« 2023年9月 | トップページ | 2023年11月 »

動物の鳴き声には言語的構造があった『動物たちは何をしゃべっているのか?』

高度なコミュニケーションは、人間だけのものとされていた。

普遍的な文法を元に言葉を組み合わせ、概念や意図を正確に伝える能力は、人間以外の生物には無いものとされていた。

しかし、近年の研究により、この考えは疑わしいと感じている。

ハチのダンス(※1)やクジラの歌(※2)、体色でコミュニケートするイカ(※3)、有機物を揮発して警告するトマト(※4)など、様々な反証が得られている。人がする方法でないだけで、仲間同士、あるいは種族を超えて意思を伝え合っている。

それでも、ノーム・チョムスキーやモーテン・クリスチャンセンといった言語学者は、獣の咆哮や鳥のさえずりは単純な警告やメッセージに限定され、言語の構造や文法が存在しないと考えていた。「高度な」コミュニケートができるのは人間だけだというのである(この傾向は、言語学者に強く現れているように見える)※5。

この固定観念にトドメを指すのが、『動物たちは何をしゃべっているのか?』になる。

本書は、シジュウカラの鳴き声を長年研究してきた鈴木俊貴(としたか)さんと、ゴリラ研究の世界的権威である山極寿一(じゅいち)さんの対談になる。

シジュウカラの鳴き声に単語や文法が存在することや、ゴリラを含む類人猿には、人間の言語の起源を紐解くヒントが隠されていることが分かる。さらに、なぜ「人間だけが言語を持つ」という固定観念が生まれたのかについて、鋭い指摘がなされている。

言葉はどうして生まれたのか?

まず、フィールドワークで培ってきた経験を元に、「言葉がどうして生まれたのか」という疑問について、ずばり「適応」だと答えている。

言葉を扱える個体のほうが、使えない個体よりも、うまく生存し、多くの子孫を残せたということになる。そして、言葉の種類や複雑さは、その種の環境によって左右されるという。

例えば、カラスの鳴き声は6種類しかないと言われている。種によって若干の差はあるけれど、200種類とされるシジュウカラと比べると非常に少ない。

これには理由があり、カラスは基本的に開けた、見通しのいい環境に住んでいる。互いが目視でき、視覚的なディスプレイでコミュニケートできるため、鳴き声はあまり必要とされなかったという。

実際、ワタリガラスはくちばしを使って人間の指のように対象を指し示すことが知られている。言葉(鳴き声)よりも身振りで意思疎通できるような環境にいるため、少ない種類でも問題なかった。

一方、シジュウカラは、鬱蒼とした見通しの悪い森に住んでいるため、視覚でのコミュニケーションでは不十分だった。天敵や食べ物の存在を、音声によって詳細に伝える必要があったため、鳴き声を発達させたのではないかという。

鳥は「高度なコミュニケーション」ができない?

言語学者が主張する「高度なコミュニケーション」とは以下を指している。

  • 文法性(単語を並べて意味を生み出すルールがある)
  • 恣意性(言葉の形とその意味との間に直接的な関係がない)
  • 分離性(音節、単語に分割して無数の言葉や文を形成できる)
  • 生産性(言語の組み合わせによって多様な表現を生み出す)
  • 超越性(「いま・ここ」以外の未来や仮定について表現できる)

そして、こうした特質は人間だけであり、動物の鳴き声はこのような高度なコミュニケーションができないという。

本当だろうか?鈴木俊貴さんのお話を伺ってみよう。

まず、シジュウカラの文法について。

シジュウカラは、「ピーッピ・ヂヂヂヂ」と鳴くことがあるが、これは2つの鳴き声の組み合わせになっているという。「ピーッピ」は「警戒しろ!」とい意味で、天敵が出たときに使う。「ヂヂヂヂ」は「集まれ!」という意味になる。

そして、シジュウカラは必ずこの順番で鳴くという。「警戒」が先で、「集まれ」が後のルールになっている。もしこのルールを破ったときに意味が通じないのであれば、それは文法であることを意味する。

この仮説を確かめるために、録音したシジュウカラの声で「ピーッピ・ヂヂヂヂ」と聞かせると、警戒しながらスピーカーに近寄ってきた。だが、ルールを破って「ヂヂヂヂ・ピーッピ」と聞かせると、適切な反応を示さなかったという。つまり、シジュウカラは「文法」を持っていると言えるのだ。

あるいは、言語の恣意性について。

例えば、「ヘビ」「snake」という音が蛇を示すことについては、人間の約束事にすぎない。これが言語の恣意性になる。

シジュウカラにとっての蛇は、「ジャージャー」だという。

これは、天敵であるヘビやタカ、モズのはく製を巣箱の傍に置いて、それを見たシジュウカラの鳴き声を調べたことにより判明している。録音した「ジャージャー」という声を聞かせると、シジュウカラは地面を見まわしたり茂みを確認したという。

でも、だからといって「ジャージャー」=「ヘビ」とは限らないのではないか?「ジャージャー」=「地面を確認しろ」かもしれない―――このツッコミに対しては、「見間違え」の実験を行っている。

木の枝に紐をつけて動かしながら、「ジャージャー」と聞かせると、シジュウカラは蛇と見間違えて枝を確認しに行く。一方で、枝を動かしながら別の鳴き声を聞かせても反応しない。つまり、「ジャージャー」という音は、シジュウカラにとっては蛇のシンボルだといえる。

このように、シジュウカラの言語における、文法性や恣意性、生産性について、研究成果を紹介してくれる(※6)。これは世界初の研究(※7)であり、シジュウカラは、「高度なコミュニケーション」ができないのではなく、誰も研究していなかったことが分かる。

ゴリラは過去や未来について語れない?

