« 2022年8月 | トップページ | 2022年10月 »

新訳で劇的に面白くなった名著『新版 歴史とは何か』(E.H.カー)

・歴史とは現在と過去との終わりのない対話である
・世界史とは各国史をすべて束ねたものとは別物だ
・すべての歴史は「現代史」である

名言だらけのE.H.カーの名著。

昔は「教養を身につけるため」と有難がっていた。今でも教養課程の必読書とされているかもしれない。文系理系関係なく読むべき名著といえば、『理科系の作文技術』とこれだろう。

ところが、新訳を読むと、がらりとイメージが変わった。「教養を身につける」という体裁よりも、むしろ、ユーモア満載、毒舌たっぷり、ハラを抱えて大笑いできる一流の講義になる。

論敵をあてこすり、酷評し、嘲笑する。死者を皮肉り、(歴史学も含めた)人文学を軒並み張ッ倒し、強敵は名指しで祭り上げ、しかる後にメッタ斬り。

母親の膝のうえで学んだ子どもっぽいナイーヴな学説だとか、成績が「可」ばかりの学生みたいな史観だとか、めずらしく階級的感覚の低い発言だとか、嫌味と毒舌のオンパレード。ページをめくるたび、黒い笑いの発作にまみれる。

なぜ新訳が面白いのか

60年前の岩波新書と比べると、新訳では5割くらい毒が増してる。なぜか?

それは、[笑] が追加されたから。

[笑] とは、「ここ笑いどころだよ」と明らかに笑いを誘うところを示す目印だ。文末に追加されている。テキストメディアだと草生える「w」だね。

「w」だと品が無いから [笑] になったんだろうけど、これが毎ページ毎ページ出てくる。何でもない一文なんだけれど、 [笑] が追加されることで、裏の意味を考えるようになり、皮肉が見えてくる。

イギリス流の嫌味で分かりやすいやつだとこれかな。カッコ()内は裏の意味。

  • Happy as a pig in muck/泥の中の豚みたいだね(幸せそうで何より)
  • Were you born in a barn?/お前、納屋で生まれたの?(寒いからドアを閉めろ)

京の茶漬けとか時計誉めみたいなものだろうが、一見さんでは分からない。

新版を訳したのは近藤和彦氏、イギリス史が専門だ。東大→ケンブリッジで学び、オックスフォードとケンブリッジを歴任した、ゴリゴリの歴史学者である。イギリス流の嫌味もたくさん浴びてきただろうから、カーの毒も見えるのだろう。

そんなことに気づかず、「教養を身につける」と有難がっていた私自身が可笑しい。まさに教養が足りていなかったが故に、皮肉を皮肉と気づかずスルーしてしまっていたのだ。ウケるwww

ここは、顔真っ赤にして怒る(嗤う?)ところなのかもしれない。

歴史とは何「でない」か

タイトルの「歴史とは何か」という問いに対し、計6回の講義でそれに応える。

ああでもない、こうでもないと議論を重ねながら、バッサバッサと論敵をなぎ倒してゆく。寄り道、脱線、例え話が長引くにつれ、「歴史とは何か」というよりも「歴史とは何でないか」を語られているような気がしてくる。

歴史とは何かについて答えようとすると、二つの極が現れる。

一つの極は、過去の出来事を取捨選択し、そこから一般化できるものを抽出する。未来も含め、どの時代にも適用できる、普遍的・客観的な法則のようなものを打ち立てる方針だ。「歴史法則」という言葉が如実に示している。

もう一つの極は、この反対だ。どの出来事を取捨選択し、何に焦点を当てて判断するかは、時代背景や歴史家の立場によって異なる。従って歴史とは、相対的な解釈を並べたものになる。あらゆる価値判断は相対的であるという立場やね。

カーが面白いのは、そのどちらにも与しないところ。与しないどころか、両方ともこっぴどく批判する。

まず、歴史の普遍性・客観性を抽出する立場を攻撃する。歴史家は人間であるが故に、自身が生きる時代や価値判断から離れ、自由になることはありえない。従って、自然科学のような、観察者と対象を分けて分析し、「歴史法則」を見出すような手法は不可能だと説く。

