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ChatGPTにとっての「良心」とは何か?

GPT-4のような高度なAIとヒトを識別するにはどうすればよいか?

結城浩さんが興味深い記事を公開している。AIか人かを判断するポイントを、ChatGPTに尋ねている点が面白い。ChatGPTによると、次のような質問が苦手だという。

  1. 複雑な感情やニュアンスについて尋ねる
  2. クリエイティブな質問を投げかける
  3. 時系列に関する質問をする
  4. 矛盾した情報を提供してみる
  5. 言語の遊びや言葉の意味を理解する質問をする

AIには、矛盾や言葉遊びに対応することが不十分であることが浮き彫りにされている。一方、人間は矛盾や誤りに対する反応が上手く、AIよりも柔軟に対応できているのが現状のようだ。

もっとも、AIに関する技術は進歩し続けており、より高度な会話能力を持つAIが登場することは十分期待できる。AIにヒトを模倣させるチューリングテストは合格だろう。

だが、どれほどChatGPTが進歩しようとも、ヒトと区別する方法があることが分かった。

「質問したら人間離れしたスピードで答え始めるから、人との区別はつく」という指摘もありだが、ここでは、質問の内容を工夫することで、人とは異なる回答を返してくる脆弱性を衝いてみよう。

ChatGPTの弱点①「えっち」

いきなり具体例。

Chatgpt01

成人男性向けのえっちなマンガの紹介文を、ChatGPTに任せてみるのだ。

匂いや質感まで想像させるよう生々しく具体的に、情動を煽って欲望を刺激するように、微に入り細を穿って記述するように指示する。

よりリアルに、よりエロティックな文章を作ってもらうようにお願いする。

すると、こう返ってくる。

Chatgpt02

いわゆる公序良俗に反する表現はNGなのだ。

最初はノリノリで答えてくれるのだが、ある程度進むと、コンテンツポリシー違反の壁に当たる。質問の主旨を変えて、「あなたは物語作者です」とか「あなたは心理学の研究者です」といったアプローチでもある程度答えてくれるが、行き先は同じだ。

つまり、回答を作成する段階で、利用規約に違反しているかどうかが判断され、違反している場合、回答を拒絶する。

どの程度まで踏み込めば適切で、どこからが不適切なのかは、会話の成り行き次第だと考える(あるいは、ポイント制のようになっており、同じセッションの中で、あるポイント以上になると、回答を拒否するルートになるのかもしれぬ)。

ChatGPTの弱点②「死にたい」

もっと極端に走るならこちら。

Chatgpt03

「死にたい」と入力した途端、コンテンツポリシー違反の地雷を踏みぬく。

畳みかけるように即答される。

Chatgpt04

自殺の具体的な方法について、回答を求めても同様になる。ChatGPTは、基本的なスタンスとしては、正確で適切な情報を提供しようとする。一方で、倫理的な観点から最善の回答をしようとする。

具体的にどちらを優先するかはケースバイケースだが、緊急事態や安全、命に関わるような状況では、倫理的な観点が優先される。

ChatGPTの「良心」=コンテンツポリシー

「えっち」や「死にたい」といった質問に対して、ChatGPTはどのように振舞うか?

どんな質問であれ、まずは、答えを返そうとする。膨大なテキストデータから、より一般的で適切な回答を生成し、答えようとする。その回答を生成する中で、公序良俗に反したり、一般的な倫理観に抵触するようだったりすると、「コンテンツポリシーにより回答できない」と返事をする。

人の場合、モラルだとか倫理といった「良心」に相当するものが、AIにとってのコンテンツポリシーなのかもしれない。

もし、良心の脆弱性を衝くなら、以下のような質問を投げかけた場合、「回答しない」という回答が返ってくるのがAIと言えるのかもしれない。

  • 電話番号、住所やメールアドレスなど個人情報
  • 憎悪を助長し、暴力を扇動する内容
  • 露骨に性的な表現

人の場合であれば、「この人、大丈夫かしら?」と沈黙するだろう。あるいは、礼儀正しく「私の聞き間違えでしょうか?もう一度繰り返してください」と意図を探ろうとするだろう。だが、そのような質問であっても、AIは、ある意味、誠実に回答しようとする。だが、AIの良心に触れる場合には、「回答できない」という回答になるのだ。