それでも……と言語学者は反論するだろう。

人間以外の生物は、「いま・ここ」に生きているに過ぎないと。過去や未来のことについて語ったり、仮定の話をするといったコミュニケーションは、人間という万物の霊長にのみ与えられた能力だと力説するだろう。

本当だろうか?

これは、山極寿一さんが体験したゴリラの「タイタス」の話がぴったりだ。

山極さんは昔、ルワンダで2年間、ゴリラと暮らしたことがあるという。その時に特に仲良くしていたのが、「タイタス」という6歳の子どものゴリラだったという。

ところがルワンダの内戦が激化して、研究が続けられなくなってしまい、タイタスとも離れ離れになってしまう。

長い年月が流れ、ようやくタイタスと再開したのは、実に24年ぶりだったという。タイタスは、平均寿命に近い、お爺さんになる。群れのリーダーである、シルバーバック(背中が銀色の成熟した雄ゴリラ)になっていたという。

山極さんはタイタスを見て分かったが、タイタスは山極さんのことを覚えていただろうか?

もちろん覚えていた。

山極さんのゴリラ語の挨拶「グッフーム」に応えるばかりか、するすると近寄ってきて、仰向けに寝転がったという。そればかりかゲラゲラ笑いだしてしまったというのだ(仰向けになったりゲラゲラ笑いだすのは子どもがすることで、大人のゴリラはそんなことはしない)。

山極さんはそこで気づく、タイタスは子どもの頃に戻ってしまい、子どものタイタスとしてコミュニケートしようとしていることに。記憶が眠っている身体を呼び覚まし、タイタスは、「昔こうして遊んだよな」と伝えようとしているのだ。

これはつまり、ゴリラは超越性を身につけている証左にならないだろうか。「いま・ここ」以外も語ることができる。にもかかわらず、できないと決めつけていたのは、人間だったのではないか―――そう山極さんは指摘する。

なぜ「人間だけが言語を操れる」とされたのか

二人の対談は面白い方向へ転がっていく。

なぜ、「人間だけが言語を操れる」という固定観念ができたのか?どうして、動物の言語について顧みられることがなかったのか。

そのヒントは、新約聖書にある。

「はじめに、ことばがあった。ことばは、神とともにあった。ことばは神であった」とあるように、人間は言葉を持つが故に他のあらゆる生物と峻別され、この地球の支配権を神から託された―――という偏見が、研究者の間で前提とされていたからだ。

その結果、「下等な」動物たちの鳴き声や吼え声は高度なコミュニケーションには程遠く、研究に値しないとされたため、その豊かな言語表現が見過ごされてきた―――「動物たちは何をしゃべっているのか」を研究してきたお二人の意見が一致するところがここ。

人間の「知性」を基準として、その差分を測定したり、その振る舞いを擬人化して説明するやり方だと、観測範囲を狭めているように見える。青い空も緑の木々も、環境に合わせて人が進化した結果、そう見えているだけであり、紫外線や地磁気を知覚できる鳥からすると、それは人固有の視野狭窄に過ぎないのだから。

シジュウカラとゴリラの研究から、人間の傲慢さまで見えてくる一冊。

 

※1 ミツバチのダンス

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%84%E3%83%90%E3%83%81%E3%81%AE%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9

※2 クジラの歌

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B8%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%AD%8C

※3 海の霊長類・イカの心を探る

https://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2019/01/post-f769.html

※4 植物は知性を持っている

https://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2016/01/post-a274.html

※5 言語学とは理系のものか?文系のものか?『言語はこうして生まれる』

https://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2023/02/post-4283ae.html

※6 シジュウカラの言語能力と動物言語学の挑戦

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsaisigtwo/2022/Challenge-061/2022_01/_article/-char/ja/

※7 【世界初】鳥の言葉を証明!シジュウカラの鳴き声が示す単語と文法とは

https://www.nhk.jp/p/zero/ts/XK5VKV7V98/blog/bl/pkOaDjjMay/bp/p0XWGW8MX7/




| | コメント (0)

アマプラ最高のドラマの探し方から、1,000頁1kg超の鈍器本、人生を変えた詩集、自信喪失なときに効くセリフまで、声に出して読みたい/聞きたい/語りたい作品をお薦めしあうオフ会報告