次に、もう一方の相対主義も却下する。さまざまな解釈を認め、客観的なものなど無いとする立場は、「見る角度を変えると山の形が変わるから、山なんて存在しない」と主張するのと同じで、危ういと説く。

歴史における客観性と相対性、どちらも重要だと思うのだが、どちらもボコボコにされる。[笑] の毒気に当てられて、爆笑しながら読んでいるうちに、ちょっと心配になってくる。

調子に乗って攻撃するあまり、カー自身の立場を掘り崩しているのではないか、と思えてくる。

なぜなら、カーの答えの否定にもなりかねないからである。

歴史とはモデルを作ること

カーの答えを端的に言うと、「歴史とはモデルを作ること」になる。

歴史家の世界とは、科学者の世界と似ていて、現実世界の写真コピーではなく、むしろ現実世界を理解し制御(マスター)するのが多少とも効果的になるようにした作業用の模型(モデル)なのです。
(p.172)

過去の出来事を選び取り、つなぎ合わせ、合理的な解釈を導くことができるモデルを作り上げる。モデルからは行動の指針として役立ちそうな結論を引き出す―――これが歴史家の仕事だという。

モデルとは、仮説とも言える。過去の出来事を一般化し、理解を深めるための思考のツールなのだ。仮説の有効性はずばり「解釈に有効か否か」による。

例えば、中世や近世といった時代区分があるが、そんな事実は無く、便宜上の仮説に過ぎない。だが、時代を解釈する上で有用であれば、時代区分というモデルを使うべきだろう。「ヨーロッパ史」という地域史の概念は、有用なときもあれば有害な場合もあるという。

要するに、解釈によりモデルは変わるわけだ。

カーは自説を補強するため、ポアンカレ『科学と仮説』を援用する。珍しいことにカーに攻撃されなかった論文だ。

ポアンカレの主張の要は、科学者が表明する一般的命題とは、考えを具体化したり整えたりするための仮説なのであって、検証、修正、反駁される定めであるというものでした。これはすべて、今では常識となっています。
(p.193)

現実世界を観察し、出来事を一般化し、パターンを抽出する。パターンをモデル化することで、より合理的な解釈を導くという。そして、自然科学における仮説と検証は、歴史学における一般化と事実とよく似ていると胸を張る。

「客観的な歴史」は存在するか?

なるほど……と思うのだが、ツッコミを入れたくなる。

たった今述べた「歴史とはモデルを作ること」は、先ほど攻撃した、歴史の客観性を追求する立場ではなかろうか。歴史家は、自身の価値判断から離れた「客観的な」立場にはなりえないため、作られるモデルとやらもバイアスが入っているのではかろうか。

……なんて意地悪なことを考えたくなる。

「客観的な歴史」は、カー自身も悩みどころとなっている。第5講「進歩としての歴史」の中で、歴史の客観性について述べようと試みるが、たいへん苦しそうだ。

歴史家は自分のバイアスを認識せよとか、時を経るごとに歴史学は進歩して客観的になってゆくとか言っているけれど、それって「歴史とは相対的なもの」だからでしょうに。

「過去を合理的に解釈するためのモデル」は、一つではない。

国や文化、宗教、言語、社会など、さまざまな切り口で、解釈のモデルは変わってゆく。論敵の数だけ仮説があることは、カー自身が痛感していただろう。

それにもかかわらず、「より客観的になる」ことはあり得るのだろうか。ジェンダー・セクシュアリティの歴史や、ポストコロニアルの歴史など、新しいモデルが増えていくのではないだろうか。

まだある。本書では一切触れられていない、「歴史を扱う人」の観点だ。『歴史とは何か』では、歴史は歴史家のみが扱うもので、その歴史に生きる人々―――要するに私たち―――の視点がゴッソリと抜けている。

歴史家が作り上げたモデルの整合性や、解釈の妥当性を検証したり、もっと他に「客観的な」仮説があるかを話し合うといった歴史実践が、全く書かれていない。あたかも、歴史とは歴史家が書いたものが全てであり、素人は恭しく受け取っていればよろしいと言われているみたいだ。

