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ルーク・スカイウォーカーの初登場までに17分もかかった理由『脚本の科学』

面白い物語の法則として「主役はできるだけ早く登場させて印象づけろ」というものがある。

にも関わらず、最初の『スター・ウォーズ』はこのルールを破っている。小さな宇宙船を追跡する超大型戦艦から始まり、悪の親玉に捕まるお姫様を描き、辛くも脱出するロボットのコンビを描く。

メイン・キャラクターであるルーク・スカイウォーカーが出てくるのは、映画が開始して17分が経過してからになる。

一方、『スター・ウォーズ』のオリジナルの脚本では、4ページ目からルークが紹介されるシーンがある。ほぼ冒頭から登場するのだが、このシーンは映画に入っていない。脚本家のジョージ・ルーカスは慣習に従ってルークを冒頭で出しているが、監督のジョージ・ルーカスはそうしなかった。

なぜか?

様々な説が考えられるが、『脚本の科学』によると、「その必然性が無かったから」になる。

いきなり始まる怒涛のバトル&追跡劇で息つく暇もない観客は「逃げ切れるだろうか?」とハラハラするし、窮地に陥ったお姫様を見て「彼女の運命やいかに」と宙づりにされるだろう。そして暗黒卿が探し出せと命令する「設計図」とは何だろうとフックに掛かるはず。

仮にこれを、ルークの日常から始めたなら、まだるっこしい出だしになるはずだ。彼の生い立ちや普段の生活を描き、帝国軍の襲撃を描き、家族を失った悲しみを描き、旅立ちを描かなければならない。舞台が宇宙になり、レイア姫やダースベイダーが登場するのはずっと先になるだろう。

監督のルーカスは、まず「スター・ウォーズ」というジェットコースターに乗ってもらい、手に汗握らせたかった。ルークの生い立ちや動機付けは重要だが、それは追々やればいい。そのために彼を冒頭に持ってこなくても、観客を十分に面白がらせることはできると踏んだのだろう。

面白いと感じるとき、観客に何が起きているのか

では、どういう時に観客は面白いと感じるのだろう?言い換えるなら、面白いと感じるとき、観客には何が起きているのだろう?

この問いに対し、映画の脚本を紐解きながら解説したものが、『脚本の科学』になる。ヒトの認知プロセスから映画の面白さをリバースエンジニアリングしたものだ。

例えば、因果関係を探そうとする傾向について。

人は、因果関係によって世界を理解したいという止みがたい衝動を持っているという。

だから脚本家は、主人公のゴールを設定し、その達成に向けて奮闘する様子を描く。キャラクターが自分の「欲しいもの」を口にするとき、観客はそれが手に入るのか入らないのかを待ち受けることになる。あるいは、ゴールへの障害となるもの(ライバルやトラブル)が立ちはだかるとき、観客はどうやって解決するかを虎視眈々と期待する。

そのゴールが遠大であればあるほど、ライバルやトラブルが強大であればあるほど、観客は「主人公はどうやって手に入れるのだろう?」という期待あるいは不安を抱きながら、絶えず予測し続ける状態に陥る。

展開する物語から、キャラクターや状況に関する情報がアップデートされていく。同時進行で観客は、自分が立てた予想を更新してゆく。ゴールであれ、トラブルであれ、その成り行きが明らかになるまで、自分の予想を持ち続けることになる。

優れた脚本家は、この宙吊り状態を上手く作り出し、観客が物語の将来を見通すように促す。物語を咀嚼しつつ、自分の見立てと結果を答え合わせするとき、観客は面白いと感じるのだ。

生(き)のままの現実世界では、「これがゴールだ」と印象付けられることはないし、「これがトラブルだ」と曰くありげにクローズアップされることもない。ゴールが達成されるときに音楽も鳴り響かないし、失敗したときの原因は終わってから判明する。因果関係が見えにくい現実とは異なり、編集された世界では観客に分かるように強調されている。

脳波がN400のとき「面白い」手がかりを感じている?

