« 2023年10月 | トップページ | 2023年12月 »

死ぬまでに読みたかったベイトソンが「いま」読める幸せ『精神の生態学へ』

面会にやってきた母親を、息子はハグしようとする。母親は身をすくませるため、息子はハグを諦めて、少し離れる。すると母親は悲しげに言う「もうお母さんのことを愛してくれなくなったの?」

母親が帰った後、息子は暴れ出したので、保護室へ収容される。

グレゴリー・ベイトソンは、統合失調症の息子ではなく、母親の言動に注目する。息子のことを愛していると言う一方で、息子からの愛情を身振りで拒絶する。さらに、息子からの愛が無いとして非難する。

息子は混乱するだろう。ハグしようとする愛情表現を拒絶するばかりでなく、そもそもハグそのものが「無かったこと」として扱われる。にも関わらず、息子のことを愛していると述べる……そんな母親に近づけばよいのか、離れればよいのか、分からなくなる。

矛盾するメッセージに挟まれる

ベイトソンは、この状況をダブルバインドと名づける。会話による言葉のメッセージと、身振りやしぐさ、声の調子といったメタメッセージが矛盾するとき、どちらのメッセージに従うべきか、身動きが取れなくなる。

  • 「怒らないから正直に言いなさい」と言うから正直に話すと不機嫌になる
  • 「報告・連絡・相談を大切に」という上司に仕事の進め方を相談したら、「そんなことも分からないの?」と言ってくる
  • 「どうしてそんなミスをしたのか」と聞いてくる上司に原因を説明したら「言い訳するな!」と怒る

ポイントは、言葉のメッセージと身振りのメタメッセージが矛盾している点が多様な所だ。メタメッセージは、会話する両者の関係に応じて、様々な解釈が得られる。例えばこうだ。

  • これを罰と思ってはいけない、あなたのことを思ってすることだから
  • 私が罰を与えるような人間だと思ってはいけない、あなたを尊重する立場だから
  • 私が禁じたからといって、素直に従ってはいけない
  • 何をしてはいけないか、考えてはいけない

ダブルバインドが常態化すると、挟まれている人は、疑心暗鬼に陥る。親や上司からの、どのメッセージを信じてよいのか、分からなくなる。メタメッセージを正しく解釈したからといって咎められる一方で、メッセージを解釈できないからといって非難される。どちらを選んでも悪循環が発生し、コミュニケーションは失敗するからだ。

こうした状況に「適応」すると、あらゆる言葉の裏側に、自分を脅かす隠れた意味があると考えるようになる。優しさから出た言葉であっても、文字通りに受け取れず、無理やり悪意を見出すようになる。

悪循環の「外側」を認識する

この悪循環に対し、ベイトソンは、これまでと異なるアプローチを切り拓く。

単純な、原因→結果という因果関係で考えるなら、毒親である母親を切り離せばよい。

だが、ダブルバインドに適応してしまっている患者は、母親のみならず、あらゆるコミュニケーションに悪意を見出すようになっている。そういう姿勢が、さらに悪い結果を招くようになっている。因果はループ状になっており、単純に見える箇所だけを切り取っても、問題は解決しないのだ。

ベイトソンは、統合失調者が発するメッセージに注目する。そして、患者とその話し相手の関係に触れる箇所が、直接・間接を問わず、ゴッソリと抜け落ちていると指摘する。

具体的には、「私」や「あなた」などの代名詞を避けることで、誰の話なのか分からなくなる抽象的な表現になることがある。あるいは、いま話していることが事実なのか比喩なのか、さもなくば皮肉なのか理解しがたい言い方をする。そのメッセージがどんな種類のものなのかが伝わらないように言うのだ。

例えば、ベイトソンが海外出張するので、しばらく会えなくなると患者に告げた時、その患者は窓の外を向いて、「その飛行機は飛ぶのがひどく遅い」と言ったという。彼は「先生がいないと寂しくなる(I shall miss you)」と言えないのだ。患者にとってベイトソンがどんな関係なのか、あるいは、自分のメッセージの意図が何なのかを曖昧にしようとする。

こうした状況から抜け出すには、自分と周囲との関係を認識し、メッセージが運ぼうとしている感情や意図に注意を向ける必要がある―――ベイトソンが見出したこの観点を受け、オープンダイアローグの手法が広まりつつある(※)。

