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経済学はどこまで信用できるのか『経済学のどこが問題なのか』

経済学が、うさんくさい。

ネットで見かける経済学者の態度が偉そうだとか、オレサマ経済理論を振りかざす連中の断定口調が気に入らないとか、そういうのをさっ引いても、経済学そのものに不信感がある。何か騙されているような感覚がつきまとう。

この記事では、『経済学のどこが問題なのか』(ロバート・スキデルスキー、名古屋大学出版会、2022)をダシに、経済学そのものが抱える問題について、以下の構成で考察する。

・自然科学の体裁としての数式・モデル
・現実との乖離の埋め方
・経済学の何が問題か
・経済学のうさんくささ、クルーグマンは知っていた
・もし経済学者が馬だったら
・行動経済学の罪
・経済学者への処方箋
・経済学者は謝ったら死ぬのか

自然科学のフリをする経済学

例えば、経済学者が説明するグラフやモデルだ。

数式やパラメーターが出てくるので、自然科学の体(てい)を成しているように見える。パラメーターを変えれば、それに応じて数式の値が変わるはず……なのだが、そうとは限らない。特定の期間や状況にのみ成り立つだけで、条件が合わないと全く違う結果になる。

経済学の教科書の最初の辺りに出てくる、需要供給曲線を例に挙げよう。商品やサービスの価格と数量の関係性を説明するモデルで、非常によくできている。

ただし、このモデルは単純化されており、価格と数量だけしか登場しない。売る側は、生産コストや利益のことも考えるだろうし、買う側は、ブランド品かどうかといった嗜好に影響されることもある。市場を独占する企業がいたら、そもそも成立しない。

その結果、「市場が完全であれば」「政府が介入しなければ」「個人が合理的な選択をすれば」「全員が同じ情報を持っている」「取引にかかるコストがゼロである」といった様々なエクスキューズがついてくる。

そもそもこのモデルは便宜的な仮定であり、現実に当てはまるわけではない……そう言い逃れることも可能だが、「経済学とは現実の経済についての学問じゃないの?」というツッコミが待っている。

あるいは、これは入門モデルであり、単純化されているからといってケチをつけるべきではない、という反論もある。もちろんその通りだが、「深く学べば、そうした前提条件が消えるの?」「パラメーターが増えてモデルが複雑になっているだけじゃないの?」というツッコミが待っている。

結論。数式やモデルは、あくまで特定の現象を説明するための架空のものにすぎない。

上手く説明できればヨシとして、それには客観的なエビデンスを必要としない。現実の観察を元に実証可能なものはほとんどなく、体裁だけは自然科学のフリをしているに過ぎない。「社会科学なんだから大目に見ろよ!」なんて言ってもらえれば納得できる。

現実との乖離の埋め方

では、実際の経済とモデルが乖離してきたらどうする?

大丈夫だ。モデルが現実と合わなくなりそうなら、パラメーターを追加したり式を改変すればいい。現実から作られた数式ではないから、自然科学とは異なり、再審査や再現テストは不要だ。経済学者のアタマの中で完結する。

だが、もっと大きな事件が起きたら?

それも大丈夫だ。既存のモデルでは到底説明のつかない、とてつもないことが現実に起きたとする。モデルを改変するレベルではなく、一つ二つどころか、ほぼ全てのモデルを捨てて、新しく作り直す必要に迫られたとしても、問題ない。

そんなときは、「別名を付ける」という必殺技がある。新たな現象が見つかったとか、別の研究分野ができたとして、「それは私たちの範疇ではない」と見なすのだ。そうすることで、既存のモデルを守ることができる。

典型的なのは、2008年に発生したグローバル金融危機だ。

予測不可能でありえない上に、強い衝撃を与えたため「ブラック・スワン」という用語が与えられたのだ。既存のモデルでは予測も説明もできないから、いったん別名で保存する。その上で、なぜそれが起きたのかを、これまでのモデルとは異なるアプローチで説明するモデルを作っていけばいい。そうすることで、既存のモデルを捨てずに済む(経済学者の首がつながる)。「ブラック・スワン」は既存のモデルの敗北宣言なのだ。

……などと吠えていると、「おまえは経済学を知らない」「教科書を読め」と親切に(?)アドバイスしてくれる人がいる。

ごもっとも。わたしは経済学を体系的に学んでいない。社会人なりたての数年間、日経新聞を精読したのと、クルーグマンのマクロ経済学と入門書をかじっただけだ。「経済学がうさんくさい」という感覚も、無知から生じる妄想にすぎないのかもしれぬ。

