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コンサルタントの「武器」を手に入れる方法を書いた

いわゆる「コンサルタント」と働くと、すぐに気づくのだが、やつらはめちゃくちゃ頭がいい。

この「頭がいい」とは、引き出しがたくさんあり、こみいった物事の理解が早く、口先が達者で、文章が上手い。悪用さえしなければ、ITエンジニアが学ぶところが大いにある。

奴らは、どのように考え、どうやって手を動かしているのか?

調査報告書(本物)をダシに、奴らの手口を暴きつつ、コンサルタントが持つ強力な武器を紹介する。

マネジメントが社内(庁内)を取りまとめ、少なくない予算を割り当てるための、求心力となるもの―――それが、コンサルタントが作る調査報告書である。

完璧な資料というのがあるのなら、それはコンサルが出してくるものだ。読めば分かるし、読むだけで納得させられる。現在の問題と進むべき方向、そこに立ちはだかる障壁を乗り越えるための課題が、隙の無いロジックでクリアに書かれている。

これらは、何かの形式に当てはめるだけで書けるものでもないし、「コツ」とか「Tips」でまとめられる小技ではない。実際に手を動かし、トレーニングを積んではじめて身につけられる、「考える技術」だ。

詳細はここ↓に寄稿したのだが、調子に乗って書きすぎた(1万字ぐらい)ので、腰を据えて読んで欲しい。

「諸悪の根源」コンサルタントから学ぶ。ITエンジニアが現場で活かせる思考法を習得する4冊+α

 

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非日常を味わうなら、うってつけの小説『異常 アノマリー』

非日常を味わうために小説を読むなら、うってつけの一冊。入りやすく読みやすく、するする進んでいくうちに、脳天を直撃されるだろう。そこからが本番だ。異常を楽しめ。

殺し屋、小説家、癌患者、7歳の少女、Youtuber、建築家……それぞれの生い立ちと日常が語られる。出身も信条もバラバラで、最初は、まるで共通点がない人々の群像劇に見える。

一つだけ重なっているとするならば、2021年3月に同じ飛行機に乗り合わせたという点だ。パリ発ニューヨーク行きのエールフランス006便で、乱気流に飲み込まれ、恐ろしい思いをしたという記憶が共通している。

―――この時点でスティーヴン・キングのあれとか、ディーン・R・クーンツのそれとか、あるいはデイヴィッド・マレルのとある短篇を思い出した。どれも「ある場所」にまつわる記憶を共有する、けれども全く接点のない人々の群像劇だ。

で、たぶんそういう展開なんだろうなーと思いながら読み進むと、予想のナナメ上、かつ、遥か上をカッ飛んで行った。キングもクーンツもマレルも想像も及ばない非日常の日常に向き合うことになる。

さらに、この小説に登場する小説家が書いた『異常』も出てくる。小説内小説の『異常』は、いま私が読んでいる『異常』とは似ても似つかないものの、折々にエピグラフとして引用され、非常に示唆的に先読みを誘導する。ウロボロスの尻尾になった気分だ。

随所に練り込まれたオマージュ、パスティーシュ、パロディは、最初は楽しく、次第に鼻につき、最後はウンザリさせられるほどお腹いっぱいになる。意図的なコピーを繰り返しており、いわば現実を模倣させようとしているのが分かる。

書き口も、ノワール、スリラー、ラブストーリー、書簡、ポエム、インタビュー、メタ小説、心理小説、サイエンス・ファンタジーと使い分け、コラージュのように目まぐるしく変転してゆき、息つく暇なく読みふける。

極めて異常な物語世界を提示した上で、テーマが「私の人生とは何か」になる。ありえない設定における直球過ぎるテーマのアンバランスが面白い。でも、「私の人生とは何か」を痛切に考えさせられる、これほど具体的な異常事態は、この小説しかあり得ない。

『異常 アノマリー』はエルヴェ・ル・テリエ著、フランス文学最高峰のゴンクール賞に輝き、ニューヨーク・タイムズ誌のベスト・スリラー2021に選ばれたというが、これを手に取らせたのは、スゴ本仲間のSさんのお薦めと、小島秀夫氏のこのツイート

