この本がスゴい!2023
「あとで読む」と思った本が、後で読まれた試しがない。
今度の週末・連休にと、積まれた本は崩されない。次の盆休み・年末年始に繰り越され、山脈を成し床が消える。
読書を食事になぞらえて、「血肉化」と表現するならば、私がやっていることは、メニューを眺めて片っ端から注文しているくせに、いんすた映えを気にしながら撮るくせに、まともに咀嚼して嚥下して消化してない状態だ。
そのくせ、「積読も読書のうち」と開き直ったり、溜まった本こそ私の証などと屁理屈こね回す。読まない本に「負債」のような後ろめたさを感じつつ、新刊本を探しだす。新しい本はそれだけで価値があると盲信し、かくして積読リストは延びてゆく。
もう一つ、恐ろしい予感がある。感受性の劣化だ。
あれほど楽しみに「取っておいた」本が、まるで面白くなくなっている。いや、その本の「面白さ」が何であるかは理解できる。だが、それを面白いと感じなくなっているのだ。若いころに楽しめたコンテンツが、色あせ、退屈になり、魔法が解けたかのように味気なくなる。
「最近の〇〇は劣化したなぁ」と嘯くほど落ちぶれてはいない。落ちぶれたのは、私の感受性だ。いくつかの積読山脈が、丸ごと失われてしまった。「あとで読む」が「あとで読まない」になった。
タソガレてんじゃねぇ、と背中をドヤしてくれるのが、ふろむださんの「感受性が衰えていく人と豊かになっていく人の違い」だ。
- 若いとき楽しんでたが、中年になったら楽しめなくなったもの
- 若いとき楽しめなかったけど、中年になったら楽しめるようになったもの
この二つを「感受性の生え変わり」で説明する。感受性は髪の毛のように、抜けたり生えたりする。加齢とともに種類が変わり、経験とともに感度が上がっているのだという。
であるならば、感受性の全滅とともに、積読が丸ごと死滅することだってありうる。「いつか読む」は「いつまでも読まない」に変化する。これは怖い。
そうなる前に、いま読もう。目の前の一冊を、まず開いて、一頁でも、一行でも読もう。感性の変化を感じるため、むかしの本を再読しよう。その上で、残るもの、残らないものを選別しよう。
この記事では、2022年12月~2023年11月に積山を崩してきた中で、「これは!」というスゴ本を選んだ。
誰かの呟きで出会えた一冊、何十年もかけて再読している一冊、「それが好きならこれはどう?」とお薦めされた一冊―――ありがとうございます、わたしが知らないスゴ本を読んでいる「あなた」のおかげ。
人は孤独だからこそ、誰かを愛することができる
『違国日記』ヤマシタトモコ
「異国」でなく「違国」なのは、人はそれぞれ、違う国に生きている存在だから。
自分のことすら分からないのに、人と人とが「分かり合う」なんてことはありえない。交わされる言葉を縁にして作り上げた幻影を相手に、分かったフリをしているだけ。だから自分に誠実に振舞おうとすると、不器用で残酷で歯に衣着せぬ言葉になる。
ふつうならオブラートに包んだり、感情をグッと飲み込んで自分という「役」を演じるのが、大人なのだろう。だが、槙生(まきお:左の女性)は誠実であろうとする。
そんな槙生が引き取ったのが、朝(あさ:右の女の子)だ。両親を亡くし、親戚をたらい回しにされそうになっているのを見かねて、勢いで同居する。
ただし問題があった。槙生は極度の人見知りで、社会と繋がるのがヘタクソだ。孤独を愛し、誰も愛さない(愛せない)生き方を選んできた。一方で朝は、天真爛漫な15歳の女の子。ぎくしゃくしながらも手探りで一緒に暮らしていく。
違国日記 page1.より
『違国日記』は、この二人の生活を軸に、関連する人たちの群像劇を通じ、さまざまな価値観や生き様が語られる。母娘、姉妹、恋人、友人―――人間関係に「正解」は無いけれど、どんな関係を模索しているのか、こっそり垣間見るような気持ちになる。
人を理解しようとするのは傲慢だと思いながらも、言葉を選び、寄り添おうとする槙生は、過去にどれだけ傷つけられてきたのだろうと考えさせられる。両親を喪ったショックが、朝の未来にどんな影響を及ぼすのだろうと思うと、ヒリヒリさせられる―――最初は、そんなことを気にしながら読んでいたのだが、それぞれをきちんと描いてくれる。
そればかりか、そうした過去や未来を乗り越えて、互いに思いやり、かけがえのない存在になっていく絆が愛おしい。
「親戚をたらい回しにされそうな子を引き取る」というと、『うさぎドロップ』や『せんせいのお人形 』が思い浮かぶ。どちらも、見るに見かねて勢いで引き取ってしまうことから始まる共同生活の物語だ。軋轢や葛藤の末に、共に生きていくことを選択するのは一緒だが、そこで描かれる愛は、ラブストーリーの愛に収れんされてゆく。
翻って『違国日記』では、相手の幸せを望みつつ、そこに自分がいない可能性のある愛が描かれる。幸せ「になる」ために何かをしたり一緒にいる、というよりも、幸せ「である」ために傍にいるという感覚だ。
セリフの使い方が巧みで、表情やアングルから心の機微が読み取れ、時折、胸の底まで刺し込んでくる言葉が鋭い(それこそ魂を絞り出すように語られるセリフもある)。読み終えるのが惜しく、最初に戻って何度も読み直させ、その度に胸を一杯にさせる傑作。
この作品に会えてよかった。もし未読の方がいたら幸せもの、ぜひ読んで欲しい。
しなくてもいい失敗を回避する
『プロジェクトマネジメントの基本が全部わかる本』橋本将功
よく「失敗から学ぶほうがより身につく」などと唱える輩がいるが、悪手なり。何度も心がヘシ折られるから、心がいくつあっても足りないぞ。しなくていい失敗は避けたほうがいいに決まってる。そして、この「しなくていい失敗」のほとんどは、基本を押さえるだけで回避できる。
この、PMの基本を押さえているのが『プロジェクトマネジメントの基本が全部わかる本』である。PMの「あたりまえ」が丁寧&具体的に説明されている。経験者が読めば、「なぜこんな当然のことを書くのだろう?」と疑問に思うかもしれない。だが、その「あたりまえ」をやらなかったために、数々の失敗があったのだ。
例えば本書では「要求と要件を分けよ」と説く。
発注者が言ってくることは、いったん「要求」として受け止める。そして、検討を進めることで「要件」に落としていく。具体的には、Excelなどで「要求」と「要件」のカラムを分けて、関係者に共有しながら検討を進めると、自然と切り分けが明確になっていく。
サイトをリニューアルするプロジェクトを想定してみよう。「パソコンやスマホでもスムースに見られるようにしたい」という要求は、要件として「レスポンシブデザインにする」となる。ポイントは、要求は「〇〇したい」という表現にして、要件は「〇〇する」という書き方にする(←いちいち書き分けること)。
重要なのは、発注者の言い分を、いったん「要求」として受け止める点にある。「要求」を持ち帰り、「この要求を要件に落とし込むのであれば……」という観点からプロジェクトメンバーと検討する。発注者は言い分を受け止めてもらったという印象を持つだろうし、メンバーは「要求は必ずしも要件ならず」と冷静に分析できる。
発注者の要求は、要件を決めるためのインプットであり、要件そのものではない。あたりまえのことなのに、両者をごっちゃにしている人は、結構いるように見える。
他にも、思いつきレベルで機能追加が要求されたり、合意したはずの納期が短縮できないか圧力をかけてきたときどうするか、あるいは、「請負契約しか通せない」と言い出したとき、後々のリスクを回避するために契約書に盛り込むべきポイントなど、転ばぬ先の杖となる一冊。
本書をはじめ、プロジェクトを炎上させない技術を習得する4冊を紹介したのが [この記事] になる。初心者からベテランまでお薦めしたい。
書評全文:しなくていい失敗を回避する『プロジェクトマネジメントの基本が全部わかる本』
やさしい言葉で心に居座る
『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである』枡野浩一
さらっと読めて、じわりと染み入り、刺さってくる句集。
どこから始めてもいいし、途中で投げ出してもいい。本の重みやページをめくる感覚を愉しむのも含めて、読書という経験を味わえる。
手に取った感じのちょうどいい重さと、ぱらりとめくる触りごこちの紙が、所有欲をくすぐってくる。手に取った感触や、開いてたわんだ弾力をも考え抜いてデザインしている。
ことばの使い方がすごく巧みで、するりと読めてしまう。一頁のまんなかに一首だけ記されており、ほとんど「見る」に近い感覚で読めてしまう。
それでいて、見たものが腹に落ちるとき、ずしりときたり、ギクリとさせられる。まるで匂いのように、体内に一瞬で入ってくるものが止められないまま、胸の中に居座りだす。
例えばこれ。
「人間は忘れることができるから気も狂わずに、ほら生きている」
これは目にした瞬間から私の中に刺さり続け、ボルヘスの言葉を思い出させた。ボルヘスは言った。過去は思い出すたびに、記憶の貧しさや豊かさのおかげで、望みどおりに、どこかしら修正される。
人には忘れるという才能がある。思い出さない努力を重ねることによって、嫌なことを矮小化し、好きなことを拡大する。出来事としての過去は変わらないかもしれないが、過去をどう解釈するかは自由だ。
あるいはこれ。
「殺したいやつがいるのでしばらくは目標のある人生である」
人生には目標が必要だ。たとえそれがどんな目標だったとしても。殺したいやつを、どのように殺すか。バレてもいいのか、バレないようにするか。できるだけ苦しめるか、サクっと瞬殺するか。返り討ちに合わないよう道具や場所を吟味して、決行タイミングから逆算して準備をする―――これら脳内でシミュレートするだけで、生き生きとしていた時期があったことを思い出す。
平易な言葉で入ってくるので止められない。記憶をつつき、思い出を掘り返し、突き付けられるような読書になる。誰にも言えない感情を、言い当てられるような読書になる。
この本は、ぜひ触ってみてほしい。
読書の初心者も、そうでない人も、いま触っている本に、自分の心が触られているような感覚を味わってほしい。
書評全文:毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである
キュン死☆確実☆ラブコメディ
『微熱空間』蒼樹うめ
親の再婚で同い年の姉弟になってしまった2人の話。お互いに姉弟が出来ると聞いて期待していたけれど、思ってたのと違ってた―――から始まるキュン死確実のラブコメディ『微熱空間』。
もうね、作者が読者を仕留めにかかっているのよ。
思春期まっさかりの多感な高校生の男女が、一つ屋根の下で、姉弟として振舞わなければならないなんてシチュエーションは、手垢にまみれまくっている王道展開とはいえ、蒼樹うめ先生がやると、じっくりコトコト煮込まれた、味わい深いものになる。
同い年とはいえ、3日だけ年上なのだから、お姉ちゃんぶりたい亜麻音ちゃんの仕草が可愛いのなんの。一方で家族として接しようとも異性として意識してしまう微妙な距離感に悶々としつつ、それでも誠実に尽くそうとする直耶くんがピュアすぎる。「じれってーな!ちょっとヤらしい雰囲気にしてきます」などと何度つぶやいたことやら。
微熱空間 第1話より
もうね、エロマンガだと最初の1頁目で片づけられるネタを、これだけ濃密にエゲツないほど丁寧に描かれると、読んでるこっちも応援したくなるわけですよ。意識する/しないに関係なく、やっぱり惹かれ合ってしまうのが人間だもの。
それでも、王道設定をベタな展開にさせないのは、テーマが「家族」であるから。
再婚する親は良いよ、互いに好き合って一緒になろうとしているのだから。けれど、連れ子である二人は、意識して家族をやらなければならない。仲良くあろうとすることと、尊重しあおうとすることを、異性として見ずにしなきゃいけないなんて、かなり難しい。
連載している媒体が媒体なだけに、一線を越えるだろうが、軽々とではなく、乗り越えるべき課題としてそそり立っているように見える。二人は互いに思いやりつつ、誠実に乗り越えるだろうが、私の心臓は保たないだろう。
経済は重要だが、経済学が問題だ
『経済学のどこが問題なのか』ロバート・スキデルスキー
経済学が、うさんくさい。
ネットで見かける経済学者の態度が偉そうだとか、オレサマ経済理論を振りかざす連中の断定口調が気に入らないとか、そういうのをさっ引いても、経済学そのものに不信感がある。何か騙されているような感覚がつきまとう。
経済学はどこまで信用できるのか?
