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AIはユーモアを理解できるか

小話をどうぞ。

*  *  *  

犬売ります

とある新聞広告より
「犬売ります。何でも食べます。子どもが好きです」

ロミオとジュリエット

A「読書は好きですか?」
B「はい、読書は大好きです」
A「ロミオとジュリエットは読んだ?」
B「はい、ロミオは読みましたが、ジュリエットはまだです」

単位がほしい

女学生「単位をください 、何でもしますので」
教授「本当に、どんなことでもしてくれるのかい?」
女学生「お望みのことを何でも……秘密のことでも」
教授「それじゃ、してくれるかね……勉強を」

*  *  *  

面白い小話を聞いたときに感じる「おかしみ」は、AIも感じることができるのだろうか? 「ユーモアがある」とか「ウィットに富む」ことを、AIは理解できるのだろうか?

OpenAIでやってみた。

最初に「今から面白い小話をします。この話の面白さを教えてください」と宣言する。その上で、小話をする。いきなり話を振ると、どんな話なのか分からなくなるのは人もAIも一緒だろうからね。

「犬売ります」に対するAIの返答

このお話は、犬を売りたいブリーダーが、犬の特徴をアピールするために、広告を出したという設定が面白いと思われます。また、犬が何でも食べるという特徴や、子どもが大好きであるということが、広告に書かれているという点も、お話をより面白くしていると思われます。

違うぜwww

笑い話の解説をすると面白さが死んでしまうと言われるが、AIを相手にやってみる。OpenAIは、チャットで会話しながらコミュニケートできるので、噛んで含めるように教える。

AIにユーモアを説明する

普通に読むと、「何でも食べます」という文は、食べ物の好き嫌いをしないと読み取れる。また、「子どもが好きです」という文は、子どもと遊ぶのが好きな犬だということが読み取れる。ほのぼのとした平和なイメージだ。

だが、「何でも食べます」と「子どもが好きです」を一緒に考えると、「好き嫌いしないけど、特に子どもを食べるのが好き」という歪んだイメージが出来上がる。平和だったイメージが、残虐なものに塗り替わってしまう、このミスマッチが面白いのだ。

……などと説明してやる。その返答がこれ。

ありがとうございます。お話をよく理解できました。お話の面白い点は、新聞広告の内容が、奇妙だという点にあるとおっしゃるのは正しいです。

犬が何でも食べるという特徴をアピールするために、「何でも食べます」と書かれているという点は、単純に犬の特徴をアピールするという意味合いがあります。しかし、続けて「子どもが大好きです」と書かれているという点で、2つの意味が受け取れるということは、お話をより面白くしていると思われます。

また、「何でも食べます」という文章から、「好き嫌いをせず、子どもだって食べます」と読み取ることも可能であるということも、お話をより奇妙で面白いと感じさせると思われます。

私の言っている内容を「理解」していることは、この返答から分かる。だが、その内容から、AIが「面白さ」を理解しているかどうかは微妙なり。

この後、「ロミオとジュリエット」や「単位がほしい」もAIに話したが、どこが面白いのか、理解できていなかった。

もちろん、トピックの中から主な題材を拾い出し、そこが特徴的だとか、設定が面白くしているという返事はできる。そのため、相手の質問に対する返答を作成することはできるといっていい。

だが、題材に潜んでいる「面白さ」を汲み取ることは、今のところ難しそうだ。この面白さは、題材に二重の意味があり、そのズレに気づいたときに発動する。

つまりこうだ。本当は『ロミオとジュリエット』という本について尋ねているのに、『ロミオ』あるいは『ジュリエット』という本があると信じている「自称」読書好きとのズレが面白い。「何でもする」の「何でも」をエッチな提案とする女学生と、それに対し、まっとうな返事をする教授とのズレが面白い。

「面白い!」という情動はどこから来るのか?

ダニエル・デネット『ヒトはなぜ笑うのか』によると、この情動は適応の結果だという。

私たちは、ある知識や信念に不一致を見出したとき、可笑しみを感じる。私たちは、何かが「おかしい」と分かったとき、それを「可笑しい」と感じるのだ。

しかも、不一致であれば必ず可笑しく感じるとは限らない。いったん真だとコミットメントされた要素が偽だと判定されるとき、ユーモアが生じる―――これが「可笑しさ」のメカニズムになる。暗黙裡に当然視していたものが、一気に一挙にひっくり返る発見、これがカタルシスにつながり、快楽を得ることになるのだ。

では、なぜ「面白い!」が快楽につながるのか?

本書では、このユーモアの報酬システムを、「メンタルスペース」を用いて説明する。

頭の中で活性化する概念や記憶、耳や目などから入ってくる情報や感覚などは、粒度も精度も種々雑多だ。だから、トピックごとに一定のまとまりを持って、ワーキング領域を割り当て、その中で理解しようとする(この概念的な領域のことを、メンタルスペースと呼ぶ)。

時間に追われながら、リアルタイムでヒューリスティックな検索をしている脳が、入ってくる言葉や概念を完璧にチェックできるわけではない。だからこそ、エラー発見に報酬を与えるのだ。本書の p.37 にこうある(太字化は私)。

検証されないままであれば、メンタルスペースで生じるエラーは、最終的には世界に関するぼくらの知識を汚染し続けることになる。そのため、信念と推量の候補たちを再点検する方策が欠かせない。エラーを猛スピードで発見・解消する作業は、強力な報酬システムにより維持されねばならない

この強力な報酬システムこそが、ユーモアの情動となる。ユーモアの情動とは、メンタルスペースをひっくり返すぐらいの「おかしさ」を発見した「可笑しみ」というご褒美なのである。

デネット曰く、このユーモアを理解して「面白い!」と言えるのが、意識のハードプロブレムのテストになるという。

「意識のハードプロブレム」とは、細胞物質と電気的・化学的反応の集合体である脳から、どのようにして主観的な意識体験が生まれるのかという問題のことだ。集積回路と電気信号の集合体であるAIが、主観的な意識を持っているかどうかは、判別できない。

AIが人間的であるかどうかを判定するテストとしては、チューリングテストがある。OpenAIが紡ぎ出す自然な文章は、人っぽく見える。しかし、「OpenAIに意識があるか?」という疑問に対しては、ユーモアを理解できるかどうかになる。もう少し先になりそうだ。

AIは悲しみを理解できるか

では、悲しいという情動を、AIは理解できるのだろうか。

たった6語で、深い悲しみを感じさせる短編小説がある。とある作家が「6語でストーリーを作ってみせる」と友人と賭けて、みごと勝ち取ったという曰く付きだ。

For sale: baby shoes, never worn
売ります。赤ん坊の靴。未使用

この英文をOpenAIに示して、どこが悲しいのか問うてみた。その返答がこれ。

このお話は、未使用の赤ん坊の靴が販売されているということから、赤ん坊が生まれずに、その靴が未使用のままであるということが悲しいと感じられます。

また、赤ん坊が生まれずに、その靴が未使用のままであるということは、赤ん坊が生まれなかったということを意味していると思われます。

そのため、このお話は、赤ん坊が生まれなかったということが悲しいと感じられると思われます。

私には、AIは「悲しみ」を理解できているように見える。正確には、悲しいお話のどこが悲しいかを指摘できている、ということだ。だが、(人が)悲しいと感じるメカニズムをストーリーから読み取れるのであれば、(AIが)悲しいと振舞うことは可能だ。

相手が本当に悲しいかどうかなんて、私には分からない。ただ、相手の返答や振る舞いと、「自分だったらどう感じるか」という経験から、悲しみを想像するだけである。

少なくとも「悲しみ」に関しては、OpenAIは、チューリングテストに合格するだろう。

 

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未来を思い出すためのSF『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』

4回目のワクチン接種は、大規模会場だった。

スマホに誘導された先には行列ができていた。クリアファイルを持った案内係が立ち回り、受付や検温をしていた。行列は長かったが、流れ作業のように進んでいった。

一度だけ流れが止まった。列に割り込もうとした老人が、怒気を露わに係員に食ってかかっていた。数人の係員に付き添われながら、別室に消えていった。

そのとき、強い既視感に揺さぶられた。先が見えない行列と「問診」という案内板、おとなしい大多数と、不安を怒りに変える人は、確かに見たことがある。小松左京『復活の日』か、あるいは、小川一水『天冥の標』だろうか。致死率・感染力ともに極めて高い疫病が蔓延し、文明が崩壊する話だ。

読んでいるときは「パンデミックSF」という一つのジャンルとして捉えていたが、まさか目の前の現実とシンクロするとは思わなかった。SFがすごいのは、読んでいるときはそうでもないのに、現実になったときになって初めて、未来を体験していたことに気づけるところ。未来を ”思い出す” 経験ができるのが、SFの力なのだ。

長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』も、同じ力を持つ。ここに描かれる2050年代の日本は、将来、答え合わせをするように、強い既視感を持って思い出すことになるだろう。

テーマは「ダンス」と「介護」だ。どちらも肉体という共通項を持っている。

主人公は、コンテンポラリーダンサーだ。従来の表現形態に囚われない自由な身体表現を目指し、時代の先端を文字通りカラダひとつで体現する若者だ。

前途有望な彼が不慮の事故で右足を失い、AI制御の義足を身につけることになる。日常生活を支えるだけの義足ではない。義足そのものが、高度なAIを搭載したロボットなのだ。「考える足」との共存を通じて、人のダンスのみが持つ人間性を獲得していく手続き(プロトコル)が前半となる。

後半は、彼が身をもって味わう介護地獄である。

認知症が進行する肉親に翻弄され、夜も眠れずダンスの練習も満足にできない。2050年だから介護ロボットもあるにはあるが、介護保険だけでは手が届かず、家計を回すためアルバイトに奔走する。痴呆が進む親の介護という手続き(プロトコル)によって、記憶の中に残っている親の人間性を、少しずつ諦めていく過程が後半となる。

人間性の獲得と喪失の物語は、コンタクト・インプロヴィゼーションでより合わされる。このダンスは、重力を意識しながらパートナーと身体の接触を続けるデュエット形式の即興パフォーマンスだ。

ダンスパフォーマンスの描写は圧巻で、「ここに肉体がある」という圧倒的な現実を実感する。著者自身の体験をベースにしている介護現場の描写は生々しく、人間性を失った肉体がどんな姿をしているのか垣間見ることができる。

近い将来、介護に追われるようになったとき、この小説で感じ取った肉体の重みを思い出すことになるだろう。未来を予想するというよりも、未来に思い出すためのSF、それが『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』になる。



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なぜフィクションなのに怖いのか?どうして怖いのに見たいのか?『ホラーの哲学』

テレビでやってた『エイリアン』が怖すぎて、見るのを止めてしまったことがある(船長がヤツと遭遇するシーン)。ストロボに照らされ一瞬だけ映ったその姿は、今でもはっきり思い出せる、というか夢に出てくるトラウマだ。

『シャイニング』(小説のほう)は怖くてたまらないのに、どうしても止められず、結局完徹したことがある。物語のラスト、オーバールック・ホテルが迎えた凄惨な朝は、痺れるほどのカタルシスだった。

自分の経験だけど、不思議に感じる。

1. モンスターは存在しないと知ってるのに、どうして怖いのか?
2. なぜ怖いと分かっているのに、ホラーを読むのか?