異なる国や社会の人たちや、一般市民を巻き込んで歴史を語ろうとするならば、膨大な数の「過去を合理的に解釈するためのモデル」が出てくるだろう。結果、歴史家のモデルは埋もれてしまうだろう。カーが怖れた「見る角度を変えると山形が変わるから、山なんて存在しない」になるかもしれない。

『歴史とは何か 第2版』の草稿

同じ問題意識は、カーも抱いていたようだ。

というのも、このテーマは幻の「第2版」で深掘りされているからだ。

『歴史とは何か』の反響は良い方にも悪い方にも大きく、論敵の反撃がすさまじかったらしい。カーは、さらなる応酬をするべく準備を進めていたものの、序文だけを記し、世を去っている。

残されたのが、相当数の書籍メモ、原稿の下書き、引用になる。イギリスの歴史家R.W.ディヴィスが、これら膨大な資料を元に「第2版のための草稿」としてまとめている。これは感涙モノ。草稿にはタイトルがつけられていて、いくつかピックアップしてみるとこうなる。

  • 因果連関、決定論、進歩
  • 文学と芸術
  • 革命と暴力の理論
  • 歴史の混乱状態
  • 統計学の攻撃
  • 心理学の攻撃

これ、絶対に面白いやつ!特にカー自身のメモによると「最終章は『ユートピア 歴史の意味』」だそうだ。旧版に親しんだ方なら、「第2版のための草稿」を最初に読むことで、カーの思考の変遷を辿るのも楽しいかも。



| | コメント (0)

再読すれば再読するほど夢中になるリチャード・パワーズ『黄金虫変奏曲』

毎夜、取り憑かれたかのようにのめり込む。

800ページ超の鈍器本なので、持ち歩くには向いてない。アメリカ文学の鬼才リチャード・パワーズの長編小説なので、面白さは折り紙付き。

2組のラブストーリーを軸に、進化生物学、音楽、文学、歴史、芸術論、情報科学が丹念に織り込まれており、知的好奇心と物語の引力に惹かれながら、読んでも読んでも終わらない幸せが何夜も続いた。

充実した十八夜を過ごし、惜しみ惜しみ最後のページに至った時、「これ、最初のページに繋がっている!」ことに気づく。ダ・カーポ(始めに戻る)やね。そして、もう一度はじめから読み返す。

(この物語の構造上、中身に触れずに紹介するのは難しい。ある程度ストーリーに踏み込んでゆくので、ご容赦願いたい)

2人の主人公

主人公はオデイ、ニューヨーク公共図書館に勤めている。利用者が寄せる様々な種類の質問に答える司書だ。

  • 地球上にはまだ測定されていない場所はありますか
  • 豊かな国に移住したいです。どこに行けばいいですか?政府はどんなタイプでもいいです。どのみち投票にはいかないので
  • 我々が他の星の生物と対話を交わす日がやってくる可能性はどのくらいあるのでしょうか

質問カードに書かれた文意を読み解き、どんな意図のもとに疑問を抱いているのかを推察し、場合によって複数の文献を参照しながら答える。1980年代のお話なので、コンピュータの助けを借りることもある。リファレンスと呼ばれるこの仕事は、一種の解読作業といっていい。そんな彼女に、いっぷう変わった「調べもの」を依頼する青年が現れる―――

もう一人の主人公はレスラー、新進気鋭の生物学者だ。時代は少しさかのぼり、1950年代、ちょうどワトソン&クリックの核酸の分子構造モデルが発表された頃のお話だ。

DNAが二重螺旋構造をしていることまでは明らかになった。また、核酸の4つの塩基構造が、生命のコピーや発現に関係することも分かった。だが、4つの塩基が、どうやってタンパク質の合成に関わっているのかは分からない。暗号解読の競争が熾烈を極めた時代でもある。

斬新な論文が認められ、やり手の教授に招かれ、研究チームに放り込まれる。細胞学、プログラミング、タンパク質学、生化学のプロフェッショナルが集まるチームで、ある女性と出会うことになる―――