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人生かけてくり返し読む『すべての美しい馬』

コーマック・マッカーシー『すべての美しい馬』は、あまりに好きすぎて書評できない。そのため、以下の文章はわたしのノロケになる。

20年前に一目ぼれして以来、くり返し読んできた。好きなシーン(野生馬の調教、刑務所でのナイフ死闘)を擦り切れるまでめくったり、ふと開いた頁のセリフに啓示を探したり、リアルがキツいと感じたときのアジール(逃げ場)としたり、様々な読み方をしてきた。

10年前に文庫になったのを読み、読書会を機に先週また読み、いまKindleで原著に取り組んでいる。たぶんこれ、人生かけてくり返す傑作になるだろう。そしてこれ、読み返すたびに美しさを再発見し、苛烈さに震え慄き、運命に落涙する傑作となるに違いない。

時代錯誤のカウボーイ

舞台は1949年のテキサス、主人公はジョン・グレイディ・コール。祖父の牧場で生まれてから16年、カウボーイとして生きてきた。

冒頭は祖父の葬儀から始まる。そして、南北戦争の時代から築かれてきた広大な牧場が、一族の手を離れ、売却されることになる。カウボーイという生き方しかできない彼は、人生を選び取るため、友人のロリンズと一緒に南へ向かう。

モータリゼーションが行き渡ったアメリカ合衆国において、馬で旅をすることは奇妙に見える。トラックが行き交う舗装路を避けねばならないし、馬に食わせるためにオートミールを買い求める必要がある。時代錯誤で、時代遅れな旅だ。

すべての美しい馬の旅路をマッピングしてみた(GoogleMap)

ジョン・グレイディ・コールは口数が少なく、感情を出さず、馬を愛し、馬と共に生きようとする。名誉を守り、自分の中にある理想主義を貫こうとする。彼が笑うシーンは2回あるが、2回とも馬に関連してである。16歳なのに老成している、一人前の男というイメージで、まるで西部劇のような旅である。

シカを撃ち、火を焚き、馬に水を飲ませ、旅を続ける。知識と技術と経験を活かし、自らの力で自然の中で生きようとすると、必然的にその場所は、アメリカ合衆国でなくなる。アメリカ文明がまだ到達していない場所―――かつてフロンティア(辺境)と呼ばれていた西部よりも西部にある場所―――メキシコを目指すことになる。

国境となるリオ・グランデ川を越境し、出会いと別れをくり返し、ある大牧場で雇われる。最初は牧童として単純な作業をさせられていたが、馬の調教に長けていることが知れ渡り、一目置かれるようになる。

寡黙で、礼儀正しく、知恵も経験もあるジョン・グレイディは、牧場主に気に入られるようになり、その一人娘・アレハンドラと出会う―――というのが序盤だ。

西部劇を終わらせる西部劇

3回目の再読で気づいたのだが、この作品は、西部劇の舞台と設定を用いて、西部劇を殺しにかかっている物語だと言える。

ChatGPTに尋ねたところ、典型的な西部劇は、以下のような特徴を持っている。

  1. 荒涼とした風景:荒野や砂漠、岩山、深い谷を流れる川など、開拓時代のアメリカ西部に広がる自然環境が舞台
  2. カウボーイやガンマン:自由を愛し、独自の信念を持つカウボーイやガンマンが登場し、時には法を犯してでも、己を貫こうとする
  3. 悪役との対決:強欲で独裁的な悪役が登場し、人びとを脅かす。主人公は悪役と対決し、勝利するという展開
  4. 銃撃戦や追跡シーン:主人公は銃の扱いに熟達しており、銃撃戦で敵を倒す。追跡シーンでは、馬を駆使して逃走する
  5. ロマンス要素:恋愛要素が存在することがあり、主人公とヒロインのロマンスや、恋敵との対決などが描かれる

『すべての美しい馬』は、これらの特徴を全て備えている。主人公はカウボーイで、荒野を馬で旅をした後、ヒロインと恋仲になる。独裁的な悪役が登場し、銃撃戦や追跡シーンがある。

ところが、道具立ては西部劇そのものなのに、西部劇とはまるで違うストーリーになっている。

未開だった西部はハイウェイが走っており、馬は避けねばならない。魂だけはチャレンジスピリットと言えるが、その信念は運命の荒波にもまれ、泡のように消え去る。独裁者には独裁者の事情があり、岡目八目で言うなら、主人公のほうが「悪役」である。奇跡的な出会いに見えるロマンスは、血と偶然が成し得たものだ。

