なぜフィクションなのに怖いのか?どうして怖いのに見たいのか?『ホラーの哲学』
テレビでやってた『エイリアン』が怖すぎて、見るのを止めてしまったことがある(船長がヤツと遭遇するシーン)。ストロボに照らされ一瞬だけ映ったその姿は、今でもはっきり思い出せる、というか夢に出てくるトラウマだ。
『シャイニング』(小説のほう)は怖くてたまらないのに、どうしても止められず、結局完徹したことがある。物語のラスト、オーバールック・ホテルが迎えた凄惨な朝は、痺れるほどのカタルシスだった。
自分の経験だけど、不思議に感じる。
1. モンスターは存在しないと知ってるのに、どうして怖いのか?
2. なぜ怖いと分かっているのに、ホラーを読むのか?
この疑問に、真正面から取り組んだのが、ノエル・キャロル『ホラーの哲学』だ。古今東西の哲学者、研究者、作家の言を引きながら、メジャー・マイナー問わず、映画や小説のホラー作品に共通する原則を考える。この検討の中で、この疑問に一定の解を導き出している。
ただしこの哲学者、相当にワキが甘く、理屈にポロポロ穴がある。そんな穴にツッコミを入れながら、「自分ならホラーをどう捉えるか?」を考えていく作業が、この上もなく楽しい。ホラーという土俵で、哲学者と格闘できる一冊ともいえる。
本書と格闘しながら「怖いとは何か」「怖いのに面白いとは何か」についても考察する。この記事は、以下の構成となっている。
- ホラーとは何か
- モンスターはいないのに、なぜ怖いのか
- 錯覚説:フィクションと現実を混同する
- ごっこ説:フィクションを怖がるフリをしている
- 思考説:心に浮かんだものに怖がる
- 感情とは何か
- 怖いと分かっているのに、ホラーを読む理由
- ホラーの物語構造の中心にモンスターがいる
- ホラーにモンスターは必須か?
- ホラーは快楽を引き起こす
ホラーとは何か
「血も凍るようなホラー映画」や「ホラー小説といえばスティーブン・キング」など、ホラーという言葉は一つのジャンルとして確立されている。
「ホラー」という語は、ラテン語の「horrere」を由来とし、毛が逆立つこと、震えることを意味する。ホラーを感じる時、何らかの生理的な興奮状態と結びついている。自動的な反応・感覚としては、筋肉の収縮、緊張、震え、寒気、麻痺、吐き気などがある。身がすくんで凍りついたように体が動かなくなったり、無意識のうちに叫び声を上げたりする。身体に危険が迫ったとき、警戒を強化する反応が「ホラー」なのだ。
ただし、本書ではホラーをナチュラルホラーとアートホラーの2つに区別している。
ナチュラルホラーは、通常に使われる「恐ろしい」の意味になる。例えば、「私は将来の環境破壊を恐れているhorrified」「核武装の時代の瀬戸際政策は恐ろしいhorrifying」「ナチスがしたことは恐るべきことだhorrible」がナチュラルホラーだ。
その一方、アートホラーは、ホラー映画やホラー小説で扱うものになる。翻訳すると、どちらも「恐ろしい」になって区別がつかなくなるため、本書ではアートホラーの「恐ろしい」を「ホラー」として扱っている。
本書がユニークなのは、ホラーの定義として、モンスターの存在を必須としているところにある。
吸血鬼、ゾンビ、狼男、フランケンシュタインといったモンスターだ。人型である必要はなく、『ブロブ 宇宙からの不明物体』のアメーバだったり、『ジョーズ』のホオジロザメ、『クリスティーン』のクルマでもありだという。
重要なのは、モンスターのイメージに危険性や拒否感、嫌悪が組み合わされているところにある。汚物、腐敗、劣化、粘液によって描写され、見た人の顔は歪み、唇は曲がり、まるで有害物に対面しているかのようになる。逃げようとして後ずさり、なんとか触れないでいようとする。
ホラー作品の文脈で、モンスターは不浄で不潔なものとして見なされている。モンスターは腐敗していたり、崩れていたり、常識のカテゴリーから逸脱した姿かたちをしている。生死のカテゴリーから外れ、「生きながらに死んでいる」のは『ザ・ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』だし、機械と生命を融合させるだけでなく、内臓を外部化したH.R.ギーガーをモデルにしたのが『エイリアン』になる。
