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コーマック・マッカーシーの国境三部作完結編『平原の町』の再読に向けたメモ

われわれが出来事をつなぎ合わせて物語を作り上げその物語がわれわれ自身の本質となる。これが人と世界のつながり方だ。人が自分について世界が見る夢から逃れたときこのことが罰ともなり褒美ともなる。

終盤でビリーが聞かされるこのセリフこそが、エッセンスになる。各人は自分の人生を物語る吟遊詩人のようなものだ。そして聞き手がいる限り、物語は生き続ける。

もう一つ。以下は著者コーマック・マッカーシーがインタビューに応じて答えたものだが、彼のあらゆる作品の通底音となっている。

流血のない世界などない。人類は進歩しうる、みんなが仲良く暮らすことは可能だ、というのは本当に危険な考え方だと思う。こういう考え方に毒されている人たちは自分の魂と自由を簡単に捨ててしまう人たちだ。そういう願望は人を奴隷にし、空虚な存在にしてしまうだろう。

野生動物に流れている血が人間の内にも流れていることを実感させ、人間の残虐性を剥き出しにする一方、無償の善意にも開かれている世界を克明に描き、そこに根強く残る人間のあり方を自問させ続ける―――これを「西部劇」のフォーマットでやったのが、国境三部作(ボーダー・トリロジー)だ。ただし、西部劇からは形式だけを流用して、全く別物に換骨奪胎している。

国境三部作の構成

国境三部作は、以下の構成となっている。

  1. 『すべての美しい馬』:主人公はジョン・グレイディ・コール(当初16歳)、1949~50年の物語 [レビュー]
  2. 『越境』:主人公はビリー・パーハム(当初16歳)、1940~44年の物語 [レビュー]
  3. 『平原の町』:二人の主人公が合流する、1952年の物語

第一作のラストで目的地を失ったジョン・グレイディ、第二作のラストで居場所を失ったビリーが、第三作で共に行動をする。19歳のジョン・グレイディと、28歳のビリーの物語だ。カウボーイとしての生き方しかできないにもかかわらず、できる場所がどんどん失われている時代だ。

ジョン・グレイディは寡黙だが直情径行、無鉄砲に行動し、挫折する。一方でビリーは兄貴分として見守る一方で、彼の行動に若き日の自分を重ね、シンパシーを感じている(第二作でビリーは、捉えた狼をメキシコの山へ返しに行く旅に出る)。

ジョン・グレイディはメキシコの町フアレスで、娼婦マグダレーナと恋に落ち、結婚しようとする。ビリーは呆れながらも協力するが、売春宿の経営者が立ちはだかり、事態は悲劇の道を突き進んでいく……という筋立てだ。

西部劇のフリをしたアンチ・西部劇

ストーリーの表面をなぞるだけなら、カウボーイと娼婦が恋に落ちる展開は定番中の定番だ。月並みで、平凡とすら言える。強くて優しい若者と、純粋で無垢な16歳の少女が、互いに想い合い、命を懸けて愛し合う。彼女の名前がマグダラのマリア(Maria Magdalena)を想起させるのは偶然ではない。

だが、前二作を読んできたなら、とてもそんな陳腐な解釈はしないだろう。『すべての美しい馬』も『越境』も、西部劇のフォーマット―――カウボーイと馬と旅、ロマンスと決闘―――をなぞりながら、西部劇のお約束とは真逆の決着に至っているからだ。そこには、西部劇ではお馴染みの、「正義」も「勝利」もない。

ジョン・グレイディもビリーも、夢とあこがれを抱き、アメリカとメキシコの国境を越えるが、大切なものを失い、身も心もズタボロにされていく。西部劇のフリをしながら、「西部劇的なるもの」と決別するのが、前二作だ。

そんな眼で『平原の町』を眺めると、違った物語が浮かび上がってくる。売春宿の経営者のセリフが分かりやすい。マグダレーナを身請けしようと相談を持ちかけてきたビリーに向けた言葉だ。

あんたの友だち(ジョン・グレイディ)は非合理な情熱にとらわれてる。あんた(ビリー)が何をいっても無駄だよ。あんたの友だちは頭のなかである物語を作ってるんだ。これから物事がこうなるという物語を。その物語のなかで彼は幸せになる。そういう物語のどこがまずいかわかるかね?