だが、同じことをもっと徹底的に考えている人がいる。それが本書である。

著者はロバート・スキデルスキー、オックスフォード大学を卒業し、ウォリック大学の政治経済学の名誉教授となっている。歴史学と経済学に精通しており、皮肉の効いた物言いはクルーグマンと似た風味を感じる。

経済学の何が問題か

本書が攻撃するのは、「新古典派」「主流派」と呼ばれている連中だ。

いわゆる経済学の教科書に載っていたり、教科書そのものを書いてきた人をヤリ玉に、経済学の根っこのところを攻撃する。こんな風に……

連中は、モデル、方程式、回帰分析、統計を駆使し、「厳密な」予測ができると主張する。自らが物理学に似ているとし、力学の法則と同じように、人間行動も「合理的な」判断に基づいて決定されるとした。原子のふるまいに基づき自然現象を説明するように、個人のふるまいに基づき経済現象を説明できると考えたのだ。

ところが、連中が想定した通りにはならなかった。各理論が主張する「普遍的な真理」にたどり着くどころか、あっという間に廃れたり、別の場所ではまるで使い物にならなくなったのだ。

なぜか?

まず、人工的に作られ、同じ条件で実験できる物理学と、時代や場所によって条件が変わる経済学は、まるで違う。数学的なモデルを用いた演繹的な推論をするには限界がある。だから、経済学のモデルは、不合理で曖昧な現実から始めなければならない。

次に、人間は集団の中で生活する生物であるゆえに、個人の価値観は社会の中で置かれた位置によって形作られる。社会的な権力や地位、信仰心、アイデンティティ等により、価値観は変わってくる。そのため、個人の行動を集計したものを社会現象と見なすことはできない。

冷静に考えてみれば当たり前のことなのだが、連中はそう考えることができなかった。

その代わりにしたことは、考察の対象を測定可能なものに絞り、ますます狭い範囲でしか考えられなくしたのだ。権力やアイデンティティといったものは他の社会科学に任せ、価格や数量といったモデル化できるものだけで語ろうとしたのだ……

……こんな感じで、経済学をメッタ刺しにする。ある理論やモデルに異を唱えるのではなく、経済学が拠って立っている原理そのものを壊しにかかる。

経済学のうさんくささ、クルーグマンは知っていた

面白いのは、わたしが感じていた「うさんくささ」が、既に指摘されていたことだ。

経済学者がモデルを構築する過程について、ポール・クルーグマンは次のよう述べている。

「あなたは、モデルを操作可能なものとするために、明らかに事実とは異なる単純化を行なう。単純化は、何が重要であるかについての推量によって規定されるが、利用可能なモデル構築技術によって規定されることになる。モデルが良いものであれば、それより遥かに複雑な現実の体系への洞察が改善される」

‘Models and Metaphors’ Paul Krugman,Development, Geography and Economic Theory :The MIT Press 1995

太字化はわたし。要するに、経済学者が扱えるモデルにするために、現実とは異なる単純化を行っても良いんだというお墨付きを与えている。

明らかに事実と違うのに、そんなことをして大丈夫か?

OK、問題ない。

たとえ事実でなくても、現象をうまく説明できるのであれば、モデルとしての役割を果たしているのだから、問題ない。需要供給曲線も、現実ではほとんど見かけないだろうが、うまく説明できている限りでは有用だろう。

では、モデルで説明する仮説と現実がズレはじめたらどうするか?

それも大丈夫だ。どんなに馬鹿げた仮説であったとしても、現実と一致するように「仮説を緩める」ことで、より単純な推論へ導いていけるという。なんだ、わたしが指摘するまでもなく、ノーベル経済学賞を受賞した教授が直々にレクチャーしているではないか。

もし経済学者が馬だったら

だが、経済学者も馬鹿ではない。

「他の条件が一定ならば」(ceteris paribus)という留保を付けたり、「皆が合理的であるという仮定から始めよう」と誰も信じていない絵空事を並べても、ごまかしきれないことに気づく。いくら物理学のフリをしようとも、事実から始めない限り、何も言っていないに等しいのだから。

