人生かけてくり返し読む『すべての美しい馬』
コーマック・マッカーシー『すべての美しい馬』は、あまりに好きすぎて書評できない。そのため、以下の文章はわたしのノロケになる。
20年前に一目ぼれして以来、くり返し読んできた。好きなシーン(野生馬の調教、刑務所でのナイフ死闘)を擦り切れるまでめくったり、ふと開いた頁のセリフに啓示を探したり、リアルがキツいと感じたときのアジール(逃げ場)としたり、様々な読み方をしてきた。
10年前に文庫になったのを読み、読書会を機に先週また読み、いまKindleで原著に取り組んでいる。たぶんこれ、人生かけてくり返す傑作になるだろう。そしてこれ、読み返すたびに美しさを再発見し、苛烈さに震え慄き、運命に落涙する傑作となるに違いない。
時代錯誤のカウボーイ
舞台は1949年のテキサス、主人公はジョン・グレイディ・コール。祖父の牧場で生まれてから16年、カウボーイとして生きてきた。
冒頭は祖父の葬儀から始まる。そして、南北戦争の時代から築かれてきた広大な牧場が、一族の手を離れ、売却されることになる。カウボーイという生き方しかできない彼は、人生を選び取るため、友人のロリンズと一緒に南へ向かう。
モータリゼーションが行き渡ったアメリカ合衆国において、馬で旅をすることは奇妙に見える。トラックが行き交う舗装路を避けねばならないし、馬に食わせるためにオートミールを買い求める必要がある。時代錯誤で、時代遅れな旅だ。
『すべての美しい馬』の旅路をマッピングしてみた(GoogleMap)
ジョン・グレイディ・コールは口数が少なく、感情を出さず、馬を愛し、馬と共に生きようとする。名誉を守り、自分の中にある理想主義を貫こうとする。彼が笑うシーンは2回あるが、2回とも馬に関連してである。16歳なのに老成している、一人前の男というイメージで、まるで西部劇のような旅である。
シカを撃ち、火を焚き、馬に水を飲ませ、旅を続ける。知識と技術と経験を活かし、自らの力で自然の中で生きようとすると、必然的にその場所は、アメリカ合衆国でなくなる。アメリカ文明がまだ到達していない場所―――かつてフロンティア(辺境)と呼ばれていた西部よりも西部にある場所―――メキシコを目指すことになる。
国境となるリオ・グランデ川を越境し、出会いと別れをくり返し、ある大牧場で雇われる。最初は牧童として単純な作業をさせられていたが、馬の調教に長けていることが知れ渡り、一目置かれるようになる。
寡黙で、礼儀正しく、知恵も経験もあるジョン・グレイディは、牧場主に気に入られるようになり、その一人娘・アレハンドラと出会う―――というのが序盤だ。
西部劇を終わらせる西部劇
3回目の再読で気づいたのだが、この作品は、西部劇の舞台と設定を用いて、西部劇を殺しにかかっている物語だと言える。
ChatGPTに尋ねたところ、典型的な西部劇は、以下のような特徴を持っている。
- 荒涼とした風景:荒野や砂漠、岩山、深い谷を流れる川など、開拓時代のアメリカ西部に広がる自然環境が舞台
- カウボーイやガンマン:自由を愛し、独自の信念を持つカウボーイやガンマンが登場し、時には法を犯してでも、己を貫こうとする
- 悪役との対決:強欲で独裁的な悪役が登場し、人びとを脅かす。主人公は悪役と対決し、勝利するという展開
- 銃撃戦や追跡シーン:主人公は銃の扱いに熟達しており、銃撃戦で敵を倒す。追跡シーンでは、馬を駆使して逃走する
- ロマンス要素:恋愛要素が存在することがあり、主人公とヒロインのロマンスや、恋敵との対決などが描かれる
『すべての美しい馬』は、これらの特徴を全て備えている。主人公はカウボーイで、荒野を馬で旅をした後、ヒロインと恋仲になる。独裁的な悪役が登場し、銃撃戦や追跡シーンがある。
ところが、道具立ては西部劇そのものなのに、西部劇とはまるで違うストーリーになっている。
未開だった西部はハイウェイが走っており、馬は避けねばならない。魂だけはチャレンジスピリットと言えるが、その信念は運命の荒波にもまれ、泡のように消え去る。独裁者には独裁者の事情があり、岡目八目で言うなら、主人公のほうが「悪役」である。奇跡的な出会いに見えるロマンスは、血と偶然が成し得たものだ。
そして何よりも、勧善懲悪ではない。
主人公は決して善ではない。善であろうと望んでも、運命がそうはさせない。主人公が選んだ行為は、生きるための最善だったかもしれないが、「善」ではない。決着はするものの「どうしてこうなった」とも言える物語なのだ。
自由と独立の精神は、アメリカ人のアイデンティティそのものであり、この精神性を担保するために、さまざまな物語が作られてきた。そこではヒーロー(英雄)が登場し、悪を倒す。アメリカの国是とも言える西部劇が、舞台や小道具はそのままに、組み替えなおされたのが、『すべての美しい馬』なのだ。