そして、モンスターに遭遇したキャラクターの様子には、「恐怖」と「嫌悪」の両方が描かれている。危険であり恐怖心を掻き立てるばかりか、鳥肌が立ちぞっとさせ、なんとか肉体的接触を避けようとする。キャラクターは、恐れ(fear)に加えて嫌悪感(loathing)をもち、恐怖(terror)と嫌悪(disgust)の両方をもって、モンスターを見ることになるのだ。
モンスターはいないのに、なぜ怖いのか
お化けなんてないし、お化けなんてウソだ。寝ぼけた人が見まちがえただけだろうし、金縛りも科学的に説明できる。
しかし、わたしがホラー作品を見たり読んだりするとき、その反応は「恐怖」に他ならない。全身の感覚が鋭くなると同時に、寒気と震えが止まらなくなる。ふと腕を見やると、うぶ毛が逆立っている。一種の戦闘態勢になっているのだろう。良質のホラーであればあるほど、この傾向が強くなる。
いない存在なのに、なぜ怖いのか。
これは「フィクションのパラドックス」と呼ばれている。
ホラーに限らず、フィクションが感情を喚起するのはなぜか?という問いが成り立つ。例えば「リア王のために嘆くのはいかにして可能か」とか「オイディプスの運命はどうして哀れみと恐怖を引き出すのか」「カフカ『審判』のKにイラっとするのはなぜか」といった問いだ。
本書は、アリストテレスからケンダル・ウォルトンまで、様々な主張を渉猟しながら、この謎に迫る。
最も単純な回答は、「それが人の本性だ」という考え方だ。私たちは現実として、不幸に見舞われた人のために嘆き、不正には憤慨する。他人のために怒ったり悲しんだりできるのが人なんだから、それがリアルかフィクションかは関係ない、という考えだ。
でもそれ、おかしくないだろうか?
例えば、「貧しい生活をしている子どもがいる」というニュースに同情した後、それは嘘だったことが分かると、フェイクニュースに憤慨すると同時に、同情心は消える。一方で、『フランダースの犬』はストーリーなのに、ラストで泣いてしまう。どちらも「でっちあげ話」としては同じなのに。
錯覚説:フィクションと現実を混同する
ここから、「現実だと信じること」が、感情を引き起こしているのではないか?という仮説が成り立つ。
つまり、映画や小説が真に迫るあまり、モンスターや宇宙人が本当にいると信じ込み、それに恐怖する考え方だ。フィクションを現実のものと錯覚してしまうことから「錯覚説」と呼ばれている。この説では、作品に没入している間だけ「モンスターを信じない」ことを止める。「不信の自発的一時停止」として、サミュエル・コールリッジが唱えている。
フィクションが信念に与える影響は否定できない。物語を聞かされた人に呪いが”伝染”する小野不由美『残穢(ざんえ)』を読むと、その本を所持していることすら気味悪くなってくるし、映画なんて見ちゃうと、寝る前に電気を消すときヒヤリとする。「フィクションと現実の区別が付かない」という人は、まさにこれだろう。
しかし、著者は錯覚説に疑義を挟む。もし本当に恐怖を感じているのなら、おとなしくページをめくったりシートに座って映画を見ていることなんてしないだろう。現実でモンスターと出会ったならば、危険だと感じて逃げようとする。本を放り出すか、映画館から出ていくはずだ。
さらに、本当に怖いのであれば、「なぜわざわざホラーを見るのか」への回答ができなくなる。ホラーというジャンルを選択する人がいるのは事実だが、そこで味わうのが本当の恐怖なら、わざわざ逃げ出すようなものを選ぶはずがない。
「フィクションを現実だと信じる」この前提を貫こうとすると、「フィクションから導かれる感情」に疑いが出てくる。ホラーを見る時のこの「恐怖」は、本物なのだろうか。
ごっこ説:フィクションを怖がるフリをしている
ひょっとすると、わたしたちが「怖い」と思っているこの感情は偽物なのではないか?