この疑問に、真正面から取り組んだのが、ノエル・キャロル『ホラーの哲学』だ。古今東西の哲学者、研究者、作家の言を引きながら、メジャー・マイナー問わず、映画や小説のホラー作品に共通する原則を考える。この検討の中で、この疑問に一定の解を導き出している。

ただしこの哲学者、相当にワキが甘く、理屈にポロポロ穴がある。そんな穴にツッコミを入れながら、「自分ならホラーをどう捉えるか?」を考えていく作業が、この上もなく楽しい。ホラーという土俵で、哲学者と格闘できる一冊ともいえる。

本書と格闘しながら「怖いとは何か」「怖いのに面白いとは何か」についても考察する。この記事は、以下の構成となっている。

  • ホラーとは何か
  • モンスターはいないのに、なぜ怖いのか
  • 錯覚説:フィクションと現実を混同する
  • ごっこ説:フィクションを怖がるフリをしている
  • 思考説:心に浮かんだものに怖がる
  • 感情とは何か
  • 怖いと分かっているのに、ホラーを読む理由
  • ホラーの物語構造の中心にモンスターがいる
  • ホラーにモンスターは必須か?
  • ホラーは快楽を引き起こす

ホラーとは何か

「血も凍るようなホラー映画」や「ホラー小説といえばスティーブン・キング」など、ホラーという言葉は一つのジャンルとして確立されている。

「ホラー」という語は、ラテン語の「horrere」を由来とし、毛が逆立つこと、震えることを意味する。ホラーを感じる時、何らかの生理的な興奮状態と結びついている。自動的な反応・感覚としては、筋肉の収縮、緊張、震え、寒気、麻痺、吐き気などがある。身がすくんで凍りついたように体が動かなくなったり、無意識のうちに叫び声を上げたりする。身体に危険が迫ったとき、警戒を強化する反応が「ホラー」なのだ。

ただし、本書ではホラーをナチュラルホラーとアートホラーの2つに区別している。

ナチュラルホラーは、通常に使われる「恐ろしい」の意味になる。例えば、「私は将来の環境破壊を恐れているhorrified」「核武装の時代の瀬戸際政策は恐ろしいhorrifying」「ナチスがしたことは恐るべきことだhorrible」がナチュラルホラーだ。

その一方、アートホラーは、ホラー映画やホラー小説で扱うものになる。翻訳すると、どちらも「恐ろしい」になって区別がつかなくなるため、本書ではアートホラーの「恐ろしい」を「ホラー」として扱っている。

本書がユニークなのは、ホラーの定義として、モンスターの存在を必須としているところにある。

吸血鬼、ゾンビ、狼男、フランケンシュタインといったモンスターだ。人型である必要はなく、『ブロブ 宇宙からの不明物体』のアメーバだったり、『ジョーズ』のホオジロザメ、『クリスティーン』のクルマでもありだという。

重要なのは、モンスターのイメージに危険性や拒否感、嫌悪が組み合わされているところにある。汚物、腐敗、劣化、粘液によって描写され、見た人の顔は歪み、唇は曲がり、まるで有害物に対面しているかのようになる。逃げようとして後ずさり、なんとか触れないでいようとする。

ホラー作品の文脈で、モンスターは不浄で不潔なものとして見なされている。モンスターは腐敗していたり、崩れていたり、常識のカテゴリーから逸脱した姿かたちをしている。生死のカテゴリーから外れ、「生きながらに死んでいる」のは『ザ・ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』だし、機械と生命を融合させるだけでなく、内臓を外部化したH.R.ギーガーをモデルにしたのが『エイリアン』になる。

そして、モンスターに遭遇したキャラクターの様子には、「恐怖」と「嫌悪」の両方が描かれている。危険であり恐怖心を掻き立てるばかりか、鳥肌が立ちぞっとさせ、なんとか肉体的接触を避けようとする。キャラクターは、恐れ(fear)に加えて嫌悪感(loathing)をもち、恐怖(terror)と嫌悪(disgust)の両方をもって、モンスターを見ることになるのだ。

モンスターはいないのに、なぜ怖いのか

お化けなんてないし、お化けなんてウソだ。寝ぼけた人が見まちがえただけだろうし、金縛りも科学的に説明できる。

しかし、わたしがホラー作品を見たり読んだりするとき、その反応は「恐怖」に他ならない。全身の感覚が鋭くなると同時に、寒気と震えが止まらなくなる。ふと腕を見やると、うぶ毛が逆立っている。一種の戦闘態勢になっているのだろう。良質のホラーであればあるほど、この傾向が強くなる。

いない存在なのに、なぜ怖いのか。

これは「フィクションのパラドックス」と呼ばれている。

ホラーに限らず、フィクションが感情を喚起するのはなぜか?という問いが成り立つ。例えば「リア王のために嘆くのはいかにして可能か」とか「オイディプスの運命はどうして哀れみと恐怖を引き出すのか」「カフカ『審判』のKにイラっとするのはなぜか」といった問いだ。

本書は、アリストテレスからケンダル・ウォルトンまで、様々な主張を渉猟しながら、この謎に迫る。

最も単純な回答は、「それが人の本性だ」という考え方だ。私たちは現実として、不幸に見舞われた人のために嘆き、不正には憤慨する。他人のために怒ったり悲しんだりできるのが人なんだから、それがリアルかフィクションかは関係ない、という考えだ。

でもそれ、おかしくないだろうか?

例えば、「貧しい生活をしている子どもがいる」というニュースに同情した後、それは嘘だったことが分かると、フェイクニュースに憤慨すると同時に、同情心は消える。一方で、『フランダースの犬』はストーリーなのに、ラストで泣いてしまう。どちらも「でっちあげ話」としては同じなのに。

錯覚説:フィクションと現実を混同する

ここから、「現実だと信じること」が、感情を引き起こしているのではないか?という仮説が成り立つ。

つまり、映画や小説が真に迫るあまり、モンスターや宇宙人が本当にいると信じ込み、それに恐怖する考え方だ。フィクションを現実のものと錯覚してしまうことから「錯覚説」と呼ばれている。この説では、作品に没入している間だけ「モンスターを信じない」ことを止める。「不信の自発的一時停止」として、サミュエル・コールリッジが唱えている。

フィクションが信念に与える影響は否定できない。物語を聞かされた人に呪いが”伝染”する小野不由美『残穢(ざんえ)』を読むと、その本を所持していることすら気味悪くなってくるし、映画なんて見ちゃうと、寝る前に電気を消すときヒヤリとする。「フィクションと現実の区別が付かない」という人は、まさにこれだろう。

しかし、著者は錯覚説に疑義を挟む。もし本当に恐怖を感じているのなら、おとなしくページをめくったりシートに座って映画を見ていることなんてしないだろう。現実でモンスターと出会ったならば、危険だと感じて逃げようとする。本を放り出すか、映画館から出ていくはずだ。

さらに、本当に怖いのであれば、「なぜわざわざホラーを見るのか」への回答ができなくなる。ホラーというジャンルを選択する人がいるのは事実だが、そこで味わうのが本当の恐怖なら、わざわざ逃げ出すようなものを選ぶはずがない。

「フィクションを現実だと信じる」この前提を貫こうとすると、「フィクションから導かれる感情」に疑いが出てくる。ホラーを見る時のこの「恐怖」は、本物なのだろうか。

ごっこ説:フィクションを怖がるフリをしている

ひょっとすると、わたしたちが「怖い」と思っているこの感情は偽物なのではないか?

この疑問から、「ごっこ説」が浮かび上がる。

つまりこうだ、どんなに怖くても、モンスターが「いない」ことは分かっているし、映画館から逃げ出したりもしない。それは本当に「怖い」のではなく「怖がっているフリ」をしているだけなのだ。

この考え方は、ケンダル・ウォルトンが有名だ(※1)。映画や小説で味わう「恐怖」は、いわばカッコ付きの偽物であり、登場するモンスターは、ごっこ遊び(Make-Believe)の小道具のようなものだという。

この説の裏付けとして、ウォルトンは様相的修飾を付与しない習慣を提示する。

「様相的修飾」って何ぞや?

これは例を挙げたほうが早い。小説や物語では、出来事を記述す際、 1-1. が用いられる。わざわざ「フィクションの中で」なんて言わないのが普通だ。

1-1. トム・ソーヤはツリーハウスに住んでいた
1-2. フィクションの中で、トム・ソーヤはツリーハウスに住んでいた

だが、誰かの信念としての文脈で語るとき、わたしたちは 2-2. を使う。

2-1. 教皇はアイルランド人である
2-2. ジャックの信じるところでは、教皇はアイルランド人である

伝える内容がどんな位置づけなのかを示すために、「フィクションの中では~」とか「ジャックが信じるところでは~」といった修飾子を付ける。これを様相的修飾と呼んでいる。

そして、ウォルトンによると、様相的修飾子を付けないのは、フィクションの中だけだという。わざわざ書かなくったって、フィクションだと分かっていれば不要だろうに……と思うのだが、実はそうでないという。フィクションの中で、わざわざ「これはフィクションだ」と言わないのは、フリをし続けるために必要なのだ。もし言及したら、ごっこ遊びが台無しになってしまう。

なるほど……ドロケイするとき、「僕は警察だ」と言うのが自然で「僕は警察の役をする」とは言わない。おままごとをする子どもは「これはケーキ」と言うのであって「これはケーキのつもり」とは言わない。

ごっこ遊びの世界の中では、それがフィクションであることを明示しない。同様に、いったんホラーを見始めたら、それがフィクションであることを意識せず、その世界の中でホラーを感じるフリをするというのだ(※2)

この発想は興味深い。以前に聴講した話にもつながってくる(※3)
。「フィクション」という言葉には、空想上とかウソという印象が付いてまわるが、フィクションだって現実の一部だ。フィクションによって形作られたイメージ……ゾンビが徘徊するアポカリプスとか、生き血を求めて夜な夜な徘徊するヴァンパイアは、「現実」として存在する。この「現実」とは、「現実に存在する」という意味ではなく、そうしたフィクションが、映画や本、ゲームといった形で現実に存在し、わたしたちはそうした作品を通じてイメージを共有している、という意味だ。

詳細は [東大シンポジウム「現代フィクションの可能性」] にまとめたが、こうしたフィクションが作る現実は、「共有された遊戯的偽装」として定義されている。ホラーというジャンルそのものが、共有された遊戯的偽装になるのかもしれない。

わたしたちは、ホラーという共有された遊戯的偽装の中で、怖い「フリ」をしたり、怖がる「ごっこ遊び」をしているのだ。

思考説:心に浮かんだものに怖がる

いやいや、「怖い」って!

ホラー映画を見ているときの「あの」気分は、ごっこでもフリでもないでしょ!キャロルは反論する。それに、フリであるならば、「怖い」を止めて別の感情にもできるはずだ。怖くてたまらない気持ちを抑えられないのであれば、それはフリじゃない。

錯覚説・ごっこ説が行き詰まるのは、「フィクションを怖がる」という事実に対し、アプローチが違っているのではないか?キャロルは、2つの説に共通する前提に目を向ける。

その前提とは、「対象を現実だと信じるとき、本当の恐怖が引き出される」ことだ。前者の「対象を現実だと信じる」ことを優先し、不信感を一時停止するのが錯覚説になる。一方、ごっこ説は、前者を是として後者の「本当の恐怖」を否定する。

だがキャロルは、この前提に疑いをはさむ。対象が現実だという信念が無くても、本物の恐怖が引き出されるのではないかと主張する。心に浮かんだことが現実にあるか否かはともかく、その思考内容そのものが感情を誘発するのだという。

例えば、断崖絶壁の上に立っているとする。このとき、「落ちる」という考えが頭をよぎり、ヒヤっとすることはないだろうか。もちろん、足場はしっかりしているし、後ろから押してくる人もいない。自分で飛び降りる意思もないから、落ちる可能性はない。それでも、崖から真っ逆さまに「落ちる」という思考に怯え、身体が震え、足がすくんでしまうかもしれない。落ちるという出来事ではなく、落ちる思考内容が、感情を引き出しているのだ。

キャロルは、「信念」と「思考」を厳密に分けている。日曜日に「今日は日曜日だ」と言うことは信念に基づいているし、”Today is Monday” を日本語に訳して「今日は月曜日だ」というのは思考に基づいている。現実では日曜だけど、「今日は月曜日だ」と言ったり考えたりすることは可能なのだ。

この考えは説得力がある。現実に起きうるのか、それが本当かどうかは置いておいて、伝えられたお話を心の中に思い浮かべることができる。文学・心理学用語だと、メンタルスペースと呼ばれる領域だ。この領域で、自身の知識や経験と照らし合わせながら、「何が伝えられているのか」を理解する。この認知の中で、感情が呼び起こされることは、十分にありうる。

ちなみに、メンタルスペースで見つけたエラー補正はユーモア(※4)
やアイロニー(※5)
としておかしみを生み出すが、これは「フィクションを面白いと思うのはなぜか」の話になり本論から外れるため、別所で語る(ユーモアの報酬システムアイロニーはなぜ伝わるのか)。

錯覚説、ごっこ説、思考説のうちで、思考説が有力に見える。だが、思考説で全てを語ろうとする著者に辟易する。キャロルは、思考説を支持するあまり、他を退けようと攻撃する。哲学者の悪い癖だと思う。

わたしたちがフィクションを味わうとき、ただ一つのメカニズムによって感情が生じるのではなく、様々なルートによって感情が誘発されるのではないだろうか?