イギリスの経済学者が、これを「ジョーク」として話していることから、(文字通り)語るに落ちている。

「もし経済学者が馬について研究したいと思っても、馬のいる所へ出向いて、馬を観察することはありえない。彼らは研究室の椅子に座って、自分自身にこう語るだろう『もし私が馬だったら、私は何をするだろうか?』……そして彼らは、効用を最大化しようとすることを発見するだろう」

‘Speech To ISNIE: The Task Of The Society’ Ronald Coase,Opening Address to the Annual Conference International Society of New Institutional Economics,1999

効用を最大化する合理的な行動をする人間のことを、ホモ・エコノミクスという。そんな経済学者の脳内にしかいない存在を弄ぶのは、やめにしないか?

行動経済学の始まりである。

行動経済学の罪

行動経済学は、従来のモデル理論に、実際の人間行動を観察した事実を取り入れていく研究手法だ。

プロスペクト理論を提唱し、ノーベル経済学賞を受賞した、ダニエル・カーネマンが有名だ(『ファスト&スロー』は面白かった!)。人は、完全に合理的に考えて行動しているわけではない。損得を勘定する際、一定の偏りに左右されることは、心理実験により確かめられている。

しかし、本書は行動経済学にも容赦ない。

「合理的な人間」から始まった新古典派モデルが誤っていることを示したのは評価できる。

だが、新古典派が定義する「合理的な人間」から外れたものを、すべて「非合理的」としてしまった点は、行動経済学の最大の罪だという。

例えば、「コインを投げて表なら1000ドル、裏ならゼロ」と、「確実に400ドルもらえる」のと、どちらを選ぶか?という選択肢を被験者に選ばせる話がある。「合理的な選択」をするならば、期待値が500ドルになるコイン投げにするだろう。「確実に400ドル」は、「非合理的な選択」になる。これが行動経済学の理屈だ。

一方、新古典派によると「確実に400ドル」は予想収入の最大化として説明されている。どちらが正しいかというよりも、「状況による」というべきだろう。置かれた環境によっては適切な行動を選択しているにもかかわらず、それらを非合理的に扱ってしまっている。

なるほど、この視点は面白い。

損得がからむと(特に、損失にかかわると)、人は合理的な選択ができなくなる。これは行動経済学によって実証されてきた。だが、その「合理性」とは数学的なものであり、実社会での判断ではない。その判断の合理性ではなく、一般的であるかどうかが焦点となるのだ。

経済学者への処方箋

では、どうすればよいか?

2008年の金融崩壊を予測できないどころか、その可能性すら指摘できなかった新古典派のモデルは捨てるのか?「このモデルは正しい」という前提を守り続けるのであれば、また同じ過ちをすることになる。

ブラックマンデー、S&L、ブラックスワン、アジア通貨危機……同じ失敗に、違う名前を付け替えて、「同じじゃない!」と言い逃れる愚を繰り返すのか?

失敗の根幹にある「正しいモデルが導き出せる」という前提こそ、捨てるべきではないか?(本書のキモはここ)。

もし、経済学が物理学のフリをするのであれば、それしかない。

現実と大きく異なる結果が実証されたのであれば、そのモデルは使いものにならない。数式の手直しやパラメーターを弄ぶレベルではなく、まとめてゴミ箱に捨てるべきだろう。

だが、それは現実的ではないだろう。イデオロギーと密接に融合し、様々な政策の妥当性に御墨付きを与え、政府民間のあらゆる層の基本的な考え方となっているものを、まとめて捨てるわけにはゆかぬ。

また、そうしたモデルを「正しい」と信じているおかげで世界経済は回っていると言える。私が知らないだけで、経済学者の導きによって、破綻を免れた危機も多々あるに違いない。

本書では、ほとんど実証的ではないとこき下ろされているものの、経済理論の実証性を確かめる研究もある(例:失業率と物価上昇率の関係性を示すフィリップス曲線)。たくさん言い続ければ、どれかは当たる好例ともいえるが、いつでもどこでも当てはまるわけではない。

本書の提案を一言にまとめると、「物理学のフリを止めろ」になる。普遍的な「経済の法則」なんてものは存在しないんだということから始めようというのだ。

いつでもどこでも通用するモデルなんてものは無く、かりに現象を説明できたとしても、特定の領域でごく短期間に限定的に成立するものになる。パラメーターが変化したら当てはまらなくなることを認めれば、数学を過大に評価するのを止めるだろう。