この疑問から、「ごっこ説」が浮かび上がる。
つまりこうだ、どんなに怖くても、モンスターが「いない」ことは分かっているし、映画館から逃げ出したりもしない。それは本当に「怖い」のではなく「怖がっているフリ」をしているだけなのだ。
この考え方は、ケンダル・ウォルトンが有名だ(※1)。映画や小説で味わう「恐怖」は、いわばカッコ付きの偽物であり、登場するモンスターは、ごっこ遊び(Make-Believe)の小道具のようなものだという。
この説の裏付けとして、ウォルトンは様相的修飾を付与しない習慣を提示する。
「様相的修飾」って何ぞや?
これは例を挙げたほうが早い。小説や物語では、出来事を記述す際、 1-1. が用いられる。わざわざ「フィクションの中で」なんて言わないのが普通だ。
1-1. トム・ソーヤはツリーハウスに住んでいた
1-2. フィクションの中で、トム・ソーヤはツリーハウスに住んでいた
だが、誰かの信念としての文脈で語るとき、わたしたちは 2-2. を使う。
2-1. 教皇はアイルランド人である
2-2. ジャックの信じるところでは、教皇はアイルランド人である
伝える内容がどんな位置づけなのかを示すために、「フィクションの中では~」とか「ジャックが信じるところでは~」といった修飾子を付ける。これを様相的修飾と呼んでいる。
そして、ウォルトンによると、様相的修飾子を付けないのは、フィクションの中だけだという。わざわざ書かなくったって、フィクションだと分かっていれば不要だろうに……と思うのだが、実はそうでないという。フィクションの中で、わざわざ「これはフィクションだ」と言わないのは、フリをし続けるために必要なのだ。もし言及したら、ごっこ遊びが台無しになってしまう。
なるほど……ドロケイするとき、「僕は警察だ」と言うのが自然で「僕は警察の役をする」とは言わない。おままごとをする子どもは「これはケーキ」と言うのであって「これはケーキのつもり」とは言わない。
ごっこ遊びの世界の中では、それがフィクションであることを明示しない。同様に、いったんホラーを見始めたら、それがフィクションであることを意識せず、その世界の中でホラーを感じるフリをするというのだ(※2)。
この発想は興味深い。以前に聴講した話にもつながってくる(※3)。「フィクション」という言葉には、空想上とかウソという印象が付いてまわるが、フィクションだって現実の一部だ。フィクションによって形作られたイメージ……ゾンビが徘徊するアポカリプスとか、生き血を求めて夜な夜な徘徊するヴァンパイアは、「現実」として存在する。この「現実」とは、「現実に存在する」という意味ではなく、そうしたフィクションが、映画や本、ゲームといった形で現実に存在し、わたしたちはそうした作品を通じてイメージを共有している、という意味だ。
詳細は [東大シンポジウム「現代フィクションの可能性」] にまとめたが、こうしたフィクションが作る現実は、「共有された遊戯的偽装」として定義されている。ホラーというジャンルそのものが、共有された遊戯的偽装になるのかもしれない。
わたしたちは、ホラーという共有された遊戯的偽装の中で、怖い「フリ」をしたり、怖がる「ごっこ遊び」をしているのだ。
思考説:心に浮かんだものに怖がる
いやいや、「怖い」って!
