経済学はどこまで信用できるのか『経済学のどこが問題なのか』
経済学が、うさんくさい。
ネットで見かける経済学者の態度が偉そうだとか、オレサマ経済理論を振りかざす連中の断定口調が気に入らないとか、そういうのをさっ引いても、経済学そのものに不信感がある。何か騙されているような感覚がつきまとう。
この記事では、『経済学のどこが問題なのか』(ロバート・スキデルスキー、名古屋大学出版会、2022)をダシに、経済学そのものが抱える問題について、以下の構成で考察する。
・自然科学の体裁としての数式・モデル
・現実との乖離の埋め方
・経済学の何が問題か
・経済学のうさんくささ、クルーグマンは知っていた
・もし経済学者が馬だったら
・行動経済学の罪
・経済学者への処方箋
・経済学者は謝ったら死ぬのか
自然科学のフリをする経済学
例えば、経済学者が説明するグラフやモデルだ。
数式やパラメーターが出てくるので、自然科学の体(てい)を成しているように見える。パラメーターを変えれば、それに応じて数式の値が変わるはず……なのだが、そうとは限らない。特定の期間や状況にのみ成り立つだけで、条件が合わないと全く違う結果になる。
経済学の教科書の最初の辺りに出てくる、需要供給曲線を例に挙げよう。商品やサービスの価格と数量の関係性を説明するモデルで、非常によくできている。
ただし、このモデルは単純化されており、価格と数量だけしか登場しない。売る側は、生産コストや利益のことも考えるだろうし、買う側は、ブランド品かどうかといった嗜好に影響されることもある。市場を独占する企業がいたら、そもそも成立しない。
その結果、「市場が完全であれば」「政府が介入しなければ」「個人が合理的な選択をすれば」「全員が同じ情報を持っている」「取引にかかるコストがゼロである」といった様々なエクスキューズがついてくる。
そもそもこのモデルは便宜的な仮定であり、現実に当てはまるわけではない……そう言い逃れることも可能だが、「経済学とは現実の経済についての学問じゃないの?」というツッコミが待っている。
あるいは、これは入門モデルであり、単純化されているからといってケチをつけるべきではない、という反論もある。もちろんその通りだが、「深く学べば、そうした前提条件が消えるの?」「パラメーターが増えてモデルが複雑になっているだけじゃないの?」というツッコミが待っている。
結論。数式やモデルは、あくまで特定の現象を説明するための架空のものにすぎない。
上手く説明できればヨシとして、それには客観的なエビデンスを必要としない。現実の観察を元に実証可能なものはほとんどなく、体裁だけは自然科学のフリをしているに過ぎない。「社会科学なんだから大目に見ろよ!」なんて言ってもらえれば納得できる。
現実との乖離の埋め方
では、実際の経済とモデルが乖離してきたらどうする?
大丈夫だ。モデルが現実と合わなくなりそうなら、パラメーターを追加したり式を改変すればいい。現実から作られた数式ではないから、自然科学とは異なり、再審査や再現テストは不要だ。経済学者のアタマの中で完結する。
だが、もっと大きな事件が起きたら?
それも大丈夫だ。既存のモデルでは到底説明のつかない、とてつもないことが現実に起きたとする。モデルを改変するレベルではなく、一つ二つどころか、ほぼ全てのモデルを捨てて、新しく作り直す必要に迫られたとしても、問題ない。
そんなときは、「別名を付ける」という必殺技がある。新たな現象が見つかったとか、別の研究分野ができたとして、「それは私たちの範疇ではない」と見なすのだ。そうすることで、既存のモデルを守ることができる。
典型的なのは、2008年に発生したグローバル金融危機だ。
予測不可能でありえない上に、強い衝撃を与えたため「ブラック・スワン」という用語が与えられたのだ。既存のモデルでは予測も説明もできないから、いったん別名で保存する。その上で、なぜそれが起きたのかを、これまでのモデルとは異なるアプローチで説明するモデルを作っていけばいい。そうすることで、既存のモデルを捨てずに済む(経済学者の首がつながる)。「ブラック・スワン」は既存のモデルの敗北宣言なのだ。
……などと吠えていると、「おまえは経済学を知らない」「教科書を読め」と親切に(?)アドバイスしてくれる人がいる。
ごもっとも。わたしは経済学を体系的に学んでいない。社会人なりたての数年間、日経新聞を精読したのと、クルーグマンのマクロ経済学と入門書をかじっただけだ。「経済学がうさんくさい」という感覚も、無知から生じる妄想にすぎないのかもしれぬ。
だが、同じことをもっと徹底的に考えている人がいる。それが本書である。
著者はロバート・スキデルスキー、オックスフォード大学を卒業し、ウォリック大学の政治経済学の名誉教授となっている。歴史学と経済学に精通しており、皮肉の効いた物言いはクルーグマンと似た風味を感じる。
経済学の何が問題か
本書が攻撃するのは、「新古典派」「主流派」と呼ばれている連中だ。
いわゆる経済学の教科書に載っていたり、教科書そのものを書いてきた人をヤリ玉に、経済学の根っこのところを攻撃する。こんな風に……
連中は、モデル、方程式、回帰分析、統計を駆使し、「厳密な」予測ができると主張する。自らが物理学に似ているとし、力学の法則と同じように、人間行動も「合理的な」判断に基づいて決定されるとした。原子のふるまいに基づき自然現象を説明するように、個人のふるまいに基づき経済現象を説明できると考えたのだ。
ところが、連中が想定した通りにはならなかった。各理論が主張する「普遍的な真理」にたどり着くどころか、あっという間に廃れたり、別の場所ではまるで使い物にならなくなったのだ。
なぜか?