オープンダイアローグという手法

オープンダイアローグとは、複数人による開かれた対話で行われるメンタルケアになる。「医師-患者」のヒエラルキー構造ではなく、医療チームと患者、その家族がフラットな関係で話し合う。

まず当事者(患者や家族)の話を聞くというのは普通だが、その後、医療チームどうしで話し合う様子を、当事者が聞くという点が、特徴的だ。つまり、患者は、専門家どうしが自分について話し合うことを、あたかも他人事のように俯瞰して聞くことができる(これをリフレクティングと呼ぶ)。

そこでは、患者が避けていた「自分と周囲との関係性」について、周囲の人どうしの間で語られることを聞くことになる。そうすることで、自分がその関係性をどのように考えているのかに目を向けることができる。周囲の人が話していることと、自分が感じていることが異なっているのであれば、もちろんツッコミを入れていい。

重要なのは、そうした関係性が「ある」ということに気づくことなのだ。悪循環を断ち切るのではなく、因果のループになっていると考え、(ループなのだから)その外側があることを認識する。

単純な因果で説明できるほど簡単ではない。「因果で説明できる」とナイーブに言えるのは、局所的にしか見ていないからなのかもしれない(あるいは、「因果で説明できる範囲」だけを対象にした科学とも言える)。

ベイトソンの考えに触れていると、自分の発想が狭い範囲で周回していることに気づく。自分が抱えているテーマと向き合う時、「テーマを抱える自分」も込みで、一歩引いて俯瞰する癖が身に着く。

認知科学、人類学、生態学、心理学、言語学、社会学など、さまざまな領域を渉猟しながら、とてもその枠内に収まらない世界の見方を提示してくれる。バリ島でのフィールドワークや、精神病棟における統合失調症のリサーチ、イルカとのコミュニケーション実験を行い、サイバネティクス論を創立するベイトソンは、行動する哲学者そのもの。

その知の軌跡が集結したのが、この『精神の生態学へ』になる。絶版になって久しく、べらぼうな値段で手が出せなかったものが、岩波文庫で再版されることになった(感謝しかない)。同様に『精神と自然』も同様に再版されている。ベイトソン入門としてはこちらをお薦め。

読まずにゃ死ねないベイトソンが、いま読めて幸せだ。岩波書店ありがとう!

 

--
2023/11/27追記

※ただし、オープンダイアローグの有効性についてはエビデンスが不足している指摘もある(参照:急性精神病に対するオープンダイアローグアプローチ:有効性は確立したか [PDF])。

この文書によると、このアプローチが標準的な治療法として認められるためには、その効果を量的に証明する必要があるというのだ。確かに、この文書を読む限り、対照群やブラインドテストが行われていないように見える(「治療薬」ではなく「治療法」のブラインドテストってどうやってやるのだろう?という疑問は残るが……)。

はてなブックマークコメントで教えて下さったinfoseekingさん、ありがとうございます!

 

 



| | コメント (1)

なぜ、あの人は、あやまちを認めないのか?

「謝ったら死ぬ病」をご存知だろうか?

どんなに証拠を突き付けても、絶対に非を認めない人だ。

プライドの高さや負けず嫌いといった性格的なものよりもむしろ、過ちを認めることが、自分の命にかかわるものだと頑なに信じている。すなわち、「謝ったら死ぬ」という病(やまい)に取り憑かれている―――そんな人がいる。

もちろん、想像力が衰えて視野が狭く、無知な自分を認めたがらないような頑固者なら、可哀そうに思えども理解はできる。

だが、第一線で活躍する知識人や学者で、ものごとを客観視できるはずなのに、この病気に罹っている人がいる。それどころか、その優れた知性を用いてコジツケを考えだし、論理を捻じ曲げ、のらりくらりと言い逃れる。

なぜ、あの人は、あやまちを認めないのか?

ずばりこのタイトルの本書を読んだら、疑問が氷解した。

それと同時に、「謝ったら死ぬ病」は私も罹患していることが分かった。「あの人」ほどは酷くないと言い聞かせているだけで、五十歩百歩であることも分かった。

本書は、ハーバード大学のエリオット・アロンソンと、ミシガン大学のキャロル・タヴリスの2人の心理学者の共著になる。豊富な実例を紹介しながら、この病の原因である「自己正当化」と「認知不協和」を解説し、私たちの自我と切っても切れないものであることを明らかにする。

「謝ったら死ぬ病」の患者はウソツキなのか?