1980年代の恋と、1950年代の恋。季節は夏から始まり、秋、冬、そして次の夏へと移ろうにつれ、2つのエピソードが交互に進んでゆく。オデイの恋と、レスラーの恋が、場所も時代も違うのに、並行して絡み合うように描かれてゆく。

思わせぶりな章構成と、タイトルそのもののダブルミーニングの予感は、読み進めるに従い、次第に明らかになってゆく。

『黄金虫変奏曲(The Gold Bug Variations、以後GBV)』は、バッハの変奏曲(Goldberg Variations)を想起させる。実際、レスラーの生涯をかけて聴き込むことになるレコードはこれだ。冒頭のARIA(アリア、歌曲)を様々な形に変奏した、計32曲で構成されている。

一方、『黄金虫変奏曲(GBV)』から想起される『黄金虫(The Gold Bug)』は、ポーが書いた小説になる。宝物を隠した海賊の暗号を解き明かす、ミステリ仕立ての短編だ。暗号は初歩的な換字式暗号(記号を別の文字に置き換える)だが、GBVの中でも度々登場する。

ゴルトベルク変奏曲との重ね合わせ

せっかくなので、ゴルトベルク変奏曲をyoutubeで検索する。

カナダの名ピアニスト、グレン・グールドのデビュー曲がヒットしたので、リピートしながら読んでゆく。グレン・グールドをBGM代わりにするなんて、贅沢な読書だなと思っていると、あることに気づく。

とあるメロディラインが、くり返し現れてくる曲がある。もちろん、変奏曲なのだから同じフレーズが幾度も登場するのは当然だ。だが、同じ曲の中でメロディが追いかけるように流れ出ている。

これをカノン(Kanon)と呼ぶ。同じ旋律をずらした時点で始めて、あたかも追いかけっこをするように奏でる手法だ(「かえるの合唱」が有名やね)。GBVにも「同度のカノン」や「二度のカノン」といったタイトルの節が登場する。

では、「同度のカノン」「二度のカノン」の違いは何だろう?と調べてみる。「度」は音楽用語で、音の離れぐあいを示す。例えば、ドとドを一度(同度)、ドとレを二度と呼ぶ。

バッハが凄いのは、度を一つずつ上げながらカノンを作り上げたこと。最初は「同度のカノン」の曲、次は「二度のカノン」、さらに三度、四度と曲ごとに度を上げている。単に度をずらすと、メロディーが成り立たない。だが、ゴルトベルク変奏曲では、度を上げても曲として成立させている。超絶技巧といっていい。

そこでハタと気づく。まてよ、GBVを読み進めると、「三度のカノン」「四度のカノン」というタイトルの節が登場する。ひょっとすると、GBVはゴルトベルク変奏曲と同期しているのでは……!?

冒頭の章に戻ると、確かに「ARIA」と書かれている。そして、ゴルトベルク変奏曲もARIAで始まる。さらにゴルトベルク変奏曲は32曲で構成されており、GBVも全部で32章になる。なるほど、タイトルだけでなく、構造もゴルトベルク変奏曲に合わせているわけだ。

それだけではない。

ゴルトベルク変奏曲でカノンが登場する曲は、3の倍数になる。例えば、3曲目、6曲目、9曲目に、それぞれ「同度のカノン」「二度のカノン」「三度のカノン」になる。それぞれの曲で、一度ずつ上がったカノンが奏でられる。

一方、GBVでは、3章、6章、9章のそれぞれに、「同度のカノン」「二度のカノン」「三度のカノン」の節が登場する。そして、3の倍数の章では、オデイの恋とレスラーの恋は、それぞれ進展する。出会い、初デート、愛を交わす恋の進行は、オデイの方が少し先行し、その後を追いかけるようにレスラーの恋が実ってゆく。

これはカノンそのものだ。互いに絡まり合うような物語構成は、螺旋構造を成している。随所に出てくる楽譜では、左手で演奏される和音(コード)が根幹とされ、主旋律がどんなにアレンジされていても、和音は変わらず引き継がれる。この物語そのものが、生命のコピーを生み出すDNAを模しているのかもしれない。

