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言語学とは理系のものか?文系のものか?『言語はこうして生まれる』

7000をも超える体系があり、音声や文字の組み合わせは多岐に渡り、かつ同じものであっても時代や場所により変化する。言語というものは、数えきれないほどの多様性を持っているといえる。

一方、そうした変化は些末なものであり、音と文字によって表す語と、語どうしを規則的に並べることによって成立していることに変わりはない。規則性の差異は表層的なものであり、言語としてはただ一つといえる。

言語は多様か一様か、言語学を巡る、文系 vs. 理系の仁義なきバトルが繰り広げられるのが本書だ。

この記事ではバトルの概要とともに、どちらの立場においても欠けている視点を紹介する。

言語とはジェスチャーゲームのようなもの

本書によると、現代の話し言葉は複雑で、無秩序で、規律に反しているように見える。

完璧な理想形があり、それが崩れているというよりも、最初から複雑でカオスなのだ。そんな無秩序でコミュニケートできるのだろうか?

素朴な疑問が頭をもたげるが、問題ないという。その場その場で意味が通じるものを模索して、あり合わせの言葉を集めて意思疎通するのが普通だという。

私たちがいつも行っている会話をイメージすると分かる。

片方が言いたいことを全部よどみなく言った後、もう片方がそれを完璧に理解して、その上で返事をする―――といった流れにならない。誰であれ、話すときは絶えず間違いを犯している。

文法や発音の言い間違いはしょっちゅうだし、言うだけでなく、聞き間違いや、明らかな意味の取り違えもする。口にしたばかりの言葉をとっさに言い直したり、「あー」とか「えーと」など言いよどんだりする。

相手の反応を見ながら、つっかえつっかえやり取りする。意思疎通を図るため、その場で即興的な意味をこしらえたり、話す順番を入れ替えたりしている。生(ナマ)の会話とは、ありあわせの言葉を寄せ集めた、ブリコラージュのようなものだ。

たとえ同じ言葉「石板!」と叫んだとしても、それが大工が弟子に向かって「石板を持ってこい!」という意味なのか、先生が生徒に向けて「これは石板というものです」という意味なのかは、その言葉が使われる状況に左右される。ウィトゲンシュタインが『哲学探究』の中で用いた言語ゲームの考え方だが、本書の主張の基礎となっている。

表面上では、語句と文章がやり取りされているにすぎない。だが、水面下では、お互いの共通認識―――社会や文化、慣習や暗黙のルールなど、膨大な知識を用いながら、その場その場で即興的にコミュニケートしている。

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言語とは、身振り手振りだけで意味を伝えるジェスチャーゲームのようなものだ。その場だけ意味が通じればよかったものが、次第に体系化され、その中で分岐したり合流してきた結果が今だという。

こうした、言語の多様性に目を向けるのは、歴史学や人類学に由来する、いわゆる文系に多いように見える。

人類の言語は一つだけ

一方、そうした多様な振る舞いは、表層的なものに過ぎないと見なす人がいる。

20世紀後半に登場したノーム・チョムスキーの生成文法だ。

彼の出発点は、プログラミング言語などの形式言語になる。曖昧さや誤りが入り込まないように設計された文法と、厳密な数学的規則に従って構成された記述体系だ。多様性や多義性が入り込む余地がなく、わたしたちが使っている自然言語とは対照的な性格になる。

チョムスキーがやろうとしたことは、この数学的な厳密さを、自然言語に適用することだ。人が実際に話したり書いたりすることはエラーに満ちている。いわゆる<文系の>言語学者が気にするような、そうしたエラーや差異に拘るのではなく、そうしたエラーや差異を均すことで、数学的な体系が現れると考えた。いわば、「言語」そのものを、数学的な体系として再概念化しようとしたのだ。

チョムスキーの観点からすると、言語学というのは実際のところ、人がある言語のネイティブスピーカーがおのずと持っている、どの文が許されどの文が許されないかについての直観を体系化する試みなのである。

『言語はこうして生まれる』P.134より

チョムスキーは、火星人の喩えを用いる。

火星から知的生命体がやってきて、地球人の言語を調査したとする。さまざまな音や文字があったとしても枝葉であり、火星の科学者は、「人間の言語は一つだけ」という結論を下すのではないか。