『脚本の科学』というタイトル通り、脳科学の知見による指摘もあった。いわゆる「脳科学」なので、どこまで確からしいかは保留にしても、興味深い主張だ。

つまりこうだ。

映画においてキャラクターの意図が破綻するとき、観客はN400の脳波を生じているという。例えば、そのキャラなら言わないようなセリフを述べたり、物語が一貫していないとき、あるいは登場人物が葛藤するとき、観客にN400が生じる。

脚本を読んでいるのなら読者はそこで立ち止まり、少し戻って意図を確認しようとするし、動画を見ているのであれば巻き戻して確認しようとする。劇場で映画を見ているのであればより身を乗り出して、先を知ろうとする。

因果関係を知ろうとする観客は、物語についての理解を刻々とアップデートする必要がある。自分の中にある「制作中の物語」と、目の前で進行する物語との辻褄合わせを行い、ズレが生じそうなときに、理解を再構築するのだ。

それぞれの観客が持っている嗜好や期待、社会的規範も含めた「こうなるだろう」「こうあるべきだ」と突き合わせ、眼や耳から入ってくる情報と一貫性を保つべく、理解を軌道修正していく。その契機となるものが、N400だというのである。

Wikipediaによると、N400(神経科学)は、刺激が提示されてから約400ミリ秒でピークを持つ負の方向の振れとして命名されている。視覚や聴覚による単語や写真、顔、音、言葉において、意味のある刺激に対する脳の反応だと考えられている。予測できない単語に遭遇し、意味的な間違いや不自然さがあると、より大きく反応するという。

「エラーを見つけること=面白い」?

一貫性のないところや、違和感を抱き、普通でない点に反応する。エラーを見出すことに報酬を感じて、「愉快だ」という快感を得る。この情動は、適応的な働きがあると述べているのが、ダニエル・デネット『ヒトはなぜ笑うのか』である。

たとえば、私たちは果糖がもたらす感覚を「甘い」として心地よく味わう。それは、エネルギーたっぷりであるが故に、グルコースの摂取を求めるよう、「甘さ」が動機づけられている。甘い・美味しいという感覚は、グルコースを摂取した報酬になる。

同様に、「可笑しい」という感覚は、今まで当然だと思っていた知識や信念の中に、首尾よくエラー(おかしさ)を見つけた報酬だという。私たちがチョコやケーキを求めるように、ジョークやユーモアを求めているのは、こうした理由によるというのだ。

では、なぜエラーを見つけることが報酬になるのか?

『ヒトはなぜ笑うのか』では、このユーモアの報酬システムを、「メンタルスペース」を用いて説明している。

頭の中で活性化する概念や記憶、耳や目などから入ってくる情報や感覚などは、粒度も精度も種々雑多だ。だから、トピックごとに一定のまとまりを持って、ワーキング領域を割り当て、その中で理解しようとする(この概念的な領域のことを、メンタルスペースと呼ぶ)。

時間に追われながら、リアルタイムでヒューリスティックな検索をしている脳が、入ってくる言葉や概念を完璧にチェックできるわけではない。だからこそ、エラー発見に報酬を与えるのだ。

検証されないままであれば、メンタルスペースで生じるエラーは、最終的には世界に関するぼくらの知識を汚染し続けることになる。そのため、信念と推量の候補たちを再点検する方策が欠かせない。エラーを猛スピードで発見・解消する作業は、強力な報酬システムにより維持されねばならない。
『ヒトはなぜ笑うのか』(ダニエル・デネット、勁草書房、2017)p.37

この強力な報酬システムこそが、ユーモアの情動となる。ジョークを聞いて「愉快だ」と笑う情動と、映画を観て「面白い」と夢中になる感情は、似て非なるものかもしれぬ。だが、それぞれの契機となるものが「エラーを見つけること」にある点で一致していることは、興味深い。

「面白い」は科学的に説明できるか?

『脚本の科学』は、映画に夢中になっている観客の脳内で進行している認知プロセスに焦点を当て、ストーリーテリングの原則を明らかにしようとする。

このテの本は、スナイダー『SAVE THE CATの法則』やシド・フィールド『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』など、既に名著と呼ばれるものが出ている。本書はこれらに向こうを張るべく、脳科学からのアプローチを採用している。

様々な作品が俎上に載せられているが、中でも第10章を丸々使って「神経科学で読み解くスター・ウォーズ」が圧巻だ。今でこそ伝説級の超大作だが、その最初に公開された作品(エピソード4)を俎上に、「どのように面白くしているのか」を丸裸にしている。