読み終えたから分かる、確かに「もう平常心ではいられない」だなwww

馴染みのある小説のフリをした、「異常」な体験が味わえる一冊。

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物語の力を悪用する『ストーリーが世界を滅ぼす』

物語には力があるが、毒もある。

「よくできた小話」はSNSに乗ってバイアスを拡散し、政治家はフィクションを駆使して世論を分断する。広告屋は「これを買えば幸せになれる」ファンタジーをばらまき、ジャーナリズムは「よりクリック数を稼げる」ストーリーになるよう捻じ曲げる。物語はあなたを操作し、人類を狂わせ、世界を滅ぼしかねないと憂う警世の書。

「物語がどのように人を動かしているのか」に興味があるため、物語のダークサイドを告発する本書は参考になった。一方で、著者自身が物語の毒に汚染され自家中毒に陥っているのが心配になった。

物語は人を狂わせる

たとえば、2018年のピッツバーグで起きた、ユダヤ礼拝所襲撃事件だ。ライフルと拳銃で武装した男が、「ユダヤ人は皆殺しだ!」と叫びながら銃撃し、11人を殺害した事件になる。

本書の導入部で、この男の行動をストーリー仕立てで描いている。ごく普通46歳の白人男性が、ある土曜日の朝、邪悪な衝動に取りつかれ、礼拝所に集う人々に銃を向けるまでを、ドキュメンタリータッチで紹介する。

著者は、殺された人々の追悼会に参加する。弔問に訪れた数千人の中で、この棺の列と悲しみのすべては、物語のせいだと断定する。反ユダヤ主義という物語は、何度も何度もゾンビのように蘇り、人を狂わせるという。

悲劇を引き起こしたのは「人」なのだが、あたかも「物語」が感染し、人を狂気に駆り立てているかのように見える。おどろおどろしい表紙と相まって、センセーショナルな書きっぷりに、すこし鼻白む。

著者曰く、物語は、人に影響を与え、人を動かす「天然のテコ」だという。人を楽しませ、共同体への一体感を持たせるプラスの面もある。その一方で、心に入り込み、情に訴え、ものの感じかたを変え、カッコウの托卵のように世界観を送り込む。物語の力とは、人の心を「なびかせる」力だというのである。

物語は人を「なびかせる」

この「なびかせる」影響力を軸に、物語の暗黒面に踏み込む。

リアリティ番組やネトフリのドラマに夢中になり、ゲームデザイナーが作ったナラティブの世界で何時間も過ごし、ショートストーリーを歌うポップソングに身をゆだね、インスタでセレブの語りを追いかける。物語に毒されてない時間のほうが少ない。

そうした物語の毒を用いて、巧妙に人々の意志に影響を与え、印象操作が行われてきた。代表的な例はハリウッドが引き起こした、アメリカ全体の左傾化だという。

ハリウッドにおいて左派が支配的となり、ストーリーテラーたちが物語の力を用いて、アメリカ国民の考え方に影響を与えたという。

ハリウッドにおける左派支配がアメリカを多様性と平等という健全な理想の下に結集したのか、楽しませながら文化を侵食し洗脳状態にしているのかは、見る側の政治的見解によるだろう。
(p.54)

アメリカが作り出す物語は、エンタメやファッション、ライフスタイルを通じて全世界へ感染する。ポップアートの征服による帝国化を果たした世界で最初の国だというのだ。著者は、左派の浸透が世界レベルになることを懸念する。

そんな物語のダークサイドから逃れ、現実を生きるためには、科学を始めとする実証主義が重要だと説く。物語に対抗する力は、科学へのコミットメントだというのだ。

物語の自家中毒

アメリカの左傾化がどこまで現実か、私には分からない。

検索すると沸騰しているのは分かるし、左右どちらからも「エビデンス」や「データ」が提示されているのも知ってる。

ただし、どちらのサイドの「データ」も、アンケートやヒアリング調査に留まっているため、鵜呑みにできない。声高に騒いでいるからといってマジョリティという訳でもないし、タイムラインに現れない「民意」もある。

しかし、本書そのものが、ストーリーテリングの技術を駆使し、読み手の感情に訴え、さまざまな「データ」や権威を引用しながら、なびかせようとしていることは分かる。「善と悪」「現実と虚構」「物語と科学」といった対立構造を掲げ、自説の正しさを主張する。