『経済学のどこが問題なのか』では、自然科学との関係性や、行動経済学の功罪も含め、経済学そのものが抱える問題について深掘りする。経済学を過信するのは経済学者に任せておいて、経済学者「以外」のわたしたちが、どこまで信用すればよいかを考える。
例えば、経済学者が説明するグラフやモデルだ。
数式やパラメーターが出てくるので、自然科学の体(てい)を成しているように見える。パラメーターを変えれば、それに応じて数式の値が変わるはず……なのだが、そうとは限らない。特定の期間や状況にのみ成り立つだけで、条件が合わないと全く違う結果になる。
需要供給曲線で考えるならば、価格と数量の関係性を説明するための非常によくできたモデルといえる。だが、非常に単純化されたモデルであるため、「市場が完全であれば」「政府が介入しなければ」「個人が合理的な選択をすれば」「全員が同じ情報を持っている」「取引にかかるコストがゼロである」といった様々なエクスキューズがついてくる。
では、経済学を深く学べば、もっと実態に即したモデルになるのかというと、そうでもない。パラメーターが増えて複雑になっているだけで、別の状況になると役に立たなくなることがある。
にもかかわらず、数式やパラメーターが出てくる故、自然科学のように実証的で再現性のあるように「見えて」しまう。あくまで説明のためのモデルであるという但し書きで学ぶなら有益だが、それ以上の普遍性があるというのは言い過ぎだろう。
本書が攻撃するのは、まさにここで「新古典派」「主流派」と呼ばれている連中をヤリ玉に挙げている。
連中は、モデル、方程式、回帰分析、統計を駆使し、「厳密な」予測ができると主張する。自らが物理学に似ているとし、力学の法則と同じように、人間行動も「合理的な」判断に基づいて決定されるとした。原子のふるまいに基づき自然現象を説明するように、個人のふるまいに基づき経済現象を説明できると考えたという。
だが、あたりまえのことなのだが、現実はモデル通りにならず、様々な「理論」がよどみに浮かぶうたかたのように、かつ消えかつ現れ、留まるためしがなかった。
では、どうすればよいか?
2008年の金融崩壊を予測できないどころか、その可能性すら指摘できなかった新古典派のモデルは捨てるのか?「このモデルは正しい」という前提を守り続けるのであれば、また同じ過ちをすることになる。
ブラックマンデー、S&L、ブラックスワン、アジア通貨危機……同じ失敗に、違う名前を付け替えて、「同じじゃない!」と言い逃れる愚を繰り返すのか?
失敗の根幹にある「正しいモデルが導き出せる」という前提こそ、捨てるべきではないか?(本書のキモはここ)。現実と大きく異なる結果が実証されたのであれば、そのモデルは使いものにならない。数式の手直しやパラメーターを弄ぶレベルではなく、まとめてゴミ箱に捨てるべきだろう。
だが、それは現実的ではない。イデオロギーと密接に融合し、様々な政策の妥当性に御墨付きを与え、政府民間のあらゆる層の基本的な考え方となっているものを、まとめて捨てるわけにはゆかぬ。
また、経済学のモデルを「正しい」と信じているおかげで世界経済は回っていると言える(恐ろしいことに、皆が同じフィクションを信じているからこそ成り立っている世界なのだ)。私が知らないだけで、経済学者の導きによって、破綻を免れた危機も多々あるに違いない。重要なのは経済であって、経済学ではないのだ。
本書の提案をまとめると、「物理学のフリを止めろ」になる。普遍的な「経済の法則」なんてものは存在しないんだということから始めようというのだ。
いつでもどこでも通用するモデルなんてものは無く、かりに現象を説明できたとしても、特定の領域でごく短期間に限定的に成立するものになる。パラメーターが変化したら当てはまらなくなることを認めれば、数学を過大に評価するのを止めるだろう。
経済学の命題のほとんどは反証も検証もできない。であるなら、経済理論とは科学の権威をまとった意見にすぎない。ここをスタートする。
そして、事前条件の厳密性を小さくするとともに、演繹をもっと緩やかにすることで、より帰納的なアプローチを取るべきだという。学術分野でいうならば、社会学や歴史学、政治学に近づいてゆくイメージ。
経済は重要だが、経済学こそが問題なのだ。
書評全文:経済学はどこまで信用できるのか
謝ったら死ぬ病は本当にある
『なぜ、あの人は、あやまちを認めないのか?』エリオット・アロンソン
「謝ったら死ぬ病」をご存知だろうか?
どんなに証拠を突き付けても、絶対に非を認めない人だ。
プライドの高さや負けず嫌いといった性格的なものよりもむしろ、過ちを認めることが、自分の命にかかわるものだと頑なに信じている。すなわち、「謝ったら死ぬ」という病(やまい)に取り憑かれている―――そんな人がいる。
もちろん、想像力が衰えて視野が狭く、無知な自分を認めたがらないような頑固者なら、可哀そうに思えども理解はできる。
だが、第一線で活躍する知識人や学者で、ものごとを客観視できるはずなのに、この病気に罹っている人がいる。それどころか、その優れた知性を用いてコジツケを考えだし、論理を捻じ曲げ、のらりくらりと言い逃れる。
『なぜ、あの人は、あやまちを認めないのか?』―――ずばりこのタイトルの本書を読んだら、疑問が氷解した。
まず、「謝ったら死ぬ病」の患者は、自己正当化を極限まで突き詰めた人である。突き詰めるあまり、事実を捻じ曲げて理解し、語りさえする。
では、そういう人は、いわゆる嘘吐きではないだろうか?
本書によると違うらしい。自己正当化は、嘘や言い逃れとは違うというのだ。
体面を保つためだったり、相手を傷つけないようにするため、あるいは自分の利益になるから、人は嘘をつく。平気で嘘をつく人もいるし、内心ヒヤヒヤする人もいるが、嘘をつく人は、真実が何であり、自分がそれに反したことを述べているのを知っている。
しかし、「謝ったら死ぬ病」の患者は、その「事実でないこと」を本心から信じている。何度もシミュレーションして、整合的に説明できるようにし、説明がつかないところは事実のほうを否定したり表現を変える。他人を欺くのは単なる嘘つきで、自分を欺き自分に嘘をつくのがこの人なのである。
例えば、ウォーターゲート事件におけるリチャード・ニクソン大統領。当初、盗聴に関与したことを強く否定したものの、後に秘密の録音テープが公開され、辞任を余儀なくされる。側近によると、ニクソンは「自分を説得する達人」だったという。自分に都合の良いことだけを取捨選択し、それを「事実」としていた。
大統領の席を追われ、長い時が流れた後も、反省のコメントをすることはあれど、自分がした判断や行動が正しかったという姿勢は崩さなかった。この人に過ちを認めさせるのは、自我を崩壊させるレベルのことなのかもしれない。
では、この自分を守る「自己正当化」こそが悪いのだろうか?
本書によると、自己正当化そのものは悪いことではないという。逆に、自己正当化のおかげで、私たちは夜ぐっすりと眠ることができる。ローンを組んで買った家、結婚した相手、進学や就職先について、いつまでも悶々と苦しみつづけ、後悔で自分を責め続けるだろう。選んだ決断を正しいと信じるために自己正当化にはメリットがある。
メリットだけではなく、自分がした判断を正しいと考え、周囲にそれを認めさせようと働きかけることは、一般的なことだろう。自分の正しさを周囲に認めさせることで、コミュニティ内で安定した地位を築き、多くの子孫を残せたであろうから。
だが、自分を守る物語を信じるあまり、事実から目を背け、強弁をくり返す人はいる。罪を暴かれた独裁者はおしなべて、自分がした虐殺行為や国庫の略奪を、「国を愛するが故にした、ああしなければ無政府状態になっていた」と正当化し、むしろ自らを犠牲にした愛国者だという。極端な自己正当化は、病気なのかもしれない。
こじらせ過ぎた自己正当化の成れの果てが「謝ったら死ぬ病」になる。これは死ななきゃ治らない。筋金入りの「謝ったら死ぬ病」の患者を看取りつつ、自分の内なる認知不協和と向き合う一冊。
書評全文:なぜ、あの人は、あやまちを認めないのか?
