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過去は現在に作り変えられる―――嵐が丘、T.S.エリオットから、ガラスの仮面、童夢まで―――鴻巣友季子さん「円環する古典文学」講演会まとめ

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鴻巣友季子さんとEve Zimmermanさんの講演&座談会を見てきた。

お二人とも日英両語に精通し、多岐にわたる翻訳書を上梓されている研究者だ。古典が新たな訳を得て、「新刊書」として世に出るときに「ねじれ」が生じる現象や、原作←→新訳が互いに及ぼす影響について、お二人が濃密に語り合う90分間だった。

現在が過去に及ぼす影響

最も興味深かったのは、文学における現在が過去に及ぼす影響の件だ。

「ん?逆じゃね?過去から現在への影響でしょ?」

わたしも同じことを感じた。過去は既に確定したもので、時は過去から現在に流れるものだ。従って「過去→現在」への影響はありこそすれ、「現在→過去」は無いだろうと思った。

ところが鴻巣さんは、「翻訳」と「翻案」を手がかりに、「現在→過去」への影響を指摘する。

ある古典文学の新訳が出るとき、原作との時空的な隔たりがあると同時に、二重性を持つ。「古典」であると同時に「新作」でもある。訳しなおされた古典は、新刊本として書店に並ぶのだ

現在という立場から見ると、何度も訳しなおされている作品は、旧訳よりも新訳のほうが目にする機会が多い。ブロンテ『嵐が丘』は何度も翻訳が重ねられており、その度に原作の語り直しが行われるという(鴻巣さんの翻訳は新潮文庫で読める)。

さらに、何度も翻訳されるような古典作品は、小説のみならず、舞台や映画、コミックのように形を変えたり、設定やキャラを変えて他の物語に翻案されたりする。有名な作品であるほど原作よりも翻案された方に触れる機会が多く、結果として翻案を真作と誤認することがあるという。

例えば、『嵐が丘』を読んだとき「まるで少女マンガみたい」という若者が多いそうだ。鴻巣さんに言わせると逆で、日本の少女マンガが西洋文学のラブロマンスの影響を色濃く受けた結果になる。個性的なキャラのドラマチックな恋物語は、小説の形で輸入され、日本の作品に翻案されたのだが、私たちが触れる物語は、「翻案されたほう」になる。

また、『嵐が丘』の印象的なシーンを学生に尋ねたところ、「キャサリーン!」「ヒースクリフー!」と互いに呼び合う場面を挙げてきたという。ところが、そんなシーンは原作のどこにもない。実はこれ、『ガラスの仮面』に出てくるエピソードなのだ。劇中作の『嵐が丘』の舞台のシーンを、原作だと誤って記憶した結果になる。

翻案がヒースクリフ像を書き換えてしまう例も面白い。原作では情熱的で冷酷な性格だったヒースクリフが、舞台を日本にして翻案された水村美苗『本格小説』では、献身的で打算のない東太郎に置き換わっている。Zimmermanさんによると、『本格小説』を読んでから『嵐が丘』を再読すると、ヒースクリフの性格が違って見えたという。

先取りの剽窃(Plagiarism anticipation)

現代に生まれる作品が、翻案元となった原作の読みに影響を与える。

鴻巣さんは、現代が過去に与える影響について、T.S.エリオットのエッセイ “Tradition and the Individual Talent“ を紹介する。

The existing monuments form an ideal order among themselves, which is modified by the introduction of the new (the really new) work of art among them. … and so the relations, proportions, values of each work of art toward the whole are readjusted; and this is conformity between the old and the new. Whoever has approved this idea of order… will not find it preposterous that the past should be altered by the present as much as the present is directed by the past. 
(Tradition and the Individual Talent,T.S.Eliot)

現在のなかで名作や巨人たち(monuments)が理想的な並び(order)をしているとする。そこに新しい(まさに最新の)作品が入ってくると、その並びが少し変わることになる。<中略>全体に対する各作品の位置関係、比率、価値が再調整される。つまり、古いものと新しいものの間に協調がなされるのだ。この並びの考え方<中略>考え方を認めるのであれば、現在が過去に位置付けられるのと同じように、過去は現在に作り変えられると言っても、あながち突飛には思われないだろう。
(鴻巣試訳)

その顕著な例として、「傑作は環境になる」という。

鴻巣さんは、「童夢のズン」を例に挙げる。「童夢のズン」と言ってもピンと来ない人がいるので、以下に引用する。これだ。

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『童夢』(大友克洋、1983)より

私の記憶する限り、初めての「ズン」である。これ単行本(ちょっとデカいやつ)で目にした時、眩暈がするほど衝撃を受けた。童夢のズンは、この後の作品『AKIRA』でも登場し、様々な作品に応用されている(最近だったら今日観た『呪術廻戦』にも出てた)。