例えば、怖がるフリをしているうちに本当に怖くなったり、物語が終わってもそれが本当に感じられることはよくある。それも、恐怖だけではなく、怒りや悲しみ、喜びといった他の感情も同様だ。

感情とは何か

感情について考えるとき、進化心理学からのアプローチの方が良いように見える。この観点から見ると、感情とは、より適切に世界を認知するしくみに付けられたラベルだと考えることができる。

こう考えることはできないだろうか。もともと外敵の危険性を素早く判断し、それに応じて逃げる/戦う身体態勢を整えるしくみが、後に「恐怖」とラべリグされるようになった。糖分や栄養を含んだ食物を得て、もっと取り込もうと求める衝動は、「喜び」という言葉を与えられた。あるいは、家族や友人といった親しい存在の不在を和らげるためのしくみの一部が、後に「悲しみ」と呼ばれるようになった。

この考え方は、「味覚」をメタファーとすると、より説明しやすい。口に含んだものが腐敗していたり毒がある場合に感じるものが、後に「酸っぱい」や「苦い」と呼ばれるようになった。果物やアミノ酸をたっぷり含んだ食べ物は、「甘い」「旨い」というラベルが貼られるようになるのだ。

「苦いから吐き出す」「甘いから沢山食べる」など、特定の行動を引き起こす動機を評価するときに付けられるラベルが、後に味覚を表す言葉になる。もちろん、食文化が発達し、苦味や酸味も美味しさのアクセントの一つとして評価されるようになった。だが、元々は、適応的な行動であるかを判別するための言葉なのだ。

「怖い」「嬉しい」「悲しい」といった感情を評価するための言葉も同様だ。ある身体反応の仕組みについて、それが適応的かどうかを判断するためにカテゴライズしてみる。そうしたカテゴリに付けられたラベルが感情なのだ。

怖いと分かっているのに、ホラーを読む理由

本書の後半では、もう一つの謎「怖いと分かっているのにホラーを読む理由」に取り組んでいる。

「ホラーが好きだから」という人や、「怖いのが楽しい」という理由が浮かぶ。人それぞれと言ってしまえばそれまでだ。だが、ホラー映画を見たり小説を読むと、怖いだけでなく、気分が悪くなったり、終わった後も夢に出たりトラウマになることがある(わたしにとっての『エイリアン』がそうだ)。

本書では、多くの物語に見られるサスペンスの構造からアプローチする。

ストーリーの前半に起きた出来事やシーンによって、鑑賞者に疑問が生じる。その疑問はストーリーの進行により解決されていくが、そこからさらなる疑問を生み出していく。疑問・解決の構造が連続することにより、「次はどうなるのだろうか?」という期待が次々と満たされていく。

例えば、不気味な影が現れたら「それは何だろう?」と疑問に思うし、その影がヒロインに襲い掛かったら「彼女はどうなるのだろう?」と知りたくなるはずだ。

そして、疑問が衝撃的であるほど、解決への糸口が掴めないほど、先が気になるはずだ。鑑賞者はハラハラしながら続きを読んでいく。サスペンスとは元々はラテン語の suspensus (吊るす)という語を由来とし、気がかりや不安の宙づりの状態になった緊張感を示している。

デイヴィッド・ヒュームは『悲劇について』の中で、ストーリーから得られる快楽について最も重要な要素は「遅延」だと述べている。

もしかりに、ある人にあることがらを話してその人の心を非常に動かそうという意図をもったならば、その効果を増す最善の方法は、それを彼に知らせることを巧妙に遅らせ、まず彼に秘密をもらす前に、彼の好奇心と辛抱をかきたてることであろう。

つまり、物語が提示する謎が解かれることへの「予期」が、先を知りたいと思わせ、その解決が引き伸ばされ、遅延すればするほど、解決したときの喜びは大きくなる。

不気味な影の正体はなかなか掴めないだろうし、(鑑賞者だけは分かっても)主人公は気づかないかもしれない(そして鑑賞者はイライラするはずだ)。さらに、たとえ正体が分かったとしても、「どうやって倒すのだろう?」という謎は残り続ける(おそらく、物語のラストまで)。影との対決がクライマックスになるのは、こういう理由なのだ。

ホラーの物語構造の中心にモンスターがいる

この「謎」を提供するのが、ホラーにおけるモンスターになる。

這い寄る混沌であれ、歩く死人であれ、科学的に説明できない存在であり、それゆえに問題を引き起こし、物語を駆動する謎として振る舞い、解決すべきターゲットとなる―――それがモンスターだ。

最初は正体不明の存在で、「あれは何だろう?」と鑑賞者の好奇心を刺激する。その姿が異様で、おどろおどろしいほど、より一層知りたくなるだろう。ホラーに登場するモンスターの姿に危険や不浄のイメージが付きまとい、嫌悪感を掻き立てるのは、こうした理由による。

物語の最初のうち、モンスターの存在は、鑑賞者にしか分からない。犠牲となった人はたいてい死んでいるので、他の登場人物には伝わらない。次の疑問は「いつ気づくのだろう?」になるし、主人公が襲われるシーンでは「どうやって切り抜けるのだろう?」になる。モンスターの存在が分かるにつれて、「弱点はあるのか」「皆は助かるのか」という疑問に変化する。モンスターが引き起こす謎を次々と解決し、最終的に決着を付けるのが、ホラーの構造になる。

現実だとこうはいかない。正体不明の殺人鬼は、結局正体不明のままだろうし、助からなかったヒロインは何年も経過して白骨となって発見される。現実は、上映時間内に解決してくれる謎を提供したりはしない。わたしたちは安全な場所で、「疑問→解決」を楽しむことができるのだ。

ホラーにモンスターは必須か?

本書は、ホラーのパラドックスを解き明かすために、「ホラーにモンスターは必須」という説を主張する。

確かにこれが当てはまる点もあるのだが、首をかしげたくなるところもある。ホラーの定義を「科学では説明できないモンスター」に帰してしまったため、そこから漏れ落ちる「恐ろしい作品」が説明できなくなってしまっている。

例えば、サイコホラーと呼ばれるジャンルだ。

血が飛び散ったり、大きな音量で驚かすホラーではなく、心理的にジワジワと脅かし、不安な気分にさせるホラーだ。物語構造の「謎」を提供する存在は、ゾンビや吸血鬼ではなく、「人」になる。ただしそれは外見だけで、その人物の内面は、モンスターそのものといっていい。例えばヒッチコックの『サイコ』に登場するノーマンは、一見普通の青年だが、やってることは完全にモンスターである。

本書の定義によると、サイコホラーはホラーでなくなってしまう。だが著者は、異形のモンスターに拘るあまり、『サイコ』はホラーでないと断定してしまう。そして、苦し紛れに『サイコ』がホラーに見えるのは、自説のホラー理論によって説明できると語りだす。

超常現象なら、もはや古典と言うべきジェイコブズ『猿の手』なんてどうだろうか。「どんな願いでも3つかなえてくれる」というお守りを手にした夫婦を見舞った出来事を描いた短編だが、どう見てもホラーだ。

だが『猿の手』もホラーではないという。確かにゾッとする話だが、嫌悪感を引き起こす異形の存在、すなわちモンスターが不在だからだという(物語の終盤でドアを叩くアレは、モンスターといっていいと思うが……)。そしてこれをテイルズ・オブ・ドレッド、「不安の物語」と名づける。

著者のこだわりは、数々のホラー作品を、「ホラーでない」としてしまう。

年に一度の狂気に支えられた日常を描いたシャーリィ・ジャクスン『くじ』や、ゴシック・ホラーの傑作ポー『アッシャー家の崩壊』、子どもが大人を殺しまくるスティーブン・キング『トウモロコシ畑の子供たち』、大人が子どもを殺しまくる永井豪『ススムちゃん大ショック』は、すべてホラーでないことになる。

狂犬病に感染したセントバーナードが人を殺しまくるスティーブン・キング『クージョ』も、ホラーの構造とレトリックに満ちている。それにもかかわらず、「狂犬病」という科学的な説明がつくことから、ホラーでないと断定する。

「異形のモンスターが出てこないとホラーではない」という理屈は、現実のホラー作品と照らし合わせると合わない。それこそ、『13日の金曜日』はホラーじゃないことになってしまう。

「ん?あのホッケーマスクを被ったジェイソンはモンスターでしょ?何度も蘇り、襲ってくるから」というツッコミはその通り。だが、それはパート2以降の話だ。最初の殺人鬼が誰だったかを思い出して欲しい。

ホラーは快楽を引き起こす

もう一つ。「なぜホラーを読むのか」という問いに対し、サスペンスや解答の遅延といった物語構造からの説明は、確かに説得力がある。

だが、それに加えて、適応的なアプローチもできないだろうか。

つまりこうだ、「恐怖」を生物学的適応という観点から捉えなおす。猛獣を「怖い」と感じなかったら、私たちは生き残ってはいなかった。ちょうど、腐った食べ物を「苦い」と感じなかったら、生き残っていなかったように。

そして「怖い」と感じる時、逃げる/戦うために、心拍数が増大し、アドレナリンが分泌されるはずだ。恐怖を引き起こす存在がもたらす苦痛に備えて、予め快楽物質(ドーパミン等)が放出されるかもしれない。

もちろん現代では、生命を脅かす猛獣はおらず、安全に暮らすことができる。だが、危険に対応してきた身体システムはそう簡単には変わらない。この身体システムを逆手に取った娯楽がホラーになる、と考えることはできないだろうか。身体を騙すことで安全に怖がることができる。

味覚に喩えるなら、「甘い」と感じる食べ物を欲するのと同じ構造になる。生命維持にとって重要な糖分を多く含む「甘い」食べ物は、より多く摂取しようとする(そして身体は積極的に溜め込もうとする)。これは、飢餓を生き延びるための適応的な習慣だといえる。現代ではめったに飢えることはないが、適応的な身体システムはそう簡単に変わらない。甘いスイーツが報酬であるように、恐怖の報酬は快楽だというわけなのだ。

古今東西のホラー作品をダシにして、「恐怖」を分析することで、人間がより見えてくる。哲学者と格闘できる一冊。

以下関連記事。

※1 『フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術』(ケンダル・ウォルトン、名古屋大学出版会、2016)
※2 『分析美学基本論文集』所収「フィクションを怖がる(Fearing Fictions)(ケンダル・ウォルトン、1978)
※3 『なぜフィクションか? ごっこ遊びからバーチャルリアリティまで』(ジャン=マリー・シェフェール、慶應義塾大学出版会、2019)
※4 『ヒトはなぜ笑うのか』(ハーレー、アダムズ、デネット、勁草書房、2015)
※5 『アイロニーはなぜ伝わるのか?』(木原善彦、光文社、2020)








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世界は「におい」に満ちている『香原さんのふぇちのーと』

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「におい」は言葉より強い。どんな意志より説得力をもち、感情や記憶を直接ゆさぶる。

人は「におい」から逃れられない。目を閉じることはできる。耳をふさぐこともできる。だが、呼吸とともにある「におい」は、拒むことができない。「におい」はそのまま体内に取り込まれ、胸に問いかけ、即座に決まる。好悪、欲情、嫌悪、愛憎が、頭で考える前に決まっている。

「におい」は、主観で決まる。よい匂いなのか、ひどい臭いなのか分かるのは自分しかいない。たとえば、女子高生のわきから漂う「汗のニオイ」だと悪いイメージだが、「かぐわしいフェロモン」だと身を乗り出したくなる。

そういう微細なアロマを嗅ぎ分け、スパイシーなのか粉っぽいのか、べっとり鼻孔に付くのか抜け感があるのか、甘み・酸味・青味・深み、香ばしさを観測し、秘密のノートに記録する―――それが主人公・香原理々香である。どう見ても変態ですありがとうございます。

彼女は、女子高生という立場を利用して、クラスメイトのさまざまな匂いを嗅ぐ。

たとえば、汗っかきの陸上部の子がわきを拭いたタオルにしみ込んだ汗においや、ローファーで蒸されハイソックスに包まれた足のにおい、あるいは、スパッツを少しずらしたお尻の隙間から漂うひんやりしたにおいである。

でも、ちょっと待って、いくら女子高生だからといって、そんなに気軽に嗅げるものだろうか? 足とかお尻の匂いなんて、普通はお金を払うものじゃないの?

