なぜ、あの人は、あやまちを認めないのか?
「謝ったら死ぬ病」をご存知だろうか?
どんなに証拠を突き付けても、絶対に非を認めない人だ。
プライドの高さや負けず嫌いといった性格的なものよりもむしろ、過ちを認めることが、自分の命にかかわるものだと頑なに信じている。すなわち、「謝ったら死ぬ」という病(やまい)に取り憑かれている―――そんな人がいる。
もちろん、想像力が衰えて視野が狭く、無知な自分を認めたがらないような頑固者なら、可哀そうに思えども理解はできる。
だが、第一線で活躍する知識人や学者で、ものごとを客観視できるはずなのに、この病気に罹っている人がいる。それどころか、その優れた知性を用いてコジツケを考えだし、論理を捻じ曲げ、のらりくらりと言い逃れる。
ずばりこのタイトルの本書を読んだら、疑問が氷解した。
それと同時に、「謝ったら死ぬ病」は私も罹患していることが分かった。「あの人」ほどは酷くないと言い聞かせているだけで、五十歩百歩であることも分かった。
本書は、ハーバード大学のエリオット・アロンソンと、ミシガン大学のキャロル・タヴリスの2人の心理学者の共著になる。豊富な実例を紹介しながら、この病の原因である「自己正当化」と「認知不協和」を解説し、私たちの自我と切っても切れないものであることを明らかにする。
「謝ったら死ぬ病」の患者はウソツキなのか?
あやまちを絶対に認めない「あの人」が考えていることは、ジョージ・オーウェルが喝破している。
「人間というものは正しくないとわかっている事柄でも信じることができ、やがてその間違いが露見すると、厚かましくも事実のほうをねじ曲げて自分を正しく見せようとする。頭の中では、この作業を何万回でもくりかえせる」
ジョージ・オーウェル、1946
エッセイ「In Front of Your Nose(あなたの鼻先で)」より
“We are all capable of believing things which we know to be untrue, and then, when we are finally proved wrong, impudently twisting the facts so as to show that we were right.”
― George Orwell,1946
自己正当化のあまり事実を捻じ曲げて語るのだから、「謝ったら死ぬ病」の患者は、嘘吐きではないだろうか?
本書によると違うらしい。自己正当化は、嘘や言い逃れとは違うというのだ。
体面を保つためだったり、相手を傷つけないようにするため、あるいは自分の利益になるから、人は嘘をつく。平気で嘘をつく人もいるし、内心ヒヤヒヤする人もいるが、嘘をつく人は、真実が何であり、自分がそれに反したことを述べているのを知っている。
しかし、「謝ったら死ぬ病」の患者は、その「事実でないこと」を本心から信じている。何度もシミュレーションして、整合的に説明できるようにし、説明がつかないところは事実のほうを否定したり表現を変える。他人を欺くのは単なる嘘つきで、自分を欺き自分に嘘をつくのがこの人なのである。
例えば、ウォーターゲート事件におけるリチャード・ニクソン大統領。当初、盗聴に関与したことを強く否定したものの、後に秘密の録音テープが公開され、辞任を余儀なくされる。側近によると、ニクソンは「自分を説得する達人」だったという。自分に都合の良いことだけを取捨選択し、それを「事実」としていた。
大統領の席を追われ、長い時が流れた後も、反省のコメントをすることはあれど、自分がした判断や行動が正しかったという姿勢は崩さなかった。この人に過ちを認めさせるのは、自我を崩壊させるレベルのことなのかもしれない。
ゼンメルワイスのジレンマ
いやいや、嘘を生業とする政治家なのだから、自分の嘘を信じ込むのも得意技でしょう? エビデンスを重視する医師なら、そんなことはないはず―――そんなツッコミが聞こえる。
本書では、そうした客観的な証拠に基づいて判断するはずの医師が、まさにその逆のことをするエピソードを紹介する。
例えば、産婦人科医のゼンメルワイスの話。
彼が勤務していた病院では、妊婦の敗血症の死亡率が異常に高かったという。ゼンメルワイスは様々なデータを集め、検死をした後に手を洗わずに分娩処置をしていることが原因だと突き止める。
彼は教え子たちに消毒液で手を洗うように指示し、敗血症による死亡率を激減させた。これで手洗いが一般化するのかというと、しなかったのだ。
仲間の医師たちは、ゼンメルワイスが集めてきた動かぬ証拠を無視し、非常識とまで批判したという。提言を無視され、ゼンメルワイスは失意のうちに世を去ることになる。
なぜ周囲の医師たちはゼンメルワイスを無視し、批判したのか?
本書によると、答えは簡単だという。手を洗うことで細菌の拡大を抑え込める―――仮にこれが本当だったとして、仲間の医師たちは、「やあゼンメルワイス、君のおかげで死なせずに済んだ妊婦さんを無益に死なせていたことが分かったよ、ありがとう」などと感謝することは絶対にない。
過ちを認めることは、自分が愚かであることを認めることになり、自分の存在理由すら脅かすことになる。
自己正当化のメリット
自分の信念や信条とは相いれない事実が突き付けられたときに起きる、不愉快な緊張状態のことを、社会心理学者は「認知不協和」と呼ぶ。
ゼンメルワイスの周囲の医師たちは、さぞかしこの不快と緊張を感じていたことだろう。そして、この不協和を解消して自分を守るために、ゼンメルワイスを否定したのだ。
では、この自分を守る「自己正当化」こそが悪いのだろうか?