ただし、「脳科学」という怪しげな手垢が付き始めている以上、鵜呑みにしないようにする必要はある。それでも、本書を通じて興味深い論文や書籍に出会えた。以下、私のためのメモ。「面白い」を科学的に説明するための手がかりとしていきたい。

『フィルム・アート 映画芸術入門』(D.ボードウェル&K.トンプソン、名古屋大学出版会、2007):物語の「語り方」のパターンと観客の理解への影響について解説しているらしい。物語の設定やキャラの説明の密度と「面白さ」の相関を考察する際に役に立ちそう(いわゆる「情報密度」の話)。

“Enlarging the scope: grasping brain complexity”(Emmanuelle Tognoli , J A Scott Kelso,2017):映画を鑑賞する人のニューロンの活動パターンと、ストーリーの理解との同期を研究した論文とのこと。

「面白い」はなぜ面白いのか、これからも追及していきたい。



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「加齢臭」はいつから臭い始めたか―――流行語は音もなく世界を変える

あなたは「加齢臭」があるだろうか?

脂っぽく、傷んだチーズのような臭いだ。若いころにはなくても、齢をとるとしはじめる、おじさん臭、オヤジ臭と呼ばれることもあるが、男性に限らない。

面白いのは、加齢臭という言葉が生まれる前から、中年期の男女には独特のニオイがあった。この言葉が広まってから、急に臭うようになったわけではない。

「加齢臭」という言葉を遡ると、コラムニストの泉麻人氏に至る。朝日新聞1999.6.12夕刊でこう書いている。

飲み会の席に若い女性などが混じっていると、「通勤電車のオヤジの体臭がたまらない!」なんて話題がよくもち出される。三十代の頃は「わかる、わかる」と一緒になって笑いとばしていたものだが、自分も四十過ぎの年代に入ると、穏やかではない。オレもニオッているのではないだろうか。(中略)「加齢臭」を消す中高年向けのエチケット商品が、秋に発売されるという。熱心な研究開発意欲には脱帽するが、ニオイ消しを怠ったオヤジがノケ者にされる社会を想像すると、それは”臭う通勤電車”以上に息苦しいような気もする。

本書によると、加齢臭という”病気”を命名したのは資生堂になる。研究開発センターの調香師が、中高年者の独特のニオイが気になり分析したところ、「ノネナール」という物質が原因であることを突き止め、1999年に発表した。

「加齢臭」がメディアで喧伝されるようになり、人口に膾炙するにつれ、ニオイを気に病む人が増えるようになった。加齢臭対策のデオドラントやボディソープ、サプリメント、ダイエット療法が売れるようになった(Amazonで検索したら、これらに加えて、シャツやパンツ、インソール、枕カバー、メガネのつるなど約6,000商品が並んでいた)。いまや「加齢臭」は立派なマーケットと化している。

「サーチライト」としての概念

それまで、あまり認知されていなかったものが、ある言葉が与えられることによって実体を得、広く喧伝されるようになる。

生まれたときには辞書にないのに、広く知られるようになると、普通の会話でも当たり前のように使われるようになる。流行語の一種だが、一時的なものではなく、社会的に定着するようになった言葉になる。こうした言葉のことを、本書では、社会記号と呼んでいる。

社会記号には、「加齢臭」の他に、「草食男子」「おひとりさま」「できちゃった婚」などが挙げられる。本書は、さまざまな社会記号を取り上げながら、なぜある言葉は定着し、なぜ別の言葉は一過性で消えていくのかを分析する。さらに、こうした言葉の浮き沈みの背後にある、私たちが抱いている欲望を解説する。

興味深いのは、本書で紹介されるタルコット・パーソンズの説明だ。概念とは「サーチライト」のようなもので、このライトに照らされて、経験的世界という暗闇の中で対象を認識する。真っ暗な舞台に机や椅子があっても、私たちはそれを認識できない。だが、サーチライトが当たることによって、初めて「ある」ことが分かる。

同じように、ある言葉が与えられることによって、それまで見過ごされてきた事物に光が当たり、初めて認知される。「オヤジから漂う脂じみたニオイ」「ガツガツ異性を求めない男子」「一人で行動する」「結婚前の妊娠」も昔からあった。だが、新語が与えられて初めて認識されるようになったのだ。

