コーマック・マッカーシー5選
くり返し読み返す作家は少ないが、コーマック・マッカーシーの作品はその中に入っている。特に『すべての美しい馬』は今度も何度も読み返すだろう。小説でしか伝えられない美と残虐を、確かに受け取ったと信じさせてくれるからだ。
アメリカ文学を代表する作家の訃報に接し、わりと衝撃を受けている。あたりまえなのだが、人生は期限つきであり、生きて、読んでいられる時間は思ったより短いことを、あらためて思い知らされたから。
ここでは、お薦めの作品を5つ、紹介する。世界には美と残虐が仲良く同居しており、剥き出しになった暴力と向き合うときにこそ、人間とは何かが見えてくる作品だ。
ザ・ロード
氏の作品を知らない人向けの入口となる一冊。他と比べると短めで、作風と世界観を味わうのにうってつけだ。
カタストロフ後の世界を旅する、父と子の物語。
ゾンビのいない終末世界だとこんな風になるのだろう。劫掠と喰人が日常化した生き残りを避けて、南へ南へと移動する。食べ物を求めて?あるいは、食べられないように逃げるため? 残りの弾丸を数えながら、こんな地獄で我が子を育てるなら、いっそ……この「父」に、どうしても私を重ねてしまう。
他の作品にも共通するが、コーマック・マッカーシーには独特の文体がある。
地の文には読点が無い。そして、会話をくくるかっこ「 」も無い。ぜんぶフラットで全編独白のような文体になっている。その代わり、どこに注目すべきか、無駄も隙も否応もなく入ってくる。
やるべきことのリストなどなかった。今日一日があるだけで幸運だった。この一時間があるだけで。"あとで"という時間はなかった。今がその"あとで"だった。胸に押し当てたいほど美しいものはすべて苦悩に起源を持つ。それは悲しみと灰から生まれる。そうなんだ、と彼は眠っている少年にささやいた。パパにはお前がいる。
この文体により、色彩と時間を失った世界がとても"狭く"見える。俯瞰視点がないのだ。すべての動作は登場人物の見える範囲で完結しており、すべてのリアクションは息継ぎせずに語り終えられる。
わずかに残った人間は、既に人間をやめている。
幼いわが子が生きていく未来を案じ、苦しいほどの愛おしさを抱いている。この愛おしさは、作中の父と一致する。ラストのくだりで落涙するいっぽう、そこに至るまで父が「してこなかったこと」に真剣に腹を立てる。
映画にもなっているようだが、未見(予告編を見る限り雰囲気はそのまんま)。
ブラッド・メリディアン
「好き」と「推し」と「タイプ」は違う。『ザ・ロード』は「タイプ」だが、これは「推し」になる。
アメリカ開拓時代、暴力と堕落に支配された荒野を逝く男たちの話だ。
感情という装飾が剥ぎとられた描写がつづく。ふつうの小説のどのページにも塗れている、苦悩や憐憫や情愛といった人間らしさと呼ばれる心理描写がない。
確かに形容詞・副詞・直喩は並んでいるが、人間的な感覚を入り込ませないよう、最大限の努力を払っている。そこに死が訪れるのならすみやかに、暴力が通り抜けるのであれば執拗に描かれる。人の、ウェットな情緒が徹底的に削ぎ落とされた地獄絵図がつづく。
感情を伴わない暴力は、日没や降雨のような自然現象に見える。
しかも、その行為者が人間の場合、一種奇妙な感覚にとらわれる。即ち、その殺戮は必然なのだと。生きた幼児の頭の皮を剥ぐといった、こうして書くと残忍極まる行為でも、実行者は朝の歯磨きでもするかのようにごく自然にする。
もちろん行為の非道徳性を批判する者もいるが、どちらも感情が一切混じえてない会話・行動なので、読み手は移入させようがない。起きてしまったことは撤回されることはない。その意味では、読み手を拒絶しているようにも見える。
せいぜい読者ができるのは、自分の護るちっぽけな世界と比較してうなだれたり、生(き)のままの野性に食あたりするくらいだろう。ここには加工されていない野蛮が慎重に放置されている。小説ばかり読んで世界が分かった気になってる蛙たちはぺしゃんこになること請合う。あるいは理解を拒絶するだろう、自分を護るために。