本書そのものが、分かりやすい物語に仕立ててあるのだ。

”narrative”や”story”で検索した論文を片っ端から調べ上げたのだろう。プラトン『国家』やイエス・キリストを引き合いに出し、フィクションの力を数え立てる。勧善懲悪の物語が快楽をもたらす研究を紹介する。ノースロップ・フライやカート・ヴォネガットといった有名どころの物語論から、自説に合う箇所をピックアップしつつ、コラージュのように組み上げている。

著者は、こうした物語の毒を集めているうちに自家中毒を起こしているのではないかと考える。フィルタリングされたSNSを現実と見誤るように、物語の毒のエコーチェンバーに染まってしまっているのではないか。

気に入らない風潮について警告したい気持ちは理解できるが、著者が心配になってくる。

最も重要な物語の力

もう一つ、気になるところがある。

著者は、物語の最も重要な役割である「現実を受け止め、理解すること」から目を背けている点だ。現実はあまりにも沢山の事が起きているため、そのままの形では理解すら覚束ない。だから人は事実をピックアップして、そこに因果を見出し、物語として理解しようと試みる。

例えば、ストーリーとプロットを分け隔てる、E.M.フォスター『小説の諸相』の解説がある。

「王が死んだ。その後、王妃が死んだ」がストーリー
「王が死んだ。悲しみのあまり王妃が死んだ」がプロット

時間軸に依存するのがストーリーで、因果律に依存するのがプロットという説明だ。しかし、「悲しみのあまり」という因果を示す言葉がなかったとしても、「王が死に、王妃が死んだ」だけであっても、王妃が死んだ理由を王の死に探してしまう。

この、出来事に因果をつける本性は、千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』で指摘されている。

嘘でもいいから説明がほしい

因果関係が明示されると、なぜ物語として滑らかな感じがするのでしょうか? それは、できごとは「わかる」気がするからです。

どうやら僕たちは、できごとの因果関係を「わかりたい」らしいのです。
(千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』p.53)

人は、因果を見つけることで現実を理解しようとする動物なのかもしれぬ。

とても辛い現実に苛まれ、逃れようのないとき、「前世の行いが悪かったから」とか「死んだらきっと楽になる」といった因果のバランスを取ろうとするのも、物語の役割である。

因果を見出し、現実を理解する物語の役割は、人に対してではなく、自分が自分に対して行使されるものでもある。

しかし、人を「なびかせる」ことに焦点を当てた本書は、この役割をほぼ無視している。言及はされるものの、その強力な効果から目を背けている。そのため、物語論を語るものとしては不十分な印象を抱く。

これにより、ラストで矛盾に陥る。物語の力への対抗手段として「科学」を掲げているものの、この科学こそが、因果関係を説明する物語であるからだ。

科学とは、現実の中で測定・検証できるものから因果律を見出し、理解しようとする営みだ。これは、物語そのものだといっていい。

物語といえばフィクションを想起するため、物語と科学を等価とすると、奇妙に思えるかもしれぬ。だが、科学の営みとは、現実をいかに上手く説明し、そこから実利を得るかによる。その語り手の中で、説得力のあるストーリーの栄枯盛衰が科学の歴史になるのだから。

言い換えるなら、位置づけとしては、「世界を理解する」という大きな物語の営みの中で、反証や再現できるとか、プラグマティックであるといった性質を受け持つのが科学になる。科学は物語に包含されるものであり、対抗する存在ではないのだ。

もし著者が、「現実を理解する」という物語の役割を理解しているのであれば、物語と科学を対抗させるような話には持っていかないだろう。

自分の語りたいように現実を歪め演出するのは、ストーリーテラーの芸だ。その意味で本書は、ストーリーテラーの真骨頂だとも言える。物語毒に感染するとどうなるか、それが本書になる。

 

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美味しいを哲学すると、もっとおいしい『「美味しい」とは何か』

天下一品の「こってり」が好きだ。

食べるたびに脳内で「おいしい」とリフレインが叫んでる。このご時世、わざわざ会社に行く唯一の理由は天一といっていい。

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一方で、あの「こってり」の濃厚スープが合わない人がいることも知っている(妻である)。

ポタージュ状のあのスープを、私は「おいしい」と感じ、妻は「おいしくない」と言う。

このとき、私たちは何らかの評価をしているはずだ。その評価は、センスによる主観的なものなのか。あるいは、何かしらの客観的な基準があって、それに合うから「美味しい」と言うのか。

何かを美味しいと評価するとき、実際のところ、私は何をしているのか? その評価は、私個人のものであり、正しいとか誤っていると言えるのだろうか?