千夜一夜物語レベルの面白さ
『サラゴサ手稿』ヤン・ポトツキ
この世でいちばん面白い物語は、『千夜一夜物語』だ。面白さのエッセンスを煮詰め、淫乱で低俗な世界に咲いた気高く美しい枠物語だ。
この世でいちばん面白いファンタジーは、『氷と炎の歌』だ。エロとグロと波乱と万丈と冒険と怪奇の群像劇だ。
この世でいちばん面白い小説は、『モンテ・クリスト伯』だ。究極のメロドラマであり、運命と復讐の逆転劇だ。
そして、『サラゴサ手稿』は、千夜一夜物語のレベルの面白さのエッセンスを煮詰めた枠物語であり、氷と炎の歌を彷彿とさせるエログロ波乱万丈の群像劇であり、モンテ・クリスト伯に匹敵するの究極のメロドラマである。惜しむらくは全三巻と短く、気のすむまで狂ったように読み続けることはできぬ(その点、千夜一夜は全11巻なので延々と没入できるぞい)。
しおり無用の面白さだが、一気に読ませぬ迷宮が仕掛けてあるのでご注意を。ひとたび頁を開いたら最後、物語の物語の物語の中に入り込み、ストーリーのダンジョンを行ったり来たり、延々と彷徨うことになる。
説明する。
『サラゴサ手稿』は枠物語の構造を持っている。すなわち、大きなフレームに囲われた、小さな物語の集合で構成されている。無数のバリエーションを千一夜かけて物語るシャーラザットのようなものといっていい。
ただし、ここで物語るのは一人ではない。主要人物の全員が、それぞれの身の上話を語りだす。しかも、各人の物語が入れ子状になっている。例えばこうだ。
ジプシーの族長アバドロが語る物語
その中に出てくるロペ・ソアレスが語る物語
その中に出てくるドン・ブスケロスが語る物語
その中に出てくるフラスケタ・サレロが語る物語
……を聞いているアルフォンソ
こんな感じで、物語が再帰的に呼び出され、展開され、戻ってゆく。
だが実際のところ、こんな分かりやすいマトリョーシカになるのは珍しく、一つの物語から複数の物語が呼び出されたり、物語が閉じないまま別の物語に回収されたりする。まったく別の日に語られた、まったく無関係な人物の物語が、実は重なっていることなんてこともある。物語どうしのニアミスである。
それぞれの物語はめちゃくちゃに面白い。
森羅万象を百巻の書物にする天才学者の皮肉な運命を描いたかと思うと、母娘どんぶりのエロティック満載の身の上話になったり、科学的に正しく天地創造を語り尽くす話になる。何が出てくるか見当がつかないお化け屋敷をジェットコースターで突き進むような感覚である。
それだけでなく、物語から呼び出された人物の語りの中に出てくる人のおしゃべりにつきあっていくうち、誰が何の話をしているのか皆目見当がつかなくなる。「これ誰の話だっけ?」と何度も戻ったり、ぐるぐる迷わされることになる。
自己増殖していく物語に飲み込まれ、惑い、迷い、溺れていく。そこでは完全に自分自身を見失い、ただひたすら物語に身をゆだねる他ない。
しかし、不思議と嫌ではない。むしろ変な脳汁が出て、妙な高揚感が湧き上がってくる。走り続けていくうちに多幸感に包まれるランナーズ・ハイになるように、読み進めていくうちにストーリー・ハイになる感じ。
増殖する物語構造に酔いたい人は素手で挑んでみるのもいい。だが、ダンジョンマップが欲しい人には、下巻の「通覧図」をお勧めする。物語の枠構造と、語られた順番の時系列をマッピングした一覧である。ネタバレしない程度にぼかして書いており、訳者の心意気を感じる。
幻の名著を復刊してくれた岩波文庫に感謝。読んで惑うべし、酔うべし。
書評全文:サラゴサ手稿
世界史を逆に読むと因果がつながる
『新詳世界史B』帝国書院
ビジネス書コーナーに行くと、「教養のための世界史」とか「〇時間で分かる世界史」といった教養本が積んである。雑学を寄せ集めると「教養」になるかは不明だが、こうした教養商人の手口は、むかし流行した、自己啓発本と同じである。
そういう教養商人のカモにならず、世界史を学びなおす上で、「軸」となる本として、高校世界史の教科書である『新詳世界史B』を推す。研究者の監修を受けた信頼できるもので、かつ、包括的でバランスのとれており、定期的に改訂があり、新しい情報でアップデートされているから。
それも、普通に頭から時代順に読むのではなく、逆順に読むのだ。
つまり、最後のページである現代の章からスタートして、時代を遡るように読む。いま、私の目の前で起きている様々な問題や事象が「どうしてこうなったのか」という視点を持ちながら、歴史記述から拾い上げるように読む。すると、手持ちの視点をさらに増やすことができる。
例えば、ロシア・ウクライナ危機について。
2022年のロシア軍の侵攻が「今」だとして、教科書を遡上していくと2014年のロシアによるクリミア編入が出てくる。ウクライナ政府はこれを認めず、クリミア半島は係争状態にあるという。
もっと遡っていくと、1991年のソ連解体に行き当たる。ロシア住民主導によりクリミア自治共和国が再建されたのだが、同じ場所に住むウクライナ人、クリミア=タタール人との軋轢が高まることになる(これがクリミア編入の原因)。
もっと遡っていくと、1917年のロシア革命の混乱に当たる。革命勢力の支配地域が後に「ソヴィエト社会主義共和国連邦」で塗りつぶされることになるのだが、その中で、ごくわずかに反革命勢力を展開していたのは、ウクライナのエリアになる。元々「ソ連」を牛耳っていた革命勢力と、ウクライナにいた勢力は対立していたのだ。
もっと遡ると、クリミア戦争、南下政策、クリム=ハン国、モンゴルによる支配へと繋がっていく。「クリミア」の元は、モンゴル大帝国のハーンの末裔からとったことに気づく。私は、「あの辺り」として一緒くたにソ連とくくっていたが、その見方は雑すぎていたことが分かる。
こんな感じで、「今」の問題意識を持ちながら、時の流れを遡るように読んでいく。チベット・中国の問題や、パレスチナ問題の根の深さが、よりクリアに見えてくる。幾多の解説書を読む前に、まず、教科書を読むことを強調したい。
いまの世界のまとまりが、どのようにできあがってきたのか、その正当性、妥当性も含めて俯瞰していきたい。そのための確かな軸となるものが、教科書になる。
新詳世界史Bは335ページと薄い。一気に読んでもいいが、気になるトピックを調べながら寄り道しながら読み進めるのが楽しい。読書猿『独学大全』で教わった、読んだページを記録するラーニングログを実践しながら2回読破した。参考にしてほしい。
書評全文:新詳世界史B
辛いとき寄り添ってくれる
『絶望名言』頭木弘樹
普通、名言集といったら人を励ますものだ。
明けない夜は無いとか、出口のないトンネルは無いとか、頑張ればいつか夢はかなうとか、前を向かせてくれる言葉が並んでいる。エナドリのように気分をブーストさせるのに向いているが、ちょっと眩しすぎる。
本当に辛く苦しく落ち込んでいるときに、「ポジティブでいれば幸せしかない」なんて言われても、「せやな」としか返せない。後ろ向きのときに前向きの言葉は似合わない。失恋ソングなんてまさにそれで、悲しいときには悲しい曲を聴きたくなるものだ。
それと同様に、辛いとき、苦しいとき、自信を失って途方に暮れているときは、絶望的な言葉の方が心に沁みる。自分だけではなかったと慰められ、この気分に寄り添ってくれているように感じられる。
カフカ、ドストエフスキー、太宰治、芥川龍之介など、文豪たちが吐き出す絶望名言を紹介したのが『絶望名言』である。元はNHK「ラジオ深夜便」の人気番組だったものを書籍化したのだが、ただ名言を集めるだけでなく、その言葉にまつわるエピソードや、独特の解釈も交えているのが面白い。
例えば「明けない夜もある」だ。
落ち込んでいる人を慰める常套句として「明けない夜はない」という言葉がある。シェイクスピア『マクベス』の一節を訳したのだが、原文はこれだ。
”The night is long that never finds the day”
逐語訳だと「夜明けが来ない夜は長い」になる。たとえ長くても夜明けは来るのだから、転じて「明けない夜はない」と訳するのが一般的だ。
だがこのセリフは、マクベスに妻子を皆殺しにされた男に向けられた言葉だ。ショックで茫然としている男に、「明けない夜は無いさ」というのは、ちょっと違和感がある。
だからこれを、「朝が来ない限り、夜は永遠に続くからな」と訳すこともできるという。つまり、マクベスを倒さない限り、夜は永遠に続くぞと、けしかけているのだ。
時が経てば悲しみが消えると言われる。多くの場合そうかもしれないが、時が解決してくれないときもある。時間の経過だけでは、人は癒されるとは限らない。これを心に留めると、「明けない夜もある」と解釈することもできる。
重要なのは、「明けない夜はない」と「明けない夜もある」の両方の解釈を知っておくことだという。確かにそうだ。嘆きの底にいるときは「明けない夜もある」という言葉の方が、よりしっくりするだろう。
辛いときには辛いことを吐き出した言葉がしっくりくる。本書を手にするなら、紙版をお薦めする。本棚に物理的にモノとして存在し、「あそこにあの本がある」というだけで、結構な慰めになるだろうから(わたしがそうだ)。
そういう、お守りのようになってくれる一冊。
書評全文:絶望名言
知覚できないが実在するもの
『天然知能』郡司ペギオ幸夫
AIへの新しい目を得るのが『天然知能』だ。
「天然知能」とは、「人工知能」に相対する概念なのだが、ここで言う人工知能は、いわゆる私たちが考えているAI(Artificial Intelligence)とは異なる。
順に説明する。
まず、「人工知能」とは、いわゆる機械で実装された人工的な知能という意味に留まらない。得られたデータや経験から推論し、判断する知性のことを、人工知能と呼んでいる。だからChat-GPTに限らず、データとして扱えるものだけが世界の全てだという態度も人工知能になる。
人工知能は、自分にとって意味のあるものだけを自らの世界に取り込み、自らの世界や身体を拡張し続けようとする。そこでも「外部」という世界が存在し、その世界とやり取りしているように見える。
だが、人工知能が「外部」と呼んでいるものは、自分にとって都合が良いものが集められた「世界」になる。自分が認識でき、自分の役に立ちそうなものだけが知覚されたものになる。自分にとって意味のないもの、邪魔なものはノイズとして処理され、目に入らない。
自分の世界に組み入れられるか否かが議論され、不要なものはそもそも存在しないことになる―――こうした見方は、物理学を始めとした自然科学的な態度に見える。世界とは、観測したり操作するものであり、観測や操作ができないものは、ガン無視するか、既知の現象に置き換えるか、新しい名前を付けて解決しようとする。
その結果、科学から逸脱した、どこまで想定してよいのか分からないような現象は、決して現れることはない。
一方、「天然知能」は別の見方をする。知り得たデータや経験が全てではないと考える。
認識し得ないものも含め、常に「何かある」という余白を保ちながらゆるやかに繋がる。認識の外から「やってくる」のを待ち受けるような存在になる。見ることも聞くこともできない、予想できないにも関わらず、その存在を感じ、現れたときに受け止めることができる。
世界とは知り得た範囲から推測できるものではなく、全く新しいパラメータも含めて取り込む対象になる。「外部」に向けて開かれた態度のようなものだ。こういうと、「外挿ができるAIのこと?」と解釈する人が出てくる。外挿とは、既知のデータを元に、その範囲外の値を推定する手法のことなのだが、全く違う。得られたデータの「範囲外」を推察するのではなく、全然違うデータがやってくることも受け入れられるのだ。
天然知能は、認識の外から「やってくる」のを待ち受けるような存在になる。見ることも聞くこともできない、予想できないにも関わらず、その存在を感じ、現れたときに受け止めることができる。
この「感覚」は、生きている人間でしか得られないもの(と思いたい)。
書評全文:天然知能
ChatGPTは意味を理解できるのか?