経済学の命題のほとんどは反証も検証もできない。であるなら、経済理論とは科学の権威をまとった意見にすぎない。ここをスタートする。

そして、事前条件の厳密性を小さくするとともに、演繹をもっと緩やかにすることで、より帰納的なアプローチを取るべきだという。学術分野でいうならば、社会学や歴史学、政治学に近づいてゆくイメージだ。

本書では「これは理想にすぎない」と注釈を付けつつも、経済学徒が留めておくべき言葉として、ジョン・メイナード・ケインズが紹介されている。

経済学の大家は、もろもろの資質を必要とする。ある程度まで数学者で、歴史家で、政治家で、哲学者でなければならない。普遍的な見地から特殊を考察し、抽象と具体とを同じ思考で扱わなければならない。未来の目的のため、過去に照らし、現在を研究しなくてはならない。人の性質や制度のあらゆる部分を関心の対象にしなければならない。

'Methodological Issues: Tinbergen, Harrod'; 'Alfred Marshall' in Robert Skidelsky (ed.),Penguin Classics

経済学者は謝ったら死ぬのか

本書の主張になるほどと感じるとともに、別の不安も生じてくる。

物理学のフリをして数字を振りかざし、厳密性を謳っていた経済学が、そんなに簡単に転向できるのだろうか?という不安だ。

一部の例外を除いて、経済学者は自信満々で、自らの理論に疑いがあるなど一抹も感じていない。2008年の金融危機を説明する論文も数多く出ており、後付けだとしても説明するモデルはある。

「ごめん、私の経済学が間違っていました」なんて言っていいのは、既に十分に成果をあげ、リタイアしても大丈夫になってからだろう。自分の誤りを認めることは許されない。文字通り、謝ったら死ぬのだ。経済学者は、誤ったとしても、謝ってはいけないのだ。

そんな現役の経済学者にとって、本書は、耐えがたい一冊となるだろう。その一方で、これからの経済学が向かう先を占う標ともなる一冊でもある。長期的に見れば、いまの経済学者は皆死ぬが、経済学は生き続ける。

経済は重要だが、経済学が問題なのだ。

未来の経済学者へ贈りたい一冊。



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言語学とは理系のものか?文系のものか?『言語はこうして生まれる』

7000をも超える体系があり、音声や文字の組み合わせは多岐に渡り、かつ同じものであっても時代や場所により変化する。言語というものは、数えきれないほどの多様性を持っているといえる。

一方、そうした変化は些末なものであり、音と文字によって表す語と、語どうしを規則的に並べることによって成立していることに変わりはない。規則性の差異は表層的なものであり、言語としてはただ一つといえる。

言語は多様か一様か、言語学を巡る、文系 vs. 理系の仁義なきバトルが繰り広げられるのが本書だ。

この記事ではバトルの概要とともに、どちらの立場においても欠けている視点を紹介する。

言語とはジェスチャーゲームのようなもの

本書によると、現代の話し言葉は複雑で、無秩序で、規律に反しているように見える。

完璧な理想形があり、それが崩れているというよりも、最初から複雑でカオスなのだ。そんな無秩序でコミュニケートできるのだろうか?

素朴な疑問が頭をもたげるが、問題ないという。その場その場で意味が通じるものを模索して、あり合わせの言葉を集めて意思疎通するのが普通だという。

私たちがいつも行っている会話をイメージすると分かる。

片方が言いたいことを全部よどみなく言った後、もう片方がそれを完璧に理解して、その上で返事をする―――といった流れにならない。誰であれ、話すときは絶えず間違いを犯している。

文法や発音の言い間違いはしょっちゅうだし、言うだけでなく、聞き間違いや、明らかな意味の取り違えもする。口にしたばかりの言葉をとっさに言い直したり、「あー」とか「えーと」など言いよどんだりする。

相手の反応を見ながら、つっかえつっかえやり取りする。意思疎通を図るため、その場で即興的な意味をこしらえたり、話す順番を入れ替えたりしている。生(ナマ)の会話とは、ありあわせの言葉を寄せ集めた、ブリコラージュのようなものだ。

たとえ同じ言葉「石板!」と叫んだとしても、それが大工が弟子に向かって「石板を持ってこい!」という意味なのか、先生が生徒に向けて「これは石板というものです」という意味なのかは、その言葉が使われる状況に左右される。ウィトゲンシュタインが『哲学探究』の中で用いた言語ゲームの考え方だが、本書の主張の基礎となっている。