「美味しい」とは何か

こうした疑問について、美学の立場から追求したのが、『「美味しい」とは何か』だ。

美学(aesthetics)は、評価を下すときに用いる「センス」を考察対象とする哲学である。「美とは何か」という美の本質や、「どのようなものが美しいのか」という美の基準、「美は何のためにあるのか」という美の価値を扱う。

本書が非常にユニークで、おそらく世界で唯一と言ってもいいのは、「食」がテーマであること。

美学はその成り立ちから、詩や音楽、絵画や彫刻といった芸術作品を俎上に研究されてきた。芸術の本領は美にあり、その美はセンスで認識されるという考え方だ。

そうした美学の道具立てを用いて、食べたときに感じる「あの快感」を考察する。しかも美学だけに留まらず、認知科学や言語学とも接続させて、「おいしい」を追求する。ユニークで挑戦的な試みだ。

「高級な芸術作品と比べると、『食』は低級なんじゃない?」「目や耳で感動する芸術と、舌を満足させる飲食を比較するなんて!」

……こうしたツッコミが来ることを予想し、著者は丸々一章を割いて、認知科学の様々な成果を紹介する。「おいしい!」は、舌だけでなく目や耳や鼻、温度や食感も含めたマルチモーダルな芸術であることを説明する。

蓼食う虫も好き好き v.s. 文化的相対性

古典的美学では、「趣味については議論できない(De gustibus non est disputandum)」というラテン語の格言が取り上げられる。いわゆる「蓼食う虫も好き好き」である。

何を食べて何をおいしいと感じるかは、人それぞれ、個人の趣味の問題であり、他が口を出す筋合いはないという考え方だ。

著者は、なるほどといったん受け止めるが、同じことは絵画でも音楽でも同じことが言えるのではないか、と指摘する。

この絵は美しいとか、この曲はカッコいいというとき、そこに何らかの評価が発生している。「このダサい絵が良いだなんて、センスないね」と言われても、大きなお世話だと感じるだろう。この会話は、絵や音楽といった芸術作品に限らず、食でも成り立つ。

そして、「センスや評価は主観的な好みの問題だ」とする立場を、「主観主義」と名づけ、評価に正解/不正解は無いとする。何らかの基準と照らし合わせて、合っている/違っていると判定できるものではない、とする立場だ。「こってり」に対する、私と妻の見解の違いがこれだね。

一方、逆の立場もある。何かの基準があり、それに照らし合わせて正誤を問うことができるという「客観主義」の考え方だ。大多数の人によって設定できる「標準的なおいしさ」というものがあるのだろうか?

これに対し著者は、「文化による」と答えている。

アメリカの食文化で育った人はルートビアを「おいしい」というが、日本の食文化で育った人は「まずい」というだろう。北海道のジンギスカン、中国の臭豆腐、フィンランドのサルミアッキ、スウェーデンのシュールストレミングなど、「おいしい」について正反対の評価が出るのは、食文化によるからだという。

そして、地球上には様々な食文化があり、それぞれの好みが違う以上、「人類標準のおいしさ」というものは無い、と結論づける。ただし、それぞれの食文化の中では、「おいしい」という評価を客観的に引き出すことはできるという。

「人類標準のおいしさ」はあるのか

ここはとても面白い議論ポイントだ。

私は、「人類標準のおいしさ」はある、と考えている。

まず、スケールを、進化レベルに広げてみよう。

人類の感覚器官の機能や構造は同じだ。より感覚が鋭いといった個体差はあるだろうが、ほとんど変わらないといっていい。人類として進化してきたバックグラウンドは同じだ。

そのため、あらゆる食文化に共通して存在する要素に着眼すると、人類標準のおいしさが見えてくるのではないか、と考えている。

例えば、油脂や糖だ。私たちが「コクがあっておいしい」と感じるとき、そこに何が含まれているか。フォアグラやウニ、生クリームやバター、イクラの共通項として、油脂や糖が挙げられる。