『言語の本質』今井むつみ、秋田喜美
本書で語られる「言語の本質」はめちゃめちゃ面白く、かつ腑に落ちる説明なのだが、Chat-GPTで答え合わせすると間違っているため、大変スリリングな読書と相成った。私は、時代の境目にいる―――そんな予感を実証する。
言葉の概念的な意味と、それを発したり耳にする物理的な知覚はつながっている。これを、記号接地問題と呼ぶ。人は身体的経験を通して言語を学び、言語を通して世界を理解している。『言語の本質』のキモは、ここにある。
その理由として、オノマトペの研究を紹介する。
オノマトペとは、「コロコロ」といった擬音語や、「ねばねば」といった擬態語のことだ。特徴的なのは、音の響きから意味が定まってくる点だ。
例えば、「コロコロ」より「ゴロゴロ」の方が大きくて重いし、「トントン」より「ドンドン」が強い打撃音になる。「サラサラ」より「ザラザラ」の方が荒くて不快な手触りになる。gやzやdのような濁音の子音は程度が大きくなるという。
あるいは、「のろのろ」「にょろにょろ」「ぬるぬる」「ねばねば」「ねちゃねちゃ」といったオノマトペに共通する語頭のnという音の響きは、遅い動き、滑らかさや粘り気のある意味が感じられる。
このnの音から、同じくnから始まる「塗る」「練る」「舐める」などの動詞や形容動詞の「滑らか」、「ぬめり」「ねばり」といった名詞にも共通する感覚だという。
オノマトペの例を見ていくと、口唇や舌と連動した知覚や、耳や皮膚を通して響いてくる感覚に焦点が当たる。言語とは身体的なものだということが分かってくる。
音と意味のつながりからオノマトペが生じ、作り出されたオノマトペから概念を結びつけ、言語がチューニングされてきたという説は、非常に強い説得力がある。音と意味の乖離している抽象的な言葉は、メタファーを通じて意味が拡張され、体系化されていった結果だという。
そして、そうした音を発する口唇や舌、喉を持たず、従って、そうした身体的経験の無いAIは、本当の意味で、言葉や意味を理解していないといえる。
ホント?
試しに、GPT-4に、本書で紹介されている問題を出してみる。日本人にとって馴染みの薄い言語なのだが、実際に口に出して発話してみると、正答できるという問題である。
- デンマーク語の「テット tæt」と「ラント langt」、「近い」のはどちら?
- パプアニューギニアのグラス・コイアリ語の「ゴムゴ gomugo」と「イハ iha」、「汚い」のはどちら?
- オセアニア・ソロモン諸島のサヴォサヴォ語における「ボボラガ boboraya」と「セレ sere」、どっちが黒でどっちが白?
彼女の答えはこうだ。
半導体とシリコンで構成され、身体的経験が無いGPT-4がなぜ正答できるのか?
打てば響くように答えてくれる。
私自体が発音する能力を持っているわけではありませんが、私のトレーニングデータには数多くの言語に関する情報や音響学、音声学、言語学に関する知識が含まれています。
私は、言語の音響的な特性や文化・歴史的背景、人間の生物学的特性を元に、特定の音が持つ可能性のある意味や感覚を予測することができます。
ただし、これはあくまで統計的な推測であり、常に正しいわけではありません。
もし著者に尋ねても、「いやいや、身体がないなら、本当の意味で言葉を知っているとは言えない」と引き下がらないかもしれない。ではその「本当の意味」とは何かという問題(クオリア問題)が残ることになるだろう(あるいは、「本当のスコットランド人はそんなことしない問題」でもいい)。
本書そのものも面白いが、傍らにGPTを携えながら読むと、2倍おいしい一冊。
書評全文:言語の本質
フィクションと感情をめぐるパラドックス
『ホラーの哲学』ノエル・キャロル
ホラー映画や小説が大好きなのだが、いつも疑問に思っていることがある。
- モンスターは存在しないと知ってるのに、どうして怖いのか?
- なぜ怖いと分かっているのに、ホラーを読むのか?
この疑問に、真正面から取り組んだのが、ノエル・キャロル『ホラーの哲学』だ。古今東西の哲学者、研究者、作家の言を引きながら、メジャー・マイナー問わず、映画や小説のホラー作品に共通する原則を考える。この検討の中で、この疑問に一定の解を導き出している。
ただしこの哲学者、相当にワキが甘く、理屈にポロポロ穴がある。そんな穴にツッコミを入れながら、「自分ならホラーをどう捉えるか?」を考えていく作業が、この上もなく楽しい。ホラーという土俵で、哲学者と格闘できる一冊ともいえる。
まず、現実にいないモンスターを「怖い」と感じるのはなぜか?
ホラー作品を観たり読んだりすると、全身の感覚が鋭くなると同時に、寒気と震えが止まらなくなる。ふと腕を見やると、うぶ毛が逆立っている。一種の戦闘態勢になっているのだろう。良質のホラーであればあるほど、この傾向が強くなる。
いない存在なのに、なぜ怖いのか。
これは「フィクションのパラドックス」と呼ばれている。存在しない架空のものに、恐怖だけではなく怒りや憎しみ、喜びを掻き立てられる。
理由として挙げられるのは、フィクションと現実を混同する「錯覚説」だ。映画や小説が真に迫るあまり、モンスターや宇宙人が本当にいると信じ込み、それに恐怖する考え方だ。「フィクションと現実の区別が付かない」という人は、まさにこれだろう。
しかし、著者は疑義を挟む。もし本当に恐怖を感じているのなら、おとなしくページをめくったりシートに座って映画を見ていることなんてしないだろう。すぐさまその場を逃げ出すに違いない。
別の説としては、フィクションを怖がるフリをしている「ごっこ説」がある。怖いという感情は偽物であり、怖がっている「ごっこ遊び」をしているという主張だ。
お医者さんごっこ、ドロケイの警官ごっこなど、「ごっこ遊び」の世界の中では、それがフィクションであることを明示しない。同様に、いったんホラーを見始めたら、それがフィクションであることを意識せず、その世界の中でホラーを感じるフリをするというのだ。
だが、著者はこれにも疑問を呈する。ホラー作品に触れて自分自身が感じているこの「怖さ」は、ごっこというフリではなく、紛れもない真正の恐怖だからだという。
著者は、別のアプローチ「思考説」からこの謎に迫る。錯覚説・ごっこ説の2つの説に共通する前提に目を向ける。
その前提とは、「対象を現実だと信じるとき、本当の恐怖が引き出される」ことだ。前者の「対象を現実だと信じる」ことを優先し、不信感を一時停止するのが錯覚説になる。一方、ごっこ説は、前者を是として後者の「本当の恐怖」を否定する。
だがキャロルは、この前提に疑いをはさむ。対象が現実だという信念が無くても、本物の恐怖が引き出されるのではないかと主張する。心に浮かんだことが現実にあるか否かはともかく、その思考内容そのものが感情を誘発するのだという。
例えば、断崖絶壁の上に立っているとする。このとき、「落ちる」という考えが頭をよぎり、ヒヤっとすることはないだろうか。もちろん、足場はしっかりしているし、後ろから押してくる人もいない。自分で飛び降りる意思もないから、落ちる可能性はない。それでも、崖から真っ逆さまに「落ちる」という思考に怯え、身体が震え、足がすくんでしまうかもしれない。落ちるという出来事ではなく、落ちる思考内容が、感情を引き出しているのだ。
こんな感じで、「怖い」という感情を中心に、ああでもない、こうでもないと、様々な説から検討する。ホラー映画の名作を織り交ぜながら議論を進めていくので、自分のホラー経験と照らし合わせながら読んでいける。
著者にツッコミを入れながら読むと、より「恐怖」に詳しくなれる一冊。
書評全文:ホラーの哲学
「当たり」のホラーはここに集う
『ホラー小説大全 完全版』風間賢二
スタージョンの法則「どんなものでも9割はクズだ」の意図は、凡作の山に、傑作が埋もれていることだ。
重要なのはその1割にどうやって巡り合うかなのだが、ホラー小説についてその1割を集大成したものが、『ホラー小説大全 完全版』になる。
18世紀のゴシック小説から19世紀のゴースト・ストーリー、20世紀のモダンホラー、そして21世紀のポスト・ミレニアルホラーまで、欧米を中心としたホラー小説を渉猟し、「読者を怖がらせる」ことに優れた作品をもりもり紹介する(1割といえど大量にある)。
さらに、近代が生み出した三大モンスター(吸血鬼、フランケンシュタイン、狼男)と現代が生み出したゾンビにまつわる膨大な映画や小説を紹介しながら、「なぜ”それ”が怖いのか」を、時代の集合的無意識から解き明かす。
キングやクーンツでホラー沼にハマった人には朗報だ。第三部を丸ごと使って、キングが開拓したモダンホラーの精髄を説き、クーンツやマキャモン、バーカーなど、ガチ怖なのに頁をめくる手が止められない傑作を、これまた膨大にお薦めしてくる。
私が狂喜したのは第四部、サイコ・エログロ・スプラッタの強烈なやつを選び抜いて紹介してくれるところ。ジャック・ケッチャムやリチャード・レイモンでピンと来る方向けで、病んだアメリカの恥部を、血まみれ鬼畜系で容赦なく暴き出す作品群だ。
ラストに傑作ホラーベストを掲げているのもありがたい。要するに、怖くて面白い1割から、ジャンルごとに特別に選び抜かれた作品がある。単なるリストではなく、「なぜそれが傑作なのか」も念入りに説明してくれるところも嬉しい(ネタバレすれすれな勇み足はご愛敬)。
- テーマ別モダンホラーベスト60(悪魔、SF、エロス、狂気、呪い等)