ハリトシス・マーケティング

これを応用したのが広告業界だ。

  1. 白衣を着た人が、ネガティブな用語を紹介する
  2. 「それ」があたかも病気で、は解決不能なことをPRする
  3. でもご安心を、「これ」さえ買えば解決すると紹介する

「あなたに自覚はなくとも、あなたの周囲の人は気づいています、見ています」という宣伝の仕方で、自分では確かめようもない。恐怖を煽ることで買わせるやり方だ。

その最も成功した例はリステリンになる。20世紀初頭の、若い女性に向けた広告で、

Often a bridesmaid, but never a bride.
介添え人には選ばれるが、結婚相手には選ばれない

なぜなら、あなたの口臭(ハトリシス)が酷いから。あなたは自分の口臭に気づかないし、周囲の人は教えてくれない……でもリステリンなら口臭予防になる、という寸法だ。

当時のアメリカ人は、ハトリシス(halitosis)という言葉を知らなかった。だが、広告会社が、古い医学事典からこの用語を掘り出してきて、病名として大々的なキャンペーンを行って広めたという。

効果は絶大で、リステリンで口をゆすぐことが、アメリカ人の習慣として定着することになる。「リステリン」という商品を売る前に、それが解決するという「病気」を売ることで、不安に訴えかける。

「健康」(という名の商品)を売るために、まず「病気」を作り出す手法は、[健康をモラル化する社会『不健康は悪なのか』] で詳述したが、その「病気」をうまく命名することで、音もなく社会を変えてゆくことができる。

社会記号は欲求が込められている

次々と現れては消えていく社会記号は、人々の生き方や社会構造が変化していく予兆のようなものになる。その中でも定着するものは、人々の暗黙の欲求が反映されているという。

例えば、「おひとりさま」が定着したのは、他人に気を遣うより、自分が好きなように気ままに行動しても良いではないか、という欲求が芽生えている証左になる。これまでカップルやグループで訪れるような場所やイベントを、一人で巡っていた人はいた。だが、「おひとりさま」という語が欲求に形を与え、後ろ盾となってくれる。

暗黙の欲求に対して言葉がお墨付きを与えてくれる。言語化されて初めて、「そうそう、それだったんだ」と気づかされ、動機付けを呼び覚まし、行動を促す。言い換えると、言葉によって私の欲求はコントロールされているのかもしれない。

本書によると、「優れた社会記号は最終的には風俗店の名前になる」という。風俗店の名前はオヤジギャグの極致みたいなものだから、むべなるかな、真理なのかもしれぬ。風俗店名のテキストマニングをして、その年の流行語と突き合わせると面白いかも。



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骨しゃぶりさんと本屋を巡ったらめちゃくちゃ楽しかった話

きっかけは、骨しゃぶりさんの「人付き合いって大事かなと思ったら読みたい3冊」

確かに人付き合いは大事やなと思い立ち、骨しゃぶりさんとサシオフ(差しでオフ会)してきたらめちゃくちゃ楽しかった。

重要なのは、「リアルで会って話する」こと。表情や相槌を見ながら言葉や事例を選ぶことができるし、こちらのレスポンスの影響も即座に分かる。「読むことは人を豊かにし、話すことは人を機敏にし、書くことは人を確かにする」というけれど、読み書きが達者なブロガー同士が「話す」となると、面白い化学反応が起こる。

ChatGPTとスタニスワフ・レム

興味深い話になったのは、流行りの生成AI(Generative AI)ネタ。

文章で指定して画像を生成するのだが、私がやってもイマイチなやつしか出てこない(私の呪文がイケていない自覚はある)。

骨しゃぶりさんも、似たような悩みを抱えていたみたいだ。まず、別ソフトで3Dでポージングを作り、それを元にAIにバリエーションを生成するよう指示をして、出来上がった大量の結果を、一つ一つ「これは良い」「これはダメ」と選り分けていき、さらにそれらをフィードバックしているようだ。

この「良い」を選ぶのが大変だという点について、お互い問題意識が一致した。ランダム生成であれ、パターン生成であれ、出来上がったものから「良い」と評価するのが人である限り、この問題は免れ得ない。

もちろん、生成→評価→フィードバックのサイクルを再帰的に回すことはできる。指示するときに予め「出来たものの改善点を指摘してね」「その改善点を踏まえて再作成してね」と、AI自身に評価させた後、「そのサイクルを3回まわして」と再帰的にフィードバックさせればいい。