好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、それがスゴ本オフ。

本に限らず、映画や音楽、ゲームや動画、なんでもあり。なぜ好きか、どう好きか、その作品が自分をどんな風に変えたのか、気のすむまで語り尽くす。

この読書会の素晴らしいところは、「それが好きならコレなんてどう?」と自分の推し本から皆のお薦めが、芋づる式に出てくるところ。まさに、わたしが知らないスゴ本を皆でお薦めしあう会なのだ。

今回のテーマは「音読」、声に出して読みたい/聞きたい/語りたい作品が集まってきた。それだけでなく、音読を実践してきた方のメリットや、教育現場における音読の効果、『白浪五人男』を元に実際に音読をしてみるといったフィードバックが得られたところ。

アツく語られた作品のなかからいくつか紹介する。リアルタイムでのtwitter実況のまとめはtogetterスゴ本オフ「音読」をどうぞ。

1,000頁の鈍器本を音読破する

俎上に乗ったのは『虚数の情緒』(吉田武、東海大学出版部)、これな。

Photo_20231021092701

存在感がスゴい

重量は1.4kgで、掴んだ感じがほぼレンガ。よしおかさんが持ってきたやつは付箋だらけで、めちゃくちゃ読み込んでいることが一目でわかる。

数学の独習書の体裁だけど、歴史や文化、力学や素粒子論など、虚数を軸にして全方位的に語り尽くされている。「中学生から読める」という触れ込みだが、奥はめちゃめちゃ深く、オイラーの公式を手動で確かめるところまで掘り下げている。

わたしの場合、最後までたどり着くのに青息吐息だったけれど [レビュー]、よしおかさんはこれを全部音読したとのこと。すげぇ!

虚数の情緒

でも、こんな殺傷能力の高そうな鈍器本を、なぜ「音読」しようと思ったのか?

コロナ禍で色々と制限されていたころ、音声SNS「Clubhouse」が流行り出したので、使ってみたという。読書猿さんの『独学大全』に啓発されて、鈍器本を音読してみようと思い立つ。

で、最初は『独学大全』を音読してみたという(これも700頁超の鈍器本)。黙読と違って、ゆっくり音読すると、自分が理解していないところがよく分かる。すらすら読めない、つっかえる、読めない漢字がある……等、つまづいている所が即ち、理解できていない箇所になる。

で、『独学大全』を音読で踏破できたので、調子に乗ってカーネマン『ファスト&スロー』やダーウィン『種の起源』も音読してみたという。

それも上手くいったので、「数学と仲良くなりたい」という動機で、『虚数の情緒』に手をのばす。これを毎日すこしずつ、11ヶ月かけてClubhouseで音読する。

グラフや図表がふんだんにあるけれど、それも一つずつ言葉で説明していく。Clubhouseは音声オンリーなので、「図や絵を言葉で伝える」ために表現を工夫する必要が出てくる。

面白いことに、ネットの向こうには聴いている人がいて、その人も同じ本の同じページを開いているのに、受け取り方が違ってくることがある。「声」で伝えるための試行錯誤を繰り返すうちに、自分が読めていなかったところ、見落としていたところを、改めて発見できたのが大きいという。

これは、読書猿さんが言っていた「同じ書を読む人は遠くにいる」をSNSで実現したものだな。独学は孤学じゃないとも言っていた。

わたしも音読やってみよう。毎日読んでる本は、”Merriam-Webster's Vocabulary Builder”なので、ここからやってみよう。

日本語のリズムを肌感する「知らざあ言って聞かせやしょう」

やってみて楽しかったのが、「知らざあ言って聞かせやしょう」の音読。淳子さんが持ってきた、「白浪五人男」の名ゼリフになる。

知らざあ言って聞かせやしょう

「白浪五人男」は江戸時代から大人気の歌舞伎の演目だ。白浪(=盗賊)の5人男が織りなすピカレスクロマンで、口上を聞いたことのある方もいるだろう(わたしはNHK教育「にほんごであそぼ」で耳にした)。

大泥棒の弁天小僧が女に化け、大金を騙し取ろうとする。百両を手にまさに去ろうとするとき、居合わせた侍が正体を見抜く。

正体がバレた弁天小僧が居直って、自分の出自やこれまでのいきさつを語りだす。

知らざあ言って聞かせやしょう
浜の真砂と五右衛門が
歌に残した盗人(ぬすっと)の
種は尽きねぇ七里ヶ浜
その白浪の夜働き

目で文章を追っていると気づきにくいのだが、声に出して音を聞くと気づく。

これ微妙に五七五になっていて、意味と韻と踏んでいて、リズムよく謳うようにできている。一息で発声できる韻律の限界まで引き出せて、なおかつラップのように軽やかに駆けるように語れる。

これをちょっとアレンジして、一人で全部音読するのではなく、複数人でやるのだ。つまり、最初の一行を一人目が、二行目を二人目が……と順々にフレーズをつなげていく読み方だ。

合唱というか輪読の音読みたいで面白い。自分の番が来た時、どういう風に熱を込めて(あるいはサラリと)読み切るかを考えながら発声すると楽しい。これ、やってみると必ずそうなるのだが、だんだんヒートアップしてきて最後は大見得を切るみたいになる。