そして、油脂や糖が示しているのは、高カロリー、高タンパク質、糖分だ。生きる上で必須のアミノ酸を豊富に含んでおり、「コクがある」食べ物は効率的に摂取できる。進化プロセスの大部分を腹を空かせて生きてきた人類にとって、「コクがある」とは、生存に直結する重要な感覚になる。

次に、食文化を、適応という観点で見てみよう。

人類の肉体構造は変わらないし、必要な栄養も一緒なのに、これほど多様な食文化があるのはなぜだろうか? まず第一に考えられるのは、気候や風土が違うからだろう。気候帯や地勢によって、手に入る食材が異なるからだ。

例えば、生野菜が得られにくい地域では、生肉や動物の内臓からビタミンを確保する。アメリカ人が好むステーキと、日本人が日常的に食べるご飯は、どちらも最終的に糖にすることができる。代謝機能のおかげで、地域ごとに偏った食材でも、生きていけるのだ。

そして、地域ごとの食文化によって、好みが学習される。食べ慣れたものを好ましく感じるのは、「食べたことがある」という味覚や風味は、食の安全の信号になるからだ。親や家族が食べていたから、子どもも食べる。これが繰り返されて、嗜好ができあがる。

食文化を横断して「おいしい」という経験が蓄積されているものが、人類標準のおいしさになるだろう。一つ思いつくのは、カップヌードルだ。発売より半世紀、累計販売数500億食を超え、あらゆる文化圏で食べ慣れている。

かなり脱線してしまった。進化プロセスの適応から考えた「美」や「おいしさ」については、以下の記事で詳述している。もちろん、時代による変化はあるものの、人類共通の「美」や「おいしさ」は存在すると考える。

「おいしい!」と感じるとき、何が起きているのか『味覚と嗜好のサイエンス』

「美しさ」のサイエンス『美の起源』

「おいしい」に知識は必要か

脱線から戻る。

本書の指摘で面白かったのが、「純粋主義」という考え方だ。

天下一品の「こってり」は、「もはや飲み物ではない」と言い切る。「大量の鶏がらを丸一日かけて炊き上げ、数十種類の野菜を加えて、深みがあり、飽きのこないスープに仕上げた」とある。麺については、「ゆっくり時間をかけて熟成させ、スープに負けない風味と、しっかりとした食感をもつ」とある。

こうした言葉を介した情報は邪魔であり、自分の感じたままに評価できないため、排除すべきだという考え―――これが純粋主義である。五感だけを頼りにすることで、「純粋な評価」ができるという主張だ。

これに著者は反対する。そもそも、あらゆる知識を排除した「純粋な評価」に無理があるという。

例えば、出されたものを「これはラーメンだ」とカテゴライズして食べるだろう。そのラーメンが美味しい/まずいはその後になる。ラーメンと寿司とケーキを全て同じ基準で評価することはない。それが美味しいかどうかは、「ラーメンとして」美味しいかどうかの話だ。

そのため、まずラーメンとは何であるかという知識が必要になる。その知識も、麺類であるとか、熱々のスープだとか、醤油や味噌やトンコツといった味があるといった体系的な知識が必要となる。

そういった知識を完全に無くすことは不可能だし、かりにやれたとしても雑な評価になるというのだ。いま、「ラーメン」という分かりやすい例を挙げたが、見た目も臭いも全く馴染みのない「何か」が、料理として出されたら、安心して食べられるだろうか、と真っ先に思うだろう。美味しい以前の問題になってしまう。

ただし、情報が評価に与える影響も考慮する必要があるという。値段や産地、料理人の経歴といった情報により、「おいしさ」の認知が歪む可能性だ。

NHKスペシャル「食の起源」で、料理名が違うと、味の感じ方が違う実験が行われた。同じ料理を、2つのグループに分けて食べてもらう実験だ。

 Aグループ

  -低脂肪ごぼう健康スープ

  -パスタ風ズッキーニと大根の炒め物

 Bグループ

  -鳴門鯛のダシたっぷりポタージュ

  -モチシャキ2色麺の創作ペペロンチーノ

評価が高かったのはBグループ。料理の名前を美味しそうにするだけで、評価が違ってくる。ラーメンハゲの名セリフ「あいつらはラーメンを食べているんじゃない、情報を食っているんだ」は科学的に正しい。

