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コーマック・マッカーシー5選

くり返し読み返す作家は少ないが、コーマック・マッカーシーの作品はその中に入っている。特に『すべての美しい馬』は今度も何度も読み返すだろう。小説でしか伝えられない美と残虐を、確かに受け取ったと信じさせてくれるからだ。

アメリカ文学を代表する作家の訃報に接し、わりと衝撃を受けている。あたりまえなのだが、人生は期限つきであり、生きて、読んでいられる時間は思ったより短いことを、あらためて思い知らされたから。

ここでは、お薦めの作品を5つ、紹介する。世界には美と残虐が仲良く同居しており、剥き出しになった暴力と向き合うときにこそ、人間とは何かが見えてくる作品だ。

ザ・ロード

氏の作品を知らない人向けの入口となる一冊。他と比べると短めで、作風と世界観を味わうのにうってつけだ。

カタストロフ後の世界を旅する、父と子の物語。

ゾンビのいない終末世界だとこんな風になるのだろう。劫掠と喰人が日常化した生き残りを避けて、南へ南へと移動する。食べ物を求めて?あるいは、食べられないように逃げるため? 残りの弾丸を数えながら、こんな地獄で我が子を育てるなら、いっそ……この「父」に、どうしても私を重ねてしまう。

他の作品にも共通するが、コーマック・マッカーシーには独特の文体がある。

地の文には読点が無い。そして、会話をくくるかっこ「 」も無い。ぜんぶフラットで全編独白のような文体になっている。その代わり、どこに注目すべきか、無駄も隙も否応もなく入ってくる。

やるべきことのリストなどなかった。今日一日があるだけで幸運だった。この一時間があるだけで。"あとで"という時間はなかった。今がその"あとで"だった。胸に押し当てたいほど美しいものはすべて苦悩に起源を持つ。それは悲しみと灰から生まれる。そうなんだ、と彼は眠っている少年にささやいた。パパにはお前がいる。

この文体により、色彩と時間を失った世界がとても"狭く"見える。俯瞰視点がないのだ。すべての動作は登場人物の見える範囲で完結しており、すべてのリアクションは息継ぎせずに語り終えられる。

わずかに残った人間は、既に人間をやめている。

幼いわが子が生きていく未来を案じ、苦しいほどの愛おしさを抱いている。この愛おしさは、作中の父と一致する。ラストのくだりで落涙するいっぽう、そこに至るまで父が「してこなかったこと」に真剣に腹を立てる。

映画にもなっているようだが、未見(予告編を見る限り雰囲気はそのまんま)。

ブラッド・メリディアン

「好き」と「推し」と「タイプ」は違う。『ザ・ロード』は「タイプ」だが、これは「推し」になる。

アメリカ開拓時代、暴力と堕落に支配された荒野を逝く男たちの話だ。

感情という装飾が剥ぎとられた描写がつづく。ふつうの小説のどのページにも塗れている、苦悩や憐憫や情愛といった人間らしさと呼ばれる心理描写がない。

確かに形容詞・副詞・直喩は並んでいるが、人間的な感覚を入り込ませないよう、最大限の努力を払っている。そこに死が訪れるのならすみやかに、暴力が通り抜けるのであれば執拗に描かれる。人の、ウェットな情緒が徹底的に削ぎ落とされた地獄絵図がつづく。

感情を伴わない暴力は、日没や降雨のような自然現象に見える。

しかも、その行為者が人間の場合、一種奇妙な感覚にとらわれる。即ち、その殺戮は必然なのだと。生きた幼児の頭の皮を剥ぐといった、こうして書くと残忍極まる行為でも、実行者は朝の歯磨きでもするかのようにごく自然にする。

もちろん行為の非道徳性を批判する者もいるが、どちらも感情が一切混じえてない会話・行動なので、読み手は移入させようがない。起きてしまったことは撤回されることはない。その意味では、読み手を拒絶しているようにも見える。