ホラー映画を見ているときの「あの」気分は、ごっこでもフリでもないでしょ!キャロルは反論する。それに、フリであるならば、「怖い」を止めて別の感情にもできるはずだ。怖くてたまらない気持ちを抑えられないのであれば、それはフリじゃない。
錯覚説・ごっこ説が行き詰まるのは、「フィクションを怖がる」という事実に対し、アプローチが違っているのではないか?キャロルは、2つの説に共通する前提に目を向ける。
その前提とは、「対象を現実だと信じるとき、本当の恐怖が引き出される」ことだ。前者の「対象を現実だと信じる」ことを優先し、不信感を一時停止するのが錯覚説になる。一方、ごっこ説は、前者を是として後者の「本当の恐怖」を否定する。
だがキャロルは、この前提に疑いをはさむ。対象が現実だという信念が無くても、本物の恐怖が引き出されるのではないかと主張する。心に浮かんだことが現実にあるか否かはともかく、その思考内容そのものが感情を誘発するのだという。
例えば、断崖絶壁の上に立っているとする。このとき、「落ちる」という考えが頭をよぎり、ヒヤっとすることはないだろうか。もちろん、足場はしっかりしているし、後ろから押してくる人もいない。自分で飛び降りる意思もないから、落ちる可能性はない。それでも、崖から真っ逆さまに「落ちる」という思考に怯え、身体が震え、足がすくんでしまうかもしれない。落ちるという出来事ではなく、落ちる思考内容が、感情を引き出しているのだ。
キャロルは、「信念」と「思考」を厳密に分けている。日曜日に「今日は日曜日だ」と言うことは信念に基づいているし、”Today is Monday” を日本語に訳して「今日は月曜日だ」というのは思考に基づいている。現実では日曜だけど、「今日は月曜日だ」と言ったり考えたりすることは可能なのだ。
この考えは説得力がある。現実に起きうるのか、それが本当かどうかは置いておいて、伝えられたお話を心の中に思い浮かべることができる。文学・心理学用語だと、メンタルスペースと呼ばれる領域だ。この領域で、自身の知識や経験と照らし合わせながら、「何が伝えられているのか」を理解する。この認知の中で、感情が呼び起こされることは、十分にありうる。
ちなみに、メンタルスペースで見つけたエラー補正はユーモア(※4)やアイロニー(※5)としておかしみを生み出すが、これは「フィクションを面白いと思うのはなぜか」の話になり本論から外れるため、別所で語る(ユーモアの報酬システム、アイロニーはなぜ伝わるのか)。
錯覚説、ごっこ説、思考説のうちで、思考説が有力に見える。だが、思考説で全てを語ろうとする著者に辟易する。キャロルは、思考説を支持するあまり、他を退けようと攻撃する。哲学者の悪い癖だと思う。
わたしたちがフィクションを味わうとき、ただ一つのメカニズムによって感情が生じるのではなく、様々なルートによって感情が誘発されるのではないだろうか?
例えば、怖がるフリをしているうちに本当に怖くなったり、物語が終わってもそれが本当に感じられることはよくある。それも、恐怖だけではなく、怒りや悲しみ、喜びといった他の感情も同様だ。
感情とは何か
感情について考えるとき、進化心理学からのアプローチの方が良いように見える。この観点から見ると、感情とは、より適切に世界を認知するしくみに付けられたラベルだと考えることができる。
こう考えることはできないだろうか。もともと外敵の危険性を素早く判断し、それに応じて逃げる/戦う身体態勢を整えるしくみが、後に「恐怖」とラべリグされるようになった。糖分や栄養を含んだ食物を得て、もっと取り込もうと求める衝動は、「喜び」という言葉を与えられた。あるいは、家族や友人といった親しい存在の不在を和らげるためのしくみの一部が、後に「悲しみ」と呼ばれるようになった。
この考え方は、「味覚」をメタファーとすると、より説明しやすい。口に含んだものが腐敗していたり毒がある場合に感じるものが、後に「酸っぱい」や「苦い」と呼ばれるようになった。果物やアミノ酸をたっぷり含んだ食べ物は、「甘い」「旨い」というラベルが貼られるようになるのだ。