まず、人工的に作られ、同じ条件で実験できる物理学と、時代や場所によって条件が変わる経済学は、まるで違う。数学的なモデルを用いた演繹的な推論をするには限界がある。だから、経済学のモデルは、不合理で曖昧な現実から始めなければならない。
次に、人間は集団の中で生活する生物であるゆえに、個人の価値観は社会の中で置かれた位置によって形作られる。社会的な権力や地位、信仰心、アイデンティティ等により、価値観は変わってくる。そのため、個人の行動を集計したものを社会現象と見なすことはできない。
冷静に考えてみれば当たり前のことなのだが、連中はそう考えることができなかった。
その代わりにしたことは、考察の対象を測定可能なものに絞り、ますます狭い範囲でしか考えられなくしたのだ。権力やアイデンティティといったものは他の社会科学に任せ、価格や数量といったモデル化できるものだけで語ろうとしたのだ……
……こんな感じで、経済学をメッタ刺しにする。ある理論やモデルに異を唱えるのではなく、経済学が拠って立っている原理そのものを壊しにかかる。
経済学のうさんくささ、クルーグマンは知っていた
面白いのは、わたしが感じていた「うさんくささ」が、既に指摘されていたことだ。
経済学者がモデルを構築する過程について、ポール・クルーグマンは次のよう述べている。
「あなたは、モデルを操作可能なものとするために、明らかに事実とは異なる単純化を行なう。単純化は、何が重要であるかについての推量によって規定されるが、利用可能なモデル構築技術によって規定されることになる。モデルが良いものであれば、それより遥かに複雑な現実の体系への洞察が改善される」
‘Models and Metaphors’ Paul Krugman,Development, Geography and Economic Theory :The MIT Press 1995
太字化はわたし。要するに、経済学者が扱えるモデルにするために、現実とは異なる単純化を行っても良いんだというお墨付きを与えている。
明らかに事実と違うのに、そんなことをして大丈夫か?
OK、問題ない。
たとえ事実でなくても、現象をうまく説明できるのであれば、モデルとしての役割を果たしているのだから、問題ない。需要供給曲線も、現実ではほとんど見かけないだろうが、うまく説明できている限りでは有用だろう。
では、モデルで説明する仮説と現実がズレはじめたらどうするか?
それも大丈夫だ。どんなに馬鹿げた仮説であったとしても、現実と一致するように「仮説を緩める」ことで、より単純な推論へ導いていけるという。なんだ、わたしが指摘するまでもなく、ノーベル経済学賞を受賞した教授が直々にレクチャーしているではないか。
もし経済学者が馬だったら
だが、経済学者も馬鹿ではない。
「他の条件が一定ならば」(ceteris paribus)という留保を付けたり、「皆が合理的であるという仮定から始めよう」と誰も信じていない絵空事を並べても、ごまかしきれないことに気づく。いくら物理学のフリをしようとも、事実から始めない限り、何も言っていないに等しいのだから。
イギリスの経済学者が、これを「ジョーク」として話していることから、(文字通り)語るに落ちている。
「もし経済学者が馬について研究したいと思っても、馬のいる所へ出向いて、馬を観察することはありえない。彼らは研究室の椅子に座って、自分自身にこう語るだろう『もし私が馬だったら、私は何をするだろうか?』……そして彼らは、効用を最大化しようとすることを発見するだろう」
‘Speech To ISNIE: The Task Of The Society’ Ronald Coase,Opening Address to the Annual Conference International Society of New Institutional Economics,1999
効用を最大化する合理的な行動をする人間のことを、ホモ・エコノミクスという。そんな経済学者の脳内にしかいない存在を弄ぶのは、やめにしないか?