本書によると、自己正当化そのものは悪いことではないという。逆に、自己正当化のおかげで、私たちは夜ぐっすりと眠ることができる。ローンを組んで買った家、結婚した相手、進学や就職先について、いつまでも悶々と苦しみつづけ、後悔で自分を責め続けるだろう。選んだ決断を正しいと信じるために自己正当化にはメリットがある。
メリットだけではなく、自分がした判断を正しいと考え、周囲にそれを認めさせようと働きかけることは、一般的なことだろう。自分の正しさを周囲に認めさせることで、コミュニティ内で安定した地位を築き、多くの子孫を残せたであろうから。
だが、自分を守る物語を信じるあまり、事実から目を背け、強弁をくり返す人はいる。罪を暴かれた独裁者はおしなべて、自分がした虐殺行為や国庫の略奪を、「国を愛するが故にした、ああしなければ無政府状態になっていた」と正当化し、むしろ自らを犠牲にした愛国者だという。極端な自己正当化は、病気なのかもしれない。
それでも正当化が足りない場合、永遠の人気を誇るセリフ「向こうが始めた」を使いだす。本書ではヒトラーや十字軍の例が挙げられているが、今ではさらに追加されるだろう。むしろ、「向こうが始めた」と言い始めたということは、既に自己正当化の余地が僅かになっている証左と考えたほうがいいかもしれぬ。
本書の原題はちょっと気が利いている。
“MISTAKES WERE MADE (but not by me)”
過ちがあった(けど、私のせいでない)
普通なら、”I made mistakes.” (私が過ちを犯した)と言うべきところを、受動態にすることで責任の所在をぼかす。
それでも、まだ「過ちがあった」という事実を認めているのだから、マシなのかもしれない。訴訟リスクを避けるためなのか、謝るどころか、過ちがあったことすら否定する。「複雑な事態が起きた」「様々な要因により想定外の事象に陥った」という言い方をする。
ギリギリまで自己正当化した結果、ひとたび謝罪を口にしたならば、後は死ぬまで蹴られても致し方ないほど崖っぷちに追い詰められてしまったのかもしれない。あるいは「謝ったら有罪 、謝らない限り無罪」という極端な二択を選んで(選ばされて?)しまっているのかもしれない。
こじらせ過ぎた自己正当化の成れの果てが「謝ったら死ぬ病」になる。これは死ななきゃ治らない。筋金入りの「謝ったら死ぬ病」の患者を看取りつつ、自分の内なる認知不協和と向き合う一冊。
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コメント
悪いとわかったら死ぬまで叩かれる社会だから
謝ったら死ぬ病に掛かってる方が生存に有利
投稿: | 2023.11.19 10:51
謝らなくても悪いやつは死ぬまで叩く社会にしなきゃね
投稿: | 2023.11.19 12:57
このコメントは削除していただいてもかまいません。
キモい奴のキモい話なので、読む方は注意してください。
交際する意思や勇気がないのにモテようとする態度をとったことは、全面的に私の落ち度です。悪いことをしたと思っています。もともと私は気が多いほうだったとはいえ、引きこもりになる前はここまで頭のおかしい奴じゃなかったんですが。迷惑をかけた方には申し訳ないです。そのこともあって、こうして外出は控えています。と言って、モテたい気持ちは今もあるので、反省できているとは言えないのが心苦しいところなのですが。
モテたいというのは性欲ですが、私の場合、モテないというのは単にモテないというだけではなくて、人間扱いされない感じだったりするんです。前にも似たようなことを書きましたが、こいつとは絶対に仲良くしたくないと感じさせる、いじめられっ子のオーラが出てるからなんでしょう。小学生のときですが、クラスメートが流したうわさをきっかけに通っていた美容院で馬鹿にされるようになって、なんでいつも奥の席に案内されるかわかるかな、大人の女性も顔の良い子が好きなんだよ、と言われたり。まあ、あなたはここに通わないほうがいいよ、と別の人に教えられるまで、嫌われているのがわからなくて通ってましたけどね。20歳ごろに通っていた精神科のデイケアでは、まあ例によって異性として意識していたこちらが悪いんですが、初対面の相手に、私はあんたみたいに人生終わってない、とはっきり言われたり。どちらの例も態度が露骨というだけで、当たり前のことを言われただけなんですが。
また、モテたいだけではなくて、女性がこちらの容姿次第で手の平を返す様を見るのが楽しい、という気持ちもありました。復讐のためにモテたかったわけではない、というつもりですが。被害者ぶるわけではありませんが、私の横顔を見た女性の変わり身の早さを見るに、傷ついているのは私のほうで、復讐になっていないと思います。横顔のキモさに気づいた後、すごい勢いで逃げられたり、私が声をかけなかったのを「良かったー」と言われたりしましたからね。ただ、そうやってモテようとして失敗することが、どうせ見た目がすべてなんだろう、と異性の純情を否定するための証拠集めみたいにはなっていました。
投稿: 桂信也 | 2023.12.01 02:00