「苦いから吐き出す」「甘いから沢山食べる」など、特定の行動を引き起こす動機を評価するときに付けられるラベルが、後に味覚を表す言葉になる。もちろん、食文化が発達し、苦味や酸味も美味しさのアクセントの一つとして評価されるようになった。だが、元々は、適応的な行動であるかを判別するための言葉なのだ。
「怖い」「嬉しい」「悲しい」といった感情を評価するための言葉も同様だ。ある身体反応の仕組みについて、それが適応的かどうかを判断するためにカテゴライズしてみる。そうしたカテゴリに付けられたラベルが感情なのだ。
怖いと分かっているのに、ホラーを読む理由
本書の後半では、もう一つの謎「怖いと分かっているのにホラーを読む理由」に取り組んでいる。
「ホラーが好きだから」という人や、「怖いのが楽しい」という理由が浮かぶ。人それぞれと言ってしまえばそれまでだ。だが、ホラー映画を見たり小説を読むと、怖いだけでなく、気分が悪くなったり、終わった後も夢に出たりトラウマになることがある(わたしにとっての『エイリアン』がそうだ)。
本書では、多くの物語に見られるサスペンスの構造からアプローチする。
ストーリーの前半に起きた出来事やシーンによって、鑑賞者に疑問が生じる。その疑問はストーリーの進行により解決されていくが、そこからさらなる疑問を生み出していく。疑問・解決の構造が連続することにより、「次はどうなるのだろうか?」という期待が次々と満たされていく。
例えば、不気味な影が現れたら「それは何だろう?」と疑問に思うし、その影がヒロインに襲い掛かったら「彼女はどうなるのだろう?」と知りたくなるはずだ。
そして、疑問が衝撃的であるほど、解決への糸口が掴めないほど、先が気になるはずだ。鑑賞者はハラハラしながら続きを読んでいく。サスペンスとは元々はラテン語の suspensus (吊るす)という語を由来とし、気がかりや不安の宙づりの状態になった緊張感を示している。
デイヴィッド・ヒュームは『悲劇について』の中で、ストーリーから得られる快楽について最も重要な要素は「遅延」だと述べている。
もしかりに、ある人にあることがらを話してその人の心を非常に動かそうという意図をもったならば、その効果を増す最善の方法は、それを彼に知らせることを巧妙に遅らせ、まず彼に秘密をもらす前に、彼の好奇心と辛抱をかきたてることであろう。
つまり、物語が提示する謎が解かれることへの「予期」が、先を知りたいと思わせ、その解決が引き伸ばされ、遅延すればするほど、解決したときの喜びは大きくなる。
不気味な影の正体はなかなか掴めないだろうし、(鑑賞者だけは分かっても)主人公は気づかないかもしれない(そして鑑賞者はイライラするはずだ)。さらに、たとえ正体が分かったとしても、「どうやって倒すのだろう?」という謎は残り続ける(おそらく、物語のラストまで)。影との対決がクライマックスになるのは、こういう理由なのだ。
ホラーの物語構造の中心にモンスターがいる
この「謎」を提供するのが、ホラーにおけるモンスターになる。
這い寄る混沌であれ、歩く死人であれ、科学的に説明できない存在であり、それゆえに問題を引き起こし、物語を駆動する謎として振る舞い、解決すべきターゲットとなる―――それがモンスターだ。
最初は正体不明の存在で、「あれは何だろう?」と鑑賞者の好奇心を刺激する。その姿が異様で、おどろおどろしいほど、より一層知りたくなるだろう。ホラーに登場するモンスターの姿に危険や不浄のイメージが付きまとい、嫌悪感を掻き立てるのは、こうした理由による。
物語の最初のうち、モンスターの存在は、鑑賞者にしか分からない。犠牲となった人はたいてい死んでいるので、他の登場人物には伝わらない。次の疑問は「いつ気づくのだろう?」になるし、主人公が襲われるシーンでは「どうやって切り抜けるのだろう?」になる。モンスターの存在が分かるにつれて、「弱点はあるのか」「皆は助かるのか」という疑問に変化する。モンスターが引き起こす謎を次々と解決し、最終的に決着を付けるのが、ホラーの構造になる。
現実だとこうはいかない。正体不明の殺人鬼は、結局正体不明のままだろうし、助からなかったヒロインは何年も経過して白骨となって発見される。現実は、上映時間内に解決してくれる謎を提供したりはしない。わたしたちは安全な場所で、「疑問→解決」を楽しむことができるのだ。
ホラーにモンスターは必須か?