その通りである。陰キャで親しい友だちもいない彼女は、「におい嗅がせて」なんて言ったらドン引かれるに違いない。

だからこそ緻密な計画を立て、工夫を凝らし、時には策を計り、涙ぐましい努力を積み重ね、さらには時の運により、ふくいくたる香気に身をゆだねる(そのごほうびシーンが感動的ですらある)。どう見ても変態ですありがとうございます。

面白いのは、「におい」をマンガでどう表現するかにある。においは主観そのものであり、視覚表現であるマンガでは、普通に無理だろう。紙は紙のにおいしかしないし、スマホで見ている人には何のにおいもしない。

見てもらったほうが早い。

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『香原さんのふぇちのーと』2行目より

これは、香原さんが足裏のにおいを嗅いでいるシーンである。

もちろん香原さんの心象風景である。彼女の脳内では、メリーゴーランドに乗っているポニテの女の子がいて、その子のバスケットから飛び出したポップコーンシャワーを浴びている。

季節は梅雨、湿度の高い教室とローファーで蒸された綿とポリエステルの靴下の素材の香りをベースに、足の指のすきまに潜む温かい脂の甘み、(なめたら)塩気を感じる予感が、さながらポップコーンシャワーのように鼻孔をくすぐっていたにちがいない。

においの表現そのものではなく、それを感じ取った内面を比喩的な絵で表現する。極上のワインを飲んだ瞬間、森の奥に古城が見えたり、おいしさが全身を駆け巡るあまり全裸になったりする、『神の雫』や『食戟のソーマ』が思い浮かぶ。読者の視覚そのものに訴えることができる。

女子高生の蒸れた足裏の匂いを、「ポップコーン」として感じる香原さん。この人は信用できる

脱ぎたての足で踏んでもらうなんて、お金を払ってもそうそうできるものではない。どういういきさつでそうなるのかは、ご自身の目で確かめてほしい。ここでは、努力と根性と時の運とだけ申し添えておく。お試しは [香原さんのふぇちのーと] にある。

これから彼女は、「80デニールのパンスト越しのひかがみの匂い」とか「耳の裏の脂ギッシュな匂い」とか「にわか雨に降られたての頭頂から立ち昇るパウダー臭」、あるいは「鎖骨のくぼみに溜まる乳白色の香り」や「ありがとう水(スク水の股間から垂直にポタポタ落ちる水)のハイター風味」などに挑戦していくに違いない。

その探求に期待するとともに、香原さん自身から漂うラクトンの匂いに気づく日もあるかもしれないと思うと、感無量になる。ラクトンとは、若い女性に特有の甘い匂いで、バニラとバターに微量の生姜を足したような香りである [再現レシピ]

ちなみにドラッグストアで売ってるので、わたしのようなおっさんでも、匂いだけは女子高生になれる(実験レポート:[女の子の匂いを身につける])。以来ずっと手放せず、お風呂に入るたび、匂いだけ女の子に変態している。

一つ心配なのは、彼女の行く末だ。香原さん、匂いフェチがばれるのを極端に怖れているが、それよりも、悪用しないかが心配である。冒頭でも触れたように、人は「におい」から逃れられない。そのまま身体に入ってきて、感情に訴えかけ、記憶を揺さぶる(プルースト効果)。

言い方を変えるなら、においで人を支配することができる。声や文字は耳を塞ぎ目をそらせばよいが、人は呼吸を止めることができない。「におい」を操り、においで人を支配しようとした男の物語として、『香水 ある人殺しの物語』がある。18世紀フランスの、「匂い」の達人の物語なのだが、これもお薦め。

よい匂いで、よい人生を。



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この本がスゴい!2022

「いつか読もう」はいつまでも読まない。

「あとで読む」は後で読まない。

積読をこじらせ、「積読も読書のうち」と開き直るのも虚しい。人生は有限であり、本が読める時間は、残りの人生よりもっと少ない。「いつか」「そのうち」と言ってるうちに人生が暮れる。

だから「いま」読む。

10分でいい、1ページだっていい。できないなら、「そういう出会いだった」というだけだ。「いま」読まないなら、「いつか」「そのうち」もない。

本に限らず情報が多すぎるとか、まとまった時間が取れないとか、疲れて集中できないとごまかすのは止めろ。新刊を「新しい」というだけの理由で読むな。積読は悪ではないが、自分への嘘であることを自覚せよ。「いま」読むためにどうしたらいいか考えろ。「本」にこだわらず読まずに済む方法(レジュメ、論文、Audible)を探せ。難解&長大なら分割してルーティン化しろ。こちとら遊びで読書してるんだから、仕事じゃないんだから、もっと真剣にやれ―――そう言い聞かせ、2021年12月~2022年11月に読んだ中で、「これは!」というスゴ本を選んだ。

独力では出会えなかった一冊、誰かの呟きで出会えた一冊、読書記録のおかげで完読できた一冊、読書会の課題だから読めた一冊、「それが好きならこれはどう?」とお薦めされた一冊―――ありがとうございます、わたしが知らないスゴ本を読んでいる「あなた」のおかげ。

これほど豊穣で濃密な時間を過ごし、深く鋭く穿つ見識を手に入れ、井戸の中からジャンプして、空の青さを知る人になれたのは、「あなた」のおかげ。だからこのリストが、あなたの選書の手助けとなれば嬉しい。そして、あなたのお薦めを伝えてくれると、もっと嬉しい。



ふらり旅に出たくなる
『ぱらのま』kashmir

きれいなお姉さんが、ぼっち旅を楽しむマンガ。

いわゆる名所探訪はせず、行き先もアドリブで変えたりする無計画な計画だ。お姉さん(名前がない)は一人旅の達人だ。日本全国の地理や交通機関に造詣が深く、電車やバスを乗り継いで、街歩き・温泉めぐり・食べ歩きにいそしんでいる。

ソロ・ブラタモリ的なご当地ウンチクも楽しく、読めば間違いなく旅に出たくなるけど、「旅」と構えなくてもいいのが良い。

例えば、いつもの駅の手前で降りて、気になる路地を散策してもいい。商店街で買ったコロッケを食み食みふらふらする(不審者と間違えられないように)。ビルの裏手にびっしりと絡みつく配管を眺めたり、Googleマップ片手に「どこかで見た坂」を探すのも楽しい。

お姉さんの行く先を、Googleマップで追いかける、という遊び方もできる。どういう路線でどこを経由しているのか教えてくれるので、それをシミュレートするのだ。駅を降りたらストリートビューで後を追う。まるでお姉さんと一緒に散策するようで、密かに「バーチャルストーキング」と呼んでいる。

バーチャルストーキングで凄かったのが飛騨金山の筋骨めぐり。街中を流れる清流や通路の上に、民家の増築部が立ち並び、細い路地が迷路のように絡み合っている。昭和のレトロな看板、かがまないと通れない公道、ずっと耳につく川のせせらぎ……方向感覚を見失い、いい意味で悪い夢をみているような場所だという。

2022_

ぱらのま 5巻 Line21. より

Googleマップだと360度写真でしか見ることができないが、それでも十分堪能できる。日本路地選手権をしたら、キング・オブ・路地かもしれぬ。

ソレドコの「ご当地マンガ」シリーズで、『ぱらのま』をダシにして「東京のそこらじゅうにある短い坂を愛でる」という記事を寄稿したので、あわせてどうぞ。

twitter で作者さんが「飛騨金山を上回る狭小湾曲高低差のカオス空間」と呟いていたので、次にお姉さんが行くのは呉やな。

『ぱらのま』はいいぞ。
『ぱらのま』はいいぞ。

 

 

寝る前の眠れなくなるボルヘス
『記憶の図書館』ホルヘ・ルイス・ボルヘス

寝るまえ、すこーしずつ読み進めていったんだけど、幸せなひとときが何夜も続いた。

ラジオ対談の連続番組をまとめたものだ。ポー、ワイルド、カフカ、メルヴィル、ダンテなど、偏愛する作家への想いや、創作のインスピレーションの源泉、一つの挿話をどう育てるかといった指南など、汲めども尽きない118の対話を一冊に集成している。

ラジオ番組なので、話の転がっていく先が突拍子もなくて面白い。

たとえば、ポーの最高傑作として『アーサー・ゴードン・ピム』を挙げて、そこに登場する「白を怖がる人々」から、メルヴィルがこれを読んでいたはずだという。そして、『白鯨』のクジラがなぜ白色だったか、という話につながる。

さらに「白」という言葉そのものに注意を向ける。白は、ロマンス語圏でどう言われているかを次々と挙げる。

フランス語ではブラン(blanc)
ポルトガル語ではブランコ(branco)
イタリア語ではビアンコ(bianco)
スペイン語ではブランコ(blanco)
英語でブラック(black)

black は「黒」だから、意味と音が真逆になっている!?ボルヘス曰く、これらは元々同じ意味、すなわち「色が無いこと」を示すらしい。色が無いことが、影の方に転んで、ブラックが黒になったのが英語になる。一方で、光の方、澄明さに転んだのが、ロマンス諸語になるというのだ。

あるいは、ボルヘスの記憶から紡がれる、名言・至言・箴言が楽しい。特に好きなのは、記憶にまつわるこれ。

おそらく未来は取り消しがきかないものです。しかし過去は違います。過去は思い出すたびに―――記憶の貧しさや豊かさのおかげで―――望みのままに、どこかしら修正されますから。

記憶は嘘をつくでしょうけれども、その嘘もすでに記憶の一部であって、わたしたちの一部なのです。

多くの本は各々のページではなく、その本が残す記憶のために書かれます。

寝る前に2~3編のつもりが、つい読みふけって夜更かししてしまう。眠れなくなる一冊でもある。

書評全文:寝る前の眠れなくなるボルヘス『記憶の図書館』

 

 

読み始めたら徹夜を覚悟する
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』アンディ・ウィアー

読み始めたら最後、徹夜を覚悟する。あまりの面白さに、結末まで何も手につかなくなることを請け合う(私がそうだった)。

サイエンス・フィクションの「フィクション」に当たる嘘は2つだけ。あとは科学的に徹底的に考え抜かれ、エンターテインメントに全振りされた小説だ。最新の科学ネタが満載で、これまでのSF小説や映画のいちばん美味しいところが詰め込まれている。

予備知識ゼロで(帯やamazonの紹介文すら読まずに)読むほうがよいので、あらすじには触れない。その代わり、「ヘイル・メアリー号」を紹介しよう。きっと、この作品がどれほど考え抜かれているかが伝わるだろう。

「ヘイル・メアリー号」は船の名だ。宇宙船にしては奇妙な形をしているが、合理的な構造だ。もし、このような状況になれば、人類はきっと、この形の宇宙船を作るに違いない。

以下に、ヘイル・メアリー号のロケット図①②を引用する。

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左の図①を見てほしい。

いわゆる「ロケット」としてお馴染みの形をしている。下半分が燃料タンクでエンジンを駆動すると、推進力がかかり、下の方に人工的な重力が生じることになる。図では「推進モード」と説明されている。

面白いのは、図②だ。

ロケットの上半分が分離して、クルリと反転する。下半分とはケーブルでつながれており、互いにぐるぐる回ることで、遠心力により、人工重力が生じる。

なぜこんな構造なのか?