自己紹介の語りなのだが、ナレーション的な説明も混じっており、物語を知らない人でも分かるようになっている。フーテンの寅さんの「帝釈天で産湯を使い」と同じだね。

サラッと思い出せるのは、やはり五七五のリズムが身体で覚えているからなのだろう。語の調子に合わせて記憶がイメージと共に紡ぎ出されるのは、言葉とは書きつけられた抽象的なものよりも前に、身体に刻まれたものだからかもしれない。

「知らざあ言って聞かせやしょう」は、1862年、今からおよそ150年前の演目だが、現代のわたしにもそのリズムが伝わっている。例えばこの大見得は30年前のものだが、120年後の日本人も覚えていそう。

月に代わってお仕置きよ!
同情するなら金をくれ
江戸川コナン、 探偵さ

アマプラ最高のドラマを見つける方法

やすゆきさんに言わせると、難しくないらしい。

Amazon Prime には大量のドラマがラインナップされているが、面白いか、そうでないかは比較的簡単にふるいにかけられる。

その基準は「シーズン数」なり。ドラマで「シーズン1」「シーズン2」とある。一つのシーズンが、だいたい10話から構成されており、そのシーズンで一つの結末を迎え入れる。デカい事件を解決するとか、大きな脅威をなんとかするとか。

で、面白いドラマだと、このシーズン数が多くなる。言い換えると、アカンやつだとシーズン2とか3で力尽きる。ドラマの内容如何というよりも、再生回数という数値が絶対基準になっている。

もちろん、これから面白くなりそうな予感がする、あるいは鉄壁の脚本家+演出家+俳優の布陣だったとしても、シーズンが延びなければ、それはそれ……という非常な判定基準になる。いわばジャンプのアンケートと一緒で、どんなに思い入れがあっても、数が足りなけば容赦なく切られる。

その激しい競争の中で、「シーズン7」まで結果を叩き出しているのが、「BOSCH」シリーズになる。やすゆきさん曰く「めちゃめちゃ面白い」。

「BOSCH」は、ロサンゼルス市の警察刑事ハリー・ボッシュが主人公の連続ドラマになる。さまざまな思惑に翻弄されながらも、正義を貫こうとする硬派なストーリーなのだが、普通のミステリードラマとちょっと違うらしい。

それは、「一話完結型」でないこと。

通常なら、事件が起きて、それを解決する、という一連の流れが、だいたい一話から二話にかけて構成されている。だが、「BOSCH」はそうではなく、一つのシーズンをかけて、一つの事件が解決される。

それも、一つの事件がまだ解決しないまま、別の事件が始まったり、その事件がまた別の事件に微妙に絡み合ったり、伏線になったりと、ストーリーそのものに複雑に巻き込まれる構成になっているそうな。

一話完結でなく、一シーズンでデカい謎が解かれるといえば、(ちと古いが)「ツイン・ピークス」を思い出す(まぁアレは、「犯人はヤス」というくらい一言で伝えられるくらいシンプルなオチだが)。

だがBOSCHはシーズンを多重に多層に積み重ねられるくらい練られているようなので、楽しみ(在宅勤務のランチのお供になる)。

紹介されたのは、ボッシュとその娘の会話のシーン。シーズン5、エピソード8のごく短いシーンなのだが、互いが互いをどんなに大事にしているかが伝わってくる。

潜入捜査で家に帰ってこれなかったボッシュと、事情を知らない娘の会話になる。連絡をしてこなくてヤキモキしていた娘の心配と、それを知りつつ電話することが死に直結するリスクであることを(言い訳と知りつつ)言葉少なに伝える父、そして「今までに何人殺したの?」と問うてくる娘の本音が分かるとき、彼女の悲痛が胸に迫る。

これ、英語がほとんど聞き取れない私でも胸に響く(How many~ぐらいしか分からなかったけれど、刺さった)。

人生を変えた詩集

このオフ会は、いわゆる「課題図書」を決めない。

掲げたテーマに合っていれば、どんな本でも(本でなくても)持ってきてお薦めすればいい。だから、集まってくる本は種々さまざまで、バラエティ豊かなのが魅力の一つとなっている。

それにもかかわらず、ごくまれに「被る」ことがある。

それは、高確率で(というよりほぼ100%で)大当たりの一冊になる。

今回は、中原中也詩集だった。

中原中也詩集

常連のすぎうらさんと、初参加のいとうさんのお二人が、「声に出して読むなら中原中也、人生を変えた一編の詩がこれ」と、岩波緑を持ってきた。

若かりし頃のすぎうらさん、デザイナーをやっていて、潜り込んだバイト先でいつも流れていたJ-WAVEで耳にしたのが、鹿賀丈史が朗読した中原中也の詩だったという。ハードなバイトで朦朧としていた耳にスッと入ってきた声と意味にガツンとやられたのが「山上のひととき」になる。