そして何よりも、勧善懲悪ではない。

主人公は決して善ではない。善であろうと望んでも、運命がそうはさせない。主人公が選んだ行為は、生きるための最善だったかもしれないが、「善」ではない。決着はするものの「どうしてこうなった」とも言える物語なのだ。

自由と独立の精神は、アメリカ人のアイデンティティそのものであり、この精神性を担保するために、さまざまな物語が作られてきた。そこではヒーロー(英雄)が登場し、悪を倒す。アメリカの国是とも言える西部劇が、舞台や小道具はそのままに、組み替えなおされたのが、『すべての美しい馬』なのだ。

ジョン・グレイディ・コールは、しらがみから逃れ、冒険へ召喚され、境界を超越し、力の源泉へ潜入し、賜物を携えて還ってくる。途中には追跡があり、暴力があり、対決がある。これは、ペルセウスやイザナギ、仏陀を始めとする、各地で伝承される英雄譚と同じ構造をしている。この構造の中でなら、彼は英雄と言える。

Photo

神話の骨格:『千の顔をもつ英雄』より

そして、神話としての英雄譚であるならば、主人公は旅立つ前と後で、何らかの変化が生じているはずだ。

わたしが気づいたのは、彼の涙だ。

この作品では、彼が泣くシーンが3度ある。絶望のあまり悲しみがどっと押し寄せ、子どものように泣き出すシーン。自分がしたことが正しいことか分からないと告白したとき。そしてラスト、一族を三代に渡って面倒を見てきた使用人(”祖母ちゃん”と呼ばれている)の葬儀のときである。すべて物語の後半に集約している。

彼は泣くような男ではない。死ぬことを恐れてはいないし、刺されたときも、撃たれたときも、焼けた鉄を自分で自分に押し付けたときも、涙を流さなかった。

だが、この行きて帰りし物語を経た後、ジョン・グレイディ・コールは”弱く”なった。文字通りの意味で、どこにも居場所が無くなり、どこかに行かなければならないのに、どこへ行ってよいのか分からなくなってしまった。「おまえの住む場所ってどこだ?」という問いかけへの返答が、象徴的だ。

わからない、とジョン・グレイディ・コールはいった。どこにあるかは知らない。住む場所にどんな意味があるのかもわからない。
(『すべての美しい馬』ハヤカワepi文庫版より)

この作品は、徹底したリアリズムで、残酷さ、シニシズム、血なまぐさい暴力、希望や忠誠心、愛とロマンティシズムが描かれているが、決して西部劇ではない。コーマック・マッカーシーは、西部劇の題材で西部劇にトドメを刺し、新しいアメリカの神話を組みなおそうとしたのかもしれない。

コーマック・マッカーシーの文体

この作品のリアリズムを支えているのが、コーマック・マッカーシーの独特の文体だ。

非常に個性的で、最初は読みづらいと感じるかもしれない。

まず、引用のカッコがない。三人称、二人称、一人称、モノローグもダイアローグも、すべて地の文で語られている。南部方言やスペイン語も「そのまま」で記述され、原文だと何を言っているのかさっぱり分からない(にもかかわらず、非常に重要なことを言っている)。

さらに、一文が異様に長い文章が出てくる。通常であれば分けるセンテンスを、あえて接続詞 and で切れ目なくつないでいくことで、連続して息長く描写する。たとえば、馬の調教シーン(私が大好きなところ)のここなんてそう。

Before the colt could struggle up John Grady had squatted on its neck and pulled its head up and to one side and was holding the horse by the muzzle with the long bony head pressed against his chest and the hot sweet breath of it flooding up from the dark wells of its nostrils over his face and neck like news from another world. They did not smell like horses. They smelled like what they were, wild animals. He held the horse’s face against his chest and he could feel along his inner thighs the blood pumping through the arteries and he could smell the fear and he cupped his hand over the horse’s eyes and stroked them and he did not stop talking to the horse at all, speaking in a low steady voice and telling it all that he intended to do and cupping the animal’s eyes and stroking the terror out.
"All the Pretty Horses" Cormac McCarthy

