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知覚できないが実在するもの『天然知能』

お掃除ロボット「ルンバ」は、段差のないフローリングを自在に動き回り、人の代わりにキレイにしてくれる。小さな紙切れから、大事にしていた指輪まで、吸い込めるものは全て吸い込もうとする。

では、ゴミとは何なのか?

ルンバの発明者であり、MITの人工知能研究所の所長でもあるロドニー・ブルックスは、これ以上ない明確な回答をする。

「ルンバが吸い込んだものがゴミだ」

これは、人工知能の本質を見事にいい当てているという。ルンバにとって、自分では吸い込めない、大き目の紙コップや空缶は、ゴミとして認識されない。故にゴミではない。

もちろんルンバが改良され、カメラによって紙コップや空缶を認識し、正しく分別できる時代が来るかもしれない。だが、そのルンバが認識できない、粗大ゴミやネズミの死骸は、やはりゴミではない。さらに改良を重ねても同様で、自分が扱えないものはゴミとして認識できない……そういう思考様式だ。

一方で、天然知能は別の見方をする。自分が吸い込めるもの(=認知できるもの)が全てではないと考える。

自分の認知が及ばない外部があるのではないかという予感を抱こうとする。さらに、いったんは吸い込んだものも、ゴミであり、かつ、ゴミではないのかもしれないという猶予を抱く。いま吸い込んだのは大事なレシピをメモした紙きれかもしれないし、婚約指輪から転がり落ちた宝石かもしれない。

認識し得ないものも含め、常に「何かある」という余白を保ちながらゆるやかに繋がる―――天然知能という新しい概念を紹介したのが本書になる。現象学や量子論、決定論を援用しながら、奇妙かつユニークな説を展開する。

面白いのは、天然知能への理解が深まることで、自分が持っている人工知能の定義が書き変わるところ。いま私たちが人工知能と呼んでいるものは、天然知能を実装することによって、より人間に近い存在になる……そういう予感を抱かされる。

人工知能の限界

人工知能は、自分にとって意味のあるものだけを自らの世界に取り込み、自らの世界や身体を拡張し続けようとする。そこでも「外部」という世界が存在し、その世界とやり取りしているように見える。

だが、人工知能が「外部」と呼んでいるものは、自分にとって都合が良いものが集められた「世界」になる。自分が認識でき、自分の役に立ちそうなものだけが知覚されたものになる。自分にとって意味のないもの、邪魔なものはノイズとして処理され、目に入らない。

自分の世界に組み入れられるか否かが議論され、不要なものはそもそも存在しないことになる―――こうした見方は、物理学を始めとした自然科学的な態度に見える。世界とは、観測したり操作するものであり、観測や操作ができないものは、ガン無視するか、既知の現象に置き換えるか、新しい名前を付けて解決しようとする。

その結果、科学から逸脱した、どこまで想定してよいのか分からないような現象は、決して現れることはない。

この思考は、私が自然科学に抱いている考え方と近似している。ヒトが知覚できる範囲の数値として計測できるものや、最終的にヒトが理解可能な範囲内に留めて分析できるものだけが、「世界」となる。

例えば、2億年周期で発生する事象は、2億年前の観測データもないし、2億年後まで研究が引き継がれることも無いため、その事象がどれほど重大であっても認知され得ない。ヒトが開発した装置で観測できないほど巨大な、あるいは微細な事象は、それがどれほど重要であっても、無かったことにされる。

これらは単純な時空間のスケールでの例だが、全く異なる軸でしか観測できない存在だとしても同様だ。実は光には固有の強度があり、テラディア(teradia)の単位で表すことができるのだが、どれほど優れた計算機を用いても、ヒトが理解できるレベルの数式や理論で証明することができない(テラディアは私が作った架空の概念だ)。

どれほど科学が進歩しても、あくまでヒトに分かる範囲でしか世界を把握することができない。にもかかわらず、人工知能的な思考様式では、把握も認知もできない外側を「ないもの」として扱おうとする。人工知能の限界は、ここにある。

天然知能との接続

ヒトに理解できる数量に置き換え、計算することで意識や生命を理解する―――そのようなアプローチでは限界がある。その通りなのだが、そう言い切ってしまうと、現実の生命や意識はいつまでたっても逃げていってしまう。

だから、数量的な評価や計算主義に対抗する概念として、天然知能が定義されている。自然に根付いた知性を意味する「天然」というよりも、ピントのずれた感覚を揶揄する「てんねん」に近いニュアンスがある。

本書では、「太平洋を泳ぐイワシは実在するのか」「中国語を理解する中国語の部屋の作り方」といった思考実験を用いながら天然知能を紹介する。入口はお馴染みかもしれないけれど、間違いなく予想外のところまで連れて行ってくれる。

「太平洋をイワシの大群が泳いでいますか?」という質問に対し、人工知能であれば、蓄積されたイワシのデータを参照し、「太平洋」のデータから推定し、「イエス」と答えるに違いない。「イワシ」という記号をキーとして検索し、ヒットしたら検索を終了し、答えを生成する。

一方、天然知能にとってのイワシは、定義としてのイワシに限定されない。生きたイワシのイメージや、それ自体が一つの生物のように振舞う大群や、子どもの頃に見たフナの記憶や、激しい風に揺れる木の葉の映像が付いて回る。

押し寄せてくるイメージの総和がイワシの理解ではない。イメージは刻々と変化し、膨らみ続けることになるため、特定の「これがイワシ」という結果に留まらない。そのため、「何かあるぞ」という外部がつねに付きまとうことになる。

もちろんキリがない話だ。「質問-回答」が成立する範疇を、とっくに逸脱している。しかし、逸脱したイメージによって、イワシの実在を確信することができる。データにあるから「ある」という回答ではなく、自分とつながった存在として「はっきり分かる」⇒だから「いる」という回答なのだ。

「面白い」を生み出す天然知能

本書の範囲からはみ出るが、小説や映画を「面白い」と感じるのは天然知能の成せる技だと思う。

「面白い」を人工知能的に感じるのであれば、人類が面白いと感じる膨大なリストがあって、その検索上位にヒットしたら面白がるような仕組みになる。あるいは、「面白さ」を属性に分けておき、文脈に応じて最も近しい属性を数多く併せ持つものが、「面白い」ことになる。

一方、天然知能が感じる「面白い」は、自分の中にある匂いや触感、音や味も交えた体験を呼び覚まし、そのつながりの太さ・複雑さによって惹起される感情になる。想起されるイメージはとめどなく広がる一方で、「その」小説や「その」映画のそれぞれの具体的なストーリーにつながっており、新しいのに懐かしい感覚が押し寄せてくる。

進んでゆくストーリーと並走しながら、「まだ何かあるはずだ」という予感が絶えずつきまとい、プロットや登場人物から予想できない先を期待する。予想を上回る意外性を持ちつつ、かつ、その展開が自分の中の思いもよらない記憶や経験とつながるとき、人はそれを「面白い」と感じる。

天然知能は、認識の外から「やってくる」のを待ち受けるような存在になる。見ることも聞くこともできない、予想できないにも関わらず、その存在を感じ、現れたときに受け止めることができる。

たとえ紙コップや粗大ゴミを認識できなくても、太平洋を泳ぐイワシを見たことがなくても、認識の外側が「ある」ことが分かっている。吸い込んだ紙切れが、ゴミであり、かつゴミでないことの両方を受け入れることができる。押し寄せる過去のイメージから、イワシの存在を確信することができるのだ。



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