認知を歪ませる知識もあるし、逆にブーストする情報もある。

今年の7月、期間限定・数量限定で、幻と呼ばれた「超こってり」を食べた。あの「こってり」を臨界突破しており、文字通り箸が立つ濃度である。

では、濃すぎて美味しくないのかと言うと、違っていた。一口目から「濃い!」と感じていたが、後味がクドくない。むしろスッキリとした甘味を感じる。この風味は飴色に炒めた玉ねぎのアレだ!と気づいた。

この玉ねぎの甘みを意識したら、脳が痺れるほどの快に撃たれた。「玉ねぎの甘さ」という知識があったからこそ、超こってりの美味しさをより堪能できたといっていい。知識のおかげで、「おいしい」は加速する。

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他にも、作品に付けられたタイトルによって評価が変わってしまう事例(佐々木健一『タイトルの魔力』)や、おいしさの比喩を擬人化する傾向(ダンチガー『「比喩」とは何か』)などの議論が興味深い。次に読みたい本がザクザク出てくる。

「おいしい」を深く考えると、より美味しく感じられるようになる。

よい本で、美味しい人生を。

 

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「コペンハーゲン解釈」「多世界解釈」だけではない、量子力学の解釈を10個にまとめてみた『量子力学の諸解釈』

混迷する物理学が面白い。

原子や電子といった小さなスケールで世界を考えるとき、常識が通用しなくなっている。観察対象には実体があって、位置や速度を持っているという、当たり前のことが成立しなくなっている。

例えば、電子は粒子でありながら波でもある現象について。二重スリットを通過する電子は、干渉しあった波のような縞模様が出てくる。一方で、電子を一つずつ発射すると、粒子のように観測される。しかし、継続していくと、波のような干渉縞になる(粒子波動二重性)。

あるいは、観測によって、電子の振る舞いが劇的に変わる、波動関数の収縮について。スクリーン上の一点の電子を観測する実験を、波動関数の変化とする。電子を観測する前だとシュレーディンガー方程式に従って存在するが、ひとたび観測すると、従わなくなる。観測によって結果が異なるパラドクスだ。

さらに、電子の位置と速度を同時に測定することができない、NOGO定理だ。本書では、もっとはっきりと「『物体が何らかの値を持っている』と仮定することができない」と意味付けている。「物質が実在する」という素朴な考えを揺さぶる現象だ。

面白いのは、常識を揺さぶるパラドクスだけではない。これらを解釈するために生み出される、様々な理論が楽しい。奇妙で不可思議なことを説明するのだから、常識外れのアイデアが飛び出してくる。SFよりもSFだが、机上の空想ではなく、これまでの観測結果や理論に則した解釈だ。

「コペンハーゲン解釈」や「多世界解釈」といった名前は耳にしたことがあるが、実際その中身がどうなっているかは、よく分からない。箱の中の猫といった、喩え話でしか理解できていない。

こうした解釈を網羅的にまとめあげ、解説したのが『量子力学の諸解釈』になる。

それぞれの解釈で論文が大量にあるのだから、この一冊で全部を理解するのは難しい。

だが、どういうアプローチで理解しようとしているか、という量子力学の「分かり方」が分かる。文字通り、世界の見方を変える必要があるものから、回答から逃げているもの、量子力学そのものを書き換えるものまで、盛りだくさんだ。人間の想像力(創造力?)の限界を突破している様がよく見える。

量子力学の解釈を大別すると、2つのグループに分かれる。実在主義的な解釈と、経験主義的な解釈だ。まずは実在主義的な解釈から紹介する。

実在主義的な解釈4つ

実在主義的とは、具体的なイメージが浮かびやすい解釈になる。例えば、粒子が、はっきりと軌跡を描いて飛んでいくもので、これはイメージしやすい。その分、パラドクスを整合的に説明するのは難しい。

軌跡解釈
電子は粒子であり、はっきりと軌道を持っている。軌道は確定的で、量子ポテンシャルによって因果的に決まる。量子ポテンシャルの非局所的な効果によって、粒子軌道に干渉縞が生じる。

確率過程解釈
系ははっきりとした軌道を持つが、軌道は揺らいでいる。軌道を決める方程式は確率過程論的であるが、その過程は、通常の過去→未来への時間軸だけでなく、未来→過去へ向かう過程も含むため、方程式が時間対称となる。