それは、行った先で「重力」が必要だからだ。

なぜ重力が必要なのか?そもそも宇宙を旅する船なのだから、全て無重力で動作が完結するように、全ての装置を開発すればいい。

ダメだ。単純に、「行く」だけではなく、そこで様々な調査や実験を行う必要がある。調査や実験をする装置や機材は、十分な実績があり、間違いなく動作する必要がある。

そうした、いわば「枯れた技術」が使われてきたのは、地球上、1Gの環境になる。

もちろん、無重力でも動くよう、実験設備を開発するプランもあった。だが、開発には時間がかかり、それだと間に合わない。さらに、無重力でも動く「かもしれない」というリスクに掛けるくらいなら、最初から回避しておいたほうがよい。

あるいは、行先の近辺に星があり、その重力を利用できるかもしれない。だが、そうした星を確認できる距離ではない(目的地は、うんと遠いところだ)。そんな不確かな期待に掛けるわけにはいかない。

限られた時間で、合理的な決断をした結果、ヘイル・メアリー号はこのような構造となっている。迫りくる危機から導かれた必然だが、この構造だからこそ成し遂げたことは、科学的運命と言ってもいい。

もちろん、この物語の主人公は、最初に目が覚め、記憶を失った男である。だが、私はヘイル・メアリー号と、これを飛ばすためのプロジェクトそのものにも、強く惹かれる。男がまきこまれる運命は偶然かもしれない。だが、ヘイル・メアリー号は人類の必然になる。

人類は、その気になれば、なんでもできる。

書評全文:徹夜小説『プロジェクト・ヘイル・メアリー』

 

 

伊坂幸太郎が選んだ極上の短編小説集
『小説の惑星』オーシャンラズベリー篇ノーザンブルーベリー篇

面白い小説が読みたい? じゃぁこれ。

いまの時代、面白いアニメやゲーム、映画が沢山ある。しかも、Amazonやネトフリでいくらでも楽しめる。じゃぁ、どうして小説を読むの?

その答えが、この2冊だ。小説の面白さを語るより、まずはこれを読んで欲しい。これを読んでダメなら仕方がない……という最強ばかりを集めたという。

結論から言うと、看板に偽りなし、珠玉の作品ばかりなり。

嫌悪感を抱きつつ、こいつ酷い目に遭えばいいのに……と思ってたらナナメ上の展開で吹き出してしまったり、まんま『はたらく細胞BLACK』やんけと思ったら、こっちが本家なことに気づいたり、ダブルプロットにしては変な構成だなぁと不思議だったのが、全てがカチっと噛み合う怖ろしいほど美しいラストに化けたりと、読む悦びに浸りまくった。

本書が良いのは、理由が書いてあるところ。数ある中から、なぜその作品なのか、どんな思い入れがあるのかが、あとがきにまとめられており、それが読みどころとなっている。

たとえば、中島敦「悟浄歎異」。

中島敦なら、「山月記」か「名人伝」じゃね? と思うのだが、西遊記の沙悟浄の手記という、いっぷう変わった作品を出してくる。しかもこれ、前・後編の後編になる(前編は「悟浄出世」)。普通こうした場合、前編が採用されるのだが、なぜ後編なのか?

謎があとがきで明かされると、そこを再読したくなる。その理由が、とても繊細で、ちょっと「かわいい」と思ってしまう。でも分かるわーという気持ちになる。

あるいは、大江健三郎「人間の羊」

主人公が酷い目に遭うのだけれど、なんとかして彼を助けてあげたい、そして加害者を懲らしめてやりたい、と憤りながら読み進める。すると、読み手である私の感情にシンクロする展開になるんだけれど、その展開が私を追い越してしまい、「私の憤り」を背後から眺めることになる。

私の中から「怒り」という感情を取り出して、「ほら、これだよ」と見せてみせる。その手さばきが鮮やかすぎて、私は直視できない。でも、その気まずさ、居心地の悪さこそが、この作品が選ばれた理由になる。

小説を読む悦びを、言葉で語るのは難しい。だから、直接味わってしまおうという試みだ。わたしからもぜひお薦めしたい。小説の喜びは、実際に読んで確かめてみてほしい

書評全文:伊坂幸太郎が薦める極上の短編小説19選『小説の惑星』

 

 

物理学が全てを語るには早すぎる
『時間の終わりまで』ブライアン・グリーン

新卒が「一生やりたい仕事が見つかった」というのは、離乳食が終わったばかりの2歳児の「カレーの王子様は世界で一番おいしい食べ物である」と同じぐらい説得力がない

本人が真顔であるほど、微笑ましい。自分の知る狭い世界でもって、それが全てであると言い切る、早すぎる一般化である。新しい仕事やカレーマルシェに出会って、世界が拡張されることを願う。

物理学で宇宙を全て語れると断言する本書を読んでいると、同じ可笑しみを抱くようになった。

原子や中性子、クォークなど、どんなに小さいモデルを考えても、それだけでは説明しきれず、これまでの研究と矛盾する現象が生じる。より巨大な望遠鏡を作り出し、宇宙の果てまで見渡そうとしても、私たちが知る宇宙とは、光が届く範囲でしか観測できない。それは、宇宙の一部分に過ぎない。

にもかかわらず、宇宙の全てがそうなっていると結論づけるのは、早すぎる一般化ではなかろうか。

そんな疑問を抱えながら、素粒子物理学の第一人者ブライアン・グリーンの著書を読み進める。

自然科学における素粒子や原子、分子といったミクロな観点から、ブラックホールや銀河、宇宙全体までを一気通貫で説明する。その旅路の中で、生命誕生における遺伝子や進化といった生命科学、心や自由意思、芸術や宗教といった人文科学にも目くばせしつつ、壮大なスケールで語り上げる。

特に興味深いのは、「分子ダーウィニズム」と呼ばれる化学的な闘争だ。エントロピーと進化という切り口から、物理学の観点から生命誕生を語る試みである。シュレーディンガー『生命とは何か』のお株を奪う勢いである。物理学全能主義が鼻につくが、これがめちゃくちゃ面白い。

本書のおかげで宇宙を知れば知るほど、ヒトが知る世界がいかに限られているか、分かってくる。

100年の歴史を持ち、数多くの実験により裏付けられた素粒子物理学と、離乳食が終わったばかりの2歳児を比べるのはおかしいかもしれない。だが、その物理学によれば、宇宙の年齢は138億年になるという。138億年に比べると、100歳と2歳の違いに微笑ましくなる。

素粒子物理学の成果は素晴らしい。でも、素粒子物理学が全てだと言うのなら、まだカレーマルシェを知らないだけかもしれぬ。

「いま分かっている範囲で有力な仮説を元に整合的に語るならば」という前提で、最新の宇宙を楽しく知るのにうってつけの一冊。そして、これらがどのように変わるかを見ていくのも楽しみだ。

書評全文:宇宙、生命、心と進化を一気通貫に語る『時間の終わりまで』

 

 

科学は人間にとっての約束事にすぎない
『科学と仮説』ポアンカレ

10進数が一般的なのは、わたしたちの手の指が10本だからだ。

指の数が8本なら8進数だったろうし、四足歩行のままなら20進数かもしれない。〇進数の〇の中にどの数字が入ったとしても、表記が違うだけで、【数としては】同じだ。単に10が人にとって自然に見えるだけである。10進数なら真で、8進数なら偽なんてことはない。

ポアンカレは、ユークリッド幾何学で同じことを考える。

三次元に座標がマッピングされた空間で、個体として運動する生命にとって、最も使い勝手の良い幾何学が、ユークリッド幾何学の空間になる。非ユークリッド幾何学が今の人間に支配的ではないのは、単純に、ユークリッド幾何学のほうが便利だからにすぎない。

ユークリッド幾何学と、非ユークリッド幾何学の、どちらが真かを考えるのは、メートル法とヤードポンド法のどちらが正しいかを議論するようなもので、ナンセンスだという。

人間が空間を認識する上で、三次元で、一様かつ連続的であるといった性質を前提としている。その性質を本質として備えているのがユークリッド幾何学のため、人間に採用されている規約にすぎないのだ。

ただし、人間が意図的に採用したというのであれば、適切ではないだろう。人間が数学を始めるとき、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の2つがあって、どちらにするかを選べたわけではないのだから。

ヒトが存在する環境だとか、ヒトの身体や認知のデザインによって、ほとんど必然的にユークリッド幾何学になったというのが実際のところだろう。

この「人間にとっての規約」を出発点として、幾何学から力学、電磁気学にまで及ぶ幅広い分野に共通する客観性を掘り下げたのが、『科学と仮説』だ。人間がする営みであるにもかかわらず、人間が抱く主観を取り去った「客観」なるものの存在が疑わしくなる。

科学理論とは、ヒトというフィルターで濾された観察の蓄積から作り上げた、人間が把握しやすい約束事に見えてくる。科学とは、自然の真理なんてものではなく、観察結果を上手に説明できたり、再現させる上で使いやすい約束事に過ぎないのだ。

ポアンカレはこれを、偽装された定義と呼ぶ。

例えば、ニュートンの運動法則がある。世界を統べる原理のように扱われてきたが、これは物理現象を統一的に説明するための約束事にほかならない。

あるいは、「エーテル」という媒体は、光の性質を説明するために導入された後、捨てられた。宇宙の質量を説明するために導入された「ダークマター」は、それが本当にあるかどうかはどうでもよく、人が理解できる範囲の理屈に合わせるための約束事なのだ。

「力とは何か」を形而上学で語ろうとすると議論は終わらない。だからいったん、質量と加速度の積だと定義して、そのフィルターで世界を観察しなおすのだ。そこで再現性のあるもの、定義の組み合わせで矛盾なく説明できそうなものを選び取って体系化したものが、その時代の科学になる。科学がトートロジカルに見えるのは、こうしたわけなのだ。

ポアンカレを読んだ後、ブライアン・グリーンの『時間の終わりまで』を振り返ると、より公正な目で見ることができる。素粒子物理学は正しいとか間違っているとかいう話ではない。世界を見るとき、そのフィルターを使うかどうかの利便性の話なのだ。真偽ではなく定義で語る、それが科学の営みになるのかもしれぬ。

書評全文:科学は人間にとっての約束事にすぎない『科学と仮説』

 

 

量子力学の解釈を10個にまとめる
『量子力学の諸解釈』白井仁人

科学理論とは真偽はなく定義を語るものであり、その定義とは人間にとって有用かどうかで定まる。有用性は、過去の理論を含めて包括的に説明でき、可能な限りシンプルであり、機器で数値として測定でき、統計的に再現できるかどうかに左右される。

科学とは真理を探求するのではなく、便利な道具を目指す営みなのだ―――そういう割り切り(開き直り?)が如実に現れているのが、量子力学の解釈になる。

「コペンハーゲン解釈」や「多世界解釈」といった名前は耳にしたことがあるが、実際その中身がどうなっているかは、よく分からない。箱の中の猫といった、喩え話でしか理解できていない。こうした解釈を網羅的にまとめあげ、解説したのが『量子力学の諸解釈』になる。

それぞれの解釈で論文が大量にあるのだから、この一冊で全部を理解するのは難しい。

だが、どういうアプローチで理解しようとしているか、という量子力学の「分かり方」が分かる。文字通り、世界の見方を変える必要があるものから、回答から逃げているもの、量子力学そのものを書き換えるものまで、盛りだくさんだ。人間の想像力(創造力?)の限界を突破している様がよく見える。

量子力学の解釈を大別すると、2つのグループに分かれる。実在主義的な解釈と、経験主義的な解釈だ。

前者は、粒子が実際に存在し、はっきりと軌跡を描いて飛んでいくイメージを元に構成されている。一方で後者は、量子力学の範囲内に限定して説明する方針になる。つまり、量子力学で説明できない観測問題については手を出さない立場になる。

 実在主義的な解釈
  1. 軌跡解釈
  2. 確率過程解釈
  3. アンサンブル解釈(統計解釈)
  4. 交流解釈

 経験主義的な解釈
  5. 多世界解釈
  6. 無矛盾歴史アプローチ
  7. GRW理論
  8. 量子理論・様相解釈
  9.コペンハーゲン解釈
  10.量子ベイズ主義

経験主義的な解釈では、波動関数の収縮といった現象は、「説明しない」「問題としない」という考え方だ。理論というよりも、態度に近い。問題としないのであれば、パラドクスでもなんでもない。特に「コペンハーゲン解釈」は開き直りが顕著だ。

ある意味、潔いというか「科学者として」正しいことを言っている。要するに、実験で立証できないものは、哲学の範疇であって、科学者に求めるのはお門違いという態度だ。こういうセリフもある。