表面上では、語句と文章がやり取りされているにすぎない。だが、水面下では、お互いの共通認識―――社会や文化、慣習や暗黙のルールなど、膨大な知識を用いながら、その場その場で即興的にコミュニケートしている。

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言語とは、身振り手振りだけで意味を伝えるジェスチャーゲームのようなものだ。その場だけ意味が通じればよかったものが、次第に体系化され、その中で分岐したり合流してきた結果が今だという。

こうした、言語の多様性に目を向けるのは、歴史学や人類学に由来する、いわゆる文系に多いように見える。

人類の言語は一つだけ

一方、そうした多様な振る舞いは、表層的なものに過ぎないと見なす人がいる。

20世紀後半に登場したノーム・チョムスキーの生成文法だ。

彼の出発点は、プログラミング言語などの形式言語になる。曖昧さや誤りが入り込まないように設計された文法と、厳密な数学的規則に従って構成された記述体系だ。多様性や多義性が入り込む余地がなく、わたしたちが使っている自然言語とは対照的な性格になる。

チョムスキーがやろうとしたことは、この数学的な厳密さを、自然言語に適用することだ。人が実際に話したり書いたりすることはエラーに満ちている。いわゆる<文系の>言語学者が気にするような、そうしたエラーや差異に拘るのではなく、そうしたエラーや差異を均すことで、数学的な体系が現れると考えた。いわば、「言語」そのものを、数学的な体系として再概念化しようとしたのだ。

チョムスキーの観点からすると、言語学というのは実際のところ、人がある言語のネイティブスピーカーがおのずと持っている、どの文が許されどの文が許されないかについての直観を体系化する試みなのである。

『言語はこうして生まれる』P.134より

チョムスキーは、火星人の喩えを用いる。

火星から知的生命体がやってきて、地球人の言語を調査したとする。さまざまな音や文字があったとしても枝葉であり、火星の科学者は、「人間の言語は一つだけ」という結論を下すのではないか。

また、時代による変化も表層的な面だけであり、人間の言語の本質は、遺伝的にコードされている普遍文法とともに、一定のまま保たれている―――この観点から、言語学を数学や生物学の範疇で再定義しようとする。

人文学者の手から言語学をもぎ取ろうとする試みに、当然、反発も起きる。本書はその筆頭で、「言語とは即興のジェスチャーゲーム」という立場から反撃している。

本書の読みどころは、チョムスキーの普遍文法に対する猛攻撃にある。言語についての様々な疑問に答える形で、チョムスキーをけちょんけちょんにこき下ろしにかかる。

  • 言語の仕組みを理解するのは難しいのに、小さな子どもが数年で習得できるのはなぜか
  • なぜ、世界にはこれほど多様な言語が存在するのか
  • 人間にだけ言語が存在し、チンパンジーにないのはなぜか

「普遍文法 vs. 言語ゲーム」のバトルは大変スリリングで、(学術書なのに)手に汗握るような読書になる。顛末はあえて書かない。現時点でどちらが優勢か、審判者として読むと面白いだろう。

言語は「多」か「一」か

読んでる最中、ずっと不思議に感じていたのは、2つある。

一つ目は、「なぜ OR なのか?」という疑問だ。

「多」なのか、あるいは、「一」なのかという、どちらかの立場しか認めない姿勢を変だと感じた。

言語は多様な面と普遍的な面を持っているのは事実だ。言語学は、多様な側面から帰納的に分析することもできるし、普遍的な側面から演繹的に展開することも可能だ。

多様な面からの研究は、これまでに蓄積がある学術分野だ。言語がどのように分岐と融合を繰り返し、変化してきたかが分かれば、その先には、言語が展開していく方向や限界も見えてくるだろう。

普遍的な側面からの研究は、これから蓄積されていく研究分野になる。脳機能や進化といった生物学からのアプローチにより、人が言語をどのように作り上げたかだけでなく、言語が人にどんな影響を与えてきたかも見えてくるだろう。