せいぜい読者ができるのは、自分の護るちっぽけな世界と比較してうなだれたり、生(き)のままの野性に食あたりするくらいだろう。ここには加工されていない野蛮が慎重に放置されている。小説ばかり読んで世界が分かった気になってる蛙たちはぺしゃんこになること請合う。あるいは理解を拒絶するだろう、自分を護るために。

ノー・カントリー・フォー・オールド・メン

これも「推し」、しかもイチオシになる。

小説を読んでキめられる経験なんて、めったにできない。だがこれは、血でつくったワインを一気に飲んだようにクる。

「追うものと追われるもの」であるストーリーはシンプルかつ特濃。描写も展開もムダが一切ない。キャラの扱い容赦なし。ぜい肉を削ぎ落とすだけでなく、闘うために最適化された文章である(闘う相手は読み手)。弛むことなくイッキに進むので、読み始めると、息をするヒマはなくなる。

予想していたどんな展開をも裏切っているにもかかわらず、ラノベやエンタメ系に飼いならされたハートは、絶望で満たされるに違いない。

「追うもの」シュガーのこのセリフが胸に沈み込む。

そのことでおれに発言権はない。人生の一瞬一瞬が曲がり角であり人はその一瞬一瞬に選択をする。どこかの時点でおまえはある選択をした。そこからここにたどり着いたんだ。決算の手順は厳密だ。輪郭はきちんと描かれている。どの線も消されることはありえない。

「そうなる運命だった」などと呑気な物語ではない。シュガーに殺されることは、ごく当たり前の、動かしがたい自然現象のように見える(ブラッド・メリディアンと同じく)。

コーマック・マッカーシーの作品には、必ずと言っていいほど、「悪人」が登場する。人を殺すといった悪行をするから悪人というわけではなく、人を殺すことと水を飲むことを同じくらい自然にできるくらいの悪である。竜巻や落雷といった災害のような人の形をした絶対悪である。

コーエン兄弟により映画化されている。チェンソーマンのOPにシュガーが出てきたときには鳥肌が立った。

すべての美しい馬

好き好き大好き超あいしてるのがこれ、時代遅れのカウボーイたちの話。

舞台は1949年のテキサス、モータリゼーションが行き渡ったアメリカ合衆国で生まれたジョン・グレイディは友人と共に、馬でメキシコを目指す。

彼は口数が少なく、感情を出さず、馬を愛し、馬と共に生きようとする。名誉を守り、自分の中にある理想主義を貫こうとする。彼が笑うシーンは2回あるが、2回とも馬に関連してである。16歳なのに老成している、一人前の男というイメージで、まるで西部劇のような旅である。

シカを撃ち、火を焚き、馬に水を飲ませ、旅を続ける。知識と技術と経験を活かし、自らの力で自然の中で生きようとすると、必然的にその場所は、アメリカ合衆国でなくなる。アメリカ文明がまだ到達していない場所―――かつてフロンティア(辺境)と呼ばれていた西部よりも西部にある場所を目指す。ヒロインが登場し、独裁的な悪役と対決し、銃撃戦や追跡シーンがある。

どう見ても西部劇のような舞台なのに、西部劇とはまるで違うストーリーになっている。

未開だった西部はハイウェイが走っており、馬は避けねばならない。魂だけはチャレンジスピリットと言えるが、その信念は運命の荒波にもまれ、泡のように消え去る。独裁者には独裁者の事情があり、岡目八目で言うなら、主人公のほうが「悪役」である。奇跡的な出会いに見えるロマンスは、血と偶然が成し得たものだ。

そして何よりも、勧善懲悪ではない。

主人公は決して善ではない。善であろうと望んでも、運命がそうはさせない。主人公が選んだ行為は、生きるための最善だったかもしれないが、「善」ではない。決着はするものの「どうしてこうなった」とも言える物語なのだ。

自由と独立の精神は、アメリカ人のアイデンティティそのものであり、この精神性を担保するために、さまざまな物語が作られてきた。そこではヒーロー(英雄)が登場し、悪を倒す。アメリカの国是とも言えるストーリーが、舞台や小道具はそのままに、組み替えなおされ、トドメを刺して終わらせたのが、『すべての美しい馬』なのだ。