ネットにいくらでも「落ちて」いるコンテンツの中から、この一編を検索することは、正直言って、とてもカンタンだ。だけど、この一編を自分の声で朗読して、その重さを測るのは、とても個人的な経験になるだろう。

私は手で風を追いのけるかに
わずかに微笑(ほほえ)み返すのだった

この一文が、「抱きしめたくなるほど好き」という気持ちは、音読すると分かる。

そして初参加のいとうさんイチオシが「一夜分の歴史」になる。

いとうさんに言わせると、詩人の中でも、中原中也は別格になる。ふつう詩は、視覚や聴覚といった人間の三次元的な感覚の表現になる。けれども中原中也は、しかもこれは特に、四次元的な説明がされているという。

「四次元的」というのは、人が体感できる三次元に「時間」の感覚が加わったもので、「人はいつか絶対に死ぬ」ということがひしひしと分かる。この詩を書いている中原中也は確かに生きていて、それでも絶対死ぬのは確かで(人間だから)、でも私が読んでるときは彼は(自分は)もう死んでいるのだ、ということを中原中也は分かって書いているのが伝わってくる―――という、いっぷう変わった紹介の仕方をしてくるのだが、音読すれば分かった。

萩原朔太郎150周年のイベントで、中原中也の詩を読んだ猛者がいて、その瞬間、会場の空気が一変したというエピソードもすごかった。音読するなら中原中也、覚えた。

ちなみに岩波緑はAmazon Unlimitedの読み放題に入ってる(わたしは早速ダウンロードしたぞい)→中原中也詩集 (岩波文庫) 

お前の信じる、お前を信じろ

わたしのお薦めはこれ。自信を失った時、前に進めなくなったとき、呪文のように唱えたいセリフがこれ。

天元突破グレンラガンで、自信を失ったシモンに断言するカミナ。

ロボットアニメ史上、最大のロボットが登場するアニメ『天元突破グレンラガン』のワンシーンだ。左にいるアニキは「カミナ」、天上天下、俺様最高というアニキだ。で、右にいるのがシモン、すごい才能を秘めながら「できない」と尻込みする小心者だ。

そんなシモンに、「お前はできる、それを信じろ」と断言する。カミナは、合計3回、断言する。

1回目、自分のことが信じられないなら、無理に信じる必要はない。だから、その代わりに、俺を信じろという。

お前を信じるな!
俺を信じろ!
お前を信じる、俺を信じろ!

2回目、ある出来事によりショックを受けて、大事なときに力を発揮できないシモン。「でも、できないんだ」と駄々をこねるシモン。そんなシモンに、「歯ぁ食いしばれ」と言って一発殴ったカミナのセリフがこれ。

お前が迷ったら俺が必ず殴りに来る!
だから安心しろ!
お前のそばには俺がいる!
お前を信じろ!
俺が信じるお前を信じろ!

そして最後、絶体絶命の状況で、それでもやり遂げようとするシモンに絶叫するアニキのセリフ。

いいかシモン、忘れんな
お前を信じろ!
俺が信じるお前でもない
お前が信じる俺でもない
お前が信じる、お前を信じろ

これ、言われるたびにシモンが成長していくのが分かる。そして、聞いているこっちも「自分を信じる」ことがビシビシと伝わってくる。

このシーンが終わっても、このアニメが終わっても、この「お前を信じろ」はずっと残る、一生かけて支えになる。我が子に『鋼の錬金術師』と『天元突破グレンラガン』を全話踏破させたので父親として勤めは果たしたといえるくらいのセリフなり。

音読のお薦めリスト

こんな感じで集まったお薦めのリストはこちら。たいへん楽しいひとときだった。

次回のテーマは「マンガ」、これ、収拾がつかなくなるほどすごいのが集まってきそうなので、楽しみだけどちょっと怖いwww

日程や詳細は、facebook「スゴ本オフ」をチェックしてくださいませ。


『くらやみの速さはどれくらい』エリザベス・ムーン(早川書房)
『中原中也詩集』大岡昇平編(岩波文庫)
『天元突破グレンラガン』 ガイナックス・アニプレックス
『徒然草』(林望、祥伝社)
『なぜ私だけが苦しむのか:現代のヨブ記』クシュナー(岩波現代文庫)
『口訳 古事記』町田康訳(講談社)
『宇治拾遺物語』所収「奇怪な鬼に瘤を除去される」町田康訳(河出書房新社)
『告白』町田康(中央公論新社)
『極夜行』角幡唯介(文春文庫)
『Bosch』Amazon Prime
『知らざあ言って聞かせやしょう(白浪五人男)』
『黄色い雨』フリオ=リャマサーレス(河出文庫)「虚数の情緒」吉田武(東海大学出版部)
『おはなしのろうそく1』東京子ども図書館編(東京子ども図書館)
『マルコムX自伝』マルコムX(アップリンク)
『NO RULES』リード・ヘイスティングス(日本経済新聞出版)
『三体』劉 慈欣 (早川書房)
『ロボット』カレル・チャペック(中公文庫)
『犯罪小説集』谷崎潤一郎(集英社文庫)
『ABCの本 (安野光雅の絵本)』(福音館書店)
『学習指導要領 国語』
『熊の場所』舞城王太郎(講談社)

| | コメント (2)

ユーモアは最強の武器である

普通なら面白く思わないし、アイデアを侵害されたと感じるだろう。だが、互いに権利を主張し、巨額の訴訟になりかねないとき、どう決着をつけるか?