鴻巣さん曰く、若い人に『童夢』を勧めても、「これよく知ってるやつ」「見た見た、これ✕✕そっくり」と反応はイマイチだという(本当は逆なのに!)。「童夢のズン」は凄すぎるあまり人口に膾炙しすぎて、いまどきのマンガでは「よくあるシーン」になってしまう。凄すぎる傑作は、最終的に「環境」になるのだ。

これはよく耳にする。スターウォーズ、ジョジョ、シェイクスピア、北斗の拳など、傑作に触れた若者は、既に履修済みのセリフや演出をそこに見出し、強い既視感を抱く。

翻案された『ガラスの仮面』の方が、より『嵐が丘』らしく見える。『本格小説』が原作のキャラ像を上書きする。来年のアニメにも「童夢のズン」が描かれる―――このように、翻案された後世の作品の方が、より原作らしく見えることを、「先取りの剽窃(Plagiarism anticipation)」というそうな。

この用語は面白い。逐語訳で考えるなら、「plagiarism」すなわち盗作が成立するためには、盗まれる元となる「原作」が必要だ。だが、原作がまだ世に出ていないうちに先取りして剽窃する……というのが逐語訳になる。

さらにここから捻じれているのが面白い。

原作は既に世に出ていて、古典として何度も翻訳・翻案され、読み継がれてきた。私たちは、そうした原作を手に取るかもしれないが、その前に、翻訳・翻案され、影響を受けてきた幾多の作品を先に浴びる。

そうした目で、初めて古典に触れるなら、あたかも原作の方が剽窃であり、先取りしたのが現代の諸々の作品であるかのように解釈できる。過去が現在に影響を与え、現在が過去を作り変える円環構造となっているのだ。

鴻巣さんとZimmermanとの掛け合いが大変楽しく、大量に映し出されるスライドが面白く(かつ板書するヒマが無く)、聞くのにも書くのにも忙しい講演会だった。

原作の語り直しが原作になる『アルブキウス』

過去と現在の円環構造から思い出すのが、パスカル・キニャール『アルブキウス』だ。

N/A
古代ローマの物語作家アルブキウスの人生を描いた物語だ。残酷でエロティックな物語を紡ぎ出す作家と、彼の数奇な人生とが、互いに必要としていることを炙り出す傑作だ。

書き手であり語り手であるキニャールは、作品の中で自分の存在を隠そうとしない。小さいプロットを並べ、それを書いたアルブキウス自身の現実との葛藤を掲げてみせる。キニャールがあちこち顔を出し、ときに生々しく、ときに悪趣味に、即興も挟みながら騙りかけることで、二千年前の作家が傍らにいるように描き出す。

同時に、同一のプロットが様々なバージョンを保っていることを知る。

古代ローマではプロットは共有され、さまざまな語り手がいたという。同じ筋立てから、いかに魅力的なストーリーに仕立てられるか、説得性ある修辞技法を駆使できるか、作家どうしが競い合っていた。

つまり「原作者」という存在がただ一人いるわけではなく、共有された原作をいかに上手く語れる/騙れるかによって、作家が成り立っていたのだ。

例えば「ホメロス」とか「シェイクスピア」というのは人名というより一種のブランドで、実在する人物がいたかもしれないが、その一人がすべてを担っていたわけではないのでは……と思えてくる。

その名前は、おもしろい物語を約束する、いわば、品質を保証するレーベルのようなものだ。面白い物語になれば、それを取り込むことで「原作」がアップデートされる。原作が原作を生み、より面白く、より「今」に合わせるために意図的に語りなおされる円環構造だ。先取りの剽窃が日常的になされていたのではないかと想像する。

鴻巣さんが指摘する「円環する古典文学」と呼応する一冊として、お薦めしたい。ホントは質問タイムにお伝えしたかったが、お二人のお話に熱が入りすぎて、質疑応答の時間はほとんど無かったのが残念なり。とはいえ、こんな素晴らしい講演会を開催していただき、感謝しかない。ありがとうございました。

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コメント

おもしろい。
「先取りの剽窃」のことをわたしは、印象の混濁とか、印象の汚れみたいに考えていて、記憶とからめて考えていました。ケガレみたいな感じで捉えていました。なるほどね~。「先取りの剽窃」。

投稿: 美崎薫 | 2023.12.17 17:53

>>美崎薫さん

ありがとうございます。先に出会ってしまった作品の影響に印象が左右されるのだから、「印象のケガレ」みたいな感じでもありですね。

投稿: Dain | 2023.12.17 18:15

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