ただし、それでも「AI自身の評価」がどこまで妥当なのかは分からない。ChatGPT4.0との問答を紹介する記事を見ても、評価サイクルはせいぜい数回で、「そこそこ」のアウトプットでしかない。そして、人が介入するとなると、サイクルごとに何が「良い」のかを改めて指示する必要がある。

そこで思い至ったのが、スタニスワフ・レム『虚数』だ。存在しない本の序文集というメタ短編小説集になる[レビュー]。そこに収録されている「ビット文学の歴史」だ。骨しゃぶりさんにお薦めする。

ビット文学とは、AIにより生成されたあらゆる作品を意味する。AIが読み、批評し、新作を執筆する世界になる(その世界線における『ビット学全集』の序文が、「ビット文学の歴史」になるのでややこしい)。

ドストエフスキーが書くはずだった作品をAIが書き、それを別のAIが批評する。ゼロを用いない代数学を完成させ、自然数論に関するペアノの公理の誤りを証明する。シンギュラリティ後を描いたSFは数多いが、この作品は、批評家もAIであるところ。多数の審美眼に揉まれ、人の手を離れたところで作品がブラッシュアップされていく。

すばらしい傑作が猛スピードで生成されていくのだが、それらを読む「人間」は誰もいなくなることが示唆されている。

ChatGPTがレムの奇想にたどり着くには、あと一歩、「別のアカウントのChatGPTと会話する」なのかも……と考えると面白い。

生成AIの未来は過去に通った道?

AIによるレタッチはどこまで許容できるか、という話も面白かった。

一般的にレタッチとは、写真などの明るさや色合いを調節したり、映り込んでしまった不要なものを除去するといった画像編集を指す。

AIの登場により、有名な画家の作風を学習させ、あたかもその人が描いたかのような画像を生成する。例えばレンブランドの画風をAIに学ばせて、レンブランドの新作を出力するプロジェクトがあった(コンピュータは創造性を持てるか?『レンブラントの身震い』)。

Stable Diffusionの登場により、さらに手軽になった。有名なイラストレーターの特徴を真似させて、好きなキャラクターに望むポーズで出力させることが可能になった。

だけど、それは問題があるのではないか?そうした研鑽の積み重ねから画風だけを模倣するのは、一種の盗みではないか?そんな疑問も出てくる。

コピーされる側は、相応の時間と努力を積み重ねた上で、作品をものにしてきた。30秒で描いた絵に100万ドルは高すぎるという批判に、ピカソは「今まで30年間の研鑽を積んできたので、30秒と30年かかっています」と返答した小話もある[ネタ元:美術の物語]

一方で、骨しゃぶりさんの指摘も面白い。画家であれイラストレーターであれ、完全にゼロから独力で自分の画風を作り上げたわけではない。先人の作品を観察し、そこから学び、優れた点を取り入れてきた。だから、模倣すなわち悪とするのも一概に言えない。

確かにそうだなぁ……とも思うが、それでも、努力の積み重ねを、コピペ&クリックでお手軽にできてしまうのも違和感がある。

ああでもない、こうでもないと二人でうんうん言っていたら、骨しゃぶりさんが、「今の状況って、写真が一般に広まり始めた頃と似ているのでは?」と言いだす。

曰く、貴族や大商人などが専門画家を雇って描かせてきたが、写真技術の普及によって、一般市民にも肖像画が残せるようになった。あるいは、カメラが扱いやすくなり、ボタン一つで誰でも写真が撮れるようになった―――そういうとき、画家たちは何を言っていたか?自分たちの職が失われると抗議の声をあげたのか、あるいは、写真と絵画は別物と割り切ったのか?

なるほど!それで思い出したのが2つある。

一つは、『舞踏会へ向かう三人の農夫』だ。1914年の春に撮影された一枚の写真から緻密な思索を張り巡らせ、20世紀全体を描いたリチャード・パワーズのデビュー作にして傑作だ。

この小説には隠れたテーマが沢山あり、そのうちの一つが、「プリントとオリジナル」だ。かつて芸術作品とは、オリジナルがただ一つだけだった。だが、写真の普及とともに、芸術の一回性は失われることになった。この辺りの事情は、『三人の農夫』のネタ元でもあるヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』に詳しい。