まだある。ゴルトベルク変奏曲の第25曲は、不協和音に満ちている。実際に聴いてみるとすぐ気が付くが、不安を掻き立てる耳障りな曲になっている。これに対応するGBVの第25章では、物語の中で大きな不幸が生じる。登場人物たちを苦悩させ、袋小路に追いやることが起こる。

わたしが見出せたのはこれくらいだが、他にも数多く隠されているに違いない。バッハの超絶技巧を、パワーズが小説で踏襲している。聴くことと読むことが同期して、わたしの中で重ね合わされてゆく読書になる。

黄金虫との重ね合わせ

GBVのストーリー自体にも、黄金虫やバッハが練り込まれている。たとえば、若き日のレスラーが取り組んでいるDNAの暗号解読だ。

DNAの情報は、アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)の4種類の塩基配列で綴られている。一方、タンパク質を構成する情報は、20種類のアミノ酸配列になる。塩基は3つで1組なので、その組み合わせは4×4×4=64になる。つまり、64通りの組み合わせから、20種類のアミノ酸へ置き換える仕組みが必要になる。

レスラーの上司の方針では、DNAに並んでいる文字を元に、どんなメッセージが書かれているかを総当たりで試行錯誤で探すやり方だ。世界最初のコンピュータILLIACを用いて、力任せに解読するやり方だが、あまりに労力が大きい。レスラーは、この総当たり方式に疑問を覚える。

あるきっかけで『黄金虫』を読んだレスラーは、換字式暗号をそのままDNAの解読に当てはめようとしても、上手くいかないことに気づく。

『黄金虫』では、一番多く出てくる記号を、最もたくさん使われているアルファベット(e)と見なし、あとは出現頻度の順番に、置換していった(a,o,i,d…)。この方法が有効なのは、置換先のコードが何か分かっている場合だ。A、G、C、Tの出現頻度が多いものが何を示しているかが分からなければ、置き換えようがない。だが、彼の上司は、黄金虫病に取り憑かれているのだ。

暗号を解くのではなく、暗号を成立させている文法に習熟する。一本のDNAが何を言っているかではなく、「それをどのように言っているか」というアプローチがある―――レスラーはそこを強調する。

手中に収めなくてはならないのは、自らの公理を発語できる言語であり、それはそれ自身がたやすく型取るイディオムによって、4つの文字から成るLIFEという言葉の際限なく拡張可能な同義語を生成できる方法なのだ。
(p.99)

この着眼点は、情報自身に暗号を作らせるというアイデアに結びつく。

具体的には、細胞や組織を粉々に破壊して均一化した液体を用意して、そこへDNAの情報を伝達するRNAを解き放ち、タンパク質の生成をシミュレートする。試験管内の無細胞システムと呼ばれるこの手法は、実際のところ、マーシャル・ニーレンバーグによって確立されている。なお、ニーレンバーグはこの成果により、1968年にノーベル生理学賞を受賞している。

実在する人物の業績とレスラーを重ねると、この小説は一種のヒストリカルフィクション(Historical fiction 実際に過去に起きた出来事を元に構成したフィクション)と読むこともできる。

アナロジー(類推)で読み解く

レスラーにとってのゴルトベルク変奏曲との出会いは、恋人から贈られたレコードになる。

「カナダのピアニストが演奏したレコード」とあるので、1955年のグレン・グールドのデビュー演奏のことだろう(作中では名指しされないが、どう見てもグールド)。

なんと!いま私がyoutubeで流している曲が、レスラーが聴き込んでいるまさに同じ曲なのだ。奇妙なシンクロニシティに戸惑いながら、バッハの妙技がレスラーの思考に及ぼす影響を追いかける。

何度も聴いているうちに、音の奔流の中で起こっている聴覚的事象と、その事象を示す譜面の記号が嚙み合い始めて、両者がどんな仕組みで対応しているか分かるようになる。現象(音楽)とコード(譜面)が重なり合って聞こえ/見えるようになる。