この言い分は、至極まっとうに聞こえる。ここはメキシコのフアレスで、あんたら(ビリーとジョン・グレイディ)は国境の向こう側からやってきた。愛し合っているから結婚するというのは、あんたらの物語なのであり、ここでは通用しない、絶対に本当にならない物語だ。

実際その通りだし、ビリーも反論できない。事実、ジョン・グレイディがやろうとしているのは、彼女をそそのかして連れていくことなのだから。アウトローなのはアメリカ人になる。

第二作目『越境』で、狼をメキシコの山へ返そうとしたビリーに対し、「おまえはこの国を勝手に入ってきて何をしてもいい国だと思ってるんだろう」と咎められるシーンがある(16歳のビリーは反論できなかった)。それと同じだ。「メキシコ」や「フロンティア」に勝手な幻想を抱いて国境を越え、自由だの平等といった価値観がまかり通ると信じる。だがそれは、絶対に本当にならない物語だ。

自由や独立といったアメリカが国是とする価値観を体現した西部劇が、同じお膳立てとフォーマットで、「それはおまえらの物語にすぎない、そしてそれは本当にならない」と立証される(それも血と力とでだ)。ジョン・グレイディとマグダレーナを待ち受けるものは、陳腐な悲恋などではなく、作り上げた物語が思い通りにならない悲劇として捉えなおさなければならない。

女皆殺しの町フアレス

もう一つ、重要な要素がある。『平原の町』の舞台だ。

前二作は旅の物語でもあった。何かを探すため、あるいは何かを求めるため、彼らは国境を越えた。絶えず移動し、追いかけ/追われながら一つの場所に留まらなかった。わずかに居所を見つけたとしても、物語が彼らを駆り立てその場所から追いやった。

ところが第三部では、ほとんど居場所が変わらない。ビリーとジョン・グレイディは、ニュー・メキシコの牧場に雇われている。マグダレーナのいる売春宿は、国境を越えたフアレスにある。

『平原の町』が出版された1990年代後半には、このフアレスで女性連続殺人事件が起き、それから20年足らずのあいだに同類の事件が5千件近くも発生している。一連の事件は「女皆殺し(femicide)」とも呼ばれ、犯人とされる人物が捕まっても犠牲者は後を絶たず、犠牲者は700人以上に上ると言われている。

GoogleMapで見ると分かる。町の外は荒野が広がっており、立ち入るものは誰もいない。道路の左右には何もなく、ちょっとハンドルを切るだけで誰の声も届かない所へ行ける。誘拐された女性はそこでレイプされ、喉をかき切られて、簡単に土をかけられ放置される。

私はロベルト・ボラーニョ『2666』で知ったが、女性の人権が極めて軽く、モノのように扱われる真空地帯のように描かれているのが印象的だった[レビュー]。『ボーダータウン 報道されない殺人者』というタイトルで映画にもなっており、ジェニファー・ロペス、アントニオ・バンデラスが出演している。

もちろん、『平原の町』の時代はこの事件が起きるずっと昔の話だ。だが、作品の舞台をフアレスに設定した理由として、この事件を外すことはできないだろうし、何よりもマグダレーナの運命を読み取ることができる。実際のところ、『コーマック・マッカーシー 錯綜する暴力と倫理』(山口和彦著、三修社、2020)によると、1952年にフアレスで現実に起きた事件を元に、このエピソードは作られているという。

『平原の町』=ソドムとゴモラ

さらに、この『平原の町』のタイトルだ。

原題だと、”Cities of the Plain”になる。訳者解説によると、この”Cities”は、ソドムとゴモラの町を指す。聖書では「低地の町々」の訳語が一般的だが、タイトルの響きを考慮して「平原の町」にしたという。

聖書によると、ソドムとゴモラの町の人々は、高慢、堕落、および道徳的退廃の罪で、神によって罰せられたとある。啓示により町から脱出するロトの妻が、神の警告に背いて振り返り、塩にされてしまった逸話はあまりにも有名だ。

フアレスという町は、国境をまたいだアメリカ側の町であるエル・パソと一体化している。フアレス/エル・パソと、ソドム/ゴモラが”Cities of the Plain”であることが分かると、思い当たることが一挙に出てくる。

ジョン・グレイディはくり返し警告を受けていた。盲目のピアノ弾きの老人のこのセリフを思い出す。

うむ。これだけはいっておこう。あんたの愛に味方はいない。あんたはいると思っているがいない。誰ひとり。たぶん神さえも味方じゃない。

彼の行動はポジティブに見るなら一途、ネガティブなら高慢と受け取ることもできる。彼をロトの妻とすると、ロトはビリーになるのかもしれない。そう考えるのは面白いが、私の解釈が見当違いの可能性もある。

おそらく、まだ読み取れていない側面があるのかもしれない。国境三部作は様々な語りが織り込まれており、再読を促してくれる。実はこのレビューを書く時点で2回読んでいるのだが、さらに必要だ。現時点での私の理解をログとしてここに記しておく。そして三読するときの縁としておこう。

 

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