もう一つは、エルンスト・ゴンブリッチ『美術の物語』だ。原始の洞窟壁画からモダンアートまで、西洋のみならず東洋も視野に入れ、美術の全体を紹介しており、美術関連で最も広く読まれている一冊といっていい(2100円のポケット版がお手軽なのだが、価格が高騰しているので要注意。書影はハードカバー版)。

写真の普及に伴う画家の発言や、美術の影響を読み取ると面白い。「写真のように描く」のが目的ではなかったゴッホやセザンヌにとって、写真は脅威ではなかっただろう。また、複数の写真をモザイクのように組み合わせた絵を作ったデイヴィット・ホックニーからすると、写真は手段の一つになる。

絵画の歴史を振り返ると、いかに3次元を2次元に写し取るかに工夫が凝らされてきた歴史になる。これは私の妄想だが、写真が一般的になる時期と、写実が主流から外れる時期は、重なっているように見える。19世紀後半から20世紀初頭を再読すると、新たな発見が得られるかも。

Stable Diffusionの未来は、ベンヤミンやゴンブリッチから振り返ると、面白いかもしれない。

若い女性の匂いについて

意見が真っ二つに分かれることもある。

ロート製薬が開発したボディソープ「デオコ」についてである。若い女性に特有の甘い匂いの元であるラクトンC10、C11が配合されており、普通に使うだけで、匂いだけ女の子になれる。

初めて使った時のときめきを2019年5月ごろ[レポート]に記載したのだが、これが骨しゃぶりさんの目に留まり、使ってみたそうだ。ただし普通に良い匂いという感想である。ボディソープとして優秀なので、以降ずっとリピートしているそうな。

それは布教者として大変ありがたいのだが、「普通に良い匂い」だけに留まらず、女の子の匂いでしょう!と詰め寄ってもピンと来ないみたいである。

骨しゃぶりさんに言わせると、匂いが経験と結びついて初めて情動を刺激する(プルースト効果)のであって、「女の子の匂いを嗅ぐ」という経験が無い人にそれを求めても無益だという。[骨しゃぶりさんのレポート]を見ると、[まなめ王子も同様]らしい。

どうやら、勘違いをされているみたいだ。「女の子の匂いを嗅ぐ」という行為は普通やらない。

そもそも、「匂いを嗅がせて」なんてお願いしたら変態である。そうではなく、同席したり、すれ違ったり、さっきまでいた部屋に入ったときにどうしても感じてしまう何かである。ファンデとかデオドラントとかはすぐに判別できる。そういう外付けではなく、温度や湿度のように伝わってくるやつなんだ。ゼロ距離になる必然性はなく、街を歩いてても、すれ違った瞬間に感じることがある。

ちょうど二人で街歩きをしている最中だったので、「いまの人はラクトンの香りしてたよ」と教えても、分からないみたいだ。骨しゃぶりさんの鍛錬不足なのか、あるいは、私の鼻が異常なのか……

なので、パトリック・ジュースキントの『香水』を買って差し上げた。匂いがいかに人を支配し、狂わせるかについて描いた、ある人殺しの物語である。これを読むことで、ほぼ無限とされる様々な匂いの中で、「若い女性の匂い」が最重要な理由と、究極の匂いをまとうと何が起きるかが、よく分かる。

他にも、「おっぱい vs お尻」「試験の過去問集めとマタイ効果」「再現性の危機とScience Fictions」「はてブ界隈盛衰史とアルゴリズムの変遷」「投資本の正答率を実績値から答え合わせする」など、面白いお話が沢山できた。お薦めいただいたオギ・オーガス 『性欲の科学』と Stuart Ritchie”Science Fictions”は読むぜ!

 

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コーマック・マッカーシーの国境三部作完結編『平原の町』の再読に向けたメモ

われわれが出来事をつなぎ合わせて物語を作り上げその物語がわれわれ自身の本質となる。これが人と世界のつながり方だ。人が自分について世界が見る夢から逃れたときこのことが罰ともなり褒美ともなる。

終盤でビリーが聞かされるこのセリフこそが、エッセンスになる。各人は自分の人生を物語る吟遊詩人のようなものだ。そして聞き手がいる限り、物語は生き続ける。

もう一つ。以下は著者コーマック・マッカーシーがインタビューに応じて答えたものだが、彼のあらゆる作品の通底音となっている。

流血のない世界などない。人類は進歩しうる、みんなが仲良く暮らすことは可能だ、というのは本当に危険な考え方だと思う。こういう考え方に毒されている人たちは自分の魂と自由を簡単に捨ててしまう人たちだ。そういう願望は人を奴隷にし、空虚な存在にしてしまうだろう。