また、時代による変化も表層的な面だけであり、人間の言語の本質は、遺伝的にコードされている普遍文法とともに、一定のまま保たれている―――この観点から、言語学を数学や生物学の範疇で再定義しようとする。

人文学者の手から言語学をもぎ取ろうとする試みに、当然、反発も起きる。本書はその筆頭で、「言語とは即興のジェスチャーゲーム」という立場から反撃している。

本書の読みどころは、チョムスキーの普遍文法に対する猛攻撃にある。言語についての様々な疑問に答える形で、チョムスキーをけちょんけちょんにこき下ろしにかかる。

  • 言語の仕組みを理解するのは難しいのに、小さな子どもが数年で習得できるのはなぜか
  • なぜ、世界にはこれほど多様な言語が存在するのか
  • 人間にだけ言語が存在し、チンパンジーにないのはなぜか

「普遍文法 vs. 言語ゲーム」のバトルは大変スリリングで、(学術書なのに)手に汗握るような読書になる。顛末はあえて書かない。現時点でどちらが優勢か、審判者として読むと面白いだろう。

言語は「多」か「一」か

読んでる最中、ずっと不思議に感じていたのは、2つある。

一つ目は、「なぜ OR なのか?」という疑問だ。

「多」なのか、あるいは、「一」なのかという、どちらかの立場しか認めない姿勢を変だと感じた。

言語は多様な面と普遍的な面を持っているのは事実だ。言語学は、多様な側面から帰納的に分析することもできるし、普遍的な側面から演繹的に展開することも可能だ。

多様な面からの研究は、これまでに蓄積がある学術分野だ。言語がどのように分岐と融合を繰り返し、変化してきたかが分かれば、その先には、言語が展開していく方向や限界も見えてくるだろう。

普遍的な側面からの研究は、これから蓄積されていく研究分野になる。脳機能や進化といった生物学からのアプローチにより、人が言語をどのように作り上げたかだけでなく、言語が人にどんな影響を与えてきたかも見えてくるだろう。

にもかかわらず、自分が信じる側面だけを「真実」とする態度は、群盲象そのものだ。

二つ目は、「なぜ人間だけに言語があるという前提なの?」という疑問だ。

コミュニケーションの方法としては、蜂のダンス、鳥のさえずりなどが有名で、本書でも言及されている。

だが、それらは遺伝的に規定された範囲に限定されており、人が文化的に発展させてきた柔軟性や多様性は無いとする。文化的進化により、豊かなコミュニケーション手段である「言語」を持っているのは、人間だけだという考え方だ。

「言語を操るのは人間だけ」という観念は、「普遍文法 vs. 言語ゲーム」のバトルの前提になっているのが奇妙だ。アプローチは異なれど、チョムスキーも本書も、言語を人間だけの能力にしている。

最近の分子生物学の研究では、FOXP2遺伝子が、文法能力と言語発達の関連が示唆されている [wikipedia:FOXP2]。まだマウスの段階だが、人に限らず言語の能力を司る遺伝子の研究が進んでいくだろう。

また、鳥の歌は何世代にわたって受け継がれ、単語から文を作る文法能力があることが示されている(シジュウカラの研究)。高度な言語を操れるのは、人間だけではないという証拠が、これからどんどん明らかになっていくだろう。

では、なぜ「言語を操るのは人間だけ」という観念が支配的なのだろうか?

それは、人を頂点とするキリスト教に影響された価値観によると考える。

万物の霊長である人を至上のものとみなす考え方に適応した観念が、学術的にも広く行き渡っている。これに相反する研究は、そもそも顧みられることがない。よほど明確なエビデンスが揃わない限り、覆されることはない。

天文学の例になるが、宇宙は地球を中心に回っているという天動説が長らく支配的だったのは、キリスト教的宇宙観のためだ。また、神に選ばれし人が住まう地球を「奇跡の惑星」とみなし、地球を含む太陽系をあるべきモデルとしたため、系外惑星の発見が遅れたという経緯もある[系外惑星と太陽系]

人間だけが高度な言語を操れるのではない。人間以外の生物のコミュニケーションの研究が進んでいないだけだと考えるほうが、より適切だ。だから、「言語を操るのは人間だけ」という固定観念を取り払うことにより、新たな発見があると考える。



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