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美味しいを哲学すると、もっとおいしい『「美味しい」とは何か』

天下一品の「こってり」が好きだ。

食べるたびに脳内で「おいしい」とリフレインが叫んでる。このご時世、わざわざ会社に行く唯一の理由は天一といっていい。

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一方で、あの「こってり」の濃厚スープが合わない人がいることも知っている(妻である)。

ポタージュ状のあのスープを、私は「おいしい」と感じ、妻は「おいしくない」と言う。

このとき、私たちは何らかの評価をしているはずだ。その評価は、センスによる主観的なものなのか。あるいは、何かしらの客観的な基準があって、それに合うから「美味しい」と言うのか。

何かを美味しいと評価するとき、実際のところ、私は何をしているのか? その評価は、私個人のものであり、正しいとか誤っていると言えるのだろうか?

「美味しい」とは何か

こうした疑問について、美学の立場から追求したのが、『「美味しい」とは何か』だ。

美学(aesthetics)は、評価を下すときに用いる「センス」を考察対象とする哲学である。「美とは何か」という美の本質や、「どのようなものが美しいのか」という美の基準、「美は何のためにあるのか」という美の価値を扱う。

本書が非常にユニークで、おそらく世界で唯一と言ってもいいのは、「食」がテーマであること。

N/A

美学はその成り立ちから、詩や音楽、絵画や彫刻といった芸術作品を俎上に研究されてきた。芸術の本領は美にあり、その美はセンスで認識されるという考え方だ。

そうした美学の道具立てを用いて、食べたときに感じる「あの快感」を考察する。しかも美学だけに留まらず、認知科学や言語学とも接続させて、「おいしい」を追求する。ユニークで挑戦的な試みだ。

「高級な芸術作品と比べると、『食』は低級なんじゃない?」「目や耳で感動する芸術と、舌を満足させる飲食を比較するなんて!」

……こうしたツッコミが来ることを予想し、著者は丸々一章を割いて、認知科学の様々な成果を紹介する。「おいしい!」は、舌だけでなく目や耳や鼻、温度や食感も含めたマルチモーダルな芸術であることを説明する。

蓼食う虫も好き好き v.s. 文化的相対性

古典的美学では、「趣味については議論できない(De gustibus non est disputandum)」というラテン語の格言が取り上げられる。いわゆる「蓼食う虫も好き好き」である。

何を食べて何をおいしいと感じるかは、人それぞれ、個人の趣味の問題であり、他が口を出す筋合いはないという考え方だ。

著者は、なるほどといったん受け止めるが、同じことは絵画でも音楽でも同じことが言えるのではないか、と指摘する。

この絵は美しいとか、この曲はカッコいいというとき、そこに何らかの評価が発生している。「このダサい絵が良いだなんて、センスないね」と言われても、大きなお世話だと感じるだろう。この会話は、絵や音楽といった芸術作品に限らず、食でも成り立つ。

そして、「センスや評価は主観的な好みの問題だ」とする立場を、「主観主義」と名づけ、評価に正解/不正解は無いとする。何らかの基準と照らし合わせて、合っている/違っていると判定できるものではない、とする立場だ。「こってり」に対する、私と妻の見解の違いがこれだね。

一方、逆の立場もある。何かの基準があり、それに照らし合わせて正誤を問うことができるという「客観主義」の考え方だ。大多数の人によって設定できる「標準的なおいしさ」というものがあるのだろうか?

これに対し著者は、「文化による」と答えている。

アメリカの食文化で育った人はルートビアを「おいしい」というが、日本の食文化で育った人は「まずい」というだろう。北海道のジンギスカン、中国の臭豆腐、フィンランドのサルミアッキ、スウェーデンのシュールストレミングなど、「おいしい」について正反対の評価が出るのは、食文化によるからだという。

そして、地球上には様々な食文化があり、それぞれの好みが違う以上、「人類標準のおいしさ」というものは無い、と結論づける。ただし、それぞれの食文化の中では、「おいしい」という評価を客観的に引き出すことはできるという。

「人類標準のおいしさ」はあるのか

ここはとても面白い議論ポイントだ。

私は、「人類標準のおいしさ」はある、と考えている。

まず、スケールを、進化レベルに広げてみよう。

人類の感覚器官の機能や構造は同じだ。より感覚が鋭いといった個体差はあるだろうが、ほとんど変わらないといっていい。人類として進化してきたバックグラウンドは同じだ。

そのため、あらゆる食文化に共通して存在する要素に着眼すると、人類標準のおいしさが見えてくるのではないか、と考えている。

例えば、油脂や糖だ。私たちが「コクがあっておいしい」と感じるとき、そこに何が含まれているか。フォアグラやウニ、生クリームやバター、イクラの共通項として、油脂や糖が挙げられる。

そして、油脂や糖が示しているのは、高カロリー、高タンパク質、糖分だ。生きる上で必須のアミノ酸を豊富に含んでおり、「コクがある」食べ物は効率的に摂取できる。進化プロセスの大部分を腹を空かせて生きてきた人類にとって、「コクがある」とは、生存に直結する重要な感覚になる。