- ベスト中短編ホラー40(アンソロジーからさらに選り抜き)
- ゴシック・ロマンスベスト50
- 少年少女のためのベスト60
面白すぎて止められないか、怖すぎて眠れないか分からないが、いずれか(あるいは両方)の効用をもたらす作品に、山のように出会えるだろう。
私が信頼するのは人―――著者の風間賢二さんだ。彼が翻訳した『ウォーキング・デッド』、解説を書いた『ジグソーマン』、彼のおかげで巡り合えた『ずっとお城で暮らしてる』『遁走状態』など、この人が推すなら間違いない、という一流の目利きだ。
最近だと、キングの王道ホラーとロメロの感染する恐怖とアリ・アスターの嘔吐感を全部入れた『ブラッド・クルーズ』を教えてもらった。
ジェットコースターホラーとでも言うべき傑作で、最初はゆっくりと坂を上っていき、もどかしいほど丁寧に人々を描く。ひとたび頂点に達すると、後は真っ逆さまに狂乱へ落ちてゆく。昔のパニック映画やホラー作品を思い出して、懐かしい怖さに浸れるかも(レビューは [ここ])。
怖くて面白い作品を集めた『ホラー小説大全』から、さらに私が選り抜いたベスト10は以下の通り(順不同)。ホラーベストの理由は [ここ] にまとめたので、ぜひ、味見してみてほしい。そして、これらを超える奴を(もちろん沢山あるだろうが)ぜひ、教えてほしい。
『血の本』クライヴ・バーカー
『殺戮の〈野獣館〉』 リチャード・レイモン
『IT』スティーヴン・キング
『ストレンジャーズ』 ディーン・R・クーンツ
『インスマスの影』H.P.ラヴクラフト
『シャイニング』スティーヴン・キング
『ペット・セマタリー』スティーヴン・キング
『隣の家の少女』ジャック・ケッチャム
『クージョ』スティーヴン・キング
『ウォッチャーズ』ディーン・R・クーンツ
あなたに取り憑き、あなたを夢中にさせ、恐怖と面白さで眠れなくさせるホラー小説は、この中にきっとある。
書評全文:ホラー小説大全 完全版
文学は精神に作用するテクノロジーだ
『文學の実効』アンガス・フレッチャー
「文学は役に立たない」という人がいる。
データに基づく科学とは異なり、文学は主観的な解釈をベースとしており、客観性・再現性は低い。小説を読んでも、実用的ではないという主張だ。
そんな人に真向勝負を挑んでいるのが、『文學の実効』だ。
文学作品が人の心を動かすとき、脳内で起きている変化を神経科学の視点から解き明かす。感動は主観かもしれないが、客観的に計測でき、かつ再現可能なテクノロジーだと説く。
著者はアンガス・フレッチャー、神経科学と文学の両方の学位を持ち、スタンフォード大学で教鞭をとり、物語が及ぼす影響を研究するシンクタンクの一人である。
『オイディプス王』『ハムレット』『羅生門』『百年の孤独』など具体的な作品を挙げて、それらが脳のどの領域にどう作用し、それがどのような効果を及ぼしているかを説明する。
もちろん、受け継がれてきた作品は、それぞれの時代背景を反映している。そのため、当時の人が受けた影響が、そのまま現代の私たちに作用するとは限らない。
だが、時代を経て改良された技法は、新たな作品を作り出している。戯曲や詩歌、小説や映画、ゲームにおける「語り」によって、現代人の心に作用する。いわゆる古典だけに限らず、その名作の応用として、映画『ファニー・ゲーム』やゲーム『バイオショック』、ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』が紹介されている。
認知科学から解き明かした『ジュリアス・シーザー』は、シェイクスピアのテクノロジーが時代を越えた普遍性を持っていることを示す。あるいは、語り直しにより先入観を再考させる芥川『羅生門』やアチェベ『崩れゆく絆』を読むと、認知不協和は科学より先に文学で花開いていることが分かる。
他にも、キャラや世界観、語りのパターンを拡大することで読者(もしくは観客)の注意を自分以外の外側に向けさせることで夢中・忘我の状態を作り出す「拡張」や、皮肉や風刺が読み手に作用し「神の視点」の感覚をもたらす「視点取得」など、様々なメカニズムが語られる。
文学が精神に作用する技法を、「勇気を奮い起こす」「苦悩を癒す」「頭をリセットする」といった25の目的別に分け、それぞれが精神に作用するメカニズムと、古典的な名作から最新のドラマまでを紐解いている。
世界文学+神経科学+人類史+進化心理学と欲張った一冊。
書評全文:文學の実効
認知言語学から小説の面白さに迫る
『小説の描写と技巧』山梨正明
小説の面白さはどこから来るのか?
物語のオリジナリティやキャラクターの深み、謎と驚き、テーマの共感性や描写の豊かさ、文体やスタイルなど、様々だ。
小説の面白さについて、数多くの物語論が著されてきたが、『小説の描写と技巧』はユニークなアプローチで斬り込んでいる。というのも、これは認知言語学の視点から、小説描写の主観性と客観性に焦点を当てて解説しているからだ。
特に興味深い点は、小説の表現描写が、人間の認知のメカニズムを反映しているという仮説だ。私たちが現実を知覚するように、小説内でも事物が描写されている。
通常ならメタファー、メトニミーといった修辞的技巧で片づけられてしまう「言葉の綾(あや)」が、ヒトの、「世界の認知の仕方」に沿っているという発想が面白い。これ、やり方を逆にして、認知科学の知見からメタファーをリバースエンジニアリングすることだってできるかもしれない。
ただし、必ずしもリアルの認知に則っているわけではなく、誇張や想像が交じり込む(ここは作家の腕の見せ所)。そのリアルとのズレ・ゆらぎが、小説を面白いと感じさせているのかもしれぬ。
例えば、こんな描写がそうだ。
北には知多半島が迫り、東から北へ渥美半島が延びている
(三島由紀夫『潮騒』)
岩肌をむきだしにした小高い丘が、海にむかって突きだしている
(安倍公房『砂の女』)
赤と黒と白の三段模様がほぼ水平に岩壁の表面を走っていた
(新田次郎『アルプスの谷アルプスの村』)
一見、普通の描写に見えるが、描かれている対象に着目せよという。「渥美半島」「小高い丘」「三段模様」は、自然の地形の一部を示す存在であり、簡単に動くものではない。
それにもかかわらず、これらの主語は、移動に関わる動詞(「延びる」「突きだす」「走る」)で表現されている。文字通り半島が延びたり、丘が突きだしたり、模様が走っているわけではない。
では、移動するはずのない自然物の代わりに、移動しているものは何か? それは、情景や対象を知覚している主体の視線になる。この視線の移動モードが「延びる」「突きだす」「走る」という動詞によって表現されている。
読者は静止しているにもかかわらず、描写している主体の視線をなぞると、ダイナミックな動詞として認知される。あるいは、知覚される対象の形や状態を述べるとき、本来は動かないものが、あたかも生き物であるかのように描写される。
主体が留まっているのに動いているように感じ取られる―――このズレというかゆらぎが、描写を面白いと感じさせているのかもしれぬ。
この移ろうゆらぎの感覚は、『小説のストラテジー』(佐藤亜紀)でも紹介されていた [レビュー]。快楽をもたらすメカニズムを、小説から解き明かそうとする講義集だ。
記述の対象が移りかわる運動によって「快」がもたらされるといい、アイキュロスのアガメムノーンにおける「炎」に着目する。炎は描写としてのかがり火だったり、憎悪や情炎の象徴だったり、戦火そのものだったりするが、その炎が時間・空間を渡っていく運動を読み手が感じ取ることで、そこに「快」を見出すという。
この快楽は、描写のみならず、物語をなぞることで発生する運動もあるという。
ドストエフスキー『悪霊』を材料にして、聖なるところから奈落の底まで真ッ逆さまに墜落する速度感や、極端な感情のメロドラマ的な振幅を読み解く。あの『悪霊』を加工して、どんどん軽くしていく。会話文だけを取り出したサンプルなどは、ラノベと見まごうほど軽妙だ。
曖昧で捉えどころのない小説の描写の仕方を、認知プロセスからアプローチする試みは、斬新で可能性があると感じた。様々な叙述レトリックを、認知プロセスから再定義し、それが読者の何を動かしているのかを突き止めることで、「面白い」という感情をシステマティックに解き明かせるかもしれない。
書評全文:小説の描写と技巧
未来を既読にする一冊
『SF超入門』冬木糸一
治療法がない疫病の感染者に、人は、どれだけ残酷になれるか。脅威を恐怖として煽るマスコミのせいで、防疫と差別を取り違える輩が登場し、およそ人とは思えないような残酷なことを平気で実行する。
現代日本の話ではなく、サイエンス・フィクションの話をしている。
物語であるにも関わらず、恐ろしいほど「いま」「ここ」を示している。コロナ禍のずっと前に、作品は世に問われ、エンタメの形で消費されてきた。
だから、物語が現実の形で登場するとき、「ああ、これは読んだことがある」と気づくことができる。目の前で進行する出来事に対し、「これは履修済み」として受け止めた上で、その物語を比較対象にしながら、是非を検討できる。おっさん用語で言うなら「これ進研ゼミでやった」というやつ。
SFは現実の問題と接続している。これから起きることを、最悪(もしくは最良?)の形にするなら、どういうリアルになるのか? 緻密に、生々しく、切迫した形で教えてくれる。
では、どんな現実を見せてくれるのか?