ジョン・グレイディ・コールは、しらがみから逃れ、冒険へ召喚され、境界を超越し、力の源泉へ潜入し、賜物を携えて還ってくる。途中には追跡があり、暴力があり、対決がある。これは、ペルセウスやイザナギ、仏陀を始めとする、各地で伝承される英雄譚と同じ構造をしている。この構造の中でなら、彼は英雄と言える。
神話の骨格:『千の顔をもつ英雄』より
そして、神話としての英雄譚であるならば、主人公は旅立つ前と後で、何らかの変化が生じているはずだ。
わたしが気づいたのは、彼の涙だ。
この作品では、彼が泣くシーンが3度ある。絶望のあまり悲しみがどっと押し寄せ、子どものように泣き出すシーン。自分がしたことが正しいことか分からないと告白したとき。そしてラスト、一族を三代に渡って面倒を見てきた使用人(”祖母ちゃん”と呼ばれている)の葬儀のときである。すべて物語の後半に集約している。
彼は泣くような男ではない。死ぬことを恐れてはいないし、刺されたときも、撃たれたときも、焼けた鉄を自分で自分に押し付けたときも、涙を流さなかった。
だが、この行きて帰りし物語を経た後、ジョン・グレイディ・コールは”弱く”なった。文字通りの意味で、どこにも居場所が無くなり、どこかに行かなければならないのに、どこへ行ってよいのか分からなくなってしまった。「おまえの住む場所ってどこだ?」という問いかけへの返答が、象徴的だ。
わからない、とジョン・グレイディ・コールはいった。どこにあるかは知らない。住む場所にどんな意味があるのかもわからない。
(『すべての美しい馬』ハヤカワepi文庫版より)
この作品は、徹底したリアリズムで、残酷さ、シニシズム、血なまぐさい暴力、希望や忠誠心、愛とロマンティシズムが描かれているが、決して西部劇ではない。コーマック・マッカーシーは、西部劇の題材で西部劇にトドメを刺し、新しいアメリカの神話を組みなおそうとしたのかもしれない。
コーマック・マッカーシーの文体
この作品のリアリズムを支えているのが、コーマック・マッカーシーの独特の文体だ。
非常に個性的で、最初は読みづらいと感じるかもしれない。
まず、引用のカッコがない。三人称、二人称、一人称、モノローグもダイアローグも、すべて地の文で語られている。南部方言やスペイン語も「そのまま」で記述され、原文だと何を言っているのかさっぱり分からない(にもかかわらず、非常に重要なことを言っている)。
さらに、一文が異様に長い文章が出てくる。通常であれば分けるセンテンスを、あえて接続詞 and で切れ目なくつないでいくことで、連続して息長く描写する。たとえば、馬の調教シーン(私が大好きなところ)のここなんてそう。
Before the colt could struggle up John Grady had squatted on its neck and pulled its head up and to one side and was holding the horse by the muzzle with the long bony head pressed against his chest and the hot sweet breath of it flooding up from the dark wells of its nostrils over his face and neck like news from another world. They did not smell like horses. They smelled like what they were, wild animals. He held the horse’s face against his chest and he could feel along his inner thighs the blood pumping through the arteries and he could smell the fear and he cupped his hand over the horse’s eyes and stroked them and he did not stop talking to the horse at all, speaking in a low steady voice and telling it all that he intended to do and cupping the animal’s eyes and stroking the terror out.
