「コペンハーゲン解釈」「多世界解釈」だけではない、量子力学の解釈を10個にまとめてみた『量子力学の諸解釈』
混迷する物理学が面白い。
原子や電子といった小さなスケールで世界を考えるとき、常識が通用しなくなっている。観察対象には実体があって、位置や速度を持っているという、当たり前のことが成立しなくなっている。
例えば、電子は粒子でありながら波でもある現象について。二重スリットを通過する電子は、干渉しあった波のような縞模様が出てくる。一方で、電子を一つずつ発射すると、粒子のように観測される。しかし、継続していくと、波のような干渉縞になる(粒子波動二重性)。
あるいは、観測によって、電子の振る舞いが劇的に変わる、波動関数の収縮について。スクリーン上の一点の電子を観測する実験を、波動関数の変化とする。電子を観測する前だとシュレーディンガー方程式に従って存在するが、ひとたび観測すると、従わなくなる。観測によって結果が異なるパラドクスだ。
さらに、電子の位置と速度を同時に測定することができない、NOGO定理だ。本書では、もっとはっきりと「『物体が何らかの値を持っている』と仮定することができない」と意味付けている。「物質が実在する」という素朴な考えを揺さぶる現象だ。
面白いのは、常識を揺さぶるパラドクスだけではない。これらを解釈するために生み出される、様々な理論が楽しい。奇妙で不可思議なことを説明するのだから、常識外れのアイデアが飛び出してくる。SFよりもSFだが、机上の空想ではなく、これまでの観測結果や理論に則した解釈だ。
「コペンハーゲン解釈」や「多世界解釈」といった名前は耳にしたことがあるが、実際その中身がどうなっているかは、よく分からない。箱の中の猫といった、喩え話でしか理解できていない。
こうした解釈を網羅的にまとめあげ、解説したのが『量子力学の諸解釈』になる。
それぞれの解釈で論文が大量にあるのだから、この一冊で全部を理解するのは難しい。
だが、どういうアプローチで理解しようとしているか、という量子力学の「分かり方」が分かる。文字通り、世界の見方を変える必要があるものから、回答から逃げているもの、量子力学そのものを書き換えるものまで、盛りだくさんだ。人間の想像力(創造力?)の限界を突破している様がよく見える。
量子力学の解釈を大別すると、2つのグループに分かれる。実在主義的な解釈と、経験主義的な解釈だ。まずは実在主義的な解釈から紹介する。
実在主義的な解釈4つ
実在主義的とは、具体的なイメージが浮かびやすい解釈になる。例えば、粒子が、はっきりと軌跡を描いて飛んでいくもので、これはイメージしやすい。その分、パラドクスを整合的に説明するのは難しい。
軌跡解釈
電子は粒子であり、はっきりと軌道を持っている。軌道は確定的で、量子ポテンシャルによって因果的に決まる。量子ポテンシャルの非局所的な効果によって、粒子軌道に干渉縞が生じる。
確率過程解釈
系ははっきりとした軌道を持つが、軌道は揺らいでいる。軌道を決める方程式は確率過程論的であるが、その過程は、通常の過去→未来への時間軸だけでなく、未来→過去へ向かう過程も含むため、方程式が時間対称となる。
アンサンブル解釈(統計解釈)
波動関数は個別の系に関する記述ではなく、系の統計集団(アンサンブル)に関する記述と考える。「観測前から物質量に対してはっきりと値を持つ」バージョンから、「全ての物質量が同時に値を持たない」とするバージョンまである。アインシュタインがこれ。
交流解釈
物質の実体は波と考える。放射体から過去と未来に向けて提案波が放出され、それを受けた吸収体から過去と未来に向けて確認波が出され、それらが重なり合い反響が生じ、確率的に交流が完了し、エネルギーが移動する。ファインマンがこれ。
実在主義的に「物質は実体を持ち、値がある」という前提から始めると、パラドクスを説明するのに苦しそうだ。
経験主義的な解釈6つ
一方、経験主義的な解釈は、もっと現実的な対応をする。