現在進行中の現実から、10年後のリアルまで、SFを通して紹介するのが、『SF超入門』だ。
管理社会、仮想世界、AI、感染症、戦争など、17のテーマで、古典から最新まで56作品を俎上に載せて、現実をダシに語り尽くしている。
著者は冬木糸一さん、基本読書ブログの中の人だ。SFやノンフィクションを中心にした書評ブログで、うっかり覗くとSF沼にハマることを請け合う。
本書が素晴らしいのは、現実とSFが掛け合わされているところ。「サイエンス・フィクション」は、「サイエンス・ノンフィクション」と表裏一体であることを、きちんと示している点にある。
たとえば、遺伝子工学により恐竜を復活させる小説『ジュラシック・パーク』と共に、ノンフィクションである『こうして絶滅種復活は現実になる』が紹介される。
ジュラシック・パークのアイデアが手の届くぐらい現実味を帯びており、かつ、小説や映画が大ヒットしたおかげで認知度が高まり、研究予算も増えているという。SFが現実に与えた好例だ。
あるいは、自由が制限され、管理されたディストピアを描いた『一九八四』。この小説が実現した社会として、『AI監獄ウイグル』が紹介されている。
これは、新疆ウイグル自治区に作られたデジタル監獄のノンフィクションだ。各家庭の玄関にはQRコードが貼られ、DNA採取、監視カメラによる顔認証、銀行取引や購買記録をAIがチェックし、「通常とは異なる行動」を取ったと判断されると、当局の捜査対象になる。
他にも、壊滅的な状況において、政府や自衛隊はどう判断し、いかに動くかを『死都日本』を用いて語り、『戦闘妖精雪風』を傍らに「戦争に人間は必要なのか?」という根源的な問いかけをする。あるいは、『ソラリス』を俎上に生命に対する固定観念を揺さぶってくる。
こんな風に、ニュースやノンフィクションやとリンクしながらSFを紹介し、SFを読み解きながら現実の問題を炙り出す。
未来がどうなるかなんて分からない。けれど、その未来にどう向き合うかは、SFから学べる。現実に起きた出来事は、SFでシミュレート済みだ。
SFは現実に影響を与え、現実がSFの読み方を変える。10年後の未来は、本書で紹介される作品に描かれているかもしれない。
書評全文:SF超入門
アガサ・クリスティ自選の殿堂入り
『終りなき夜に生れつく』アガサ・クリスティ
はてなブックマークのコメントにはお世話になっている。
私が「これスゴいよ!」と作品紹介すると、「ならばコレなんてどう?」とコメントしてくれる人がいるから。しかも私のアンテナでは絶対にキャッチできない、すばらしい作品である可能性が高いから。
「この本がスゴい!2022」のブックマークで教えてもらったのが、『終りなき夜に生れつく』だ(d-ff さんありがとうございます!)。
結論から言うと、読んでしまったことを後悔するような傑作だった。
物語はこう始まる。冒頭からして不穏な空気を漂わせている。
『わが終わりにわが始まりあり』この引用句を人が口にするのを聞いたことがある。なんとなく分かる―――でも、本当はどういう意味だろう?
ある特定の点をさして、「あの日、これこれの時間、これこれの場所で、これこれの出来事からすべてが始まった」なんて言えるものなのか?
ずっとこんな調子で、語り手(主人公)は、何か大きな後悔を抱えていることが分かる。
主人公は二十歳を過ぎたばかり。端正な顔立ちで、教育を受け、夢があり、前途洋々の若者だ。そんな彼が、「どうしてこんなことになってしまったのか?」と頭を抱え、自分が選んできた言動のどこが間違っているのか苦しんでいる。
そして、どこかで間違えたはずだ、という前提で、過去を振り返っていく。
しかし、そこで語られるのは、甘ったるいラブストーリーだ。若い男女が偶然出会い、最初はおずおずと、だんだん打ち解けて、そして惹かれ合い、恋に落ちる様子が語られる。
仲睦まじい二人は見ていて微笑ましく、それを語るモノローグの不穏感と奇妙なコントラストを成している。二人が幸せであればあるほど、逆に怖くなってくる。
全ページに渡り満ちている不穏な空気にあてられ、取り憑かれたように読みふける。次に何が起きるだろう、何が待っているのだろうと、心をザワつかせながら読んでいくうちに、本を持つ手がすっと冷たくなる瞬間がある。
知らなければよかったという世界線に迷い込んでいたことに気づき、ラストにかけて畳みかけるような恐怖に苛まれながら、これ全部伏線だったんだ……とあらためて、冒頭から読み始める(こんな突き落とされるような気分にさせられる作品に出会えて、感謝しかない)。
アガサ・クリスティ自身も、これをベストに入れているとのこと。クリスティの傑作は『春にして君を離れ』と思っていたが、『終わりなき夜に生れつく』も殿堂入りとして並べたい。
書評全文:終りなき夜に生れつく
私の語彙力を1万語にした「読む」単語帳
“Merriam-Webster's Vocabulary Builder”
読書猿さんと飲んだとき、「英語は語彙力、まず2万語を目指せ」とアドバイスされたので選んだのがこれ。
理由は、英語を学んできた人たちの評価がダントツだったことが一つ。もう一つは、お試しで手にしてみたところ、「ちょっと難しいけれど、頑張れば読めないこともない」というレベルだった点だ。
本書を610日間かけて読み切った結果はこうなる。Preply のボキャブラリーテストによると、ほぼ1万語に到達できた。
7870 words (2021年4月)
9944 words (2023年4月)
ぶっちゃけ私一人では無理だった。初志は継続せず、どこかで挫折する理由を探し出していた。
だが、私を一人にしない技法を用いることで、完読できたといえる。
挫折を防ぐために周囲の環境を利用する「ラーニングログ」と「コミットメントレター」という技法だ。毎日読んで、読んだ分を記録する。記録した分をSNSで公開するのだが、具体的には [この記事] を参考にしてほしい。この技法は読書猿『独学大全』で教わった。
本書が素晴らしいのは、単語を一つ一つ学んでいくのではなく、「語根」を軸にグルーピングしたものをまとめて身につけるやり方だ。
語根とは、単語の意味の基本となる最小の部分となる。
例えば、PRE には「前に」という意味がある(before や in front of)。プレシーズンとかプレビューのプレだ。そこからこうつなげる。
prediction = pre + direct(方向)→ 予報、予言
precede = pre + cede(行く)→ 先行する
prejudice = pre + judge(判断)→ 先入観
これらの単語は、一つ一つ個別に覚えてきた。
だが、改めて振り返ると、語根の組み合わせで出来ていることを理解すると、覚えるのが容易になる。感覚的には、漢字を覚えるときに部首から類推するようなものだ。りっしんべん(忄)があると「心」に関わると想像できたりするように、語根は単語の根幹を知る手がかりとなる。
さらに本書では、PREからさらに拡張して解説してくれる。たとえばこうだ。
preclude = pre + claudere(閉じる;close)→妨げる、除外する
predispose = pre + dispose(配置する)→仕向ける
prerequisite = pre + require(必要とする)→前もって必要なもの、前提条件
この3つの単語は、本書で学んだ。もちろん私自身、claudere なんて単語を知らなかった。だが、この言葉はラテン語であり、「閉じる」を意味していることを何度も説明してくれる。他にも、ギリシャ語や古フランス語が、数多くの英語の素になっていることを具体的に知ることができる(というか、英語の大部分がこれらから構成されてていると言っていいかも)。
馴染みのある「プレ」に対し、ラテン語やギリシャ語由来の言葉と組み合わせることで、言葉が生成されているのが分かる。本書では250もの語根や語幹が紹介されており、英語で用いられるもののほぼ全てを網羅している。こうした意味の素となるストックを増やしておくことで、初見の単語でもなんとなく掴めるようになるのだ。
1周目を終えると、英語の長文を目にしても「ウッ」となることは無くなった。ざっと見て、ちゃんと読まないとダメなのか、適当に流せるのかといった「あたり」も分かるようになった。
現在は2周目、1/3に差し掛かろうとするところ。まずはこれだけを、ひたすらやり続けるつもりだ。
書評全文:Merriam-Webster's Vocabulary Builder
このフィクションがスゴい!2023
国境三部作『すべての美しい馬』『越境』『平原の町』コーマック・マッカーシー
人生をかけてくり返し読んできた作家が、コーマック・マッカーシーだ。
特に『すべての美しい馬』は、あまりに好きすぎて書評できない。以下はノロケになる。
20年前に一目ぼれして以来、何度も何度も読んできた。好きなシーン(野生馬の調教、刑務所でのナイフ死闘)を擦り切れるまでめくったり、ふと開いた頁のセリフに啓示を探したり、リアルがキツいと感じたときのアジール(逃げ場)としたり、様々な読み方をしてきた。
10年前に文庫になったのを読み、[読書会] を機に読み、現在進行形でKindleで原著に取り組んでいる。たぶんこれ、人生かけてくり返す傑作になるだろう。そしてこれ、読み返すたびに美しさを再発見し、苛烈さに震え慄き、運命に落涙する傑作となるに違いない。
舞台は1949年のテキサス、主人公はジョン・グレイディ・コール。祖父の牧場で生まれてから16年、カウボーイとして生きてきた。
冒頭は祖父の葬儀から始まる。そして、南北戦争の時代から築かれてきた広大な牧場が、一族の手を離れ、売却されることになる。カウボーイという生き方しかできない彼は、人生を選び取るため、友人のロリンズと一緒に南へ向かう。