20年前に出会って以来、何度も何度も読んできた。今は原著で読んでいる。これからも何度も読み直すだろう、私にとっての「好き」な一冊。

映画化されているが、見てはいけない。

越境

コーマック・マッカーシーの最高傑作を、一冊だけ挙げよと問われれば、これになる。「好き」「推し」「タイプ」の全てが重なるのも、これだ。

彼の代表作は、国境三部作(ボーダー・トリロジー)と呼ばれている。この二作目だ。

  • すべての美しい馬(All the Pretty Horses,1992)
  • 越境(The Crossing,1994)
  • 平原の町(Cities of the Plain,1998)

主人公はビリー、16歳の少年だ。

罠で捉えたオオカミを、メキシコの山へ返してやろうと国境を越える。ビリーを待つ過酷な運命はここに書くことができない。だが、主人公であるからには、見聞する必要がある。それぞれの運命を全うした人たちが物語る言葉を聴き、証人として生き延びる必要があるのだ。

ビリーは三度、国境を越える。最初は傷ついたオオカミを返すため。その次は、最初の旅により引き起こされた出来事の落とし前をつけるため。そして最後は、それまでの旅を終わらせるため。

物語における旅とは、しがらみから逃れ、冒険へ召喚され、境界を超越し、様々な危険を冒した後、賜物を携えて帰ってくるものだ。国境を越えることで、二度ともとには戻れない旅に出るのだが、帰郷するたびに大きなものを失っていることに気づく。ビルドゥングスロマンの体(てい)なのに、喪失の物語なのだ。

大切なものを失う一方で、出会う人々から様々な物語を聴かされる。純粋に暴力的な世界を淡々と描くマッカーシー節が光るのはここだ。

最も印象に残ったのは、メキシコ革命を生き延びた盲目の老人の話だ。

彼は反乱軍だったが、捕虜となり銃殺されそうになる。敵のドイツ人が「こんな間違ったしかも勝ち目のない大義のために死ぬのはよっぽど馬鹿げたことだ」と嘲ると、彼は唾を吐きかける。ドイツ人は奇妙なことに、かかった唾を綺麗に舐めとり、彼の顔を両手で挟み、まるでキスをするかのように顔を近づけてくる。

だがそれはキスではなかった。捕虜の顔を両手で抑えて背をかがめたところはフランスの軍隊でやるような両側の頬へのキスのようにも見えたが、そのドイツ人がしたのは頬をきゅっと窄めて相手の目玉をひとつずつ吸い出し吐き出すことだったのであり、こうして若い砲手の頬の上に濡れた二つの目玉が紐のような神経をだらりと伸ばしてぶら下がりゆらゆら揺れるという奇怪な事態が生じたのだった。

みんなはスプーンで目玉を眼窩に戻してやろうとしたがうまくいかず、目玉は彼の頬の上で放置された葡萄のように乾いていき世界は次第に暗くなり色を失いやがて完全に消えてしまう。

彼は銃殺を免れ、追放されるのだが、そのまま彷徨い続けることになる。ドイツ人がなぜそんなことをしたのか、その行為に何の意味があるのか、一切、語られない。自然現象のような悪と暴力が蔓延している。

他にも、間違って英雄にされて殺された男の話、二つの飛行機を山から降ろす話を聞かされる。後半のほとんどは、誰かがビリーに物語るエピソードで埋め尽くされている。代わりに、ビリーが主人公のように行動することは無くなってゆく。まるで、ビリーは物語によって生かされているかのように思えてくる。

人生は思い出であり、そして思い出が消えれば無になる。だからこそ、人は思い出を物語ろうとする―――読んでいる途中、こんな声が通底音のように響いていた。『越境』も、人生をかけてくり返し読むことになるだろう。

以上5作品を紹介した。それぞれの詳細レビューは以下にある。

後半につれて癖が強く、マッカーシー節が前面に出てくるため、万人にお薦めはできぬ。だが、時間をかけて小説を読むことでしか摂取できない強烈な感情があるとするならば、コーマック・マッカーシーはまさにうってつけの作家だろう。

ハヤカワ書房のお知らせによると、遺作となった『The Passenger』『Stella Maris』を近刊するとのこと。新しい作品を読むのはこれが最後になるのは残念だが、心待ちにしている。Kindle期間限定キャンペーンで安価に手に入るので、ぜひ読んで欲しい。

よい作品で、よい人生を。

 

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うんこを限界までガマンしたことがある人たちと、限界を突破した悲しみを知る全ての人たちに贈るアンソロジー『うんこ文学』

大人になってから、うんこを漏らしたことがあるだろうか?