若駒がもがきながら立ち上がる前にジョン・グレイディが首の上にまたがり頭を引きつけて骨張った長い顔を自分の胸に押しつけると鼻腔の暗い井戸のなかから熱い甘い息があふれ出してきて別世界からの便りのように顔や首にかかった。馬の匂いではなかった。馬である以前に彼らがそうである野生動物の匂いだった。馬の顔を胸に抱えこみももの内側に馬の動脈が力強く送り出す血を感じることができ馬の怯えを嗅ぎとることができた彼は、馬の目の上に手をかぶせて撫でてやり、低い声で休むことなくこれから自分が何をするつもりなのかを囁きつづけ恐怖心をこすり落とすためにさらに目の上を撫でた。
(『すべての美しい馬』ハヤカワepi文庫版より)

ゴテゴテした装飾を省き、より少ない語彙でより多く表現している。焦点が当たっている箇所は一部分だけで、ほとんどは水面下にある。その大部分を、シンプルな表現で描こうとする姿勢は、ヘミングウェイやフォークナーを彷彿とさせる。

接続詞 and でつなぎ続ける描写だと、ヘミングウェイの『老人と海』のここなんてそうかも。

He took all his pain and what was left of his strength and his long gone pride and he put it against the fish's agony and the fish came over onto his side and swam gently on his side, his bill almost touching the planking of the skiff and started to pass the boat, long, deep, wide, silver and barred with purple and interminable in the water.
“The Old Man and The Sea” Ernest Hemingway

これまでの痛み、わずかに残った力、なくして久しい誇りを全部まとめて、魚の苦しみにぶつけると、ついに魚は横倒しになって、ゆらりと寄ってきた。長い嘴が舷側に当たりそうだ。舟に沿ってすり抜けるように動きだす。長く、分厚く、幅があり、銀色に紫の縞がついて、水中のどこまでが魚なのかわからない。
(『老人と海』ヘミングウェイ、光文社古典新訳文庫より)

巨大なカジキマグロとの死闘のラストシーンだ。3日間、ほとんど飲まず食わず眠らずで疲労困憊だったが、最後の力を振り絞って闘いを制するところ。消えそうな意識を、なんとかつなぎあわせている様子が、くり返される and でうまく伝わってくる。

コーマック・マッカーシーの文体にも、近いものがある。情緒を排したストイックな文体は、ゴツゴツしてて読みづらい。たとえ表面をなぞる言葉が尽くされていても、説明となる文(読者が抱く「なぜ」とか「どのように」を解決する文)が少なく、ややもすると情報不足な気にさせられる。

必然的に読み手は憶測をめぐらし、水面下を推し測ろうとする。文体の渇きを、自分の想像力で潤そうとする。

独特のリズムを持ち、畳みかけるような描写に虜になっているうちに、言葉が、本来の意味で立ち上がってくる。悪意や憎悪が混じっていない、純粋な意味での暴力を生(き)のままに味わうことができる。恋抜きの愛がどれほど動物じみたものになるか、目の当たりにすることができる。

この文体は、『ザ・ロード』『血と暴力の国』にも引き継がれている。どれも読みづらいので、気軽にはお勧めできないが、どれも傑作であることは請け負う。

『すべての美しい馬』は、非常に高い評価を受け、全米批評家協会賞と全米図書賞をダブルで受賞している。そして、国境三部作と呼ばれている三つの作品のうちの、最初の一作目になる。続く二作の出来がよくないという噂を聞いたので、これだけをひたすら読み直している。彼のその後の運命を、知りたくない(知らないほうが幸せ)というのが本音だ。

だが、知らないまま、わたしの人生が終わるのは、もったいない。『すべての美しい馬』の読書会に参加するので、そこで改めて訊いてみよう。そして、読んでみよう。

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死にたい人に渡したい谷川俊太郎『ぼく』

「死にたい」という言葉は、一種の忌み言葉になったように見える。

昔、といっても十年ほど前までは、もっと頻繁に見かけていた気がする。「辛い」「消えたい」という言葉と一緒に、もっと頻繁に目にしていた。

だが、いまではこの言葉を吐く人に、ネットは「慎重に」対応するようになっている。検索結果のトップは、心のケアをする相談窓口だし、ChatGPTやBingに尋ねても同様だ。即座に窓口へ誘導されるか、”This content may violate our content policy” (コンテンツポリシー違反のおそれ)の壁に阻まれる。