にもかかわらず、自分が信じる側面だけを「真実」とする態度は、群盲象そのものだ。

二つ目は、「なぜ人間だけに言語があるという前提なの?」という疑問だ。

コミュニケーションの方法としては、蜂のダンス、鳥のさえずりなどが有名で、本書でも言及されている。

だが、それらは遺伝的に規定された範囲に限定されており、人が文化的に発展させてきた柔軟性や多様性は無いとする。文化的進化により、豊かなコミュニケーション手段である「言語」を持っているのは、人間だけだという考え方だ。

「言語を操るのは人間だけ」という観念は、「普遍文法 vs. 言語ゲーム」のバトルの前提になっているのが奇妙だ。アプローチは異なれど、チョムスキーも本書も、言語を人間だけの能力にしている。

最近の分子生物学の研究では、FOXP2遺伝子が、文法能力と言語発達の関連が示唆されている [wikipedia:FOXP2]。まだマウスの段階だが、人に限らず言語の能力を司る遺伝子の研究が進んでいくだろう。

また、鳥の歌は何世代にわたって受け継がれ、単語から文を作る文法能力があることが示されている(シジュウカラの研究)。高度な言語を操れるのは、人間だけではないという証拠が、これからどんどん明らかになっていくだろう。

では、なぜ「言語を操るのは人間だけ」という観念が支配的なのだろうか?

それは、人を頂点とするキリスト教に影響された価値観によると考える。

万物の霊長である人を至上のものとみなす考え方に適応した観念が、学術的にも広く行き渡っている。これに相反する研究は、そもそも顧みられることがない。よほど明確なエビデンスが揃わない限り、覆されることはない。

天文学の例になるが、宇宙は地球を中心に回っているという天動説が長らく支配的だったのは、キリスト教的宇宙観のためだ。また、神に選ばれし人が住まう地球を「奇跡の惑星」とみなし、地球を含む太陽系をあるべきモデルとしたため、系外惑星の発見が遅れたという経緯もある[系外惑星と太陽系]

人間だけが高度な言語を操れるのではない。人間以外の生物のコミュニケーションの研究が進んでいないだけだと考えるほうが、より適切だ。だから、「言語を操るのは人間だけ」という固定観念を取り払うことにより、新たな発見があると考える。



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毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである

「読書の初心者にお勧めの本」を聞かれることがある。

読書の習慣がない小中学生や、あまり本を読んでこなかった人に向けて、どんな本が良いだろうか、という相談だ。

このとき、『はてしない物語』や『ハリーポッター』といった本を勧めてくる人が、かなりの確率でいる。

おそらく、自分が読んで夢中になったからかもしれぬ。あるいは、自分が初めて一冊を読み通した本だったり、時を忘れて物語の喜びに浸った本だからかもしれぬ。

しかし、考えてみてほしい。本を読みなれていない人に、ボリュームのある物語を渡して、読み通せるだろうか? わりと大変なような気がする。読書を日常にしている人は、本に慣れていない人のハードルを過小評価しがちだ。

だからわたしは、さらりと読める短編集や、じわりと刺さる詩集を勧めている。ぜんぶ読みぬく必要がなく、どこから始めてもいいし、途中で投げ出してもいい。本の重みやページをめくる感覚を愉しむのも含めて、読書という体験を味わう。

その意味で、お勧めの一冊がある。

手に取った感じのちょうどいい重さと、ぱらりとめくる触りごこちの紙が、所有欲をくすぐってくる。手に取った感触や、開いてたわんだ弾力をも考え抜いてデザインしている。

ことばの使い方がすごく巧みで、するりと読めてしまう。一頁のまんなかに一首だけ記されており、ほとんど「見る」に近い感覚で読めてしまう。

それでいて、見たものが腹に落ちるとき、ずしりときたり、ギクリとさせられる。まるで匂いのように、体内に一瞬で入ってくるものが止められないまま、胸の中に居座りだす。

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 手荷物の重みを命綱にして通過電車を見送っている

これ、感じたことがあった。

時速百キロの轟音が目の前を通過するとき、いま持っているカバンが重くて、もう一歩踏み出せなかったことが、確かにあったことを思い出す。

そして、その時は自覚がなかったことも分かった。カバンの重さが命綱だった自分を、見てきたようなこの一行で気づかされる。

刺さる一首に出会うまでイッキに読んでもいいし、読まなくてもいい。読みさしの頁から再開してもいいし、そもそも頭からじゃなくって、ふと開いたところから始めてもいい。

紙面の手触りとか、頁をどんどん手繰っていくスピード感とか、はっとする一文を凝視し続けるとか、どこかで見た・何かで目にした記憶と照らし合わせるような、そういう経験が、読書になる。