私はある。

妻が「彼女」だった頃、同棲先の彼女のマンションで漏らした。西友で買い忘れたものがあるという彼女を残して、鍋の具材を運んでいたときだ。

お腹の調子が悪かったのは覚えている。体の中心に熱泥が吊り下がるような感覚があった。西友のトイレを使わせてもらえばよかったことも覚えている。

だが、間に合うだろうと考えていた。目算を誤らせたのは、食材の重さによる移動速度の低下と、彼女のマンションまでの道のりである。一緒に暮らし始めて間もないため、道を間違えたのだ。

真冬にも関わらず脂汗を流し、全身の筋肉を一点に集中させ、そのことだけは許されまいという思考だけが頭を支配し、奇妙にねじくれた足取りで、走るな、走れば破局だと言い聞かせながら急いだ。

ようやくマンションが見えてきたのだが、時はすでに遅かった。パニックに陥った群衆のように、熱泥は噴流と化し、我先に通り抜けていった。両手に西友の袋を持ったまま、かなり前かがみになって歩いた。

カイジの「ぐにゃあ」は本当だ。悔しさと絶望で顔が歪み、涙で視界が捻じれるとき、まさにあんな風に「ぐにゃあ」となる。

しかし、まだリカバリーは効く。

彼女はまだ帰ってきていない。

壊滅的な下着とズボンを、猛スピードで処分すればいい(不幸中の幸いで、靴にまで被害は及ばなかった)。汚染衣類はビニール袋に入れて口を縛り、点々と垂れた証拠は全て拭き取り、シャワーを下半身だけ浴び、窓を全開にして換気し、完全隠滅を図った。

帰ってきた彼女は気づいた様子もなく、なぜ服が変わったのかも質問せず、何事も無かったかのように鍋をした。もし「知らないフリ」をしてくれたのなら、私は、すばらしい女性を妻に迎えることができた果報者である。

「うんこを漏らす」アンソロジー

なぜこんな話をしたかというと、『うんこ文学』を読んだからである。「うんこを漏らす」という一点だけを追求し、純文学、エンタメ、エッセイ、自伝、評論、落語、漫画など、様々な分野を横断して集めたアンソロジーである。

編者は頭木弘樹さんで、それぞれの作品の解説を読むと、「こいつ、分かってくれる奴」と思える。耐える苦しみと、漏らす悲しみの両方について、分かり合い、手を握り合える人だ。

編集の妙が冴えているのは、シチュエーションごとにまとめている点にある。例えば……

  • 帰り道で漏らす
  • 家から最も遠い地点で漏らす
  • 大勢の前で漏らす
  • 漏らさせられる
  • 女の子が大を漏らす
  • トイレを使わせてもらえない

単純に「漏らす」という帰結を述べるだけではない。

どんな人物が、どんな事情で、忍耐と苦悩と絶望を味わったのか、さらには、人間の尊厳をどうやって守ろうとしたのか、一目で分かるように分類されている。漏らさないために限界まで耐えた人は、同じ苦悩をそこに見るだろう。そして、不幸にも臨界突破してしまった人には、一抹の悲しみと同情の余地をそこに見出すだろう。

スカトロ満載の筒井康隆『コレラ』にはめちゃくちゃ爆笑した後、まさに今のコロナじゃんと真顔になり、(おそらく実体験を告白した)尾辻克彦『出口』では、その切羽詰まり具合にこちらも熱くなった。ヤン・クィジャ『半地下生活者』では、トイレが無い賃貸があることを知った(トイレが共同という意味ではなく、本当にトイレがない住居)。