次に、食文化を、適応という観点で見てみよう。

人類の肉体構造は変わらないし、必要な栄養も一緒なのに、これほど多様な食文化があるのはなぜだろうか? まず第一に考えられるのは、気候や風土が違うからだろう。気候帯や地勢によって、手に入る食材が異なるからだ。

例えば、生野菜が得られにくい地域では、生肉や動物の内臓からビタミンを確保する。アメリカ人が好むステーキと、日本人が日常的に食べるご飯は、どちらも最終的に糖にすることができる。代謝機能のおかげで、地域ごとに偏った食材でも、生きていけるのだ。

そして、地域ごとの食文化によって、好みが学習される。食べ慣れたものを好ましく感じるのは、「食べたことがある」という味覚や風味は、食の安全の信号になるからだ。親や家族が食べていたから、子どもも食べる。これが繰り返されて、嗜好ができあがる。

食文化を横断して「おいしい」という経験が蓄積されているものが、人類標準のおいしさになるだろう。一つ思いつくのは、カップヌードルだ。発売より半世紀、累計販売数500億食を超え、あらゆる文化圏で食べ慣れている。

かなり脱線してしまった。進化プロセスの適応から考えた「美」や「おいしさ」については、以下の記事で詳述している。もちろん、時代による変化はあるものの、人類共通の「美」や「おいしさ」は存在すると考える。

「おいしい!」と感じるとき、何が起きているのか『味覚と嗜好のサイエンス』

「美しさ」のサイエンス『美の起源』

「おいしい」に知識は必要か

脱線から戻る。

本書の指摘で面白かったのが、「純粋主義」という考え方だ。

天下一品の「こってり」は、「もはや飲み物ではない」と言い切る。「大量の鶏がらを丸一日かけて炊き上げ、数十種類の野菜を加えて、深みがあり、飽きのこないスープに仕上げた」とある。麺については、「ゆっくり時間をかけて熟成させ、スープに負けない風味と、しっかりとした食感をもつ」とある。

こうした言葉を介した情報は邪魔であり、自分の感じたままに評価できないため、排除すべきだという考え―――これが純粋主義である。五感だけを頼りにすることで、「純粋な評価」ができるという主張だ。

これに著者は反対する。そもそも、あらゆる知識を排除した「純粋な評価」に無理があるという。

例えば、出されたものを「これはラーメンだ」とカテゴライズして食べるだろう。そのラーメンが美味しい/まずいはその後になる。ラーメンと寿司とケーキを全て同じ基準で評価することはない。それが美味しいかどうかは、「ラーメンとして」美味しいかどうかの話だ。

そのため、まずラーメンとは何であるかという知識が必要になる。その知識も、麺類であるとか、熱々のスープだとか、醤油や味噌やトンコツといった味があるといった体系的な知識が必要となる。

そういった知識を完全に無くすことは不可能だし、かりにやれたとしても雑な評価になるというのだ。いま、「ラーメン」という分かりやすい例を挙げたが、見た目も臭いも全く馴染みのない「何か」が、料理として出されたら、安心して食べられるだろうか、と真っ先に思うだろう。美味しい以前の問題になってしまう。

ただし、情報が評価に与える影響も考慮する必要があるという。値段や産地、料理人の経歴といった情報により、「おいしさ」の認知が歪む可能性だ。

NHKスペシャル「食の起源」で、料理名が違うと、味の感じ方が違う実験が行われた。同じ料理を、2つのグループに分けて食べてもらう実験だ。

 Aグループ

  -低脂肪ごぼう健康スープ

  -パスタ風ズッキーニと大根の炒め物

 Bグループ

  -鳴門鯛のダシたっぷりポタージュ

  -モチシャキ2色麺の創作ペペロンチーノ

評価が高かったのはBグループ。料理の名前を美味しそうにするだけで、評価が違ってくる。ラーメンハゲの名セリフ「あいつらはラーメンを食べているんじゃない、情報を食っているんだ」は科学的に正しい。

認知を歪ませる知識もあるし、逆にブーストする情報もある。

今年の7月、期間限定・数量限定で、幻と呼ばれた「超こってり」を食べた。あの「こってり」を臨界突破しており、文字通り箸が立つ濃度である。

では、濃すぎて美味しくないのかと言うと、違っていた。一口目から「濃い!」と感じていたが、後味がクドくない。むしろスッキリとした甘味を感じる。この風味は飴色に炒めた玉ねぎのアレだ!と気づいた。

この玉ねぎの甘みを意識したら、脳が痺れるほどの快に撃たれた。「玉ねぎの甘さ」という知識があったからこそ、超こってりの美味しさをより堪能できたといっていい。知識のおかげで、「おいしい」は加速する。

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他にも、作品に付けられたタイトルによって評価が変わってしまう事例(佐々木健一『タイトルの魔力』)や、おいしさの比喩を擬人化する傾向(ダンチガー『「比喩」とは何か』)などの議論が興味深い。次に読みたい本がザクザク出てくる。

「おいしい」を深く考えると、より美味しく感じられるようになる。

よい本で、美味しい人生を。

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