 人間は忘れることができるから気も狂わずに、ほら生きている

これは目にした瞬間から私の中に刺さり続け、ボルヘスの言葉を思い出させた。ボルヘスは言った。過去は思い出すたびに、記憶の貧しさや豊かさのおかげで、望みどおりに、どこかしら修正される。

人には忘れるという才能がある。思い出さない努力を重ねることによって、嫌なことを矮小化し、好きなことを拡大する。出来事としての過去は変わらないかもしれないが、過去をどう解釈するかは自由だ。

ボルヘスはこの真理を伝えるために、「記憶の人フネス」という短編小説を書いた。あらゆることを記憶して忘れることができない能力を身につけた男の物語だ。彼がどうなったかは、ここで明かすまでもないだろうが、『伝奇集』に収録されている。

 殺したいやつがいるのでしばらくは目標のある人生である

人生には目標が必要だ。たとえそれがどんな目標だったとしても。殺したいやつを、どのように殺すか。バレてもいいのか、バレないようにするか。できるだけ苦しめるか、サクっと瞬殺するか。返り討ちに合わないよう道具や場所を吟味して、決行タイミングから逆算して準備をする―――これら脳内でシミュレートするだけで、生き生きとしていた時期があった。

平易な言葉で、するりと入ってくるので止められない。記憶をつつき、思い出を掘り返し、突き付けられるような読書になる。誰にも言えない感情を、言い当てられるような読書になる。

この本は、ぜひ触ってみてほしい。

読書の初心者も、そうでない人も、いま触っている本に、自分の心が触られているような感覚を味わってほしい。

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10品を美味しく作れるようになれば、100品だってできる『10品を繰り返し作りましょう』

私は「野菜炒め」がヘタだ。

レシピを見ないレパートリーが沢山ある。クックドゥに頼らずとも、冷蔵庫のありあわせでそれらしい何か作れる。自分のための一皿を手早く作ったり、家族のためのごちそうを丁寧に作ることができる。料理はできるほうだと思っている。

だが、野菜炒めが上手にできない。

だいたい冷蔵庫の残り物―――半分だけ残った人参とか、中途半端なキャベツとか、ちょっとしなびたほうれん草と豚コマ―――を適当に炒めるのだが、これが上手くできない。べちゃっと水っぽくなる。

もちろん、素材の大きさを切りそろえたり、火の通りを考えて投入しているが、安定しない。上手くいくときも(たまに)あるけれど、中華屋さんの野菜炒めにはならない。youtubeの料理指南を見ると、デカい中華鍋+強い火力でねじ伏せているけれど、我が家にそんなものはない。

やっぱり道具かな、と思っていたが、ウー・ウェンさんのこの本で、目が開いた。

ウー・ウェンさんは料理研究家で、中国の家庭料理を紹介してくれている。デカい中華鍋とかではなく、普通にあるフライパンや調味料を使って、毎日の料理を美味しく作る秘訣を紹介してくれる。

昨年は『料理の意味とその手立て』を読んで、「塩する」ことの理由が理解できた。今回は『10品を繰り返し作りましょう』を読んで、「素材と向き合う」ことが、具体的に何を意味しているのか分かった。

『10品を繰り返し~』は家庭料理のレシピ集だ。食材も道具も最小限で作りやすく、時間をかけるような料理は出てこない。ただし、「ここは手間をかける」ポイントが絞られており、そこはきちんとすると、必ず美味しくなるという。

レパートリーは、「肉と野菜の2種炒め」や「野菜入りの卵焼き」など簡単そうなものが並んでいるが、もの凄く丁寧に説明する。

「野菜炒め」の本質

例えば、野菜炒めだけで40ページくらい費やしている。既に知っているコツもあれば、新しい知識もあったが、重要なのは、「野菜炒めとは何か」という本質的なことが得られたことだ。

野菜炒めは、野菜の水分が熱せられ、その蒸気で野菜に火が通る料理です。つまり野菜炒めは、油の熱が直接野菜に火を通すわけではないんです。高温になった油の熱で、野菜の中の水分が沸騰して(100℃になって)蒸気になる。その蒸気で蒸されるようになって野菜に火が通る。野菜が、うまみのある自分の水分(蒸気)で加熱されるから、その野菜の香りや味が引き立って、おいしい野菜炒めができるわけです。