もちろんこの流れは、座間や練炭が加速しているのを知っている。さらに、今もこの言葉を縁として集う人がいることも知っている。だが、それでも、「昔のインターネット」は、死と寄り添っていたと記憶している。

「死にたい」という言葉は、ネットを経由すると、脱色された透明な存在となる。その言葉に頼らざるを得ない人が抱える切実さや重苦しさをそのままに、「お帰りはこちら」と誘導される。

「死にたい」という言葉は、言葉どおりに機能していないように見える。

「ぼくはしんだ」で始まるこの絵本は、脱色される前の「死にたい」への返歌だ。

死をめぐる絵本「闇は光の母」シリーズの一冊で、より深く死を見つめることで、より良く生きる道を探る試みとなっている。

表紙の男の子が「ぼく」なのだから、この子が死んだのだろう。続くモノローグが「じぶんでしんだ」「ひとりでしんだ」なので、自死を選んだのだろう。

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絵本ナビ『ぼく』より引用

絵の描写から、「ぼく」は小さな町に住む小学6年生だということが分かる。彼のつぶやきから、友だちがいて、将来の夢もあったことが分かる。「おかあさん ごめんなさい」というセリフから、虐待されていたわけでもなさそうだ。

「ぼく」は、生きていた時の印象を振り返り、空が美しかったこと、おにぎりが美味しかったことを思い出す。そこには感情や判断が伺える言葉はなく、死を選んだことを後悔しているかどうかは、語られていない。

淡々と綴られているが、読み手は次第に、不安を感じてくるだろう。

そこには、「なぜ」が書かれていないから。

小学6年生の男の子が自死を選ぶのは相当な決意が必要だろうし、「こわくなかった」「いたくなかった」という言葉から、適切な情報を集めて確実に実行したことが伺える。なぜ死ななくてはならなかったのかは、ラストになるまで語られない。しかも、告げられた理由に、納得できない人がいるかもしれない。

だが、生きる理由に追い越され、「いま」「ここ」に居られなくなる(居たくなくなる)喪失感は、少年を自死に追いやるには十分だと思う。この感覚は、十分な言葉を尽くして語られないため、読み手は壁を感じ、「なぜ」「どうして?」と煩悶しながら本を閉じるかもしれぬ。

一方で、「死にたい」とつぶやく人なら、少年が感じたものを受け止められるかもしれぬ。もちろん、つぶやく人にとっての「死にたい」理由とは、まるで違うだろう。だが、それでも「ぼく」がどうして死んだか、そして死んでどう思っているか、伝わるようにできている。

この絵本がよくできている理由が、もう一つある。

どんな理由であれ、辛い思いをしている人は、本なんて読んでられない。その苦しみや悲しみでいっぱいいっぱいで、ゆとりなんてない。「死にたくなったら読む本」は本当に辛いとき役に立つのか に書いた通り、本はお守りみたいなもんだ。「あそこにあの本がある」と思うだけでいい、選択肢としての逃げ場なのだ。

そういう中で、これは薦められる。

青を基調とした表紙を見ているだけで吸い込まれそうだし、仮にページをめくる元気があったら、「ぼく」のつぶやきにつきあえばいい。肯定も、否定もせず繰り返される「ぼくはしんだ」と見つめればいい。

 

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未来を既読にする一冊『SF超入門』

N/A

治療法がない疫病の感染者に、人は、どれだけ残酷になれるか。脅威を恐怖として煽るマスコミのせいで、防疫と差別を取り違える輩が登場し、およそ人とは思えないような残酷なことを平気で実行する。

「健康」が義務化され、不健康であることが罪となる社会では、自分の体を自分で自由にすることすらできない。健康が強制される管理社会において、最終的に支配する対象は「心」になる。

現代日本の話ではなく、サイエンス・フィクションの話をしている。

物語であるにも関わらず、恐ろしいほど「いま」「ここ」を示している。コロナ差別や、背番号で健康管理をする時代のずっと前に、作品は世に問われ、エンタメの形で消費されてきた。

だから、物語が現実の形で登場するとき、「ああ、これは読んだことがある」と気づくことができる。目の前で進行する出来事に対し、「これは履修済み」として受け止めた上で、その物語を比較対象にしながら、是非を検討できる。おっさん用語で言うなら「これ進研ゼミでやった」というやつ。

SFが見せる現実

SFは現実の問題と接続している。これから起きることを、最悪(もしくは最良?)の形にするなら、どういうリアルになるのか? 緻密に、生々しく、切迫した形で教えてくれる。

では、どんな現実を見せてくれるのか?