野生動物に流れている血が人間の内にも流れていることを実感させ、人間の残虐性を剥き出しにする一方、無償の善意にも開かれている世界を克明に描き、そこに根強く残る人間のあり方を自問させ続ける―――これを「西部劇」のフォーマットでやったのが、国境三部作(ボーダー・トリロジー)だ。ただし、西部劇からは形式だけを流用して、全く別物に換骨奪胎している。

国境三部作の構成

国境三部作は、以下の構成となっている。

  1. 『すべての美しい馬』:主人公はジョン・グレイディ・コール(当初16歳)、1949~50年の物語 [レビュー]
  2. 『越境』:主人公はビリー・パーハム(当初16歳)、1940~44年の物語 [レビュー]
  3. 『平原の町』:二人の主人公が合流する、1952年の物語

第一作のラストで目的地を失ったジョン・グレイディ、第二作のラストで居場所を失ったビリーが、第三作で共に行動をする。19歳のジョン・グレイディと、28歳のビリーの物語だ。カウボーイとしての生き方しかできないにもかかわらず、できる場所がどんどん失われている時代だ。

ジョン・グレイディは寡黙だが直情径行、無鉄砲に行動し、挫折する。一方でビリーは兄貴分として見守る一方で、彼の行動に若き日の自分を重ね、シンパシーを感じている(第二作でビリーは、捉えた狼をメキシコの山へ返しに行く旅に出る)。

ジョン・グレイディはメキシコの町フアレスで、娼婦マグダレーナと恋に落ち、結婚しようとする。ビリーは呆れながらも協力するが、売春宿の経営者が立ちはだかり、事態は悲劇の道を突き進んでいく……という筋立てだ。

西部劇のフリをしたアンチ・西部劇

ストーリーの表面をなぞるだけなら、カウボーイと娼婦が恋に落ちる展開は定番中の定番だ。月並みで、平凡とすら言える。強くて優しい若者と、純粋で無垢な16歳の少女が、互いに想い合い、命を懸けて愛し合う。彼女の名前がマグダラのマリア(Maria Magdalena)を想起させるのは偶然ではない。

だが、前二作を読んできたなら、とてもそんな陳腐な解釈はしないだろう。『すべての美しい馬』も『越境』も、西部劇のフォーマット―――カウボーイと馬と旅、ロマンスと決闘―――をなぞりながら、西部劇のお約束とは真逆の決着に至っているからだ。そこには、西部劇ではお馴染みの、「正義」も「勝利」もない。

ジョン・グレイディもビリーも、夢とあこがれを抱き、アメリカとメキシコの国境を越えるが、大切なものを失い、身も心もズタボロにされていく。西部劇のフリをしながら、「西部劇的なるもの」と決別するのが、前二作だ。

そんな眼で『平原の町』を眺めると、違った物語が浮かび上がってくる。売春宿の経営者のセリフが分かりやすい。マグダレーナを身請けしようと相談を持ちかけてきたビリーに向けた言葉だ。

あんたの友だち(ジョン・グレイディ)は非合理な情熱にとらわれてる。あんた(ビリー)が何をいっても無駄だよ。あんたの友だちは頭のなかである物語を作ってるんだ。これから物事がこうなるという物語を。その物語のなかで彼は幸せになる。そういう物語のどこがまずいかわかるかね?

この言い分は、至極まっとうに聞こえる。ここはメキシコのフアレスで、あんたら(ビリーとジョン・グレイディ)は国境の向こう側からやってきた。愛し合っているから結婚するというのは、あんたらの物語なのであり、ここでは通用しない、絶対に本当にならない物語だ。

実際その通りだし、ビリーも反論できない。事実、ジョン・グレイディがやろうとしているのは、彼女をそそのかして連れていくことなのだから。アウトローなのはアメリカ人になる。

第二作目『越境』で、狼をメキシコの山へ返そうとしたビリーに対し、「おまえはこの国を勝手に入ってきて何をしてもいい国だと思ってるんだろう」と咎められるシーンがある(16歳のビリーは反論できなかった)。それと同じだ。「メキシコ」や「フロンティア」に勝手な幻想を抱いて国境を越え、自由だの平等といった価値観がまかり通ると信じる。だがそれは、絶対に本当にならない物語だ。