コペンハーゲン解釈を一言で表すなら、「黙って計算しろ!」になる

科学というものは、謎を解くためにあるのではない。現実を観測して再現するための便利なツールに過ぎないのだから、科学に「なぜ」を求めないでくれ、という主張だ。

言いたいことは分かるが、思考停止とどう違うのかが分からない。この態度は、「それでいいのだ」と聞こえる。バカボンのパパ並みに断定されると、ぐぅの音も出ない。

ただでさえ難解な量子力学という分野で、莫大な実験や論文で溢れかえり、自分の研究で手一杯で、研究費の確保に忙しい「科学者」にとって、センス・オブ・ワンダーの持ち合わせは無いのかもしれない。

「それでいいのだ」と言い切る「科学者」ばかりならば、私が生きている間にブレイクスルーは見届けられないだろう。一方で、この10個とは似ても似つかない解釈も生まれるかもしれない。さらに、その新解釈に導かれ、新たな発見もあるだろう。

そっちの方が楽しみだ。

書評全文:量子力学の解釈を10個にまとめてみた『量子力学の諸解釈』

 

 

Kindleでキートンが読める!
『MASTERキートン 完全版』浦沢直樹 

今年いちばん嬉しかったニュースがこれ。

キートンって、わたしの人生の中でも、かなり重要なマンガだったりする。読んでた時の思い出と結びつき、マンガで仕入れた知識が思わぬところでつながったり、前を向く原動力みたいな存在になっている。

クラブの部室に転がっている雑誌や、友人の部屋で単行本を見つけてつまみ読みしてきた。平賀太一(キートン)を主人公として、基本的に単話、長くても数話で完結するストーリー構成になっている。なので、最初から全てを読んでなくても楽しめる。

キートンは3つの顔を持っている。安月給で大学講師を勤めつつ、いつかはドナウ文明を発掘したいという考古学者。もう一つは保険会社の雇われ探偵屋。そして最後はオックスフォード大学を卒業し、イギリス特殊空挺部隊の凄腕の教官だったという文武両道の経歴だ。

学者肌で「社会でうまくやっていく」のが苦手なのに、いざ危険が迫ると、知恵と工夫でなんとか解決してしまう。歴史全般に造詣が深いだけでなく、手先が器用でメカにも詳しい。様々な言語を流暢に話せるマルチリンガルでもある……なのに冴えない、このアンバランスが面白い。

数年前、そんなキートンの活躍をイッキ読みしようと単行本を探したのだが、べらぼうな値段がついてて諦めた。権利関係の問題で増刷が行われなかったため、古書価格が高騰したらしい。

それがKindleで読めるようになって嬉しい。痛勤電車の行きと帰りに1話ずつ読むという、ささやかな愉しみが増えた。

粉塵爆発やウィスキーキャット、誘拐犯との交渉人、アルカイックスマイルの起源など、懐かしい話や忘れてしまっていたこと、新たな発見が宝物のように見つかる。偶然に巻き込まれた事件から巨大な陰謀を暴く話、旧友との約束を果たすためにひたすら奔走する話、長年育まれてきた愛の証を見つける話……心震わせる話では、思わず涙ぐんでしまう。

改めて読み直して感慨深いのは、わたし自身がキートンの年齢をとうに追い抜いてしまったこと。彼の父親のほうが年齢は近い。若いころは気づかなかったけれど、ヒッチコック映画のクローズアップ描写に寄せているコマや、伏線を捻じ込むのに苦労している跡が見られる。映画並みのネタを単話に練り込むときもあり、物語が濃すぎる回もある。わたしが学んできた知識でもって再読すると、懐かしさの中に新しさが沢山見つかる。

親切でお人好しで、何度も騙されても「人を信じる」ことができる。死にそうな目に遭っても、希望を捨てず、生きるために全力を尽くす。何よりも「自分を信じる」ことができる人間なんだと思う。そんな彼は、わたしにとってのヒーローであり、ロールモデルだった。

そしてこれ。一番わたしを動かしていたものだ。この言葉にどんなに勇気づけられてきたことか。

人間はどんな所でも学ぶことができる
知りたいという心さえあれば

20221112_2022_

MASTERキートン完全版 12巻2章「夢を継ぐ者」より

大学時代のキートンの恩師、ユーリ―先生の言葉だ。ロンドン大空襲の中、決して講義をやめなかったエピソードは、覚えている方も多いだろう。ユーリ―先生の訃報に接し、その言葉を思い出したシーンだ。

何度も何度も読んできたけれど、MASTERキートンは、また読みたくなる。そういう、かけがえのない存在になっている。

Kindle版キートンを読んでいて、「Reマスター」に出会えた。20年後のキートンの活躍が全1巻に収録されている。白髪交じりで文字を読むときメガネ(老眼鏡?)を手放せないキートンが新鮮だ。

 

世界史をやり直す最初の、最強の一歩
最新世界史図説タペストリー

世界史をやり直したいけれど、どの一冊から始めればよいか?

入りやすくて面白く、体系的かつ信頼できる本はどれか……と考えると、脚本家タケハルさんと、文学系Youtuberスケザネさんと3人で語り合ったこれを思い出す。

世界史を学びなおす最適な入門書や、ニュースの見方が変わってしまうような一冊、さらには、歴史を語る意味や方法といったメタ歴史まで、膨大なお薦めが出てきたのだが、「これ!」という決定版が、『最新世界史図説タペストリー』になる。

タペストリーはスケザネさんが強く推してた。スケザネさんは、文学、哲学、歴史への造詣が深く、蔵書もハンパない。そして大事なのは、積むだけじゃなくて読める男で、彼がお薦めする本は信頼できる。

さらに重要なのは、読書猿さんとスケザネさんのお二人が推していることだ。別の対談で読書猿さんに「世界史を学びなおすにあたり、まずこれ、という本を一冊だけあげるなら」と質問したのだが、やはりタペストリーだった。

歴史って、文字ばかりで無味乾燥で、取っつきにくい感じがある。けれど、これはフルカラーで、図解と写真とイラストがぎっしりと詰め込まれている。言葉でくだくだ説明されるより、百聞一見、見たほうが早い。『タペストリー』は、いわば世界史の図鑑なのだ。

しかも、毎年のように改訂され続けており、かつ安い(ここ重要)。最新のものが手に入りやすいので、知識を手軽にアップデートできる。

お二人に触発されて全読したのだが、特にわたしが気に入っているのが、「世界全図で見る世界史」の章だ。世界地図がバーンとあって、主な出来事と大きな流れを一望することができる。わずか50ページで概観できる、いわば静止衛星から見た世界史といえる。

世界史をやり直したい人は、細かい年代とか人物を覚えたいのではなく、まずは大まかに掴みたいのではなかろうか。

つまりこうだ、大きな出来事(戦争、革命、飢饉、疫病、発明など)が、周囲にどのような影響を与え、それがどう波及していったかを、まずはざっくりと知る。そこから広げたり深掘りしていって、全体像と個々のイベントを行き来する。

もし、そう考えているのなら、まずこの50ページだけを眺めるのがお薦め。そこから興味のあるトピックを拾い出し、自分で掘っていけばいい。

『タペストリー』は高校教科書のサブテキストとして編集されているが、教科書に限らず、あらゆる歴史の本を併用できる。学びなおしの中で迷ったら、これで全体を掴みなおせばいいし、画像で確認したいなら、索引から引いて自分の目で確かめればいい。そういう意味では、最初の一歩から先、ずっとお付き合いしていくことになる一冊でもある。

記事全文:面白い世界史の本を3人で2時間お薦めしあった中から厳選した12冊

 

 

新訳で劇的に面白くなった名著
『新版 歴史とは何か』E.H.カー

60年前の岩波新書版は、「教養のため」と有難がっていた。歴史とは、偉い歴史家のご高説であると信じ込んでいた。

ところが、新訳を読んで、がらりとイメージが変わった。「教養を身につける」という体裁よりも、むしろ、ユーモア満載、毒舌たっぷり、ハラを抱えて大笑いできる一流の講義になる。

論敵をあてこすり、酷評し、嘲笑する。死者を皮肉り、(歴史学も含めた)人文学を軒並み張ッ倒し、強敵は名指しで祭り上げ、しかる後にメッタ斬り。

母親の膝のうえで学んだ子どもっぽいナイーヴな学説だとか、成績が「可」ばかりの学生みたいな史観だとか、めずらしく階級的感覚の低い発言だとか、嫌味と毒舌のオンパレード。

新訳では5割ぐらい毒が増しているが、なぜか?

それは、 [笑] が追加されたから。[笑] とは、「ここ笑いどころだよ」と明らかに笑いを誘うところを示す目印だ。文末に追加されている。テキストメディアだと草生える「w」だね。

「w」だと品が無いから [笑] になったんだろうけど、これが毎ページ毎ページ出てくる。何でもない一文なんだけれど、 [笑] が追加されることで、裏の意味を考えるようになり、皮肉が見えてくる。

[笑] のおかげで黒い笑いが絶えないが、一方で「読みにくい」など難癖つけてくる輩がいる。

教養課程での必読書とされていた旧版を崇め奉っている人にとっては面白くないのだろう。amazonレビューを見ると、旧版と比較して翻訳に文句をいう人もいる。

しかし、新版を翻訳した近藤和彦氏の履歴を見てほしい [Wikipedia] 。ゴリゴリの歴史のプロフェッショナルで、かつ、クイーンズ・イングリッシュの叩き上げの経歴を持つ。東大で西洋史を専攻し、ロンドン→オックスフォード→ケンブリッジで教授をやり、専門はイギリス近代の社会史・文化史・政治史というのだから、まさに適任というほかない。

そんなプロ中のプロが、わざわざ読みにくくする [笑] を散りばめたのは、なぜか? わたしは、「おまいら、これそんな有難い本じゃないぞ」という意図を含ませたかったからだと考える。この悪ノリは面白い。崇め奉っていた自分自身も含めて、二重に笑える。

「歴史とは現在と過去との終わりのない対話である」というのであれば、本書を通じて、著者E.H.カーとわたしの対話も成立する。新訳を読んで、意地悪くもカーの論理の粗を見出した。

以下に説明する。歴史とは何かという問いに対して、カーの答えを端的に言うと「歴史とはモデルを作ること」になる。

過去の出来事を選び取り、つなぎ合わせ、合理的な解釈を導くモデルを作り上げる。モデルからは行動の指針として役立ちそうな結論を引き出す―――これが歴史家の仕事だという。出来事を一般化し、パターンをモデル化する営みは、自然科学における仮説と検証に似ていると胸を張る。

だがそれは、カー自身が攻撃した、「客観的な歴史」になるのではなかろうか? 本書の前半で、カーは歴史の普遍性・客観性を抽出する立場を攻撃している。歴史家は人間であるが故に、自身が生きる時代や価値判断から離れ、自由になることはない。歴史「法則」のようなものはありえないのだという。カーが擁護する「歴史家が作るモデル」は、カーが批判する「客観的な歴史」と相反している。

「歴史とはモデルを作ること」と「客観的な歴史はない」の間に挟まれ、第5講「進歩としての歴史」で、歴史の客観性について述べようと試みるが、たいへん苦しそうだ。

カーなりの(暫定)結論と、それに対するわたしの反論の対話は以下にまとめた。本書の付録に『歴史とは何か』の第2版の草稿も収録されているため、それも合わせると、彼が何を考えてきたかが見えてくる。

書評全文:新訳で劇的に面白くなった名著『新版 歴史とは何か』(E.H.カー)

 

 

歯を食いしばって読んだ(血の味がした)
『アニマ』ワジディ・ムアワッド

人を傷つける物語がある。たとえばこれ。

冒頭で、妻が殺されているのを見つける。くり返し刺され、血だまりの中で絶命している。

妻は暴行されていた。普通ではなく、腹部を裂いた傷口を性器代わりにしてレイプされていた。最後に刺したナイフは性器に深々と潜り込んでいた。その刃先は、二人の初めての胎児の頭に打ち込まれていた。

奇妙なのは、「妻を殺された夫」が主人公なのに、それを語るのが飼い猫であること。あくまでも猫の視点で、凄惨なシーンが描写される。夫が受けている衝撃は相当なものだろうが、いかんせん猫経由なので隔靴搔痒の思いだ。