モータリゼーションが行き渡ったアメリカ合衆国において、馬で旅をすることは奇妙に見える。トラックが行き交う舗装路を避けねばならないし、馬に食わせるためにオートミールを買い求める必要がある。時代錯誤で、時代遅れな旅だ。
シカを撃ち、火を焚き、馬に水を飲ませ、旅を続ける。知識と技術と経験を活かし、自らの力で自然の中で生きようとすると、必然的にその場所は、アメリカ合衆国でなくなる。アメリカ文明がまだ到達していない場所―――かつてフロンティア(辺境)と呼ばれていた西部よりも西部にある場所―――メキシコを目指すことになる。
国境となるリオ・グランデ川を越境し、出会いと別れをくり返し、ある大牧場で雇われる。最初は牧童として単純な作業をさせられていたが、馬の調教に長けていることが知れ渡り、一目置かれるようになる。
寡黙で、礼儀正しく、知恵も経験もあるジョン・グレイディは、牧場主に気に入られるようになり、その一人娘・アレハンドラと出会う―――のだが、カウボーイとして生きようとする彼の運命はあまりにも苛烈すぎる。
その続編となるのが『越境』だ。
主人公はビリー、16歳の少年だ。罠で捉えたオオカミを、メキシコの山へ返してやろうと国境を越える。彼を待つ過酷な運命はここに書くことができない。だが、主人公であるからには、生き延びて目撃する必要はある。それぞれの運命を全うした人たちが物語る言葉を聴き、証人として生き延びる必要がある。
ビリーは三度、国境を越える。最初は傷ついたオオカミを返すため。その次は、最初の旅により引き起こされた出来事の落とし前をつけるため。そして最後は、それまでの旅を終わらせるため。
普通ならば、旅とは日常のしがらみから逃れ、冒険へ召喚され、境界を超越し、様々な危険を冒した後、賜物を携えて帰ってくるものだ。国境を越えることで、二度ともとには戻れない旅に出るのだが、帰郷するたびに大きなものを失っていることに気づく。ビルドゥングスロマンの体(てい)なのに、喪失の物語なのだ。
大切なものを失う一方で、出会う人々から様々な物語を聴かされる。
と同時に、ビリーが目指す場所は失われる。長い旅の終点はどこかと問われても、終点はどこなのか知らないしそこへ着いたとしても着いたと気づくかどうか分からないと言う。前作『すべての美しい馬』のラストで呟く、グレイディ・コールの声と重なる。
マッカーシーがインタビューで答えたこのコメントが、彼の作品の本質を端的に示している。
われわれが出来事をつなぎ合わせて物語を作り上げその物語がわれわれ自身の本質となる。これが人と世界のつながり方だ。人が自分について世界が見る夢から逃れたときこのことが罰ともなり褒美ともなる。
つまり「この世は夢よ」と言うのは、私たちが世界を理解する方法だが、私たちも世界の夢の欠片の一つに過ぎない。私たちは、原因→結果のように順序良く理解しやすく出来事を物語の形で作り上げている一方で、そういう私も因→果のループに組み込まれた形で存在している(あとは気づくか気づかないかに過ぎぬ)。
その因果っぽく見えるループを破り、逃れようとするときに生まれたドラマが、ジョン・コールであり、ビリーになる。
傍から見るなら、運命の輪に抗った男の物語かもしれないが、渦中の男は、「輪」なんて、因果なんて、まるで眼中にない―――じゃぁ小説の読者の、いわば神視点なら……といっても、関わるれることは傍観することぐらいしかない。でも、最後まで、目撃者として居させられる(強制的に目撃させられる、と言っていい)―――のが、マッカーシーの小説を読む醍醐味である。
『馬』のジョン・コールと、『越境』のビリーが、ダブル主人公となっているのが、国境三部作の最後となる『平原の町』だ。
国境三部作は、以下の構成となっている。
- 『すべての美しい馬』ジョン・コール(当初16歳)、1949~50年
- 『越境』ビリー・パーハム(当初16歳)、1940~44年
- 『平原の町』二人の主人公が合流する、1952年
第一作のラストで目的地を失ったジョン・グレイディ、第二作のラストで居場所を失ったビリーが、第三作で共に行動をする。19歳のジョン・グレイディと、28歳のビリーの物語だ。カウボーイとしての生き方しかできないにもかかわらず、できる場所がどんどん失われている1950年代だ。
ジョン・グレイディは寡黙だが直情径行、無鉄砲に行動し、挫折する。一方でビリーは兄貴分として見守る一方で、彼の行動に若き日の自分を重ね、シンパシーを感じている。
ジョン・グレイディはメキシコの町フアレスで、娼婦マグダレーナと恋に落ち、結婚しようとする。ビリーは呆れながらも協力するが、売春宿の経営者が立ちはだかり、事態は悲劇の道を突き進んでいく……という筋立てだ。
ストーリーの表面をなぞるだけなら、カウボーイと娼婦が恋に落ちる展開は定番中の定番だ。月並みで、平凡とすら言える。強くて優しい若者と、純粋で無垢な16歳の少女が、互いに想い合い、命を懸けて愛し合う。彼女の名前がマグダラのマリア(Maria Magdalena)を想起させるのは偶然ではない。
だが、とてもそんな陳腐な解釈はできない。『馬』も『越境』も、西部劇のフォーマット―――カウボーイと馬と旅、ロマンスと決闘―――をなぞりながら、西部劇のお約束とは真逆の決着に至っているからだ。そこには、西部劇ではお馴染みの、「正義」も「勝利」もない。
ジョン・グレイディもビリーも、夢とあこがれを抱き、アメリカとメキシコの国境を越えるが、大切なものを失い、身も心もズタボロにされていく。西部劇のフリをしながら、「西部劇的なるもの」と決別するのが、メインテーマなのだ。
あるいは、西部劇のフォーマットでアンチ西部劇を描いた作品として、イーストウッド監督・主演の『許されざる者』を思い出すかもしれない。
馬とカウボーイ、銃と悪漢と保安官を登場させながら、かつての西部劇が描いてきた開拓者魂や正義の物語を踏みにじる。
そこでは暴力が暴力を呼び覚まし、陰惨が連鎖する「現実」が描かれている。これを見れば、勧善懲悪や正義を是とする西部劇が捏造された嘘であり、神話に過ぎないことが露わになる。タイトルである『許されざる者』とは誰だろうとスクリーンを覗き込む観客も共犯者にされる構造は、コーマック・マッカーシーがやろうとしていたことと重なる。
現実を見ろ、と押し付けているだけでなく、その中で足掻いている一人一人こそが、ナマの人生なんだ。もちろん私は、カウボーイの生き方はスクリーンや小説でしか知らない。だが、そこで描かれる生きザマは、私そのものなんだ。欲しいものを求め、裏切られ、傷つき、見失い、それでも進もうとする。
これは、「共感」というよりも、「共生」という言葉が近い。おまえは生きている、おれも生きる。おまえはそう生きるのか、おれはこう生きる。この感覚を確かめるために、何度も読んできたし、これからも読んでいく。
私は、誰かの物語を食(は)んで生きてきたし、私の生きザマは、誰かの物語になる。これを確かめるために、人生かけてくり返し読む。
―――もしこの記事で、コーマック・マッカーシーに興味を持ったなら、『ザ・ロード』を最初にお勧めする。
彼の作品は独特の文体で、地の文には読点が無く、会話をくくるかっこ「 」も無い。ぜんぶフラットで全編独白のような文体になっている。端的に言って「読みにくい」のだが、その代わり、全てのリアクションは息継ぎせずに語り終えられ、いつ、どこに注目すべきか、無駄も隙も否応もなく入ってくる。
そして、『ザ・ロード』では、彼のメインテーマである「美と暴力」が、厄災後の世界で余すことなく語り尽くされている。世界には美と暴力が互いに仲良く同居しており、剥き出しになった暴力と向き合うときにこそ、人間とは何かが見えてくることが分かる。
生きている作家のうち、コーマック・マッカーシーは最も尊敬(崇拝?)する作家だった。なぜ過去形で述べているのかというと、2023年6月に逝去したからだ。
書評全文:
すべての美しい馬
越境
平原の町
ザ・ロード(コーマック・マッカーシー5選より)
このノンフィクションがスゴい!2023
『精神の生態学へ』グレゴリー・ベイトソン
「まだ読んでいない本から影響される」というと変に聞こえるかもしれないが、グレゴリー・ベイトソンについて言えば変ではない。彼の作品を読むとき、初めてなのに、既読感があるから。
シェイクスピアが与えた影響は計り知れないほど大きいため、そのセリフやテーマは姿を変え形を変え、他の作品に浸透している。そうした文学や文化で育ってきた人が、改めてシェイクスピアを読むと、既視感を抱くに違いない。
ベイトソンがそうで、私が好きな端々に、ベイトソンの匂いがする。世界を丸ごと包摂しようとする姿勢は、いままでの私と、これからの世界に必要な観点だ。
認知科学、人類学、生態学、心理学、言語学、社会学など、さまざまな領域を渉猟しながら、とてもその枠内に収まらない世界の見方を提示してくれる。バリ島でのフィールドワークや、精神病棟における統合失調症のリサーチ、イルカとのコミュニケーション実験を行い、サイバネティクス論を創立するベイトソンは、行動する哲学者そのもの。
例えば、ダブルバインドの話は、彼が語り始めた頃よりも、いまの方が浸透しやすい。病院に収監されている息子と、その母親のエピソードが分かりやすいだろう。
面会にやってきた母親を、息子はハグしようとする。母親は身をすくませるため、息子はハグを諦めて、少し離れる。すると母親は悲しげに言う「もうお母さんのことを愛してくれなくなったの?」
母親が帰った後、息子は暴れ出したので、保護室へ収容される。
グレゴリー・ベイトソンは、統合失調症の息子ではなく、母親の言動に注目する。息子のことを愛していると言う一方で、息子からの愛情を身振りで拒絶する。さらに、息子からの愛が無いとして非難する。
息子は混乱する。ハグしようとする愛情表現を拒絶するばかりでなく、そもそもハグそのものが「無かったこと」として扱われる。にも関わらず、息子のことを愛していると述べる……そんな母親に近づけばよいのか、離れればよいのか、分からなくなる。