あやまちを絶対に認めない「あの人」が考えていることは、ジョージ・オーウェルが喝破している。

「人間というものは正しくないとわかっている事柄でも信じることができ、やがてその間違いが露見すると、厚かましくも事実のほうをねじ曲げて自分を正しく見せようとする。頭の中では、この作業を何万回でもくりかえせる」

ジョージ・オーウェル、1946

 エッセイ「In Front of Your Nose(あなたの鼻先で)」より

“We are all capable of believing things which we know to be untrue, and then, when we are finally proved wrong, impudently twisting the facts so as to show that we were right.”

― George Orwell,1946

自己正当化のあまり事実を捻じ曲げて語るのだから、「謝ったら死ぬ病」の患者は、嘘吐きではないだろうか?

本書によると違うらしい。自己正当化は、嘘や言い逃れとは違うというのだ。

体面を保つためだったり、相手を傷つけないようにするため、あるいは自分の利益になるから、人は嘘をつく。平気で嘘をつく人もいるし、内心ヒヤヒヤする人もいるが、嘘をつく人は、真実が何であり、自分がそれに反したことを述べているのを知っている。

しかし、「謝ったら死ぬ病」の患者は、その「事実でないこと」を本心から信じている。何度もシミュレーションして、整合的に説明できるようにし、説明がつかないところは事実のほうを否定したり表現を変える。他人を欺くのは単なる嘘つきで、自分を欺き自分に嘘をつくのがこの人なのである。

例えば、ウォーターゲート事件におけるリチャード・ニクソン大統領。当初、盗聴に関与したことを強く否定したものの、後に秘密の録音テープが公開され、辞任を余儀なくされる。側近によると、ニクソンは「自分を説得する達人」だったという。自分に都合の良いことだけを取捨選択し、それを「事実」としていた。

大統領の席を追われ、長い時が流れた後も、反省のコメントをすることはあれど、自分がした判断や行動が正しかったという姿勢は崩さなかった。この人に過ちを認めさせるのは、自我を崩壊させるレベルのことなのかもしれない。

ゼンメルワイスのジレンマ

いやいや、嘘を生業とする政治家なのだから、自分の嘘を信じ込むのも得意技でしょう? エビデンスを重視する医師なら、そんなことはないはず―――そんなツッコミが聞こえる。

本書では、そうした客観的な証拠に基づいて判断するはずの医師が、まさにその逆のことをするエピソードを紹介する。

例えば、産婦人科医のゼンメルワイスの話。

彼が勤務していた病院では、妊婦の敗血症の死亡率が異常に高かったという。ゼンメルワイスは様々なデータを集め、検死をした後に手を洗わずに分娩処置をしていることが原因だと突き止める。

彼は教え子たちに消毒液で手を洗うように指示し、敗血症による死亡率を激減させた。これで手洗いが一般化するのかというと、しなかったのだ。

仲間の医師たちは、ゼンメルワイスが集めてきた動かぬ証拠を無視し、非常識とまで批判したという。提言を無視され、ゼンメルワイスは失意のうちに世を去ることになる。

なぜ周囲の医師たちはゼンメルワイスを無視し、批判したのか?

本書によると、答えは簡単だという。手を洗うことで細菌の拡大を抑え込める―――仮にこれが本当だったとして、仲間の医師たちは、「やあゼンメルワイス、君のおかげで死なせずに済んだ妊婦さんを無益に死なせていたことが分かったよ、ありがとう」などと感謝することは絶対にない。

過ちを認めることは、自分が愚かであることを認めることになり、自分の存在理由すら脅かすことになる。

自己正当化のメリット

自分の信念や信条とは相いれない事実が突き付けられたときに起きる、不愉快な緊張状態のことを、社会心理学者は「認知不協和」と呼ぶ。

ゼンメルワイスの周囲の医師たちは、さぞかしこの不快と緊張を感じていたことだろう。そして、この不協和を解消して自分を守るために、ゼンメルワイスを否定したのだ。

では、この自分を守る「自己正当化」こそが悪いのだろうか?

