« ITエンジニアの「心」を守る4冊と、心配事を減らすとっておきの方法 | トップページ | コーマック・マッカーシーの国境三部作完結編『平原の町』の再読に向けたメモ »

旅は帰る場所があるから成立する『越境』(コーマック・マッカーシー)

なぜ自分が自分の形を留めていられるかというと、自分を知る誰かがいるから。

誰も自分を知らない場所へ旅するのもいい。そもそも誰一人いない場所を旅するのもいい。だが、いつかは放浪をやめてこの世界のどこかに落ち着かなければならない。さもないと人という存在と疎遠になり最後には自分自身にとってさえ他人になってしまう。

誰かを撮った写真は、近しい人間の心のなかでしか価値を持たないのと同じように、人の心も別の人間の心の中でしか価値を持たず、その人の思い出は、思い出したときにのみ存在するだけであって、思い出す人がいなくなれば、消え去るほかない。

人生は思い出だ、そして思い出が消えれば無になる。だから人は思い出を物語ろうとする―――コーマック・マッカーシーの『越境』を読んでいる間、そんな声が通底音のようにずっと響いていた。

マッカーシーの代表作ともいえる国境三部作(ボーダー・トリロジー)の第二作がこれだ。第一作である『すべての美しい馬』は最高オブ最高なので、うかつに手を出すとがっかりすると思い、敬して遠ざけてきた。だが、読めるうちに読まないと後悔することは分かっている。

なので読んだ。読み終えたら、もう一度読みたくなったので、読んだ。主人公がなぜそれをしたのか、なぜしなかったのか、何度も確かめたくてページを戻った。戻る度に剥き出しの暴力に怯み、崇高美と残虐な現実が同居していることに驚かされる(何度読んでもだ)。

おそらくこれも、『すべての美しい馬』と同様に、人生かけて繰り返す作品になるだろう。

主人公はビリー、16歳の少年だ。罠で捉えたオオカミを、メキシコの山へ返してやろうと国境を越える。彼を待つ過酷な運命はここに書くことができない。だが、主人公であるからには、生き延びて目撃する必要はある。それぞれの運命を全うした人たちが物語る言葉を聴き、証人として生き延びる必要がある。

ビリーは三度、国境を越える。最初は傷ついたオオカミを返すため。その次は、最初の旅により引き起こされた出来事の落とし前をつけるため。そして最後は、それまでの旅を終わらせるため。

コーマック・マッカーシー『越境』の旅路をマッピングしてみた

普通ならば、旅とは日常のしがらみから逃れ、冒険へ召喚され、境界を超越し、様々な危険を冒した後、賜物を携えて帰ってくるものだ。国境を越えることで、二度ともとには戻れない旅に出るのだが、帰郷するたびに大きなものを失っていることに気づく。ビルドゥングスロマンの体(てい)なのに、喪失の物語なのだ。

大切なものを失う一方で、出会う人々から様々な物語を聴かされる。純粋に暴力的な世界を淡々と描くマッカーシー節が光るのはここだ。最も印象に残ったのは、メキシコ革命を生き延びた盲目の老人の話だ。

彼は反乱軍の砲手として活躍していたが、あえなく捕虜となり、銃殺されそうになる。敵のドイツ人が「こんな間違ったしかも勝ち目のない大義のために死ぬのはよっぽど馬鹿げたことだ」と嘲ると、彼は唾を吐きかける。するとドイツ人は奇妙なことに、自分にかかった唾を綺麗に舐めとり、彼の顔を両手で挟み、まるでキスをするかのように顔を近づけてくる。

だがそれはキスではなかった。捕虜の顔を両手で抑えて背をかがめたところはフランスの軍隊でやるような両側の頬へのキスのようにも見えたが、そのドイツ人がしたのは頬をきゅっと窄めて相手の目玉をひとつずつ吸い出し吐き出すことだったのであり、こうして若い砲手の頬の上に濡れた二つの目玉が紐のような神経をだらりと伸ばしてぶら下がりゆらゆら揺れるという奇怪な事態が生じたのだった。

痛みもひどかったが、この解体してしまった世界がもう絶対に戻らないという苦悶のほうがずっと大きかった。みんなはスプーンで目玉を眼窩に戻してやろうとしたがうまくいかず、目玉は彼の頬の上で放置された葡萄のように乾いていき世界は次第に暗くなり色を失いやがて完全に消えてしまった。

彼は銃殺を免れ、追放されるのだが、そのまま彷徨い続けることになる。ドイツ人がなぜそんなことをしたのか、その行為に何の意味があるのか、一切、語られない。

ビリーはこの話を、茹でてもらった卵を食べながら聞くことになる。吸い出された目玉と茹でたての卵の取り合わせは、もちろん一言も示唆されないものの、読み手の心にグロテスクな心象を与えてくる。

目玉を失った老人の物語、間違って英雄にされて殺された男の話、二つの飛行機を山から降ろす話、後半のほとんどは、誰かがビリーに物語るエピソードに満ちている。代わりに、彼が主人公のように行動することは無くなってゆく。まるで、ビリーは物語によって生かされているかのように思えてくる。

ビリーが目指す場所は失われ、長い旅の終点はどこかと問われても、終点はどこなのか知らないしそこへ着いたとしても着いたと気づくかどうか分からないと言う。前作『すべての美しい馬』のラストで呟く、グレイディ・コールの声と重なる。

第三作目は『平原の町』だ。ビリーとグレイディ・コールの二人の行く末が描かれるという。読むのが楽しみだが、怖い。



このエントリーをはてなブックマークに追加

|

« ITエンジニアの「心」を守る4冊と、心配事を減らすとっておきの方法 | トップページ | コーマック・マッカーシーの国境三部作完結編『平原の町』の再読に向けたメモ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« ITエンジニアの「心」を守る4冊と、心配事を減らすとっておきの方法 | トップページ | コーマック・マッカーシーの国境三部作完結編『平原の町』の再読に向けたメモ »