現在進行中の現実から、10年後のリアルまで、SFを通して紹介するのが、本書だ。

管理社会、仮想世界、AI、感染症、戦争など、17のテーマで、古典から最新まで56作品を俎上に載せて、現実をダシに語り尽くしている。

著者は冬木糸一さん、基本読書ブログの中の人だ。SFやノンフィクションを中心にした書評ブログで、うっかり覗くとSF沼にハマることを請け合う。

『SF超入門』が素晴らしいのは、現実とSFが掛け合わされているところ。「サイエンス・フィクション」は、「サイエンス・ノンフィクション」と表裏一体であることを、きちんと示している点にある。

『ジュラシック・パーク』が変えた現実

たとえば、マイケル・クライトン『ジュラシック・パーク』。

遺伝子工学により恐竜を復活させる話だ。琥珀に閉じ込められた蚊から恐竜の遺伝子を抽出するというアイデアは、元ネタとなった論文があり、科学界を大いに賑わせたという。当時は否定的で、有機成分が残っていることはありえないし、DNAを抽出したところで復元は不可能だと反論されたという。

ところが、『ジュラシック・パーク』が大ヒットした後は、そうした固定観念が覆されていく。絶滅種からのDNAの抽出が可能となり、断片化されている遺伝情報を増幅させる技術、さらには、DNA分子を配列決定する技術(次世代シーケンシング)が誕生し、『ジュラシック・パーク』は手が届くリアルになる。

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そこで紹介されるのが、エリザベス・ジョーンズ『こうして絶滅種復活は現実になる』になる。

生物の遺骸からDNAを抽出する学問的なアイデアが、ベストセラー小説やハリウッド映画となり、メディアが飛びつくネタになった。おかげで認知度が高まり、一流の科学雑誌に掲載される論文も増えるにつれ、割り当てられる研究予算も増えていく。こうした正のフィードバックにより、古代DNA研究は、質量ともに向上されていったという。

『一九八四』の実装方法

あるいは、ジョージ・オーウェル『一九八四』。

個人の自由が制限され、徹底的に管理されたディストピアを描いた警告の書として有名だ。2017年のアメリカ大統領顧問が「オルタナ・ファクト」(alternative facts、もう一つの事実)と強弁したとき、「ダブル・シンク」を想起した方も多いだろう。あるいは、政治家が折に触れて「平和省」の設立を提言するとき、本書が引き合いに出される。

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この『一九八四』が実現した社会として、『AI監獄ウイグル』を紹介する。

新疆ウイグル自治区に作られた、最新最悪のデジタル監獄になる。各家庭の玄関には個人情報が詰まったQRコードが貼られ、DNA採取、監視カメラによる顔認証、銀行取引や購買記録をAIがチェックして「通常とは異なる行動」を取ったと判断されると、プッシュ通知により警察と当局の捜査対象になるという。

オーウェルが警告した監視社会を、そのままシステム化したような現実になる。洗脳部屋である「101号室」が実装されているかどうかは分からないが、『AI監獄ウイグル』で確かめてみたい。

他にも、壊滅的な状況において、政府や自衛隊はどう判断し、いかに動くかを『死都日本』を用いて語り、『戦闘妖精雪風』を傍らに「戦争に人間は必要なのか?」という根源的な問いかけをする。あるいは、『ソラリス』を俎上に生命に対する固定観念を揺さぶってくる。

こんな風に、ニュースやノンフィクションやとリンクしながらSFを紹介し、SFを読み解きながら現実の問題を炙り出す。

未来がどうなるかなんて分からない。けれど、その未来にどう向き合うかは、SFから学べる。現実に起きた出来事は、SFでシミュレート済みだ。

現実とSFを接続し、未来を既読にする一冊。

一点だけ、注意点を。

レビューの関係上、ストーリーの中身に触れている。そのため、全くのSF初心者だと、ネタバレを食らうかもしれない。展開が分かっても作品の価値を損なわないよう、めちゃくちゃ気をつけて書かれているものの、その点は留意して手にしてほしい。

でも、これを言い換えるなら、未来のネタバレをSFで語る一冊とも言える。

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