ベイトソンは、この状況をダブルバインドと名づける。会話による言葉のメッセージと、身振りやしぐさ、声の調子といったメタメッセージが矛盾するとき、どちらのメッセージに従うべきか、身動きが取れなくなる。
- 「怒らないから正直に言いなさい」と言うから正直に話すと不機嫌になる
- 「報告・連絡・相談を大切に」という上司に仕事の進め方を相談したら、「そんなことも分からないの?」と言ってくる
- 「どうしてそんなミスをしたのか」と聞いてくる上司に原因を説明したら「言い訳するな!」と怒る
ポイントは、言葉のメッセージと身振りのメタメッセージが矛盾している点が多様な所だ。メタメッセージは、会話する両者の関係に応じて、様々な解釈が得られる。例えばこうだ。
- これを罰と思ってはいけない、あなたのことを思ってすることだから
- 私が罰を与えるような人間だと思ってはいけない、あなたを尊重する立場だから
- 私が禁じたからといって、素直に従ってはいけない
- 何をしてはいけないか、考えてはいけない
ダブルバインドが常態化すると、挟まれている人は、疑心暗鬼に陥る。親や上司からの、どのメッセージを信じてよいのか、分からなくなる。メタメッセージを正しく解釈したからといって咎められる一方で、メッセージを解釈できないからといって非難される。どちらを選んでも悪循環が発生し、コミュニケーションは失敗するからだ。
こうした状況に「適応」すると、あらゆる言葉の裏側に、自分を脅かす隠れた意味があると考えるようになる。優しさから出た言葉であっても、文字通りに受け取れず、無理やり悪意を見出すようになる。
この悪循環に対し、ベイトソンは、これまでと異なるアプローチを切り拓く。
単純な、原因→結果という因果関係で考えるなら、毒親である母親を切り離せばよい。
だが、ダブルバインドに適応してしまっている患者は、母親のみならず、あらゆるコミュニケーションに悪意を見出すようになっている。そういう姿勢が、さらに悪い結果を招くようになっている。因果はループ状になっており、単純に見える箇所だけを切り取っても、問題は解決しないのだ。
ベイトソンは、統合失調者が発するメッセージに注目する。そして、患者とその話し相手の関係に触れる箇所が、直接・間接を問わず、ゴッソリと抜け落ちていると指摘する。
具体的には、「私」や「あなた」などの代名詞を避けることで、誰の話なのか分からなくなる抽象的な表現になることがある。あるいは、いま話していることが事実なのか比喩なのか、さもなくば皮肉なのか理解しがたい言い方をする。そのメッセージがどんな種類のものなのかが伝わらないように言うのだ。
例えば、ベイトソンが海外出張するので、しばらく会えなくなると患者に告げた時、その患者は窓の外を向いて、「その飛行機は飛ぶのがひどく遅い」と言ったという。彼は「先生がいないと寂しくなる(I shall miss you)」と言えないのだ。患者にとってベイトソンがどんな関係なのか、あるいは、自分のメッセージの意図が何なのかを曖昧にしようとする。
これ、今だと所与の前提として語られているため、ピンと来ないかもしれない。だが、ベイトソンは50年前にこの方向を切り拓いたのだ。そして、彼の道の途上に、たとえばオープンダイアローグという手法がある。
オープンダイアローグとは、複数人による開かれた対話で行われるメンタルケアになる。「医師-患者」のヒエラルキー構造ではなく、医療チームと患者、その家族がフラットな関係で話し合う。
まず当事者(患者や家族)の話を聞くというのは普通だが、その後、医療チームどうしで話し合う様子を、当事者が聞くという点が、特徴的だ。つまり、患者は、専門家どうしが自分について話し合うことを、あたかも他人事のように俯瞰して聞くことができる(これをリフレクティングと呼ぶ)。
そこでは、患者が避けていた「自分と周囲との関係性」について、周囲の人どうしの間で語られることを聞くことになる。重要なのは、そうした関係性が「ある」ということに気づくことなのだ。悪循環を断ち切るのではなく、因果のループになっていると考え、(ループなのだから)その外側があることを認識する。
単純な因果で説明できるほど簡単ではない。「因果で説明できる」とナイーブに言えるのは、局所的にしか見ていないからなのかもしれない(あるいは、「因果で説明できる範囲」だけを対象にした「科学」とも言える)。
ただし、オープンダイアローグの有効性についてはエビデンスが不足している指摘もある(参照:急性精神病に対するオープンダイアローグアプローチ:有効性は確立したか?[PDF])。この文書によると、このアプローチが標準的な治療法として認められるためには、その効果を量的に証明する必要があるというのだ(リンク先を教えてくださったinfoseekingさん、ありがとうございます!)。
ベイトソンの考えに触れていると、自分の発想が狭い範囲で周回していることに気づく。自分が抱えているテーマと向き合う時、「テーマを抱える自分」も込みで、一歩引いて俯瞰する癖が身に着く
書評全文:精神の生態学へ
スゴ本2024
「あとで読む」と思った本は、後で読まない。
積読を開き直り、自分に言い訳して今をしのいでも、未来の俺が責めるだろう。なぜ一頁でも、一行でも読まなかったのかと。もう読まない(読めない)感性になったとき、積読山は「もう読まない紙束」と化す。本に限らない、積みゲー然り、積み映画然り。
昔の俺はこんなものに興味があったのだと、思い出抱えて涙するのはナシだ。「やがて」「そのうち」「ヒマになったら」はナシだ。「いずれ」はいつまでも来ないから。その前に私は死ぬから。私の今の感性が死に絶えるから。
その前に貪欲であろう。読みたい本にはもっとワガママになろう。
経済は重要だが、経済学が問題だ。経済学のアプローチで取りこぼされる経済を学んでみよう。経済学では扱えていない経済の領域については、読書猿さんとの対談でヒントをもらっている。そこで紹介された、『経済人類学入門』(鈴木康治、作品社)に手を出してみよう。
現実ではないフィクションが感情に及ぶパラドクスを解き明かすために、『なぜフィクションか』(シェフェール、慶應義塾大学出版会)に取り組もう。フィクションを人類に普遍的に備わる心的能力として解き明かした本書には、私が知りたいエッセンスが詰まっているに違いない。
積山は積極的に崩していく。
ベイトソン『精神と自然』を読んだのはン十年前なので、岩波文庫で復刊されたのを機に再読する。長谷川眞理子『進化と人間行動 第2版』は心の進化(12章)と学習文化(13章)を中心に読む。プリンツ『はらわたが煮えくりかえる』は味読を再開する。shawさんお薦めの高田大介『図書館の魔女』も積山から引き抜く。
去年から読む読むいってた真鍋昌平『九条の大罪』、石塚真一『BLUE GIANT』は今度こそ読む(マンガ喫茶かな……)。ブローティガン『西瓜糖の日々』、ダニエレブスキー『紙葉の家』、冨樫義博 『レベルE』も手を出す。Barbara Dancygier『「比喩」とは何か』、クーケルバーク『技術哲学講義』はハードだけど読む。ふくろうさんが熱く語ってたエンリケス『寝煙草の危険』も「取っておく」ことはせず読む。
あと2024年2月の劇場版に向けて『ハイキュー!!』も。
人とも会おう。骨しゃぶりさんと本屋を巡ったらめちゃくちゃ楽しかった(また話そうぜ、骨しゃぶりさん!)。オンライン読書会も良いけれど、できるだけ外へ出て、本好きな人と直接話をしよう。オフ会も増やそう。コロナ禍で小休止していたスゴ本オフも活動再開しているので、どんどんやっていこう。
本にまつわる仕事も増やそう。KDDIリベラルアーツプログラムでの動画の紹介や、レバテックLABでの連載をしてきたが、自分のテーマ「面白いと感じるとき何が起きているのか?」を形にしていこう。
英語のレベル上げもする。単語のボキャブラリーが1万語に到達したので、2万語を目指すべく、ハイレベルの単語集 “1100 Words You Need to Know“ に挑戦する。英検準一級レベルらしく、知らない単語ばかりだが、大丈夫。読書猿さんから教わった「ラーニングログ」と「コミットメントレター」でコツコツやっていこう。
Merriam-Webster's Vocabulary Builder を毎日読みます。読んだ分を記録して公開します(2周目)。 #独学大全 #ラーニングログ #コミットメントレターhttps://t.co/Uas8DyN7ZN
— スゴ本の中の人 (@Dain_sugohon) November 17, 2023
「あとで読む」を「いま読む」ために工夫する。積読を受け入れず、崩し続ける。積んでは崩し、崩しては積むのをくり返しながら、感受性の新しい毛を生やす。
人生の持ち時間は、”寿命” ではない(←これ重要だが忘れがち)。そして、残り時間は予想よりかなり少ないことを、忘れないように。
「メメント・モリ(Memento Mori)」(死を忘れるな)という警句は、肉体的な死を指しているが、その前に、精神的な死、感性の死がある。本を面白く読める時間、知りたいことを学べる期間は、予想よりも遥かに少ない。
GPT-4に聞いてみたところ、「感性の死を忘れるな」という警句なら、「メメント・モルテム・センシビリタティス(Memento Mortem Sensibilitatis)」になるという。
わたしを震わせ、揺るがせ、行動を変えていくようなスゴ本は、これからもブログや twitter で発信していく。
もしあなたが、「それが良いならコレなんてどう?」というお薦めがあれば、ぜひ教えて欲しい。それはきっと、わたしのアンテナでは届かない、震わせ、揺るがせ、行動を変えていくようなスゴ本に違いない。
なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。
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