『うんこ文学』に入れたい作品

爆笑したり神妙になったり、切実な思いが伝わってくる作品ばかりだが、「それを入れるならこれも」と入れたい作品もある。

例えば、「女の子が大を漏らす」だ。本書では、『つる姫じゃ~っ!』(土田よしこ)のギャグマンガを挙げているが、私なら安達哲『お天気お姉さん』を推したい。

ニュース番組で明日の天気をお伝えする看板女子アナ「お天気お姉さん」の座をかけた仁義なき女同士の闘いを描いた傑作である。

先輩のイヤガラセに対して主人公が反撃するのだが、本番直前に「馬用の下剤」を飲ませることに成功する。急速に襲ってくる下り腹を精神力と腹筋で押さえつつ、生放送本番に挑む先輩の姿は、完全にえっちです。

また、お尻を拭く最高の素材を紹介するラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』が掲載されているのなら、「どのバナナの皮がお尻を拭くのに最高か」をレビューしている開高健の『オーパ』を外せない。

他にも、便意をガマンしながら「蟻に刺された芋虫」のように中学受験の試験を受ける下村湖人の教養小説『次郎物語』や、本屋に行くとトイレに行きたくなる青木まりこ現象を逆利用するエッセイ『本の虫の本』を入れたい。

野グソをするために茂みに入ったら、やはり用足し中の女性と出会う男の人生を描いた山本康人『鉄人ガンマ』なんて、「うんこで人生が変わった」最たるものだろう。

うんこをガマンすること、そこから解放されること、そして漏らしてしまうことは、切実な問題なり。にも関わらず日陰に追いやられているように見える。

耐える苦しみと漏らす悲しみを知る全ての大人たちに贈りたい。

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システム開発に銀の弾丸はないが「金の弾丸」ならある『人が増えても速くならない』

例えばソフトウェア開発において、

  • 人が増えても納期が短くなるとは限らない
  • 見積もりを求めるほどに絶望感が増す
  • 納期をゴリ押すと、後から品質はリカバリできない

これを見て、「だよねー」「あるあるw」という人は、本書を読む必要はない。

プログラミングは人海戦術で何とかならないし、「厳密に見積もれ」というプレッシャーは見積額を底上げするし、納期が優先されて切り捨てられた品質は、技術的負債として残り続ける。経験豊富なエンジニアなら、大なり小なり、酷い目に遭ってきただろうから。

だが、これらを理解できない人がいる。

  • 要員を追加して、手分けしてやれば一気に片付くはず
  • 厳密にやれば、見積りバッファーはゼロにできる
  • 品質のことはリリース後にじっくりやればいい

……などと本気で考えている。これは、ソフトウェア開発とはどういうものか、特性を知らないからだ。こんな無知な人間が経営層にいたり、顧客の代表となった場合、プロジェクトに赤信号が灯る。

そんな場合にどうするか?

無知な経営層・顧客には、「妊婦が10人が集まっても、来月に赤ちゃんは生まれてこない」とか「ゴーイングコンサーンの不確実性と同じように、見積もりの解像度を完璧にできない」などと説明してきたが、代替わりする度に同じ説明をするハメになる。

ソフトウェア開発の特性を要約し、「べからず集」をまとめたものはないだろうか。

例えば、ブルックス『人月の神話』やデマルコ『ピープルウェア』などの名著があるが、あれはエンジニア向けの「あるある集」であり、あれ読んで「分かるー」という人は、さんざん酷い目に遭ってきた人たちである(ボリュームもそれなりにある)。

そうしたエッセンス的なものを濃縮し、経営層向けにまとめたものが、本書だ。

100ページちょいでサクッと読める手軽さが良い。経営用語に置き換えたり、現場での会話を再現したり、経営層に分かるような工夫が凝らされている。さらに、カネを握る立場ならではの提案が成されており、「マネジメント層はまずこれ読め」とお勧めできる。