"All the Pretty Horses" Cormac McCarthy若駒がもがきながら立ち上がる前にジョン・グレイディが首の上にまたがり頭を引きつけて骨張った長い顔を自分の胸に押しつけると鼻腔の暗い井戸のなかから熱い甘い息があふれ出してきて別世界からの便りのように顔や首にかかった。馬の匂いではなかった。馬である以前に彼らがそうである野生動物の匂いだった。馬の顔を胸に抱えこみももの内側に馬の動脈が力強く送り出す血を感じることができ馬の怯えを嗅ぎとることができた彼は、馬の目の上に手をかぶせて撫でてやり、低い声で休むことなくこれから自分が何をするつもりなのかを囁きつづけ恐怖心をこすり落とすためにさらに目の上を撫でた。
(『すべての美しい馬』ハヤカワepi文庫版より)
ゴテゴテした装飾を省き、より少ない語彙でより多く表現している。焦点が当たっている箇所は一部分だけで、ほとんどは水面下にある。その大部分を、シンプルな表現で描こうとする姿勢は、ヘミングウェイやフォークナーを彷彿とさせる。
接続詞 and でつなぎ続ける描写だと、ヘミングウェイの『老人と海』のここなんてそうかも。
He took all his pain and what was left of his strength and his long gone pride and he put it against the fish's agony and the fish came over onto his side and swam gently on his side, his bill almost touching the planking of the skiff and started to pass the boat, long, deep, wide, silver and barred with purple and interminable in the water.
“The Old Man and The Sea” Ernest Hemingwayこれまでの痛み、わずかに残った力、なくして久しい誇りを全部まとめて、魚の苦しみにぶつけると、ついに魚は横倒しになって、ゆらりと寄ってきた。長い嘴が舷側に当たりそうだ。舟に沿ってすり抜けるように動きだす。長く、分厚く、幅があり、銀色に紫の縞がついて、水中のどこまでが魚なのかわからない。
(『老人と海』ヘミングウェイ、光文社古典新訳文庫より)
巨大なカジキマグロとの死闘のラストシーンだ。3日間、ほとんど飲まず食わず眠らずで疲労困憊だったが、最後の力を振り絞って闘いを制するところ。消えそうな意識を、なんとかつなぎあわせている様子が、くり返される and でうまく伝わってくる。
コーマック・マッカーシーの文体にも、近いものがある。情緒を排したストイックな文体は、ゴツゴツしてて読みづらい。たとえ表面をなぞる言葉が尽くされていても、説明となる文(読者が抱く「なぜ」とか「どのように」を解決する文)が少なく、ややもすると情報不足な気にさせられる。
必然的に読み手は憶測をめぐらし、水面下を推し測ろうとする。文体の渇きを、自分の想像力で潤そうとする。
独特のリズムを持ち、畳みかけるような描写に虜になっているうちに、言葉が、本来の意味で立ち上がってくる。悪意や憎悪が混じっていない、純粋な意味での暴力を生(き)のままに味わうことができる。恋抜きの愛がどれほど動物じみたものになるか、目の当たりにすることができる。
この文体は、『ザ・ロード』『血と暴力の国』にも引き継がれている。どれも読みづらいので、気軽にはお勧めできないが、どれも傑作であることは請け負う。
『すべての美しい馬』は、非常に高い評価を受け、全米批評家協会賞と全米図書賞をダブルで受賞している。そして、国境三部作と呼ばれている三つの作品のうちの、最初の一作目になる。続く二作の出来がよくないという噂を聞いたので、これだけをひたすら読み直している。彼のその後の運命を、知りたくない(知らないほうが幸せ)というのが本音だ。
だが、知らないまま、わたしの人生が終わるのは、もったいない。『すべての美しい馬』の読書会に参加するので、そこで改めて訊いてみよう。そして、読んでみよう。
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