アンサンブル解釈(統計解釈)
波動関数は個別の系に関する記述ではなく、系の統計集団(アンサンブル)に関する記述と考える。「観測前から物質量に対してはっきりと値を持つ」バージョンから、「全ての物質量が同時に値を持たない」とするバージョンまである。アインシュタインがこれ。

交流解釈
物質の実体は波と考える。放射体から過去と未来に向けて提案波が放出され、それを受けた吸収体から過去と未来に向けて確認波が出され、それらが重なり合い反響が生じ、確率的に交流が完了し、エネルギーが移動する。ファインマンがこれ。

実在主義的に「物質は実体を持ち、値がある」という前提から始めると、パラドクスを説明するのに苦しそうだ。

経験主義的な解釈6つ

一方、経験主義的な解釈は、もっと現実的な対応をする。

量子力学の範囲内に限定して説明する方針になる。電子の干渉縞という現象や、観測する実験プロセスに対し、量子力学だけで説明するならどうなるか、というアプローチだ。

言い換えるなら、量子力学の範囲で説明できない観測問題や解釈については手を出さない。なぜなら、量子力学の実験で理論を実証できないから。

多世界解釈
エヴェレット相対状態解釈を起源とし、観測者(観測器)を波動関数で表し、系の状態を観測者の状態に相対的に見る。系の状態と観測者の状態が相関を維持しながらセットで分岐し、干渉性を喪う。多世界解釈では「世界の分岐」と見なす。

無矛盾歴史アプローチ
初期状態から観測までをつなぐ可能な歴史を与える。可能な歴史とは「無矛盾条件」を満たす歴史であり、そうした歴史の集まりを「無矛盾歴史族」という。同時に仮定してよい歴史の組は「単一枠組み規則」によって与えらえる。

GRW理論
シュレーディンガー方程式に従う波動関数の時間発展の他に、一定の割合で自発的な収縮が起こると考え、これにより波動関数の収縮を説明する。つまり、量子力学に新しい物理が付け加えられており、量子力学の「解釈」というより「改良」になる。

量子理論・様相解釈
全ての物理量を平等に扱う(軌跡解釈や確率過程解釈のように、位置だけ特別扱いするようなことをしない)。古典論理が誤っていて、新論理(量子論理)が見つかれば、同時確率やベル不等式が成り立たない場合もあることを説明できると考える。

コペンハーゲン解釈
確率の背後にある実在世界や観測前の値のことを一切考慮しない。コペンハーゲン解釈では、「測定が行われるまでは実在というものを考えてはいけない。確率振幅に関する情報のみが存在する」と主張する。

量子ベイズ主義
確率の背後にある実在世界や観測前の値のことを一切考慮しない点までは、コペンハーゲン解釈と同じ。量子ベイズ主義は、波動関数から計算した確率はベイズ確率であり、量子系そのものが持つ性質ではないと主張する。その確率は我々が持つ信念の度合いによる。

波動関数の収縮といった現象は、「説明しない」「問題としない」という考え方だ。理論というよりも、態度に近い。問題としないのであれば、パラドクスでもなんでもない。

ある意味、潔いというか「科学者として」正しいことを言っている。要するに、実験で立証できないものは、哲学の範疇であって、科学者に求めるのはお門違いという態度だ。こういうセリフもある。

コペンハーゲン解釈を一言で表すなら、「黙って計算しろ!」になる

科学というものは、謎を解くためにあるのではない。現実を観測して再現するための便利なツールに過ぎないのだから、科学に「なぜ」を求めないでくれ、という主張だ。

言いたいことは分かるのだが、思考停止とどう違うのかが分からない。この態度は、「それでいいのだ」と聞こえる。バカボンのパパ並みに断定されると、ぐぅの音も出ない。

ただでさえ難解な量子力学という分野で、莫大な実験や論文で溢れかえり、自分の研究で手一杯で、研究費の確保に忙しい「科学者」にとって、センス・オブ・ワンダーの持ち合わせは無いのかもしれない。

「それでいいのだ」と言い切る「科学者」ばかりならば、私が生きている間にブレイクスルーは見届けられないだろう。一方で、この10個とは似ても似つかない解釈も生まれるかもしれない。さらに、その新解釈に導かれ、新たな発見もあるだろう。