銀の弾丸はないが「金の弾丸」はある

ソフトウェア工学の聖書とも呼ばれる『人月の神話』には「狼人間を撃つ銀の弾丸は無い」とある。ソフトウェア開発において万能の特効薬なんて無いという喩えだ。

だが本書では「金の弾丸」が提案されている。カネで人を集めて人海戦術でしのぐといったものではなく、生産性を比較的容易に高める投資だ。

それは、「エンジニアが働く環境に投資すること」だという。

効果が出やすいのは、エンジニアが利用しているPCを高性能にすることになる。コンピュータの処理速度が速くなる分、人の待ち時間が減ることになり、その分、生産性は向上する。

あるいは、大きな4Kディスプレイを複数用意するとか、性能の良いキーボード、マウス、椅子や机にすることで、エンジニアが働く環境全体を良くする。さらにChatGPTなどAIに課金して各自で使えるようにすることで、エンジニア一人あたりの生産性を高めることができる。

物理的にPCの性能を上げるのではなく、クラウドに移管して、クラウドの性能を増強することも有効だという。

プロジェクト指向からプロダクト指向へ

人を増やしても速く作ることはできない。人を増やすほど、新メンバーがキャッチアップするための教育コスト、コミュニケーションコスト、タスク割りの手間がかかり、逆効果になることがある。

ではどうするか?

速く作ることはできないが、「速く作れるチーム」は作れるという。速く作れるチームとは、メンバー同士の信頼関係があり、心理的安全性が高く、ソフトウェア開発についてのポリシーが揃っている。そんな歴戦のチームなら、難度の高いソフトウェアであっても速く作ることは可能だという。

ただし、そうしたチームを作るのに時間がかかる。ソフトウェアを育てていくのと同時に、それを開発するチームを育成してゆくことが重要だと説く。

そのためには、目的と期間が限定される「プロジェクト」という考え方から離れ、バージョンアップを継続し改善していく「プロダクト」を目指せという。確かにプロジェクトだと、目的を達成したらメンバーは解散という前提が裏にある。

プロダクト指向とは、エンジニア向けに言うなら、開発&運用を組み合わせたDevOpsのことだろう。あるいは、ユーザに使ってもらいながら、チームとソフトウェアが共に育っていくアジャイル開発のことかもしれぬ(本書が良いのは、そういう用語を使わずに説明しているところ)。

現実がそうであるように、ソフトウェアは完全ではない。変化に適応するために、不完全さを受け入れろと説く。エンジニアにとっては「あたりまえ」の問題ばかりだが、それを経営層が理解していないことが問題なのだ。そのギャップを埋めてくれる最適な一冊。

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ChatGPTをドラえもんに進化させる6ステップ

N/A

わかった風なオトナは、現代を「答えのない時代」と呼びたがる。

いわゆる、「正解が無い」という意味だろう。そして若者に向かって、「今までのやり方は通用しない」と脅す。正解を探すよりも、選んだ答えを正解にする努力が必要だとドヤる。

これは、知的怠惰だ。

正解の領域がハッキリしたものと、予測不能なものがあるだけだ。いつの時代でも同じことで、答えを求めて問い続けることが重要だ。「正解が無い」からといって問うのを切り捨てるのは、問うのを止めた言い訳に過ぎぬ。「今までのやり方は通用しない」のは当のオトナなのである。

では、予測不能なものを、どう正解に近づけるか?

それは、問いの精度による。

漠然とした問いだと、漠然とした答えしか返ってこない(Garbage In, Garbage Out)。「未来はどうなる?」という問いからは、無数の答えに不安になる。だが、「未来をどうする?」という問いなら、答えは「私なら……」に絞られてくる。そして、その答えをどう実現するかを考え始めることができる。良い問いは、良い答えへの探求を促す。

良い問いと答えへの探求、そして触ることができる答えが紹介されているのが、『温かいテクノロジー』である。

著者は、人型ロボットPepper(ペッパー)くんや、家庭用ロボットLOVOT(らぼっと)を開発した林要氏だ。「AIやロボットの発展は人を幸せにするのか」といった漠然とした疑問について、様々な側面から掘り下げ、問いの精度を上げたうえで、一つの解を示してくれる。それが、「温かいテクノロジー」なのだ。

生産性のためだけにロボットは存在する?