本書によると、自己正当化そのものは悪いことではないという。逆に、自己正当化のおかげで、私たちは夜ぐっすりと眠ることができる。ローンを組んで買った家、結婚した相手、進学や就職先について、いつまでも悶々と苦しみつづけ、後悔で自分を責め続けるだろう。選んだ決断を正しいと信じるために自己正当化にはメリットがある。

メリットだけではなく、自分がした判断を正しいと考え、周囲にそれを認めさせようと働きかけることは、一般的なことだろう。自分の正しさを周囲に認めさせることで、コミュニティ内で安定した地位を築き、多くの子孫を残せたであろうから。

だが、自分を守る物語を信じるあまり、事実から目を背け、強弁をくり返す人はいる。罪を暴かれた独裁者はおしなべて、自分がした虐殺行為や国庫の略奪を、「国を愛するが故にした、ああしなければ無政府状態になっていた」と正当化し、むしろ自らを犠牲にした愛国者だという。極端な自己正当化は、病気なのかもしれない。

それでも正当化が足りない場合、永遠の人気を誇るセリフ「向こうが始めた」を使いだす。本書ではヒトラーや十字軍の例が挙げられているが、今ではさらに追加されるだろう。むしろ、「向こうが始めた」と言い始めたということは、既に自己正当化の余地が僅かになっている証左と考えたほうがいいかもしれぬ。

本書の原題はちょっと気が利いている。

“MISTAKES WERE MADE (but not by me)”
過ちがあった(けど、私のせいでない)

普通なら、”I made mistakes.” (私が過ちを犯した)と言うべきところを、受動態にすることで責任の所在をぼかす。

それでも、まだ「過ちがあった」という事実を認めているのだから、マシなのかもしれない。訴訟リスクを避けるためなのか、謝るどころか、過ちがあったことすら否定する。「複雑な事態が起きた」「様々な要因により想定外の事象に陥った」という言い方をする。

ギリギリまで自己正当化した結果、ひとたび謝罪を口にしたならば、後は死ぬまで蹴られても致し方ないほど崖っぷちに追い詰められてしまったのかもしれない。あるいは「謝ったら有罪 、謝らない限り無罪」という極端な二択を選んで(選ばされて?)しまっているのかもしれない。

こじらせ過ぎた自己正当化の成れの果てが「謝ったら死ぬ病」になる。これは死ななきゃ治らない。筋金入りの「謝ったら死ぬ病」の患者を看取りつつ、自分の内なる認知不協和と向き合う一冊。

| | コメント (3)

キング、ロメロ、アリ・アスターの王道ホラーを洋上で『ブラッド・クルーズ』

バルティック・カリスマ号は、定員2,000名の大型クルーズ船だ。

レストラン、バーラウンジ、ジャグジー、カジノがあり、24時間かけてスウェーデンとフィンランドを往復する。船そのものが巨大なリゾート施設といっていい。

11月の初めに、さまざまな事情を抱えた人たちが乗り合わせる。

落ち目になりつつある往年の大スター、サプライズでプロポーズをするつもりのゲイ、バラバラになりそうな家族の絆を取り戻そうとしている父、一晩のアバンチュールを求める老婦人、乱痴気婚活パーティーに参加する独身者など、1200名の乗客が船旅に出る。

そこで、集団感染が発生する。

初期症状は、激しい頭痛と悪寒、高熱になる。食欲が減退し、吐き気と共に食事を受け付けなくなる。

次の段階になると、歯が全て抜ける。口内に違和感があり、指を入れると砕けた歯が落ちてくる。歯があった箇所からは大量の出血が生じ、患者は自分の血をごくごくと飲み下す。

症状の進行とともに「におい」に敏感になる。火照った肌や濡れた髪のにおい、乾いた精液の金属的なにおいや、生理による経血やおりもののにおいを感じやすくなる。

最後の段階では、心臓が停止し、人間としては死に至る。さらに、歯が抜けた場所から新たに生えてくる。真っ白で鋭い犬歯が生えそろう頃には、動き出し、立ち上がり、走り出し、血肉を求めるようになる。体格や性差にもよるが、生まれ変わりは数十分で完了する。

久々に、寝かせてくれない王道ホラーである。

親しい友人や家族が、変わり果てた姿になって襲ってくる悲劇や、クルーズ船という巨大な閉鎖環境で逃げ惑う人々、絶望的な状況での対決といったお約束のストーリーに加え、生々しい残虐描写が畳みかけてくると、否が応でも昔観た作品を思い出す。

まず、豪華客船でのパニックものとして『ポセイドン・アドベンチャー』が真っ先に浮かぶし、群衆の狂乱が招く大惨事は『タワーリング・インフェルノ』の屋上の場面を思い出す。