量子力学の範囲内に限定して説明する方針になる。電子の干渉縞という現象や、観測する実験プロセスに対し、量子力学だけで説明するならどうなるか、というアプローチだ。
言い換えるなら、量子力学の範囲で説明できない観測問題や解釈については手を出さない。なぜなら、量子力学の実験で理論を実証できないから。
多世界解釈
エヴェレット相対状態解釈を起源とし、観測者(観測器)を波動関数で表し、系の状態を観測者の状態に相対的に見る。系の状態と観測者の状態が相関を維持しながらセットで分岐し、干渉性を喪う。多世界解釈では「世界の分岐」と見なす。
無矛盾歴史アプローチ
初期状態から観測までをつなぐ可能な歴史を与える。可能な歴史とは「無矛盾条件」を満たす歴史であり、そうした歴史の集まりを「無矛盾歴史族」という。同時に仮定してよい歴史の組は「単一枠組み規則」によって与えらえる。
GRW理論
シュレーディンガー方程式に従う波動関数の時間発展の他に、一定の割合で自発的な収縮が起こると考え、これにより波動関数の収縮を説明する。つまり、量子力学に新しい物理が付け加えられており、量子力学の「解釈」というより「改良」になる。
量子理論・様相解釈
全ての物理量を平等に扱う(軌跡解釈や確率過程解釈のように、位置だけ特別扱いするようなことをしない)。古典論理が誤っていて、新論理(量子論理)が見つかれば、同時確率やベル不等式が成り立たない場合もあることを説明できると考える。
コペンハーゲン解釈
確率の背後にある実在世界や観測前の値のことを一切考慮しない。コペンハーゲン解釈では、「測定が行われるまでは実在というものを考えてはいけない。確率振幅に関する情報のみが存在する」と主張する。
量子ベイズ主義
確率の背後にある実在世界や観測前の値のことを一切考慮しない点までは、コペンハーゲン解釈と同じ。量子ベイズ主義は、波動関数から計算した確率はベイズ確率であり、量子系そのものが持つ性質ではないと主張する。その確率は我々が持つ信念の度合いによる。
波動関数の収縮といった現象は、「説明しない」「問題としない」という考え方だ。理論というよりも、態度に近い。問題としないのであれば、パラドクスでもなんでもない。
ある意味、潔いというか「科学者として」正しいことを言っている。要するに、実験で立証できないものは、哲学の範疇であって、科学者に求めるのはお門違いという態度だ。こういうセリフもある。
コペンハーゲン解釈を一言で表すなら、「黙って計算しろ!」になる
科学というものは、謎を解くためにあるのではない。現実を観測して再現するための便利なツールに過ぎないのだから、科学に「なぜ」を求めないでくれ、という主張だ。
言いたいことは分かるのだが、思考停止とどう違うのかが分からない。この態度は、「それでいいのだ」と聞こえる。バカボンのパパ並みに断定されると、ぐぅの音も出ない。
ただでさえ難解な量子力学という分野で、莫大な実験や論文で溢れかえり、自分の研究で手一杯で、研究費の確保に忙しい「科学者」にとって、センス・オブ・ワンダーの持ち合わせは無いのかもしれない。
「それでいいのだ」と言い切る「科学者」ばかりならば、私が生きている間にブレイクスルーは見届けられないだろう。一方で、この10個とは似ても似つかない解釈も生まれるかもしれない。さらに、その新解釈に導かれ、新たな発見もあるだろう。
そっちの方が楽しみだ。
おまけ:方程式・定理における「時間」について
本書には大量の方程式や定理が登場する。
難解な代物ばかりで、ほとんど理解できない。だが、方程式を眺めていて奇妙に感じたことがある。それは、「そこに時間は存在するのか」という疑問だ。
ニュートン以来、数学と物理学の相性は極めて良好なのだが、数学に無いのに物理学にあるもの、それは「時間」だ。
数学の定理とは、定義から導き出せる一般則だ。別観点から見た本質といってもいい。