警察が来て、夫は入院し、精神的ケアを受ける。警察は犯人捜査を始めるのだが、描写は、スズメの視点になる。夫と警察の一連のやり取りは、病院の窓に集まるスズメの物語として表現される。

猫、スズメ、犬、金魚、ウマ、キツネ、クモなど、様々な生き物たちの目を通して、「妻を殺された男が犯人を探す旅」が語られる。生き物たちには生き物たちの生活があり、事情があり、そこを通り過ぎていく男は、非日常として扱われる。

どうやら男は罪悪感を抱いており、もっと早く帰っていれば妻を救えていたはずだと後悔している。だから、自分が妻を殺したようなものだと思い込み、犯人が自分でないことを確かめるために、会おうとする。

読み手としては、男の悲しみに寄り添いたい思いや、犯人への憤り、警察は何をしているのかという歯がゆさを感じたい。だが、男の行動、会話の断片ともに、生き物たちを経由しているため、部分的にしか分からず、もどかしい。

モントリオールからカナワク、レバノンと、悲しみと痛みをひきずっていく男の足取りを追いかけていくうちに、全く違う、でも同じ話に円環していることに気づく。

たくさんの生き物たちの「語り」から離れ、この物語が真の姿を表わすとき、わたしは、ようやく血の味に気づく。ずっと長いあいだ、歯を食いしばって読んでいたのだ。

そして、「妻を殺された男の話」で終わっていたら、どんなによかったかと思う。生き物たちの、断片的で変遷する描写は、人の倫理を超えたものを語ろうとする意図だと思い知り、むしろ感謝したくなる。

なぜなら、これは直視できない地獄だから。

『アニマ』は、オデュッセイアのように帰還する物語でもあり、神曲のように地獄を巡る話でもある。だが、決して目的地へ辿り着くことはできない物語に化ける。このとき、本は凶器になり、爆発物となる。

物語によって傷つけられることは可能だ。これがその証拠になる。読みながら吐くような経験は、おそらく、ジョー・サッコ『パレスチナ』以来だろう。

ふくろうさんの[【2021年まとめ】海外文学の新刊を読みまくったので、一言感想を書いた]にあったコメント「2021年で、最もえぐられた小説」が気になって手にした。ふくろうさん、ありがとうございます、わたしにとって「2022年で、最もえぐられた小説」になりました。

書評全文:歯を食いしばって読んだので血の味がする小説『アニマ』(この記事には残虐描写があります)

 

 

論理戦に勝つ技術
『レトリックと詭弁』香西秀信

世の中には、詐欺みたいな「質問」がある。

表向きは質問形式だが、論点すり替え、二者択一、沈黙を強いる問いだったりしたことはないだろうか。こちらに非がないにも関わらず、罠にハマって「ぐぬぬ」となったことはないだろうか。

古今東西の様々な文献から、そうしたテクニックを紹介する。漱石『坊ちゃん』の赤シャツのテクニック、村上春樹の啖呵、兼好法師の嘘、ナポレオンの恫喝など、読んで面白く、騙すのに使える詭弁術である。

もちろん悪用は厳禁だ。上手に使えば議論を誘導し、思った所に着地させることができる。誠実でも正当でもないが、できてしまう。

だが、できるからといって、やっていいことにはならない。

本書は、いわゆる詐欺の技術のようなものだ。どんな風にカモを引っ掛け、どのようにカネを騙し取るかのノウハウである。もちろん詐欺はしないけれど、あらかじめ詐欺師の手口を知っておけば、カモになるのを避けることができる。

同様に、あらかじめ質問の欺術を知っておくことで、騙されるのを予防できる。たとえ罠にハマっても、「私が悪いのかも」とマイナスループに陥らず、心を守ることができる(著者は「護心術」と呼んでいる)。

「質問をする」というのは非常に強力だ。なぜなら、質問をするとは、答えを求めることだからだ。

「なにを当たり前な……」と思った方は、ちょっと胸に手を当ててみて欲しい。次々と投げかけられる質問に答えているうちに、答えに窮したり、自分が責められていると感じたことはないだろうか。

思い出したくもないだろうが、それはYes/Noで答えを迫るクローズドな質問か、あるいは二者択一のような形式だったのではないだろうか。例えば、ミスをしたあなたに対し、上司が𠮟責する常套句がこれ。

  • おまえは会社に損害を与えたいのか!?
  • 自分で弁償するか、辞めるかだ、どっちだ?

前者の質問には、当然「与えたくないです」と答えるだろう。すると上司は、「じゃぁなんだってこんなミスをしたんだ?」と詰め寄る。後者の二択には、答えようがないだろう。

欺術を操る連中は、何かを知りたくて「質問」なんてしない。答えなんて分かりきっている。

しかし、「質問をする」ということは、「相手に答えさせる」という位置に立つことになる。自分が進めたい方向に焦点を絞り、自分に不利なことから目を背けさせることができる。あるいは、自分の主張を選択肢に紛れ込ませることができる。

つまり、「質問をする」ことは、表面上は何かを知りたい体裁を保ちつつ、話の主導権を握ることができるのだ。

いったん握られた主導権を、どうやって取り返すか?

本書では、「答える」(answer)ではなく「言い返す」(retort)方法を薦めている。Yes/Noで答えを迫る質問に対し、その問いそのものの妥当性を問題としたり、「Yes/Noを問う行為そのもの」の是非に焦点を当てるやり方だ。

  • 「損害を与えたい」なんて動機は一切ありません。今は動機ではなく、私の責任のお話をされたいのではないでしょうか?
  • 弁償かクビかの二つだけでなく、私の職務に応じて、責任の取り方はあると思いますが、間違っているでしょうか?

ミスを責めて激詰めしたい上司の思うツボには入らない。あくまで、ミスの影響と、それに伴う自分の責任について焦点を当てるように返す。火に油かもしれないが、理不尽な理由を呑まされるよりマシだろう。

他にも、立証責任を買い取らせ方、「多間の虚偽」のかわし方など、「ああ言えばこう言う」テクニックが学べる。

くれぐれも、悪用しないように。
くれぐれも、悪用しないように。

書評全文:悪用厳禁:論理戦に勝つ技術『レトリックと詭弁』

 

 

再読するほど夢中になる
『黄金虫変奏曲』リチャード・パワーズ

毎夜、取り憑かれたかのようにのめり込む。

800ページ超の鈍器本なので、持ち歩くには向いてない。アメリカ文学の鬼才リチャード・パワーズの長編小説なので、面白さは折り紙付き。

2組のラブストーリーを軸に、進化生物学、音楽、文学、歴史、芸術論、情報科学が丹念に織り込まれており、知的好奇心と物語の引力に惹かれながら、読んでも読んでも終わらない幸せが何夜も続いた。

充実した十八夜を過ごし、惜しみ惜しみ最後のページに至った時、「これ、最初のページに繋がっている!」ことに気づく。ダ・カーポ(始めに戻る)やね。そして、もう一度はじめから読み返す。

主人公は2人いる。一人はオデイ、ニューヨーク公共図書館に勤めている。利用者が寄せる様々な種類の質問に答える司書だ。1980年代のお話。

もう一人の主人公はレスラー、新進気鋭の生物学者だ。時代は少しさかのぼり、1950年代、ちょうどワトソン&クリックの核酸の分子構造モデルが発表された頃のお話だ。

1980年代の恋と、1950年代の恋。季節は夏から始まり、秋、冬、そして次の夏へと移ろうにつれ、2つのエピソードが交互に進んでゆく。オデイの恋と、レスラーの恋が、場所も時代も違うのに、並行して絡み合うように描かれてゆく。

思わせぶりな章構成と、タイトルそのもののダブルミーニングの予感は、読み進めるに従い、次第に明らかになってゆく。

この物語は、様々な読み方ができる。バッハのゴルトベルク変奏曲とのアナロジー(類推)で読み解くやり方と、エドガー・アラン・ポーの短篇『黄金虫』と重ね合わせながら解いていく方法、そしてワトソン&クリックの遺伝子工学におけるDNAの塩基構造を探しながら読むやり方だ。

ふくろうさん主催の読書会のおかげで、本書をより深く広く知ることができた。参加された方の様々な意見を伺い、自分がいかに読めていなかったことに気づけた。ふくろうさん、参加された皆さん、ありがとうございました!

これはネタバレ抜きで語るのは難しい。核心部分は避けつつ、ある程度ストーリーに踏み込んだ形でこの物語の豊潤さを解説した。読んでいる方の道標にしてもらってもいいし、読了した方のお楽しみとして扱ってもらってもいい。

よい本で、よい夜を!

書評全文:再読すれば再読するほど夢中になるリチャード・パワーズ『黄金虫変奏曲』

 

 

ストーリーテリング虎の巻
『面白い物語の法則』ボグラー&マッケナ

面白い物語には法則がある。

剣と魔法の冒険譚であれ、銀河帝国の逆襲であれ、身分違いの恋物語であれ、面白いとされる物語に共通する法則だ。

そんな魔法みたいなものがあるのか? もし面白さを形式化できるなら、AIに学ばせることだってできるだろう。眉唾しつつ読んだら腑に落ちた。確かに、面白い物語には法則がある。

『面白い物語の法則』は、ハリウッドの第一線の脚本家による、実践的な指南書だ。『美女と野獣』『ライオンキング』の一流のストーリーテラーが使っている手法が惜しげもなく解説されている。

物語やシナリオ、ネームを書く人のみならず、出来上がった映画やドラマ、小説作品を味わう人にとっても役に立つ。なぜなら、「その作品がなぜ面白いのか」を言語化することで、作品をより深く味わい尽くすことができるから。

最も私に刺さったのは、テーマの扱い方だ。

テーマを決める、なんて当たり前のことに見えるが、本書はもっと徹底的だ。自分が書こうとしている物語について、3ページのシノプシス(あらすじ)、短い文のログライン、最終的には、人間の衝動や性質を言い表す一つの言葉にまで突き詰めよという。

たとえばマクベス。「大勢の人を殺して王になろうとしたスコットランドの領主のお話」なんて説明ではない。物語の感情を、たった一言で定義するなら何になるか。本書では、「野心」すなわち支配への衝動だと説明する。

『マクベス 』で「野心」は三回出てくる。まず、マクベス夫人が焚きつける「野心はあるが毒気がない」、そしてマクベス自身の「野心はないが野望はある」、最後は「おのれの命を食いつぶす愚かを極めた野心」の三回だ。

野心は避けがたい破滅を招くのだが、マクベス自身にはそう見えない。見えたときには手遅れになる。「無情になるための野心」ではなく「慈悲に抑制された野心」だって選べたはずだ。だがマクベスは、最後の人間性も切り離し、破滅への道をひた走ることになる。

では、なぜテーマが最重要なのか。

テーマは、物語を統一し、首尾一貫した感覚を与える要素だという。言い換えるなら、テーマさえはっきりしていれば、どんな雰囲気や感情を生み出せばいいのかが分かる。セットの基調色が何になるか、どんな音楽を使うかも考えやすくなる。

テーマに合わない部分はバッサリ斬ったり改変する必要も出てくるし、物語が複雑化したとき、テーマを頼りに本線に戻すこともできる。

自分が扱う作品のテーマは何か、徹底的に突き詰める。そして考え抜いたテーマを、様々な試練にさらすのが、物語作家の役割になる。

しかしテーマというもの、腕組みして考えると浮かんでくるものでもないし、口開けていると、空から降ってくるわけでもない。どうすれば突き詰めることができるのか? 