1992年のサウスウエスト航空がまさにそうだった。「スマートに飛ぼう(Just Plane Smart)」という標語でキャンペーンを始めたのだが、この標語は既に別の会社で使われており、法的権利も主張されていた。どちらも譲らず、普通なら裁判沙汰になるところだった。

これを、普通でない方法で解消した。お互いのCEOが腕相撲で勝負して、勝ったほうが権利をモノにできるとしたのだ。試合に向けたトレーニング動画はバズり、本番のショータイムは大ウケしたという(今でもyoutubeで見ることができる ”Malice in Dallas” )。

このイベントのパブリシティ効果だけで、600万ドル以上の売上が向上し、収益が1億ドルに跳ね上がったという。さらに重要なのが、莫大な訴訟費用を回避できたということだ。

普通でない解決策を生み出したのは、CEOたちの遊び心である。困難な状況に直面したとき、創造的に楽しもうとするユーモア精神が、このアイデアを生み出したのだという。

ユーモアは人生を楽しむための秘密の武器

ユーモアはメンバーの恐怖心を取り除いて創造性を高め、チームとしての一体感を醸成し、起きたことを思い出深いものに変える。

「頭の良さは、どんなときに笑うかで分かる」という言葉の通り、ユーモアは知性の証であり、あてこすりや皮肉の一刺しのような攻撃にも用いられ、何を笑う/笑わないかによって、自分の意思を強く示すことができる。

神経科学で言うならば、「脳内カクテル」になるという。私たちをハッピーな気分にさせ(ドーパミン)、人への信頼を高め(オキシトシン)、ストレスを緩和し(コルチゾールの減少)、高揚感をアゲアゲにする(エンドルフィン)。

ただでさえ面倒で厄介ごとだらけの人生を、なるべく楽しく面白く過ごすための技術―――それがユーモアだという。あれだ、ルパン三世の次元大介がピンチになると、「さて面白くなってきやがったぜ」と呟く、あのノリである。

『ユーモアは最強の武器である』は、この技術の取扱説明書になる。

「ユーモアのセンスは才能だから、”技術”とは違うのでは?」とツッコミたくなるかもしれぬ。かく言う私がそうだ。ユーモアの欠片さえ持ち合わせていない自覚はあるので、著者が力強く「ユーモアは技術だから教えることができる」と言い切られると、疑いたくなる。

だが、本書を読むことで、ユーモアのセンスを学び、筋トレのように向上させることができると分かる。ユーモアとは筋肉のようなものだ。生まれつき筋肉質の人もいれば、そうでない人もいるが、トレーニングにより身に着けることができる。使わないと衰えるし、意識するほど磨かれてゆく。

ユーモアを筋トレする

では、どうすればその技術が身に付くのか?

エッセンスをかいつまむと、「事実」を見極め、そこから「驚き」と「ミスディレクション」を導き出せという。

ユーモアは何もない所から出てくるものではなく、必ず核心となる事実がある。その事実から不可解なことや不条理に気づき、それが予想外のやり方で解消されるとき、ユーモアが生まれてくる。

シンプルなジョークで説明する。

あなたは夕食会に参加している。最初の料理が出されてから30分も経ったころ、参加者がひとり会場に入ってきて、すごく申し訳なさそうに言う。

「遅れてすみません、来たくなかったもので」

すかさず「なら来んなや」とツッコミ入れたくなるが、思わずフフっとなるかもしれない。

このセリフがおかしいのは、率直な本音をぶちまけている点にある。普通なら、道が混んでたとか適当に言い訳するところだ。だが、「遅れてすみません」の次に出てくる言い訳として予想外のセリフが来たので、驚きとミスディレクションが生まれている。

社会科学から見ると、認知不協和でユーモアは説明できる。つまり、予想と実際に起きたことの不協和からユーモアが生まれるのだ。ダニエル・デネットは『ヒトはなぜ笑うのか』で同様のことを述べている。

ユーモアの情動が発動するとき、そこに何らかのエラーの発見があることに注目する。私たちは、ある知識や信念に不一致を見出したとき、可笑しみを感じる。私たちは、何かがおかしいと分かったとき、それを可笑しいと感じる。
適応としての笑い『ヒトはなぜ笑うのか』

N/A

ユーモアの核心には、共通した事実がある。だから、ユーモアを探すとき、「何か面白いものがないか?」ではなく「どんな事実が潜んでいるか?」と自問せよという。

ユーモアが失敗するとき

本書では、様々な手法が事例とともに紹介されている。

いかにも米国風なおふざけもあるし、かなり攻撃的なきわどいジョークもある(スタンダップという)。前に笑った内輪ネタをこする「コールバック」や、メールの追伸や会議終了の去り際を狙った「ピーク・エンド」など、今日から使えそうなものもある。

