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未来を思い出すためのSF『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』

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4回目のワクチン接種は、大規模会場だった。

スマホに誘導された先には行列ができていた。クリアファイルを持った案内係が立ち回り、受付や検温をしていた。行列は長かったが、流れ作業のように進んでいった。

一度だけ流れが止まった。列に割り込もうとした老人が、怒気を露わに係員に食ってかかっていた。数人の係員に付き添われながら、別室に消えていった。

そのとき、強い既視感に揺さぶられた。先が見えない行列と「問診」という案内板、おとなしい大多数と、不安を怒りに変える人は、確かに見たことがある。小松左京『復活の日』か、あるいは、小川一水『天冥の標』だろうか。致死率・感染力ともに極めて高い疫病が蔓延し、文明が崩壊する話だ。

読んでいるときは「パンデミックSF」という一つのジャンルとして捉えていたが、まさか目の前の現実とシンクロするとは思わなかった。SFがすごいのは、読んでいるときはそうでもないのに、現実になったときになって初めて、未来を体験していたことに気づけるところ。未来を ”思い出す” 経験ができるのが、SFの力なのだ。

長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』も、同じ力を持つ。ここに描かれる2050年代の日本は、将来、答え合わせをするように、強い既視感を持って思い出すことになるだろう。

テーマは「ダンス」と「介護」だ。どちらも肉体という共通項を持っている。

主人公は、コンテンポラリーダンサーだ。従来の表現形態に囚われない自由な身体表現を目指し、時代の先端を文字通りカラダひとつで体現する若者だ。

前途有望な彼が不慮の事故で右足を失い、AI制御の義足を身につけることになる。日常生活を支えるだけの義足ではない。義足そのものが、高度なAIを搭載したロボットなのだ。「考える足」との共存を通じて、人のダンスのみが持つ人間性を獲得していく手続き(プロトコル)が前半となる。

後半は、彼が身をもって味わう介護地獄である。

認知症が進行する肉親に翻弄され、夜も眠れずダンスの練習も満足にできない。2050年だから介護ロボットもあるにはあるが、介護保険だけでは手が届かず、家計を回すためアルバイトに奔走する。痴呆が進む親の介護という手続き(プロトコル)によって、記憶の中に残っている親の人間性を、少しずつ諦めていく過程が後半となる。

人間性の獲得と喪失の物語は、コンタクト・インプロヴィゼーションでより合わされる。このダンスは、重力を意識しながらパートナーと身体の接触を続けるデュエット形式の即興パフォーマンスだ。

ダンスパフォーマンスの描写は圧巻で、「ここに肉体がある」という圧倒的な現実を実感する。著者自身の体験をベースにしている介護現場の描写は生々しく、人間性を失った肉体がどんな姿をしているのか垣間見ることができる。

近い将来、介護に追われるようになったとき、この小説で感じ取った肉体の重みを思い出すことになるだろう。未来を予想するというよりも、未来に思い出すためのSF、それが『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』になる。



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