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千夜一夜物語レベルの面白さ『サラゴサ手稿』

 

 

この世でいちばん面白い物語は、『千夜一夜物語』だ。面白さのエッセンスを煮詰め、淫乱で低俗な世界に咲いた気高く美しい枠物語だ。

この世でいちばん面白いファンタジーは、『氷と炎の歌』だ。エロとグロと波乱と万丈と冒険と怪奇の群像劇だ。

この世でいちばん面白い小説は、『モンテ・クリスト伯』だ。究極のメロドラマであり、運命と復讐の逆転劇だ。

そして、『サラゴサ手稿』は、面白さのエッセンスを煮詰めた枠物語であり、エログロ波乱万丈の群像劇であり、究極のメロドラマである。惜しむらくは全三巻と短く、気のすむまで狂ったように読み続けることはできぬ(その点、千夜一夜は全11巻なので延々と没入できる)。

しおり無用の面白さだが、一気に読ませぬ迷宮が仕掛けてあるのでご注意を。ひとたび頁を開いたら最後、物語の物語の物語の中に入り込み、ストーリーのダンジョンを行ったり来たり、延々と彷徨うことになる。

説明する。

『サラゴサ手稿』は枠物語の構造を持っている。すなわち、大きなフレームに囲われた、小さな物語の集合で構成されている。無数のバリエーションを千一夜かけて物語るシャーラザットのようなものといっていい。

ただし、ここで物語るのは一人ではない。主要人物の全員が、それぞれの身の上話を語りだす。しかも、各人の物語が入れ子状になっている。例えばこうだ。

 ジプシーの族長アバドロが語る物語
  その中に出てくるロペ・ソアレスが語る物語
   その中に出てくるドン・ブスケロスが語る物語
    その中に出てくるフラスケタ・サレロが語る物語
              ……を聞いているアルフォンソ

こんな感じで、物語が再帰的に呼び出され、展開され、戻ってゆく。

だが実際のところ、こんな分かりやすいマトリョーシカになるのは珍しく、一つの物語から複数の物語が呼び出されたり、物語が閉じないまま別の物語に回収されたりする。まったく別の日に語られた、まったく無関係な人物の物語が、実は重なっていることなんてこともある。物語どうしのニアミスである。

それぞれの物語はめちゃくちゃに面白い。

森羅万象を百巻の書物にする天才学者の皮肉な運命を描いたかと思うと、母娘どんぶりのエロティック満載の身の上話になったり、科学的に正しく天地創造を語り尽くす話になる。何が出てくるか見当がつかないお化け屋敷をジェットコースターで突き進むような感覚である。

それだけでなく、物語から呼び出された人物の語りの中に出てくる人のおしゃべりにつきあっていくうち、誰が何の話をしているのか皆目見当がつかなくなる。「これ誰の話だっけ?」と何度も戻ったり、ぐるぐる迷わされることになる。

自己増殖していく物語に飲み込まれ、惑い、迷い、溺れていく。そこでは完全に自分自身を見失い、ただひたすら物語に身をゆだねる他ない。

しかし、不思議と嫌ではない。むしろ変な脳汁が出て、妙な高揚感が湧き上がってくる。走り続けていくうちに多幸感に包まれるランナーズ・ハイになるように、読み進めていくうちにストーリー・ハイになる感じ。

最初のうちは、物語の呼び出し関係をメモしながら読んでいたが、あまりに複雑で諦めた。

増殖する物語構造に酔いたい人は素手で挑んでみるのもいい。だが、ダンジョンマップが欲しい人には、下巻の「通覧図」をお勧めする。物語の枠構造と、語られた順番の時系列をマッピングした一覧である。ネタバレしない程度にぼかして書いており、訳者の心意気を感じる。

注意すべきは、200年前の近代小説なので、当時の常識や時代背景を踏まえる必要があることだ。

当時はヴォルテールの啓蒙時代だったり、少し前までイスラーム支配体制が続いていたとか、飛ぶ鳥を落とす勢いだったニュートンの評判とか。そうした世を憂い、皮肉り、あてこする展開が香ばしく、どの時代でも人間の本性は一緒だなと、改めて思い知る。

その辺りの時代背景は注釈と解説が充実しているので、注と本文を行き来しながら進めると、より読み解きやすくなるだろう。

読んで溺れろ、惑うべし、酔うべし。

 

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