だが、スベったらどうする? ユーモアが不発しただけでなく、寒い空気になったら目も当てられない。

そんな人(私だ)のために、「ユーモアのグレーゾーンを切り抜ける」というタイトルで、丸々一章、割り当てられている。

何を面白いと思うか、どこまで適切だと感じるかは、万人共通というわけにはいかない。ユーモアのグレーゾーンを切り抜けるためには、「事実」「痛み」「距離」のバランスが重要だという。

ユーモアの核心となる事実が、辛いものだったりすると、無神経で不快なジョークとして受け取られることになる。また、恥ずかしいことや気まずいことが話題となる場合、その対象との距離感や、痛々しすぎないかを考える必要がある。

これはかなり難しい。そのトピックを共有するメンバーの空気を読む必要が出てくるからだ。「空気を読む」なんて日本人特有の仕草かと思いきや、本書で頻繁に出てくるので驚いた。政治的な正しさや、様々な思想的立場への「配慮」が求められるプレッシャーは、むしろ米国の方が強いのかもしれぬ。

他にも、「アイデンティティをネタにするな」「メール・対面・オンラインを使い分けろ」「出世したら自虐ネタだけにしろ」「やりすぎたら謝罪せよ、ごまかすな(重要)」など、べからず集が並んでいる。

そこに共通するメッセージは、「思いやりを持ち、TPOをわきまえて、可笑しみを共有せよ」になる。

難しいけれど、面白い挑戦になりそうだ。

なぜなら、著者の言う通り「ユーモアとは、人生を楽しくする習慣であり、誰かと一緒に笑い合う瞬間は、はかないながらも小さな愛の表現」なのだから。

| | コメント (0)

文学は精神に作用するテクノロジーだ『文學の実効』

N/A

「文学は役に立たない」という人がいる。

データに基づく科学とは異なり、文学は主観的な解釈をベースとしており、客観性・再現性は低い。小説を読んでも、実用的ではないという主張だ。

そんな人に真向勝負を挑んでいるのが、本書だ。

文学作品が人の心を動かすとき、脳内で起きている変化を神経科学の視点から解き明かす。感動は主観かもしれないが、客観的に計測でき、かつ再現可能なテクノロジーだと説く。

著者はアンガス・フレッチャー[Angus Fletcher]、神経科学と文学の両方の学位を持ち、スタンフォード大学で教鞭をとり、物語が及ぼす影響を研究するシンクタンクの一人である。

『オイディプス王』『ハムレット』『羅生門』『百年の孤独』など具体的な作品を挙げて、それらが脳のどの領域にどう作用し、それがどのような効果を及ぼしているかを説明する。

もちろん、受け継がれてきた作品は、それぞれの時代背景を反映している。そのため、当時の人が受けた影響が、そのまま現代の私たちに作用するとは限らない。

だが、時代を経て改良された技法は、新たな作品を作り出している。戯曲や詩歌、小説や映画、ゲームにおける「語り」によって、現代人の心に作用する。いわゆる古典だけに限らず、その名作の応用として、映画『ファニー・ゲーム』やゲーム『バイオショック』、ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』が紹介されている。

シェイクスピアの認知科学

例えば『ジュリアス・シーザー』。シェイクスピアの名作を、認知プロセスから説明しなおす。

視覚や聴覚をはじめ、人の脳に入ってくる情報は膨大で多様だ。一つ一つを吟味して真偽を判定するのは至難の業だ。まずは取り込んだ後、信念体系のふるいにかけて一部の情報を「偽」と判定している。

直感による判定は合理的で、捕食者から逃れるために短時間で素早く判断する上で役に立ってきた。その一方で、信念体系に反する情報は受け入れにくくなったり、第一印象に左右されやすいといった弊害もある(ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』を思い出す人もいるだろう)。

この弊害を乗り越えるために、どうすればよいか。

一つの方法は、『ジュリアス・シーザー』におけるアントニーの演説である。

信頼していた者に裏切られ、「ブルータス、お前もか!」というセリフを残し、シーザーが絶命した後の話である。暗殺に加担したブルータスは実権を握っており、言葉巧みに市民を丸め込んでいる。下手なことを言うと、こちらのクビが飛ぶ。

こんな状況の下、葬儀の場でアントニーは演説する。少し長いが、文学の「効果」を確かめるために引用する(光文社古典文庫『ジュリアス・シーザー』より)。

ここに私は、ブルータス、およびその同志一同の許しを得て―――ブルータスは、まこと公明正大の士であり、その同志の人々もまた、同じくみな公明正大の方々だが、その人々の許可の下に、私はシーザー追悼の言葉を述べる。彼は、私の友人だった。常に公正、誠実を尽くしてくれた。

だがブルータスはいう。彼は野望を抱いていたと。そして確かにブルータスは、公明正大の士である。

シーザーは、おびただしい捕虜をローマに連れ帰った。その身代金を、シーザーはいささかも私することなく、すべて国庫に納めて公の富となした。これが、野望を抱いた者のすることだったのだろうか?ローマの貧しい人々が飢えに泣いた時、シーザーは共に泣いた。野望を抱いた者の心に、そんなやさしさがあるものだろうか?

