレスのいう「醜いものも、美しく模倣することができる」がこれだろう。そして、美のように時代とともに変遷してゆく。
読み返すたびに、「醜」の例の中に美しさを見出したり、一方で、「美」とされる作品におぞましさを発見することがある。わたしたちが醜いと感じる中には、美のように時代とともに変わる部分と、死のように変わらないものがある(『醜の歴史』はスゴ本に書いたので、気になる方はどうぞ)。
「美とは何か」を多面的に考える
「なぜ美しいと感じるのか」という問いを、美学だけで片づけてしまったらもったいない。『近代美学入門』はあくまで、ヨーロッパの特定の地域で「美」とされるものを扱っている。
おかげで議論の焦点が明確になっているのだが、欲張りなわたしは、学問の範囲を限定せずに「なぜ美しいと感じるのか」を考えると、様々なアプローチが見つかる。
進化心理学から見た「〇〇を美しいと感じる」アプローチだ。
生殖能力が高い個体を伴侶に選ぶことで、自分の遺伝子を次世代に伝える可能性が高くなる。その結果、生殖能力が高い特徴を「美しい」と感じるようになったという考え方だ。
例えば、瞳のリンバルリングや青味がかった白目は、その個体が若いことの生物学的特徴になる。引き締まった大きな身体は外敵から守ってくれるだろう。ヴィレンドルフのヴィーナス像に代表されるように、ふくよかな腰つきや母乳が沢山でる大きな乳房は、神格化されるほどの「美」を有していた(このアプローチは、[美は進化の産物か] と [美しさのサイエンス] に詳述した)。
あるいは、歴史学、経済学からの「美」へのアプローチだ。
もちろん『近代美学入門』にも西洋史は登場するが、あくまでも美学を支える思想史が中心とされる。人々が何に価値を置くかについては、社会システムの変化も大きいと考えられる。
哲学書が社会を変えたというより、社会の変化がその哲学書を受け入れる下地を作ったという発想だ。社会の変化は、貴族から大衆への芸術の民主化や、植民地化による「ヨーロッパ」の領域の拡大、列車による高速移動が「直線」の概念を一般化したなど、美学以外の歴史や、政治経済の観点から紐解くとヒントが沢山見つかりそうだ。
または、時間軸ではなく空間軸からの視点だ。「ヨーロッパの美術の歴史」を時間軸から見て相対化させたのが本書だ。だが、せっかく隣にあるイスラーム美術があるのだから、イスラームとヨーロッパの美術を比較することで、さらに相対化できるはずだろう。
例えば、絵画ではなく建築の話ですが、『世界建築史15講』で紹介した書籍に、ヨーロッパ(キリスト教建築)とイスラーム、ヒンドゥー建築が紹介されているので、これらを並べて「美をされるもの」に焦点を当てると、さらに面白いかもしれぬ。
『近代美学入門』は、巻末のお薦め文献も充実している。『美味しいとは何か』『美の歴史』『醜の歴史』も、ここで紹介されたものになる。佐々木健一『美学への招待』、津上英輔『危険な「美学」』が気になるので、手を出してみよう。

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