行動経済学の始まりである。
行動経済学の罪
行動経済学は、従来のモデル理論に、実際の人間行動を観察した事実を取り入れていく研究手法だ。
プロスペクト理論を提唱し、ノーベル経済学賞を受賞した、ダニエル・カーネマンが有名だ(『ファスト&スロー』は面白かった!)。人は、完全に合理的に考えて行動しているわけではない。損得を勘定する際、一定の偏りに左右されることは、心理実験により確かめられている。
しかし、本書は行動経済学にも容赦ない。
「合理的な人間」から始まった新古典派モデルが誤っていることを示したのは評価できる。
だが、新古典派が定義する「合理的な人間」から外れたものを、すべて「非合理的」としてしまった点は、行動経済学の最大の罪だという。
例えば、「コインを投げて表なら1000ドル、裏ならゼロ」と、「確実に400ドルもらえる」のと、どちらを選ぶか?という選択肢を被験者に選ばせる話がある。「合理的な選択」をするならば、期待値が500ドルになるコイン投げにするだろう。「確実に400ドル」は、「非合理的な選択」になる。これが行動経済学の理屈だ。
一方、新古典派によると「確実に400ドル」は予想収入の最大化として説明されている。どちらが正しいかというよりも、「状況による」というべきだろう。置かれた環境によっては適切な行動を選択しているにもかかわらず、それらを非合理的に扱ってしまっている。
なるほど、この視点は面白い。
損得がからむと(特に、損失にかかわると)、人は合理的な選択ができなくなる。これは行動経済学によって実証されてきた。だが、その「合理性」とは数学的なものであり、実社会での判断ではない。その判断の合理性ではなく、一般的であるかどうかが焦点となるのだ。
経済学者への処方箋
では、どうすればよいか?
2008年の金融崩壊を予測できないどころか、その可能性すら指摘できなかった新古典派のモデルは捨てるのか?「このモデルは正しい」という前提を守り続けるのであれば、また同じ過ちをすることになる。
ブラックマンデー、S&L、ブラックスワン、アジア通貨危機……同じ失敗に、違う名前を付け替えて、「同じじゃない!」と言い逃れる愚を繰り返すのか?
失敗の根幹にある「正しいモデルが導き出せる」という前提こそ、捨てるべきではないか?(本書のキモはここ)。
もし、経済学が物理学のフリをするのであれば、それしかない。
現実と大きく異なる結果が実証されたのであれば、そのモデルは使いものにならない。数式の手直しやパラメーターを弄ぶレベルではなく、まとめてゴミ箱に捨てるべきだろう。
だが、それは現実的ではないだろう。イデオロギーと密接に融合し、様々な政策の妥当性に御墨付きを与え、政府民間のあらゆる層の基本的な考え方となっているものを、まとめて捨てるわけにはゆかぬ。
また、そうしたモデルを「正しい」と信じているおかげで世界経済は回っていると言える。私が知らないだけで、経済学者の導きによって、破綻を免れた危機も多々あるに違いない。
本書では、ほとんど実証的ではないとこき下ろされているものの、経済理論の実証性を確かめる研究もある(例:失業率と物価上昇率の関係性を示すフィリップス曲線)。たくさん言い続ければ、どれかは当たる好例ともいえるが、いつでもどこでも当てはまるわけではない。
本書の提案を一言にまとめると、「物理学のフリを止めろ」になる。普遍的な「経済の法則」なんてものは存在しないんだということから始めようというのだ。
いつでもどこでも通用するモデルなんてものは無く、かりに現象を説明できたとしても、特定の領域でごく短期間に限定的に成立するものになる。パラメーターが変化したら当てはまらなくなることを認めれば、数学を過大に評価するのを止めるだろう。
経済学の命題のほとんどは反証も検証もできない。であるなら、経済理論とは科学の権威をまとった意見にすぎない。ここをスタートする。
そして、事前条件の厳密性を小さくするとともに、演繹をもっと緩やかにすることで、より帰納的なアプローチを取るべきだという。学術分野でいうならば、社会学や歴史学、政治学に近づいてゆくイメージだ。
本書では「これは理想にすぎない」と注釈を付けつつも、経済学徒が留めておくべき言葉として、ジョン・メイナード・ケインズが紹介されている。
経済学の大家は、もろもろの資質を必要とする。ある程度まで数学者で、歴史家で、政治家で、哲学者でなければならない。普遍的な見地から特殊を考察し、抽象と具体とを同じ思考で扱わなければならない。未来の目的のため、過去に照らし、現在を研究しなくてはならない。人の性質や制度のあらゆる部分を関心の対象にしなければならない。
'Methodological Issues: Tinbergen, Harrod'; 'Alfred Marshall' in Robert Skidelsky (ed.),Penguin Classics
経済学者は謝ったら死ぬのか
本書の主張になるほどと感じるとともに、別の不安も生じてくる。
物理学のフリをして数字を振りかざし、厳密性を謳っていた経済学が、そんなに簡単に転向できるのだろうか?という不安だ。
一部の例外を除いて、経済学者は自信満々で、自らの理論に疑いがあるなど一抹も感じていない。2008年の金融危機を説明する論文も数多く出ており、後付けだとしても説明するモデルはある。
「ごめん、私の経済学が間違っていました」なんて言っていいのは、既に十分に成果をあげ、リタイアしても大丈夫になってからだろう。自分の誤りを認めることは許されない。文字通り、謝ったら死ぬのだ。経済学者は、誤ったとしても、謝ってはいけないのだ。
そんな現役の経済学者にとって、本書は、耐えがたい一冊となるだろう。その一方で、これからの経済学が向かう先を占う標ともなる一冊でもある。長期的に見れば、いまの経済学者は皆死ぬが、経済学は生き続ける。
経済は重要だが、経済学が問題なのだ。
未来の経済学者へ贈りたい一冊。
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