だがブルータスはいう、シーザーは野望に捉えられていたと。そしてブルータスは、確かに公明正大の士である。

諸君はみな目にしたはずだ。あのルパカリアの祭りの当日、私は彼に、王冠を三度捧げた。ところがシーザーは、三度これを拒んだではないか。これがはたして、野望に燃える者のすることか?

しかしブルータスはいう、シーザーは野望に燃えていたと。そしてブルータスは、確かに公明正大の士に違いあるまい。

N/A

まず、文中に繰り返される「ブルータスは公明正大の士である」が目につく。アントニーは、ブルータスを決して非難しない。それどころか、誠実であり、公正であると称える。

ブルータスへの称賛と交互に、シーザーの功績が淡々と語られる。ローマを愛し、私財を投げうって国庫を潤す一方、王冠を拒んだ等、様々なエピソードが展開される。

一方で、「ブルータスは公明正大の士である」というセリフが、呪文のように繰り返される。同じ文言を何度も聞くたびに、市民は「それは本当だろうか?」という疑いを抱き始める。「シーザーは野望を抱いたから殺した」というブルータスの言葉を吟味するようになる。

じっくり考えるようになった市民が、どう判断するかは戯曲を楽しんでもらうとして(Kindle Unlimited で読める)、結果は語るまでもないだろう。どのように心が動いたかは、いま、まさにあなたが体感した通りなのだから。

文学の歴史とは「心を動かす」イノベーションの歴史

最初の直感に囚われた人を説得するとき、「それは先入観だ」と指摘するのは逆効果だ。

もしアントニーが「ブルータスは公明正大ではない」と言い出したのであれば、市民はその言葉を拒絶し、反発しただろう。ローマを追われたのはアントニーだったかもしれない。

シェイクスピアの時代に『ファスト&スロー』は無かったが、人の認知の仕組みは昔も今も変わっていない。そして、先入観をリセットする方法も変わらない。

この技は、彼氏持ちの女の子を攻略するときの「彼の好きな所を10個教えて」を思い出す。

最初に出てくるのは、「優しいところ」だろう。次は「(私のことを)大事にしてくれるところ」かもしれない。その次は……と、色々考えるのだが、いずれネタが尽きてくる。「とにかく優しいところ!」と繰り返すことになる。

彼女はそのうち「こんなに彼のことが好きなのに『好きなところ』が出てこないなんて……」と感じ始めるかもしれない。自問させていくことで、信念(彼のことが大好き)と認知(彼の好きな点が少ない)が一致していないことを冷静に吟味させる。

もし「今の彼氏はたいしたことない」と言い出したのであれば、彼女はその言葉に反発し、逆効果だっただろう。昔はナンパ師、今はチャラ男の手管である。

本書にはチャラ男の技は紹介されていないものの、先入観をリセットする物語の例として、芥川『羅生門』、アチェベ『崩れゆく絆』、ヴォネガット『スローターハウス5』などが紹介されている。語りの反復や修正、語り直しの技法により認知不協和を促し、先入観を再考させる、文学のテクノロジーなのだという。

他にも、キャラや世界観、語りのパターンを拡大することで読者(もしくは観客)の注意を自分以外の外側に向けさせることで夢中・忘我の状態を作り出す「拡張」や、皮肉や風刺が読み手に作用し「神の視点」の感覚をもたらす「視点取得」など、様々なメカニズムが語られる。

文学が精神に作用する技法を、「勇気を奮い起こす」「苦悩を癒す」「頭をリセットする」といった25の目的別に分け、それぞれが精神に作用するメカニズムと、古典的な名作から最新のドラマまでを紐解いている。

世界文学+神経科学+人類史+進化心理学と欲張った一冊。

| | コメント (0)

「AIの限界をAIが超え始めていることを実感できる5冊」を紹介した

Photo_20231006111501

「身体を持たないAIは感覚を持たず、ヒトのように感情を理解することは無い」という人がいる。あるいは、「出現語彙を統計的に予測しているだけなので、『言葉の意味』は分かっていない」という主張を目にする。

言わんとすることは分かる。だが、意味や感情を理解しているかのように振舞えるのであれば、それは、「理解できている」と言えるのではないか。たどたどしい所もあるし、完璧には程遠いけれど、AIの限界をAIが超え始めているように見える。

その可能性を考える5冊について、レバテックLABで紹介した。

ChatGPTとの対話を繰り返し、「あたかもそう振舞う」ことと「本当に理解している」ことの境目がどこにあるかを模索し、そのゾーンを超えていくためにはどのようにすればよいかを、この5冊を用いて考えた。近い未来に、この答え合わせをしたい。

AIの限界をAIが超え始めていることを実感できる5冊

 

 

| | コメント (0)

« 2023年9月 | トップページ | 2023年11月 »