例えば、三平方の定理。「直角三角形の斜辺の2乗は他の辺の2乗の和に等しい」は、「ある辺の2乗と、他の辺の2乗の和が等しいなら、それは直角三角形」になる。定理は本質の言い換えになる。本質を別の表現で述べているだけなので、イコールで結ばれた左辺と右辺には時間が存在しない。両者は「いつも」成立している。
しかし、物理学における「方程式」は観測結果から導出された現象を一般化したものになる。森羅万象のうち、「観測可能なもの」だけに焦点を当てて、「式で表せそうなもの」に近似させたに過ぎない。結果、式に当てはまらない現象は、定理を拡張させたり、もっと端的に誤差として切り捨てたりする。
また、科学技術の発達に従って、より精緻な観測結果が得られるようになったり、前提条件が明らかになったりする。「扱えそうな現実のみ、扱う」という方針により、物理学が追求しているのは、現実ではなく、現実の近似なのだ。
この、現実との近似という観点から考えると、2つの時間が考慮されていないように見える。
一つ目。物理学の方程式のうち、左辺と右辺は「いつも」一致するとは限らないものがある、という前提を見落としているのではないか。
言い換えるなら、左辺と右辺、それぞれの式を成立させるためにかかる時間は、異なっているのではないか、という疑問だ。その結果、本当はイコールで結べないにも関わらず、等しいと見なしてしまっている定理があるのではないだろうか。
あるタイミングにのみ成立する右辺と、また別の条件でしか成り立たない左辺を、方程式という顔つきをしているだけで、「いつも」一致していると見なしてはいないだろうか、という疑惑だ。
「タイミング」という言い方が気に入らないのであれば、右辺を成立させるためにかかる時間と、左辺を満たすためにかかる時間が異なっているにも関わらず、一致させてしまっている方程式が、基礎的な理論の中にいるのではないか。
数学と物理学の親和性が高いため、うっかりすると見過ごしてしまう。だが、数学の方程式と、物理学の方程式は、その成り立ちからして違うものだ。数学の方程式ならば、両辺に同じものを加えたり、左辺から右辺に移項したりしても、「いつも」成り立つ。だが、物理学の場合、「いつも」成り立つとは限らない。
二つ目。一般化した「時期」による定義の変化が考慮されているのかという疑問だ。方程式を成立させるためには、前提があり、その前提は、式を成立させた時代の科学技術による。異なる時期の方程式を、見た目が方程式だからといって、無邪気に代入してもよいのか、という疑問である。
極端な例を示す。
ニュートンの運動方程式は、F=maだ。Fは物体に加わる力で、mは質量、aは加速度になる。一方、アインシュタインが特殊相対性理論から導いた式は、E=mc^2だ。Eはエネルギーで、mは質量、cは光速だ。
ここでm(質量)に着目する。両方の式に出てくるから、単純に代入して、E=(F/a)c^2なんて式を作ることはできない。それぞれの前提が異なるし、無視している条件もある。また、成立した時期も測定機器も違うため、同じmであっても、「質量」の定義からして違う。観察対象の系(system)が違うのだ。
これと同じようなことをやっているのではないか、という疑惑だ。
例えば、ボームの軌跡解釈(p.38)だ。運動方程式を改変したものを、シュレーディンガー方程式と等価と見なしている。本来、前提からして異なるものを、「質量」や「定理」や「方程式」という見た目からして、同じようにしてしまっているのではないか。
仮に、このような「操作」が許されるのであれば、結果から方程式を逆演算するというアプローチもありになる。つまり、物理学で「方程式」とされているものをAIに学習させた後、未解決の実験結果に当てはまるよう、方程式を改変させるのだ。代表的な式の数は、せいぜい数千だろうから、そんなに賢いAIじゃなくても、順列組み合わせの力任せで行けるかもしれぬ。
そんな妄想が捗る捗る、おそらく唯一無二の一冊。

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