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認知言語学から小説の面白さに迫る『小説の描写と技巧』

小説の面白さはどこから来るのか?

物語のオリジナリティやキャラクターの深み、謎と驚き、テーマの共感性や描写の豊かさ、文体やスタイルなど、様々だ。

小説の面白さについて、数多くの物語論が著されてきたが、『小説の描写と技巧』(山梨正明、2023)はユニークなアプローチで斬り込んでいる。というのも、これは認知言語学の視点から、小説描写の主観性と客観性に焦点を当てて解説しているからだ。

特に興味深い点は、小説の表現描写が、人間の認知のメカニズムを反映しているという仮説だ。私たちが現実を知覚するように、小説内でも事物が描写されている。

認知言語学から小説の描写を分析する

通常ならメタファー、メトニミーといった修辞的技巧で片づけられてしまう「言葉の綾(あや)」が、ヒトの、「世界の認知の仕方」に沿っているという発想が面白い。これ、やり方を逆にして、認知科学の知見からメタファーをリバースエンジニアリングすることだってできるかもしれない。

ただし、必ずしもリアルの認知に則っているわけではなく、誇張や想像が交じり込む(ここは作家の腕の見せ所)。そのリアルとのズレ・ゆらぎが、小説を面白いと感じさせているのかもしれぬ。

例えば、こんな描写がそうだ。

北には知多半島が迫り、東から北へ渥美半島が延びている
(三島由紀夫『潮騒』)

岩肌をむきだしにした小高い丘が、海にむかって突きだしている
(安倍公房『砂の女』)

赤と黒と白の三段模様がほぼ水平に岩壁の表面を走っていた
(新田次郎『アルプスの谷アルプスの村』)

一見、普通の描写に見えるが、描かれている対象に着目せよという。「渥美半島」「小高い丘」「三段模様」は、自然の地形の一部を示す存在であり、簡単に動くものではない。

それにもかかわらず、これらの主語は、移動に関わる動詞(「延びる」「突きだす」「走る」)で表現されている。文字通り半島が延びたり、丘が突きだしたり、模様が走っているわけではない。

では、移動するはずのない自然物の代わりに、移動しているものは何か? それは、情景や対象を知覚している主体の視線になる。この視線の移動モードが「延びる」「突きだす」「走る」という動詞によって表現されている。

読者は静止しているにもかかわらず、描写している主体の視線をなぞると、ダイナミックな動詞として認知される。あるいは、知覚される対象の形や状態を述べるとき、本来は動かないものが、あたかも生き物であるかのように描写される。

主体が留まっているのに動いているように感じ取られる―――このズレというかゆらぎが、描写を面白いと感じさせているのかもしれぬ。

上記は主体が留まっている事例だが、主体を次々と移動させていくことで、読者のゆらぎを呼び起こすものもある。例えばこれ。

道が、つづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた
(川端康成『伊豆の踊り子』)

『伊豆の踊子』の冒頭なのだが、この文の主語が明示されていない。最初の「道がつづら折りになって」の主語は「道」だが、「道」が後続の文の主語に展開していかない。「いよいよ天城峠に近づいたと思う」のは「道」ではなく、その道にいる「私」だからだ。さらに次の「雨脚が~追ってきた」の主語は「雨脚」になる。

一つの文章に明示されない主語が次々と切り替わり、視点が移ろいゆくゆらぎを、静止している読み手が味わう。そこに人は面白いと感じるのかもしれない。

描写対象をうつろわせる運動が快楽を生み出す

この移ろうゆらぎの感覚は、『小説のストラテジー』(佐藤亜紀、2006)でも紹介されていた[レビュー]。快楽をもたらすメカニズムを、小説から解き明かそうとする講義集だ。

佐藤は、記述の対象が移りかわる運動によって「快」がもたらされるといい、アイキュロスのアガメムノーンにおける「炎」に着目する。

炎は描写としてのかがり火だったり、憎悪や情炎の象徴だったり、戦火そのものだったりするが、その炎が時間・空間を渡っていく運動を読み手が感じ取ることで、そこに「快」を見出すという。

この快楽は、描写のみならず、物語をなぞることで発生する運動もあるという。

ドストエフスキー『悪霊』を材料にして、聖なるところから奈落の底まで真ッ逆さまに墜落する速度感や、極端な感情のメロドラマ的な振幅を読み解く。あの『悪霊』を加工して、どんどん軽くしていく。会話文だけを取り出したサンプルなどは、ラノベと見まごうほど軽妙だ。

具体的なものから抽象物まで、描写される対象の移ろいや揺らぎを感じたり、聖俗や善悪などの相反するものの極端な落差を実感させることで、一種のめまいを覚えさせる。それが、読み手の心を動かすのではないだろうか。

身体化された認知プロセス

視点の移動の他にも、『小説の描写と技巧』では、身体化された認知プロセスとして、様々なパターンが紹介されている。

例えば、クローズアップや引きなどの「焦点化」や、描写対象とそれ以外を切り替える「図/地の反転」、時間軸に沿って描写したり、一枚のスナップショットに写された対象を順に描写する「スキャニング」、前文でフォーカスされた対象を後続の文の主体にして尻取り的に描写する「参照点起動のサーチング」などがある。

中でも焦点化の認知プロセスの言語学的な比較が面白かった。

描写の始めにおいて、対象を広いスコープを提示して、そのスコープを絞り込んでいくやり方(ズームイン)と、その逆に、限定された対象を叙述して、だんだん広げていくやり方(ズームアウト)がある。カメラに喩えるなら「引き」と「寄り」やね。

そして一般的に、日本語は、場所や空間が広い場所から狭い場所へ絞り込んでいくズームインの認知プロセスが特徴的で、英語は狭いスコープから広いスコープに拡大していくズームアウトの認知プロセスに特徴があるという。

その例として、住所(東京都>港区>品川…)の表記の並びが日本語と英語で逆転することや、氏名と First/Last Name の逆転現象を挙げている。

必ずそうだとは言えないけれど、自分の読書経験でも同様の印象を受けたことがある。翻訳もののミステリを読むと、初めて登場する人物は、目の色や髪の色、顎や唇や額といった描写を長々とやっている。一方、日本語の小説でも細部の人物描写をしているが、どちらかと言うと第一印象(優男とか厳ついガタイとか)を最初に告げているように見える。

もし読み手に違和感を抱かせるなら、この並びを逆にするという工夫もあるかもしれない。即ち、日本語で小説を書くときはズームアウトで描写し、英語圏ではズームインで叙述するのだ。慣れてない描写の順番に、読者は「面白い」と感じるかもしれぬ。

曖昧で捉えどころのない小説の描写の仕方を、認知プロセスからアプローチする試みは、斬新で可能性があると感じた。様々な叙述レトリックを、認知プロセスから再定義し、それが読者の何を動かしているのかを突き止めることで、「面白い」という感情をシステマティックに解き明かせるかもしれない。

この斬り口は継続して調べていきたい。



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