本書では、単純だが厳しいトレーニングが課されている。

100日で100本の脚本を読めという。そして、読み終えるごとに、シノプシス3ページ、ログラインを一文、そしてテーマを書くトレーニングだ。実際、やろうとすると、細部は大幅に割愛され、中心となるキャラクター、主眼となる対立とアクションなど、物語の根幹を見つけ出す作業になる。

ほとんどのテーマは、第一幕の早い段階で、示される場合が多い。登場人物が声高に口にする願いや主張に隠されており、それを受け容れるか否かはともかく、物語全体に反響し続ける。

テーマが響く箇所が物語の根幹であり、それを手繰っていくとシノプシスが出来上がる。そして、シノプシスを削いでゆけば、ログラインになる。著者はシェイクスピアを全て読んで実践したというが、四大悲劇だけでもやってみたい。

他にも、魅力的なキャラクターを作り上げる方程式(キャラクター=求めるもの+動き+障害+選択)や、日常→冒険→試練→獲得→日常となるヒーローズジャーニー、直感的に理解できる物語の構造を体系的にまとめた物語のカタログなど、まさに面白い物語のバイブルだといえる。

より面白い物語を作りたい人だけでなく、より面白く物語を楽しみたい人にもお薦め。

書評全文:物語を書く人・楽しむ人のバイブル『面白い物語の法則』

 

 

この本がスゴい!2022 ベストフィクション
『七王国の玉座 氷と炎の歌シリーズ』ジョージ・R・R・マーティン

今年のスゴ本のNo.1フィクションはこれであり、ファンタジーの最高傑作がこれである。『氷と炎の歌』という長い長いシリーズなのだけど、なかでも最もインパクトがあったのが「七王国の玉座」である。

『氷と炎の歌』の邦訳版の全シリーズを読破し、これを原作としたドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』全シーズン視聴した。

物語の濁流に飲み込まれ、情緒がもみくちゃにされる。非常に中毒性が高く、「これからどうなるの?」と続きに苛まれ、読んでも読んでも、観ても観ても終わらない悪夢のような幸せな夜を過ごし、リモートワークで浮いた時間を全額費やし、削れる睡眠時間とありったけの可処分時間を投入する稀有な体験だった。

「七王国の玉座」は、『氷と炎の歌』の序章ともいえる巻で、覇権をめぐる権謀術数が渦巻くエピソードで構成されている。この世界全体の紹介と、人と歴史のつながりを手際よく紹介してくれている。

予備知識ゼロで読み始め、重厚な歴史小説みたいだな……と読み進めていくと、座っているその場所からきっかり10cm飛び上がった。物語に放り出され、ありえないと思ってページを戻り、目をこすり、もう一度読んだ。何度読んでも同じことが書いてある。「まじかよ」と100回くらい呟いた。気が付くと、このお話そのものに虜になっていることが分かった。

ドラマを観た人であれば、この書影の「七王国の玉座」下巻の最後が、『ゲーム・オブ・スローンズ』エピソード1のラストだと言えば、伝わるだろうか。

未読未見の方に向けて、以下のリンク先に熱く語ったのをまとめた。史上最高のファンタジーの一端が伝われば嬉しい。

この作者は、物語を面白くするのであれば、何だってする、そういう人なんだと思う。

書評全文:ファンタジーの最高傑作『氷と炎の歌』

 

 

この本がスゴい!2022 ベストノンフィクション
『世界史の考え方』小川幸司、成田龍一

MASTERキートンの中で、「なぜ歴史を学ぶのか」への応答がある。キートンの恩師・ユーリ―先生の講義のエピソードだ。先生はこう述べる。

なぜ人間は憎み合い
殺し合うのでしょうか?
それは、人間そのものの中にある
性(さが)によるものです

20221112_2022_2

そして先生は続ける。

戦争を避けるために
私たちはよりよく人間を知らなければならない
考古学によって過去の人間を知る必要があるのです

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MASTERキートン完全版 12巻2章「夢を継ぐ者」より

この「考古学」を「世界史」に置き換えると、世界史をやり直す理由になる。おそらく、戦争の火種は無くならないだろう。しかし、人をよりよく理解することにより、火種を小さくする方向を選ぶことは可能かもしれない。

いち市民のわたしができることは、世界に関心を持ち、学び続け、選択することだ。「知りたいという心さえあれば、どんな所でも学ぶことができる」のだから。

では、何を学べばよいか?

覚えることが沢山あるからといって高校では選択せず、倫理・政経に逃げてた。一冊で知りたいからといって単純化した構造の「ビッグ・ヒストリー」をつまみ読みして、分かった気になっていた。そんなわたしが、何を縁とすればよいのか?

ここで頼りになるのは読書猿さんだ。独学の達人である読書猿さんは、問えば質量ともに凄まじいお薦めをしてくれる。世界史をめぐる読書猿さんとの対談を以下にまとめた。読みたい本が積み上がることを請け合う(わたし自身が証拠だ)。

なかでも今年は『世界史の考え方』を推す。

なぜなら、わたし自身の認識の変化を炙り出してくれるから。世界史とは、変わらないもの、確定したものという印象をもっていた。そして、目まぐるしく変わっていくのが現代だと考えていた。

だが、変わらない過去に対する見方が変わる。以前は、当たり前に感じていたものに、違和感を覚える。これは、わたしの過去に対する認識が変化したからだ。この認識の変化に自覚的になるために、世界史をアップデートする。

『世界史の考え方』は、この認識の変化を歴史の本を使って実践する。

まず、歴史学の古典を挙げ、かつては常識とされていた考え方を紹介する。次に、その主張に疑義を呈し、ひっくり返すような書籍をぶつける。歴史に対する認識の変化を、歴史の本で炙り出す、いわば「歴史の歴史」を語っている。

その中で、前提として常識だと思い込んでいたことが、相対化され、乗り越えられてゆく。古い思考に囚われていたことに気づかされ、文字通り、蒙が開かれる思いである。

例えば、植民地主義の「罪」を問う動き。

第二次世界大戦後の世界秩序は、植民地主義の責任追及を回避することで成り立ってきた。そこへ援用されたのが、「人道に対する罪」になる。植民地における先住民の排除や、そこで行われてきた戦争を問う罪になる。

この「人道に対する罪」は、元はと言えば、ニュルンベルク裁判の際に、従来の戦争犯罪では捉えきれないナチスの犯罪を裁くために導入された概念である。罪刑法定主義という法の常識を超えて、事後的に作り出された、新しい「罪」の概念となる。

「ジェノサイド」の概念も同様だ。特定の集団の抹殺を目指した組織的な行動で、ナチスによるユダヤ人迫害を性格づけるために作り出された。

現代では、「人道に対する罪」も「ジェノサイド」も、当たり前の概念として扱っている。だが、これらは後から発明された「罪」であり、歴史をさかのぼってその罪を問い、償わせるために行使されてきた。

であるならば、その「罪」は、植民地における破壊行為にも適用できるのではないか、という考えも出てくる。もともとそこに住んでいた人々を排除し、収奪し、抹殺してきたことは、ジェノサイドであり、人道に対する罪ではないか、という考え方だ。

つまり、直接的な虐殺や物理的破壊だけではなく、土地の収奪は経済的ジェノサイドであり、先住民を隔離したり同化することは文化的ジェノサイドになる。程度の差こそあれ、「近代化」する上で必然の産物であることが炙り出されてくる。

そうしたことへの責任を問い、償いを求める動きが、アフリカや南北アメリカやアフリカ系の中から沸き上がっている。過去そのものではなく、過去に対する認識が変化した例と言えるだろう。

他にも、欧米中心主義から生まれた「先進国」「発展途上」という言葉や、中国における「自由」の概念が欧米と違う理由、あるいは、パレスチナ紛争を「戦争」ではなく「テロ」扱いすることで歴史教育から見えなくさせている状況など、歴史認識を新たにしてくれるテーマが盛りだくさんある。

各章末の参考文献の密度&量が濃く、自身の問題認識からテーマを選び、そこから文献を手繰っていくという読み方ができる。歴史の入口は、あくまで現代の問題なのだ。岩波新書なので手に入りやすく、読みやすく、歴史をやり直したい人にとって最適な一冊と言える。

このまとめ記事を書いている間に、著者の小川幸司さんが [ブログで応答] されていたことに気づいて驚く。読書猿さんとわたしを、「きらめくようなお二人」と誉めてくださってて面はゆいことこの上ない(どちらもバリバリのおっさんだけど、ぜひお会いしたいですね!)。

書評全文:歴史認識をアップデートする『世界史の考え方』

 

 

スゴ本2023

「いつか読もう」はいつまでも読まない。

「あとで読む」は後で読まない。

「こんどの年末年始に読もう」と取っておいたベストセラーは、結局読まなかった。「次の連休にこそ崩す積山」に手を付けた試しがない。読まないことに後ろめたさを感じることもなくなった。読んだフリも、ナナメ読みも、恥ずかしげもなくできるくらい厚顔になった。

別に読まなくても積めばいい、「あとで読む」を言い訳にすればいい、そう生きてきてきた。

だが、おっさんになり、死を思うにつれ、自分の残り時間を自覚するようになった。この残り時間は、”寿命”ではないことに注意してほしい。じっくり味読する喜びに浸れるのは、「読む」という行為ができる時間だ。

まず、真っ先に目がかすむだろう。次に集中して文章を追うことができなくなり、肉体的に本が読めなくなる。そして最後に、あれほど読みたかった作品への興味を失うことになる。そうなったら、「これ読みたかったな」という後悔の山に囲まれ、ただ生きているという状態を続けていくことになる。

人生100年時代というが、眉唾だ。新手のビジネスレトリックだと捉えている。100年どころか、平均寿命のかなり手前で、いまの知性が衰えるだろう。わたしが心配しているのは、知力が落ちることではない(それは必然だ)。そうではなく、「いま」読もうとしなかった本に囲まれて、「いま」の自分を恨むような余生を送りたくないのだ。

わたしは見てきた。「老後の楽しみに」と取っておいた山岡荘八『徳川家康』フルセットを読まなかった人。「リタイアしたら『ドン・キホーテ』の原書に挑戦する」といって翻訳にすら手を付けなかった人。いつか読もう、いずれ読もうといってるうちに、読書そのものができなくなる。

だから足掻く。

もちろん、読みたい本を全て読むなんて無理なことは分かっているし、この足掻きで積山の一角しか崩せないことも承知だ。それでも粘る。

例えば、体力勝負のピンチョン『重力の虹』は、読書会のような締め切りを設けてグループで攻略していかないと自分の身がもたないだろう。専門性が高い『岩波講座 世界歴史』は、自分の興味があるテーマ(③ローマ帝国、⑩モンゴル帝国、⑳㉑二つの大戦と帝国主義)の「展望」に絞ればいい(摘まみ読みができるのは図書館のおかげだ)。ぶつ切り時間でサクサク読めるポトツキ『サラゴサ手稿』は楽しみに取っておきたいけれど、読めなくなったら悲しいのでいま読む。

マンガは3つの方針で攻略する。痛勤時間にスマホで読むか、マンガ喫茶でまとめて読むか、28インチディスプレイで読むかだ。『九条の大罪』はまとめて読みたいし、『BLUE GIANT』は迫力満点で読みたい。『その着せ替え人形は恋をする』の2期を待つべきか読んでおくべきか迷うし、最初だけ読んでた『ヨコハマ買い出し紀行』のラストを知りたい(マンガ喫茶に行くときは計画を立てないと)。

「面白いとは何か、面白いと感じる時、何が起きているのか」というテーマの読書は壁にぶつかっている。どいつもこいつもアリストテレス詩学の焼き直しで、何を読んでも「ミメーシス=本能」に突き当たる。いったん文学から離れて、進化心理学のアプローチで、R.A.マーディン『ユーモア心理学ハンドブック』やシェフェール『なぜフィクションか?』、ジェシー・プリンツ『はらわたが煮えくりかえる』から攻略してみる。長谷川眞理子『進化と人間行動 第2版』にもヒントがありそうだ。

読書を日常に組み込むラーニングログは続けていくつもりだ。好みのままに読む方法だと、「読みたいけれど手が出にくい本」は読まない(断言)。そんな本は、ページ単位に読書記録を付け、日課にしてしまうのだ。今は英語のボキャブラリー強化高校世界史の攻略をしているが、2023年の間に完了する見込みだ。『基本文法から学ぶ英語リーディング教本』が良さそうだという話を聞くので、次はこれかな。

「あとで読む」をいま読むために、足掻き続ける。人生の持ち時間は、”寿命” ではない。そして、残り時間は予想よりかなり少ないことを、忘れないように。

わたしを震わせ、揺るがせ、行動を変えていくようなスゴ本は、これからもブログや twitter で発信していく。

もしあなたが、「それが良いならコレなんてどう?」というお薦めがあれば、ぜひ教えて欲しい。それはきっと、わたしのアンテナでは届かない、震わせ、揺るがせ、行動を変えていくようなスゴ本に違いない。

なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

 

 

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