そっちの方が楽しみだ。

おまけ:方程式・定理における「時間」について

本書には大量の方程式や定理が登場する。

難解な代物ばかりで、ほとんど理解できない。だが、方程式を眺めていて奇妙に感じたことがある。それは、「そこに時間は存在するのか」という疑問だ。

ニュートン以来、数学と物理学の相性は極めて良好なのだが、数学に無いのに物理学にあるもの、それは「時間」だ。

数学の定理とは、定義から導き出せる一般則だ。別観点から見た本質といってもいい。

例えば、三平方の定理。「直角三角形の斜辺の2乗は他の辺の2乗の和に等しい」は、「ある辺の2乗と、他の辺の2乗の和が等しいなら、それは直角三角形」になる。定理は本質の言い換えになる。本質を別の表現で述べているだけなので、イコールで結ばれた左辺と右辺には時間が存在しない。両者は「いつも」成立している。

しかし、物理学における「方程式」は観測結果から導出された現象を一般化したものになる。森羅万象のうち、「観測可能なもの」だけに焦点を当てて、「式で表せそうなもの」に近似させたに過ぎない。結果、式に当てはまらない現象は、定理を拡張させたり、もっと端的に誤差として切り捨てたりする。

また、科学技術の発達に従って、より精緻な観測結果が得られるようになったり、前提条件が明らかになったりする。「扱えそうな現実のみ、扱う」という方針により、物理学が追求しているのは、現実ではなく、現実の近似なのだ。

この、現実との近似という観点から考えると、2つの時間が考慮されていないように見える。

一つ目。物理学の方程式のうち、左辺と右辺は「いつも」一致するとは限らないものがある、という前提を見落としているのではないか。

言い換えるなら、左辺と右辺、それぞれの式を成立させるためにかかる時間は、異なっているのではないか、という疑問だ。その結果、本当はイコールで結べないにも関わらず、等しいと見なしてしまっている定理があるのではないだろうか。

あるタイミングにのみ成立する右辺と、また別の条件でしか成り立たない左辺を、方程式という顔つきをしているだけで、「いつも」一致していると見なしてはいないだろうか、という疑惑だ。

「タイミング」という言い方が気に入らないのであれば、右辺を成立させるためにかかる時間と、左辺を満たすためにかかる時間が異なっているにも関わらず、一致させてしまっている方程式が、基礎的な理論の中にいるのではないか。

数学と物理学の親和性が高いため、うっかりすると見過ごしてしまう。だが、数学の方程式と、物理学の方程式は、その成り立ちからして違うものだ。数学の方程式ならば、両辺に同じものを加えたり、左辺から右辺に移項したりしても、「いつも」成り立つ。だが、物理学の場合、「いつも」成り立つとは限らない。

二つ目。一般化した「時期」による定義の変化が考慮されているのかという疑問だ。方程式を成立させるためには、前提があり、その前提は、式を成立させた時代の科学技術による。異なる時期の方程式を、見た目が方程式だからといって、無邪気に代入してもよいのか、という疑問である。

極端な例を示す。

ニュートンの運動方程式は、F=maだ。Fは物体に加わる力で、mは質量、aは加速度になる。一方、アインシュタインが特殊相対性理論から導いた式は、E=mc^2だ。Eはエネルギーで、mは質量、cは光速だ。

ここでm(質量)に着目する。両方の式に出てくるから、単純に代入して、E=(F/a)c^2なんて式を作ることはできない。それぞれの前提が異なるし、無視している条件もある。また、成立した時期も測定機器も違うため、同じmであっても、「質量」の定義からして違う。観察対象の系(system)が違うのだ。

これと同じようなことをやっているのではないか、という疑惑だ。

例えば、ボームの軌跡解釈(p.38)だ。運動方程式を改変したものを、シュレーディンガー方程式と等価と見なしている。本来、前提からして異なるものを、「質量」や「定理」や「方程式」という見た目からして、同じようにしてしまっているのではないか。

仮に、このような「操作」が許されるのであれば、結果から方程式を逆演算するというアプローチもありになる。つまり、物理学で「方程式」とされているものをAIに学習させた後、未解決の実験結果に当てはまるよう、方程式を改変させるのだ。代表的な式の数は、せいぜい数千だろうから、そんなに賢いAIじゃなくても、順列組み合わせの力任せで行けるかもしれぬ。

そんな妄想が捗る捗る、おそらく唯一無二の一冊。



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