自由や独立といったアメリカが国是とする価値観を体現した西部劇が、同じお膳立てとフォーマットで、「それはおまえらの物語にすぎない、そしてそれは本当にならない」と立証される(それも血と力とでだ)。ジョン・グレイディとマグダレーナを待ち受けるものは、陳腐な悲恋などではなく、作り上げた物語が思い通りにならない悲劇として捉えなおさなければならない。

女皆殺しの町フアレス

もう一つ、重要な要素がある。『平原の町』の舞台だ。

前二作は旅の物語でもあった。何かを探すため、あるいは何かを求めるため、彼らは国境を越えた。絶えず移動し、追いかけ/追われながら一つの場所に留まらなかった。わずかに居所を見つけたとしても、物語が彼らを駆り立てその場所から追いやった。

ところが第三部では、ほとんど居場所が変わらない。ビリーとジョン・グレイディは、ニュー・メキシコの牧場に雇われている。マグダレーナのいる売春宿は、国境を越えたフアレスにある。

『平原の町』が出版された1990年代後半には、このフアレスで女性連続殺人事件が起き、それから20年足らずのあいだに同類の事件が5千件近くも発生している。一連の事件は「女皆殺し(femicide)」とも呼ばれ、犯人とされる人物が捕まっても犠牲者は後を絶たず、犠牲者は700人以上に上ると言われている。

GoogleMapで見ると分かる。町の外は荒野が広がっており、立ち入るものは誰もいない。道路の左右には何もなく、ちょっとハンドルを切るだけで誰の声も届かない所へ行ける。誘拐された女性はそこでレイプされ、喉をかき切られて、簡単に土をかけられ放置される。

私はロベルト・ボラーニョ『2666』で知ったが、女性の人権が極めて軽く、モノのように扱われる真空地帯のように描かれているのが印象的だった[レビュー]。『ボーダータウン 報道されない殺人者』というタイトルで映画にもなっており、ジェニファー・ロペス、アントニオ・バンデラスが出演している。

もちろん、『平原の町』の時代はこの事件が起きるずっと昔の話だ。だが、作品の舞台をフアレスに設定した理由として、この事件を外すことはできないだろうし、何よりもマグダレーナの運命を読み取ることができる。実際のところ、『コーマック・マッカーシー 錯綜する暴力と倫理』(山口和彦著、三修社、2020)によると、1952年にフアレスで現実に起きた事件を元に、このエピソードは作られているという。

『平原の町』=ソドムとゴモラ

さらに、この『平原の町』のタイトルだ。

原題だと、”Cities of the Plain”になる。訳者解説によると、この”Cities”は、ソドムとゴモラの町を指す。聖書では「低地の町々」の訳語が一般的だが、タイトルの響きを考慮して「平原の町」にしたという。

聖書によると、ソドムとゴモラの町の人々は、高慢、堕落、および道徳的退廃の罪で、神によって罰せられたとある。啓示により町から脱出するロトの妻が、神の警告に背いて振り返り、塩にされてしまった逸話はあまりにも有名だ。

フアレスという町は、国境をまたいだアメリカ側の町であるエル・パソと一体化している。フアレス/エル・パソと、ソドム/ゴモラが”Cities of the Plain”であることが分かると、思い当たることが一挙に出てくる。

ジョン・グレイディはくり返し警告を受けていた。盲目のピアノ弾きの老人のこのセリフを思い出す。

うむ。これだけはいっておこう。あんたの愛に味方はいない。あんたはいると思っているがいない。誰ひとり。たぶん神さえも味方じゃない。

彼の行動はポジティブに見るなら一途、ネガティブなら高慢と受け取ることもできる。彼をロトの妻とすると、ロトはビリーになるのかもしれない。そう考えるのは面白いが、私の解釈が見当違いの可能性もある。

おそらく、まだ読み取れていない側面があるのかもしれない。国境三部作は様々な語りが織り込まれており、再読を促してくれる。実はこのレビューを書く時点で2回読んでいるのだが、さらに必要だ。現時点での私の理解をログとしてここに記しておく。そして三読するときの縁としておこう。

 

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