ノー・カントリー・フォー・オールド・メン
これも「推し」、しかもイチオシになる。
小説を読んでキめられる経験なんて、めったにできない。だがこれは、血でつくったワインを一気に飲んだようにクる。
「追うものと追われるもの」であるストーリーはシンプルかつ特濃。描写も展開もムダが一切ない。キャラの扱い容赦なし。ぜい肉を削ぎ落とすだけでなく、闘うために最適化された文章である(闘う相手は読み手)。弛むことなくイッキに進むので、読み始めると、息をするヒマはなくなる。
予想していたどんな展開をも裏切っているにもかかわらず、ラノベやエンタメ系に飼いならされたハートは、絶望で満たされるに違いない。
「追うもの」シュガーのこのセリフが胸に沈み込む。
そのことでおれに発言権はない。人生の一瞬一瞬が曲がり角であり人はその一瞬一瞬に選択をする。どこかの時点でおまえはある選択をした。そこからここにたどり着いたんだ。決算の手順は厳密だ。輪郭はきちんと描かれている。どの線も消されることはありえない。
「そうなる運命だった」などと呑気な物語ではない。シュガーに殺されることは、ごく当たり前の、動かしがたい自然現象のように見える(ブラッド・メリディアンと同じく)。
コーマック・マッカーシーの作品には、必ずと言っていいほど、「悪人」が登場する。人を殺すといった悪行をするから悪人というわけではなく、人を殺すことと水を飲むことを同じくらい自然にできるくらいの悪である。竜巻や落雷といった災害のような人の形をした絶対悪である。
コーエン兄弟により映画化されている。チェンソーマンのOPにシュガーが出てきたときには鳥肌が立った。
すべての美しい馬
好き好き大好き超あいしてるのがこれ、時代遅れのカウボーイたちの話。
舞台は1949年のテキサス、モータリゼーションが行き渡ったアメリカ合衆国で生まれたジョン・グレイディは友人と共に、馬でメキシコを目指す。
彼は口数が少なく、感情を出さず、馬を愛し、馬と共に生きようとする。名誉を守り、自分の中にある理想主義を貫こうとする。彼が笑うシーンは2回あるが、2回とも馬に関連してである。16歳なのに老成している、一人前の男というイメージで、まるで西部劇のような旅である。
シカを撃ち、火を焚き、馬に水を飲ませ、旅を続ける。知識と技術と経験を活かし、自らの力で自然の中で生きようとすると、必然的にその場所は、アメリカ合衆国でなくなる。アメリカ文明がまだ到達していない場所―――かつてフロンティア(辺境)と呼ばれていた西部よりも西部にある場所を目指す。ヒロインが登場し、独裁的な悪役と対決し、銃撃戦や追跡シーンがある。
どう見ても西部劇のような舞台なのに、西部劇とはまるで違うストーリーになっている。
未開だった西部はハイウェイが走っており、馬は避けねばならない。魂だけはチャレンジスピリットと言えるが、その信念は運命の荒波にもまれ、泡のように消え去る。独裁者には独裁者の事情があり、岡目八目で言うなら、主人公のほうが「悪役」である。奇跡的な出会いに見えるロマンスは、血と偶然が成し得たものだ。
そして何よりも、勧善懲悪ではない。
主人公は決して善ではない。善であろうと望んでも、運命がそうはさせない。主人公が選んだ行為は、生きるための最善だったかもしれないが、「善」ではない。決着はするものの「どうしてこうなった」とも言える物語なのだ。
自由と独立の精神は、アメリカ人のアイデンティティそのものであり、この精神性を担保するために、さまざまな物語が作られてきた。そこではヒーロー(英雄)が登場し、悪を倒す。アメリカの国是とも言えるストーリーが、舞台や小道具はそのままに、組み替えなおされ、トドメを刺して終わらせたのが、『すべての美しい馬』なのだ。
20年前に出会って以来、何度も何度も読んできた。今は原著で読んでいる。これからも何度も読み直すだろう、私にとっての「好き」な一冊。
映画化されているが、見てはいけない。
越境
コーマック・マッカーシーの最高傑作を、一冊だけ挙げよと問われれば、これになる。「好き」「推し」「タイプ」の全てが重なるのも、これだ。