さらに、「奴ら」との肉弾戦は『死霊のはらわた』の一番汚いシーンと重なるし、血と臓物でぬるぬる滑る床は『ブレインデッド』か『ゴーストシップ』で観たものだ。ゴアの演出やカメラワークは『ヘレデタリー』の蟻がたかるところを思い出した。

うつろな目は『ゾンビ』(Dawn of the Dead)だけど、妙にすばしこいので『アイ・アム・レジェンド』の奴らが浮かぶかもしれぬ。とにかく、過去に観た嫌な作品やエグいシーンの特に酷いところを切り取って煮詰めたコラージュでありオマージュである。気分が悪くなると同時に、「この気持ちの悪さ、懐かしい」と感じるかもしれない。

そして何よりも、前半で描かれる群像ドラマが、後半の阿鼻叫喚で伏線回収されていく構成は、ずばりスティーブン・キング『呪われた町』になる。「海上のスティーブン・キング」と評される理由はここにあるが、怒涛のスピードが半端ない。

ジェットコースターホラーとでも言うべきで、最初はゆっくりと坂を上っていき、もどかしいほど丁寧に人々を描く。ひとたび頂点に達すると、後は真っ逆さまに狂乱へ落ちてゆく。

物語の加速度はどんどん増してゆき、振り落とされないようについていくのが精いっぱいである。読むスピードが遅いと奴らに追いつかれるのでは無いかとハラハラしっぱなしで、後ろを振り返り振り返りさせられる読書と相成った。

ホラー好き、パニックもの好き、ゴア好きな方に、力づくでお薦めしたい徹夜小説。



| | コメント (0)

認知言語学から小説の面白さに迫る『小説の描写と技巧』

小説の面白さはどこから来るのか?

物語のオリジナリティやキャラクターの深み、謎と驚き、テーマの共感性や描写の豊かさ、文体やスタイルなど、様々だ。

小説の面白さについて、数多くの物語論が著されてきたが、『小説の描写と技巧』(山梨正明、2023)はユニークなアプローチで斬り込んでいる。というのも、これは認知言語学の視点から、小説描写の主観性と客観性に焦点を当てて解説しているからだ。

特に興味深い点は、小説の表現描写が、人間の認知のメカニズムを反映しているという仮説だ。私たちが現実を知覚するように、小説内でも事物が描写されている。

認知言語学から小説の描写を分析する

通常ならメタファー、メトニミーといった修辞的技巧で片づけられてしまう「言葉の綾(あや)」が、ヒトの、「世界の認知の仕方」に沿っているという発想が面白い。これ、やり方を逆にして、認知科学の知見からメタファーをリバースエンジニアリングすることだってできるかもしれない。

ただし、必ずしもリアルの認知に則っているわけではなく、誇張や想像が交じり込む(ここは作家の腕の見せ所)。そのリアルとのズレ・ゆらぎが、小説を面白いと感じさせているのかもしれぬ。

例えば、こんな描写がそうだ。

北には知多半島が迫り、東から北へ渥美半島が延びている
(三島由紀夫『潮騒』)

岩肌をむきだしにした小高い丘が、海にむかって突きだしている
(安倍公房『砂の女』)

赤と黒と白の三段模様がほぼ水平に岩壁の表面を走っていた
(新田次郎『アルプスの谷アルプスの村』)

一見、普通の描写に見えるが、描かれている対象に着目せよという。「渥美半島」「小高い丘」「三段模様」は、自然の地形の一部を示す存在であり、簡単に動くものではない。

それにもかかわらず、これらの主語は、移動に関わる動詞(「延びる」「突きだす」「走る」)で表現されている。文字通り半島が延びたり、丘が突きだしたり、模様が走っているわけではない。

では、移動するはずのない自然物の代わりに、移動しているものは何か? それは、情景や対象を知覚している主体の視線になる。この視線の移動モードが「延びる」「突きだす」「走る」という動詞によって表現されている。

読者は静止しているにもかかわらず、描写している主体の視線をなぞると、ダイナミックな動詞として認知される。あるいは、知覚される対象の形や状態を述べるとき、本来は動かないものが、あたかも生き物であるかのように描写される。

主体が留まっているのに動いているように感じ取られる―――このズレというかゆらぎが、描写を面白いと感じさせているのかもしれぬ。

上記は主体が留まっている事例だが、主体を次々と移動させていくことで、読者のゆらぎを呼び起こすものもある。例えばこれ。

道が、つづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた
(川端康成『伊豆の踊り子』)