本書は、ホラーのパラドックスを解き明かすために、「ホラーにモンスターは必須」という説を主張する。
確かにこれが当てはまる点もあるのだが、首をかしげたくなるところもある。ホラーの定義を「科学では説明できないモンスター」に帰してしまったため、そこから漏れ落ちる「恐ろしい作品」が説明できなくなってしまっている。
例えば、サイコホラーと呼ばれるジャンルだ。
血が飛び散ったり、大きな音量で驚かすホラーではなく、心理的にジワジワと脅かし、不安な気分にさせるホラーだ。物語構造の「謎」を提供する存在は、ゾンビや吸血鬼ではなく、「人」になる。ただしそれは外見だけで、その人物の内面は、モンスターそのものといっていい。例えばヒッチコックの『サイコ』に登場するノーマンは、一見普通の青年だが、やってることは完全にモンスターである。
本書の定義によると、サイコホラーはホラーでなくなってしまう。だが著者は、異形のモンスターに拘るあまり、『サイコ』はホラーでないと断定してしまう。そして、苦し紛れに『サイコ』がホラーに見えるのは、自説のホラー理論によって説明できると語りだす。
超常現象なら、もはや古典と言うべきジェイコブズ『猿の手』なんてどうだろうか。「どんな願いでも3つかなえてくれる」というお守りを手にした夫婦を見舞った出来事を描いた短編だが、どう見てもホラーだ。
だが『猿の手』もホラーではないという。確かにゾッとする話だが、嫌悪感を引き起こす異形の存在、すなわちモンスターが不在だからだという(物語の終盤でドアを叩くアレは、モンスターといっていいと思うが……)。そしてこれをテイルズ・オブ・ドレッド、「不安の物語」と名づける。
著者のこだわりは、数々のホラー作品を、「ホラーでない」としてしまう。
年に一度の狂気に支えられた日常を描いたシャーリィ・ジャクスン『くじ』や、ゴシック・ホラーの傑作ポー『アッシャー家の崩壊』、子どもが大人を殺しまくるスティーブン・キング『トウモロコシ畑の子供たち』、大人が子どもを殺しまくる永井豪『ススムちゃん大ショック』は、すべてホラーでないことになる。
狂犬病に感染したセントバーナードが人を殺しまくるスティーブン・キング『クージョ』も、ホラーの構造とレトリックに満ちている。それにもかかわらず、「狂犬病」という科学的な説明がつくことから、ホラーでないと断定する。
「異形のモンスターが出てこないとホラーではない」という理屈は、現実のホラー作品と照らし合わせると合わない。それこそ、『13日の金曜日』はホラーじゃないことになってしまう。
「ん?あのホッケーマスクを被ったジェイソンはモンスターでしょ?何度も蘇り、襲ってくるから」というツッコミはその通り。だが、それはパート2以降の話だ。最初の殺人鬼が誰だったかを思い出して欲しい。
ホラーは快楽を引き起こす
もう一つ。「なぜホラーを読むのか」という問いに対し、サスペンスや解答の遅延といった物語構造からの説明は、確かに説得力がある。
だが、それに加えて、適応的なアプローチもできないだろうか。
つまりこうだ、「恐怖」を生物学的適応という観点から捉えなおす。猛獣を「怖い」と感じなかったら、私たちは生き残ってはいなかった。ちょうど、腐った食べ物を「苦い」と感じなかったら、生き残っていなかったように。
そして「怖い」と感じる時、逃げる/戦うために、心拍数が増大し、アドレナリンが分泌されるはずだ。恐怖を引き起こす存在がもたらす苦痛に備えて、予め快楽物質(ドーパミン等)が放出されるかもしれない。
もちろん現代では、生命を脅かす猛獣はおらず、安全に暮らすことができる。だが、危険に対応してきた身体システムはそう簡単には変わらない。この身体システムを逆手に取った娯楽がホラーになる、と考えることはできないだろうか。身体を騙すことで安全に怖がることができる。
味覚に喩えるなら、「甘い」と感じる食べ物を欲するのと同じ構造になる。生命維持にとって重要な糖分を多く含む「甘い」食べ物は、より多く摂取しようとする(そして身体は積極的に溜め込もうとする)。これは、飢餓を生き延びるための適応的な習慣だといえる。現代ではめったに飢えることはないが、適応的な身体システムはそう簡単に変わらない。甘いスイーツが報酬であるように、恐怖の報酬は快楽だというわけなのだ。
古今東西のホラー作品をダシにして、「恐怖」を分析することで、人間がより見えてくる。哲学者と格闘できる一冊。
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- 恐怖の報酬は快感!? 「ホラーのスゴ本オフ」
- なぜイヤな映画をわざわざ観るのか
※1 『フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術』(ケンダル・ウォルトン、名古屋大学出版会、2016)
※2 『分析美学基本論文集』所収「フィクションを怖がる(Fearing Fictions)(ケンダル・ウォルトン、1978)
※3 『なぜフィクションか? ごっこ遊びからバーチャルリアリティまで』(ジャン=マリー・シェフェール、慶應義塾大学出版会、2019)
※4 『ヒトはなぜ笑うのか』(ハーレー、アダムズ、デネット、勁草書房、2015)
※5 『アイロニーはなぜ伝わるのか?』(木原善彦、光文社、2020)
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