彼の代表作は、国境三部作(ボーダー・トリロジー)と呼ばれている。この二作目だ。
- すべての美しい馬(All the Pretty Horses,1992)
- 越境(The Crossing,1994)
- 平原の町(Cities of the Plain,1998)
主人公はビリー、16歳の少年だ。
罠で捉えたオオカミを、メキシコの山へ返してやろうと国境を越える。ビリーを待つ過酷な運命はここに書くことができない。だが、主人公であるからには、見聞する必要がある。それぞれの運命を全うした人たちが物語る言葉を聴き、証人として生き延びる必要があるのだ。
ビリーは三度、国境を越える。最初は傷ついたオオカミを返すため。その次は、最初の旅により引き起こされた出来事の落とし前をつけるため。そして最後は、それまでの旅を終わらせるため。
物語における旅とは、しがらみから逃れ、冒険へ召喚され、境界を超越し、様々な危険を冒した後、賜物を携えて帰ってくるものだ。国境を越えることで、二度ともとには戻れない旅に出るのだが、帰郷するたびに大きなものを失っていることに気づく。ビルドゥングスロマンの体(てい)なのに、喪失の物語なのだ。
大切なものを失う一方で、出会う人々から様々な物語を聴かされる。純粋に暴力的な世界を淡々と描くマッカーシー節が光るのはここだ。
最も印象に残ったのは、メキシコ革命を生き延びた盲目の老人の話だ。
彼は反乱軍だったが、捕虜となり銃殺されそうになる。敵のドイツ人が「こんな間違ったしかも勝ち目のない大義のために死ぬのはよっぽど馬鹿げたことだ」と嘲ると、彼は唾を吐きかける。ドイツ人は奇妙なことに、かかった唾を綺麗に舐めとり、彼の顔を両手で挟み、まるでキスをするかのように顔を近づけてくる。
だがそれはキスではなかった。捕虜の顔を両手で抑えて背をかがめたところはフランスの軍隊でやるような両側の頬へのキスのようにも見えたが、そのドイツ人がしたのは頬をきゅっと窄めて相手の目玉をひとつずつ吸い出し吐き出すことだったのであり、こうして若い砲手の頬の上に濡れた二つの目玉が紐のような神経をだらりと伸ばしてぶら下がりゆらゆら揺れるという奇怪な事態が生じたのだった。
みんなはスプーンで目玉を眼窩に戻してやろうとしたがうまくいかず、目玉は彼の頬の上で放置された葡萄のように乾いていき世界は次第に暗くなり色を失いやがて完全に消えてしまう。
彼は銃殺を免れ、追放されるのだが、そのまま彷徨い続けることになる。ドイツ人がなぜそんなことをしたのか、その行為に何の意味があるのか、一切、語られない。自然現象のような悪と暴力が蔓延している。
他にも、間違って英雄にされて殺された男の話、二つの飛行機を山から降ろす話を聞かされる。後半のほとんどは、誰かがビリーに物語るエピソードで埋め尽くされている。代わりに、ビリーが主人公のように行動することは無くなってゆく。まるで、ビリーは物語によって生かされているかのように思えてくる。
人生は思い出であり、そして思い出が消えれば無になる。だからこそ、人は思い出を物語ろうとする―――読んでいる途中、こんな声が通底音のように響いていた。『越境』も、人生をかけてくり返し読むことになるだろう。
以上5作品を紹介した。それぞれの詳細レビューは以下にある。
後半につれて癖が強く、マッカーシー節が前面に出てくるため、万人にお薦めはできぬ。だが、時間をかけて小説を読むことでしか摂取できない強烈な感情があるとするならば、コーマック・マッカーシーはまさにうってつけの作家だろう。
ハヤカワ書房のお知らせによると、遺作となった『The Passenger』『Stella Maris』を近刊するとのこと。新しい作品を読むのはこれが最後になるのは残念だが、心待ちにしている。Kindle期間限定キャンペーンで安価に手に入るので、ぜひ読んで欲しい。
よい作品で、よい人生を。
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