『伊豆の踊子』の冒頭なのだが、この文の主語が明示されていない。最初の「道がつづら折りになって」の主語は「道」だが、「道」が後続の文の主語に展開していかない。「いよいよ天城峠に近づいたと思う」のは「道」ではなく、その道にいる「私」だからだ。さらに次の「雨脚が~追ってきた」の主語は「雨脚」になる。

一つの文章に明示されない主語が次々と切り替わり、視点が移ろいゆくゆらぎを、静止している読み手が味わう。そこに人は面白いと感じるのかもしれない。

描写対象をうつろわせる運動が快楽を生み出す

この移ろうゆらぎの感覚は、『小説のストラテジー』(佐藤亜紀、2006)でも紹介されていた[レビュー]。快楽をもたらすメカニズムを、小説から解き明かそうとする講義集だ。

佐藤は、記述の対象が移りかわる運動によって「快」がもたらされるといい、アイキュロスのアガメムノーンにおける「炎」に着目する。

炎は描写としてのかがり火だったり、憎悪や情炎の象徴だったり、戦火そのものだったりするが、その炎が時間・空間を渡っていく運動を読み手が感じ取ることで、そこに「快」を見出すという。

この快楽は、描写のみならず、物語をなぞることで発生する運動もあるという。

ドストエフスキー『悪霊』を材料にして、聖なるところから奈落の底まで真ッ逆さまに墜落する速度感や、極端な感情のメロドラマ的な振幅を読み解く。あの『悪霊』を加工して、どんどん軽くしていく。会話文だけを取り出したサンプルなどは、ラノベと見まごうほど軽妙だ。

具体的なものから抽象物まで、描写される対象の移ろいや揺らぎを感じたり、聖俗や善悪などの相反するものの極端な落差を実感させることで、一種のめまいを覚えさせる。それが、読み手の心を動かすのではないだろうか。

身体化された認知プロセス

視点の移動の他にも、『小説の描写と技巧』では、身体化された認知プロセスとして、様々なパターンが紹介されている。

例えば、クローズアップや引きなどの「焦点化」や、描写対象とそれ以外を切り替える「図/地の反転」、時間軸に沿って描写したり、一枚のスナップショットに写された対象を順に描写する「スキャニング」、前文でフォーカスされた対象を後続の文の主体にして尻取り的に描写する「参照点起動のサーチング」などがある。

中でも焦点化の認知プロセスの言語学的な比較が面白かった。

描写の始めにおいて、対象を広いスコープを提示して、そのスコープを絞り込んでいくやり方(ズームイン)と、その逆に、限定された対象を叙述して、だんだん広げていくやり方(ズームアウト)がある。カメラに喩えるなら「引き」と「寄り」やね。

そして一般的に、日本語は、場所や空間が広い場所から狭い場所へ絞り込んでいくズームインの認知プロセスが特徴的で、英語は狭いスコープから広いスコープに拡大していくズームアウトの認知プロセスに特徴があるという。

その例として、住所(東京都>港区>品川…)の表記の並びが日本語と英語で逆転することや、氏名と First/Last Name の逆転現象を挙げている。

必ずそうだとは言えないけれど、自分の読書経験でも同様の印象を受けたことがある。翻訳もののミステリを読むと、初めて登場する人物は、目の色や髪の色、顎や唇や額といった描写を長々とやっている。一方、日本語の小説でも細部の人物描写をしているが、どちらかと言うと第一印象(優男とか厳ついガタイとか)を最初に告げているように見える。

もし読み手に違和感を抱かせるなら、この並びを逆にするという工夫もあるかもしれない。即ち、日本語で小説を書くときはズームアウトで描写し、英語圏ではズームインで叙述するのだ。慣れてない描写の順番に、読者は「面白い」と感じるかもしれぬ。

曖昧で捉えどころのない小説の描写の仕方を、認知プロセスからアプローチする試みは、斬新で可能性があると感じた。様々な叙述レトリックを、認知プロセスから再定義し、それが読者の何を動かしているのかを突き止めることで、「面白い」という感情をシステマティックに解き明かせるかもしれない。

この斬り口は継続して調べていきたい。



| | コメント (0)

« 2023年10月 | トップページ | 2023年12月 »