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「死にたい」とつぶやく

ネットには「死にたい」「消えたい」「殺して」というつぶやきが流れている。

しかし、「死にたい」は一種の忌み語になっており、入力すると速やかに相談窓口へ誘導される。また、この言葉を掲げる記事は目立たないよう扱われる。切実な声は画一的に処理され、表立ってこない。

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こうした声にどう向き合うべきなのか。また、こうした声と共に居ることは、いかにして可能なのか―――「死にたい」をめぐるコミュニケーションのありかたを考えたのが本書になる。

社会学者である著者は、「死にたい」という言葉の使われ方に着目する。

この言葉を発する人は、社会的な属性や貧富の状態、学歴、就業状況は様々だ。心療内科に通っている人もいれば、行かない人もいる。診断名もまちまちだし、自傷する人もいればしない人もいる。深刻に吐露している人もいれば、「死にたい」は「生きづらさ」の言い換えだという人もいる。

だが、この言葉を介してつながりあう人をインタビューしていくうちに、著者は、「死にたい」が一種のメディアのような役割を果たしていることに気づく。「死にたい」人どうしが実際に会って話をするとき、ほぼ初対面あり、お互いのことをよく知らないにも関わらず、異様なほど会話が噛み合うのだ。

現代社会において、「死にたい」はコミュニケーションの強力な媒体として機能しうるのではないか?

座間9人殺害事件における「死にたい」

この問いを起点として、座間9人殺害事件について考察を行う。自殺願望のあった若い女性が主なターゲットとなり、3ヶ月の間に9人が殺害された事件である。

被害者を誘い出す巧妙な手口や、冷酷無慈悲な犯行の実態が報道されているが、本書では、そうした詳細には立ち入らない。その代わりに、事件の中で「死にたい」という言葉がどのように機能していたかに着目する。

犯人の男は twitter で「首吊り士」と名乗り、首吊りの知識を広めることで辛い人の力になりたいと自己紹介していた。また、「死ぬ前に連絡したい方はまだ未練がある証拠なので、死ぬべきではない」などと自殺願望のある人に寄り添うような発言が織り交ぜられていたという。

そして、「死にたい」とつぶやく人に近づき、メッセージをやり取りして関係性を築き、「一緒に死のう」という口実で、被害者を誘い出していた。しかし、実際に自分も自殺するつもりはなく、被害者に性的暴行を加えたうえで殺害し、金品を奪っていた。

遠く離れた場所にいる被害者と犯人を引き合わせ、強力な媒介としての役割を果たしたのは、この「死にたい」という言葉だという。そして、この言葉がどのように機能しているのかを考察する。

親密圏での「死にたい」とtwitterでの「死にたい」

家族や友人など、身近な人が「死にたい」とつぶやいたらどうだろう?

言われた方は戸惑い、「死んではいけない」と強く諫めるだろう。辛い状況にいる本人は弱音を吐いているだけで、本当は「生きたい」と思っているに違いないと考えるだろう。本人と親しい間柄である親密圏の内側に居る人は、その人の「生」を強くケアしようとするに違いない。

しかし、そのような「正攻法」では本人の気持ちはなかなか変わらない。支援の手を差し伸べたり、説得を試みても、本人の意思が変わらないことに嫌気がさし、ギクシャクするかもしれない。親密圏と「死にたい」という言葉は、折り合いの悪さを抱えているという。

一方で、twitter における「死にたい」は、ただ流れていくのみ。「死んではいけない」などと口出ししてくる人は稀だ。安心してこの言葉をつぶやくことができる。フォロワーも遠巻きにそっとコミュニケートしようとするかもしれない。だが、本人のつぶやきを尊重した上でのものになる。

この、「死にたい」が否定されない逃げ場としての twitter の重要性に着目する。

もちろん、冒頭で紹介した通り、この言葉は忌み語となりつつあり、つぶやく人は誘導されるようになっている。それでも、誘導先に行くかどうかは選ぶことができる。

「死にたい」が否定されない状態

著者は、この「死にたい」が否定されない状態が重要だという。

そのためには、「死にたい」と言い出した人に対し抱いている人物像の評価を、一時的に棚上げして保留にする。その言動の背後に、何らかの意図があるのか、いったんは追求しない。「なぜ死にたいのか」と問い詰めることは、説得者側の立場(=「生きる」を優先)を押し付けることになるからだ。

もちろん、「死にたい」原因を調べるのは重要だが、それは、この言葉をめぐる「私」と「あなた」のコミュニケーションが円滑に進んでからでも遅くないという。さらには、原因を調べるのは「私」と「あなた」ですらなく、精神科医や臨床医の仕事という場合だってあるというのだ。

「死にたい」という言葉を、文字通りに、「リテラル」に受け止める。

本書では、その可能性の一つとして、シェアハウスの事例を2つ紹介する。親密圏の外側にあり、苦しんでいる人にとって逃げ場となるような所で、他の住民と一緒に「いる」こと自体がケアになるような事例だ。近すぎず遠すぎず、「メンヘラにとって住みやすいシェアハウス」の事例はたいへん興味深い。

注意すべきなのは、著者は、「死にたい」に迎合しているわけではない点だ。

著者は、「死にたい」を治療することを否定しているわけではない。ただ、「死にたい」をいかに消すか、つまり希死念慮を消すという思考には、その時点ですでに「自殺はいけない」という前提が入り込んでいる。最初から「死にたい」を救い出すことを目指した議論にすることで、「死にたい」という言動を取る人が遠ざかってしまうことを懸念している。

その最初コミュニケーションに失敗してしまうと、結果的にその者を治療に向かわせることも困難になってしまうだろう。私たちは、座間九人殺害事件において、「死にたい」と言動する者たちが、自殺を手伝うかのような言動をとる犯人に誘引されてしまったことを決して忘れるべきではない。

『「死にたい」とつぶやく』中森弘樹、慶應義塾大学出版会、p.261

ChatGPTを始め、ネットでつぶやかれる「死にたい」への応答は、希死念慮を消す思考が前提にある。座間や練炭を経て、このような空気になっていることは理解できる。だが、一方で、「死にたい」を文字通りの意味でつぶやけなくなっていることも、改めて喚起しておくべきだろう。




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