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毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである

「読書の初心者にお勧めの本」を聞かれることがある。

読書の習慣がない小中学生や、あまり本を読んでこなかった人に向けて、どんな本が良いだろうか、という相談だ。

このとき、『はてしない物語』や『ハリーポッター』といった本を勧めてくる人が、かなりの確率でいる。

おそらく、自分が読んで夢中になったからかもしれぬ。あるいは、自分が初めて一冊を読み通した本だったり、時を忘れて物語の喜びに浸った本だからかもしれぬ。

しかし、考えてみてほしい。本を読みなれていない人に、ボリュームのある物語を渡して、読み通せるだろうか? わりと大変なような気がする。読書を日常にしている人は、本に慣れていない人のハードルを過小評価しがちだ。

だからわたしは、さらりと読める短編集や、じわりと刺さる詩集を勧めている。ぜんぶ読みぬく必要がなく、どこから始めてもいいし、途中で投げ出してもいい。本の重みやページをめくる感覚を愉しむのも含めて、読書という体験を味わう。

その意味で、お勧めの一冊がある。

手に取った感じのちょうどいい重さと、ぱらりとめくる触りごこちの紙が、所有欲をくすぐってくる。手に取った感触や、開いてたわんだ弾力をも考え抜いてデザインしている。

ことばの使い方がすごく巧みで、するりと読めてしまう。一頁のまんなかに一首だけ記されており、ほとんど「見る」に近い感覚で読めてしまう。

それでいて、見たものが腹に落ちるとき、ずしりときたり、ギクリとさせられる。まるで匂いのように、体内に一瞬で入ってくるものが止められないまま、胸の中に居座りだす。

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 手荷物の重みを命綱にして通過電車を見送っている

これ、感じたことがあった。

時速百キロの轟音が目の前を通過するとき、いま持っているカバンが重くて、もう一歩踏み出せなかったことが、確かにあったことを思い出す。

そして、その時は自覚がなかったことも分かった。カバンの重さが命綱だった自分を、見てきたようなこの一行で気づかされる。

刺さる一首に出会うまでイッキに読んでもいいし、読まなくてもいい。読みさしの頁から再開してもいいし、そもそも頭からじゃなくって、ふと開いたところから始めてもいい。

紙面の手触りとか、頁をどんどん手繰っていくスピード感とか、はっとする一文を凝視し続けるとか、どこかで見た・何かで目にした記憶と照らし合わせるような、そういう経験が、読書になる。

 人間は忘れることができるから気も狂わずに、ほら生きている

これは目にした瞬間から私の中に刺さり続け、ボルヘスの言葉を思い出させた。ボルヘスは言った。過去は思い出すたびに、記憶の貧しさや豊かさのおかげで、望みどおりに、どこかしら修正される。

人には忘れるという才能がある。思い出さない努力を重ねることによって、嫌なことを矮小化し、好きなことを拡大する。出来事としての過去は変わらないかもしれないが、過去をどう解釈するかは自由だ。

ボルヘスはこの真理を伝えるために、「記憶の人フネス」という短編小説を書いた。あらゆることを記憶して忘れることができない能力を身につけた男の物語だ。彼がどうなったかは、ここで明かすまでもないだろうが、『伝奇集』に収録されている。

 殺したいやつがいるのでしばらくは目標のある人生である

人生には目標が必要だ。たとえそれがどんな目標だったとしても。殺したいやつを、どのように殺すか。バレてもいいのか、バレないようにするか。できるだけ苦しめるか、サクっと瞬殺するか。返り討ちに合わないよう道具や場所を吟味して、決行タイミングから逆算して準備をする―――これら脳内でシミュレートするだけで、生き生きとしていた時期があった。

平易な言葉で、するりと入ってくるので止められない。記憶をつつき、思い出を掘り返し、突き付けられるような読書になる。誰にも言えない感情を、言い当てられるような読書になる。

この本は、ぜひ触ってみてほしい。

読書の初心者も、そうでない人も、いま触っている本に、自分の心が触られているような感覚を味わってほしい。

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