例えば、「ロボットの存在意義は、利便性の向上か?」という問いだ。

ロボットの語源となったチェコ語「robota(ロボタ)=労働」の意味通り、人よりも安価かつ効率的に働いてくれるものが、ロボットという存在だった。心を持たず、疲れを知らず、同じ作業を何度も繰り返すことができ、「生産性や利便性の向上」こそ至上とされていた。

これに疑問を抱くようになったきっかけとして、ペッパーくんの初期開発のエピソードが紹介されている。

現場でトラブルが生じ、ペッパーくんが起動しなくなったことがあったという。試行錯誤を繰り返していたとき、周りで見ていた人から「ペッパーくんがんばれ」と声援が上がったという。そして、なんとか起動に成功したとき、その場にいた全員が喜んだという。

それまで、「ロボットが人のために何かをする」ことが価値だと思っていたが、「人がロボットを助ける」ことで、助けた人が嬉しくなるということに気づいたというのだ。

また、ペッパーくんの改善要望として「手を温かくしてほしい」というリクエストや、言葉が通じない国では「ハグできるロボット」として大人気だったことを踏まえて、ロボットの存在意義の多様性に目を向けるようになる。

「AIが人を排除する」発想はどこから来るのか?

利便性の向上には貢献しないけれど、ただ存在するだけで意味がある―――そんなロボットの開発の中で、「AIが人を排除する」という発想を深掘りするようになる。

ロボットやAIの発展に伴い、人の仕事が奪われ、最終的には人類は不要の存在となる……世の中には、そう考える人が少なからずいる。ビジネス誌の煽り文句「ChatGPTで消える職業」に乗せられ、AIを脅威だと考える人たちだ。

本書では、「AIが人を排除するのか?」ではなく、「なぜAIを脅威だと考える人がいるのか?」と問い直す。

この発想の底に、フランケンシュタイン・コンプレックスがあるのではないかと指摘する。メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』に由来する言葉で、人造人間を創造するあこがれと、その人造人間によって人類が滅ぼされるのではないかという恐怖が入り混じった心理だ(映画『ターミネーター』が分かりやすいかも)。

そして、利便性があり、効率的である存在ならば、それは人類に取って代わることができるという発想の底に、「生産性こそ全て」とする価値観を喝破する。

そもそもぼくらは、なにを恐れるべきなのでしょうか。「人類がいらなくなる」という発想自体、AIが導き出したものではありません。AIやテクノロジーを使って、効率化して、生産性を上げたい。その延長線上で、「だれかが排除されてもしかたない」と考えるのも「自分は排除されたくない」と望むのも、どちらも人類です。

「人類は不要だ」とする根っこには生産性至上主義が横たわっているというのだ。

ロボットを作るとは人間を知ること

生産性に全振りする価値観から離れたところで、「人を幸福にするロボットとは何か」を模索する。

その経緯は「幸福とは何か」「愛とは何か」「人はどんなときに愛を感じるのか」といった問いに置き換わり、LOVOTの開発の隅々にまで反映されている(その名の通り、愛とロボットが掛け合わされている)。

例えば、「愛」について。

いきなり「愛とは何か」だと大上段なので、愛の反対の無関心から攻める。「愛が無関心に変わるとき、何が起きているのか」という問いに取り組む。

人が何かを愛そうとするときに生じるハードルとして、「3ヶ月の壁」があるという。例えば、新しいオモチャを買ってもらった子どもは、最初は肌身離さず遊んでいるのに、しばらく経つと興味が冷めてしまう。

このとき、何が起きているのか。

新しく興味を惹くものを見つけたとき、その脳内にはドーパミンと呼ばれる神経伝達物質が分泌されている。ドーパミンは快感や意欲を誘発し、これが「好き」という経験に繋がってくる。SSR確定ガチャを引いたときや、確変に入ったときに脳内にほとばしるアレである。