今まで、高温にした油の熱が野菜に火を通すと考えていた。だが、考えてみると、確かに火を通す目的のわりに、油の量は少ない(大さじ1くらいだし)。「炒める」というのは、野菜という素材からすると、「蒸す」に近いのかもしれない。

その一方で、肉の素材からすると、炒めるとは文字通り「油で炒りつける」になる。熱した油が肉の脂を引き出し、さらに肉の細胞を破壊してアクにして出すことで、調味料を入りやすくする。そう考えると、「最初に肉だけ炒めた後、取り出して野菜を炒める」というプロセスに納得が行く。

本書ではさらに徹底しており、「肉は茹でて火を通せ」という。沸騰したお湯で茹でた後、そこに調味料を加えよという。

そして、肉(たんぱく質)に味付け+片栗粉(いわば調味料の接着剤)する一方、野菜にはほとんど味をつけない。炒めるのではなく、火の通った材料を、フライパンの中で和えるイメージになる。フライパンは、加熱できるボウルと見なし、野菜炒めは、温かいサラダと考えるのだ。

さらに、同じ野菜でも、小松菜やほうれん草といった青菜と、キャベツや人参や大根は、火の通し方が違うという。青菜は水分が出やすいが、キャベツは水分が出にくい。そのため、青菜は中火で蓋をせずサッと炒める一方、キャベツは酒をふり蓋をして弱火で炒める。

野菜炒めでは、「青菜はざく切り、キャベツや人参は数センチ~せん切り」にするのは、知識としては知っていたけれど、水分の出具合を調整するためだったんだということに気づく。

素材と向き合うというのは、その素材をどういう風にしたら美味しくなるかを考えながら、出来上がりを想像し、そこから切る/加熱する/調味するを逆算で組み立てることだ。なぜ下味をつけるのか、なぜそう切るのか、なぜその順に火を通すのか……結局は、素材を美味しくするためなんだ。よくできたレシピというのは、そうした逆算が考え抜かれていることなんだろうね。

「春巻き」のすすめ

考え方を一変させられたメニューもある。「毎日作る簡単春巻き」だ。

春巻きは好評なので時々するのだが、下ごしらえとか揚げ油の都合で、メニューは春巻きオンリーになる。フライとか唐揚げもそうだけど、揚げ物のときはどうしてもそうなる。

ウー・ウェンさんはそう考えない。ちょっと一品だけ足すイメージで、春巻きを薦めてくる。一人一本あるだけで、満足感が増すという。考え方はこんな感じ……

  • 生の具材を1種類だけ春巻きの皮で包む(空気が入らないように)
  • フライパンにカップ1程度の油で十分
  • 熱くなった具材自身の熱で加熱される、蒸し料理と考える

例えば、アスパラガス。春巻きの皮に包まれたアスパラガスが、油の熱で温められて、中の水分が沸いてくる。その熱自身で蒸されたようになって火が通る。だから春巻きをかじったとき、アスパラガスの香りとうまみを強く感じられる。それが春巻きの魅力だという。

なるほど!中華屋さんで食べる春巻きを意識して色々入れていたけれど、必ずそうしなきゃってわけじゃないんだ。ポイントは「空気が入らないように」という点だ(自身の水分で蒸すのだから、その空間をできる限り小さくする必要があるから)。

コツはこんなん。

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特におすすめなのは、人参の春巻きだという。びっくりするくらい甘くなるそうな。

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こんな感じで、基本は文章だけれど、肝心な所は写真で詳しく説明してくれる。

なぜその手順なのか、どうすればラクできるのかも織り交ぜながら、美味しい料理の勘所が身につく仕掛けになっている。焦らず丁寧に身につけることで、「10品をきちんと作れるようになれば、100品だって作れます」という。

基本の10品は以下の通り。

 1 肉と野菜の2種炒め
 2 野菜1種類の炒め物
 3 野菜入りの卵焼き
 4 切り身魚で作る蒸し物
 5 肉の塩焼き
 6 肉と野菜の煮物
 7 カップ1杯の油で揚げ物
 8 毎日作る簡単春巻き
 9 お茶代わりのスープ
 10 具が2つのシンプル鍋

わたしの残りの人生で、食べる数は決まっている。

よい料理で、よい人生を。

 

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