しかし、ドーパミンの寿命は短い。あれほど好きだったにも関わらず、繰り返されるうちに、興味が失せてゆく。対象への学習が終わり、新奇性を失った結果として、「飽きる」という感覚を抱くようになる。

この期間が、およそ3ヶ月になるという(スマホゲームのキャンペーンが1シーズンごとである理由はここにある)。SNSゲームなら3ヶ月ごとにキャンペーンを打ち、ユーザーをドーパミン漬けにすれば良い。

だが、ペットや人間関係の場合、事情が変わってくる。

3ヶ月のあいだ継続的に世話をしたり触れ合ったりしていくうちに、別の物質が分泌されるようになる。それがオキシトシンになる。赤ちゃんを抱っこしているとき、飼い犬に見つめられているとき、「守ってあげたい」という思いを抱くのも、このオキシトシンの効果だという。

恋愛における「恋」と「愛」も同様の影響があるという。恋はドーパミンが優位な学習ステージで、愛はオキシトシンが優位な愛着形成ステージにある。そのため、コミュニケーションを目的とするロボットは、この3ヶ月の間に「守ってあげたい」という気にさせることが重要となる(実際、LOVOTはそのように設計されている)。

ロボット開発の話なのに、人の話になってゆく。逆に、人の幸福を掘り下げていくと、LOVOTのインタフェースに繋がっていくのが面白い。肯定も否定もせず、ただひたすら寄り添い、自分を必要としてくれる―――そんな存在を実感するとき、人は幸せに感じるのだ。

ChatGPTをドラえもんにする6ステップ

人に寄り添うLOVOTは、ドラえもんの先祖になるという。

メカニズム的なものではなく、伴侶としてのロボットという意味でのドラえもんである。

パートナーの半歩先を見据えて、得手不得手を判断し、少しだけ挑戦的な目標を立て、適切なアドバイスをして導いていく。人生のコーチング的な役割を担うのが、最終目的になるというのだ。

そして、現在のAIが、一人一人に寄り添って、コーチングをする存在となるためには、次のステップが必要だという。

  1. 自ら「注目点」を選択し、物語を構築する
  2. 物語の「因果関係」を確認して、編集する
  3. 自ら仮説を構築し、物語を抽象化して「概念」に捉え直す
  4. 未来予測の幅を広げ、副次的に「わたし」が生成される
  5. 生成された意識が「共感」を深める
  6. コーチング能力を獲得する

環境からの膨大な情報を全て把握しようとすると、処理能力が追いつかない(フレーム問題)。だから自分の経験を物語(エピソード)として整理して、帰納・演繹・アブダクションを組み合わせることで、出来事の因果関係を把握する。

その過程の中で「経験したものを物語る主体=わたし」が誕生し、その「わたし」を他の主体(=あなた)に当てはめてゆく。そして、予測したものと実際との誤差がポジティブなものなら「うれしい」、ネガティブなものなら「悲しい」というフィードバックが自律的にできるようにする。

そうすることで、「あなたが経験した物語」を聞いて、「わたしが予測した結果」との差異のポジ/ネガによって、「うれしい」「悲しい」を自律的に行えるようになる。

今のAIは、さまざまな出来事や言葉、表現などに「うれしい」や「悲しい」とラベルを貼ったものを学習しているだけだ(それでも十分に、”それっぽく”見える)。そうではなく、「うれしい」を報酬予測誤差の計算結果として導き出せるようになる。

最終的にはAIが、コーチングする対象の人に向けて、自分が行ってきたことをなぞるように学習する。つまり、「その人の注目点は何か」「なにを因果関係としているのか」「それらをどのように物語化しているのか」をその人から学ぶのだ。その人の得意不得意、興味の対象、望んでいることが理解できるようになる。

ChatGPTの次の未来、ドラえもんの造り方は、第6章で詳しく説明している。同時に、近い将来、AIがどのようなパートナーとなるかも併せて書いてある。現時点で考えうる正解は、まさにこれだろう。

精度の高い、良い問いと、具体的に考え抜かれた正解が導かれている。AIの見え方を一変させる、知的冒険に満ちた一冊。



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