次の引用は、1980年代のレスラーの言葉だ。1950年代の自分を振り返り、もう一人の主人公・オデイにこう述べる。3の倍数のカノンの楽章の説明だ。

何度も集中して聴いてきたおかげで、自分を密かに魅了していた何かが初めてかすかに聞こえ始めた。DNAのフィラメントが解けるみたいに旋律が分離して―――メロディラインの一部でありながら、同時にそこから離れて聞こえた。それが親旋律の一音違わぬ転写版だというのは、実に途方もない発見だったよ。そのささやかな断片は、それ自身が一瞬前に示した楽想の写しにぶつかるように奏でられていた。
(p.253)

音楽とは情緒豊かな瞬間の連続であり、言葉は邪魔者でしかないと考えていたオデイにとって、「音楽を形式として考える」レスラーの示唆は斬新だった。

そこからの数秘術には、オデイと一緒になって私も引き込まれる。

最初の曲、アリアの各小節の音は、32音になる。これは、主題(ベース)と呼ばれる(p.255)。左手で弾くほうだ。この主題は、次の変奏曲にも引き継がれ、変化していく。アリアのベースだけを表すと、これになる。

Goldbug

アリアを2つに区切ると、それぞれ16小節になる(図の上段、下段)。最初の16小節の終わりにダ・カーポ(くり返し)記号があるので、最初の16小節は2回奏でられる。次の16小節(下段)にもダ・カーポがあるので、これも2回、合計すると64小節になる。

凄いのは、このベースが全ての変奏に登場すること。レスラーほどに聴き込んでいない私は、スコアを目で追いながら確認するしかない。

だが、確かにその通りだ。集中して聴くと、分かってくる。アリアの冒頭で、伴奏のように聞こえる左手のフレーズ「ソ、ファ、ミ、レ」は、あらゆる変奏の中で響いていることが感じられる。楽譜と演奏が同期したこちらの動画だと、見えやすい。

噛んで含めるような説明で、レスラーがこの変奏をどのように聴いているのかが、明らかになる。変奏は一つ一つ順番に演奏されるのではなく、同時的に積み重なり、すべて一斉に響く多声コーラスになる。

アリアで奏でられ、それに続く64小節のバリエーションは、DNAの塩基構造の組み合わせのバリエーション(4×4×4=64)重なってくる(偶然だろうがそう見えてしまうのが、リチャード・パワーズのマジックと言える)。

バッハは自身の作曲の中に、神秘的な数字を埋め込むのを好んだという。レスラーは数秘術を解くつもりで、バッハの秘密を探り当てる。同時に、自分が探していたものが、バッハのアナロジーで読み解く可能性にも思い当たる。レスラーは、オデイにこう告白する。

「こう思ったんだな。『このバッハというやつ、なるほど偉い作曲家らしいぞ。ワトソンとクリックを二百年も先取りするなんて』とね。馬鹿だろう!最後まで聴き終わる頃には、私はすっかりいかれていた。その音楽の中にありとあらゆる途方もない類似を発見するのに、それほど時間はかからなかったよ」
(p.254)

和声は響いた後に消えてゆく。

だが、消えてしまう前に、そのコピーを作り出し、それをベースにして旋律が奏でられる。しかも、コピーといっても先ほどのとは似て微妙に異なる。「ソ、ファ、ミ、レ」のベースは同じでも、アレンジメントが入っている。

だからこそ聴き手は、新しい曲の中に懐かしさを覚え、改めて繰り返される和音の中に変化と成長を認める。何度聴いても新しく感じられるのは、そんな秘密が隠されているからなのかもしれぬ。

『黄金虫変奏曲』をもう一度読む

GBVのストーリーラインは、3つある。これだ。

  • 私(オデイ)が回想録を綴るパート(1985)
  • 私とトッド、そしてレスラーの3人の友情が描かれるパート(1983)
  • 若かりしレスラーの研究生活と、コスとの関係のパート(1957)

トッドはオデイの恋人、コスはレスラーの恋人になる、4人の物語だ。1983年のパートは、オデイの手記の形になっており、1957年のレスラーの記録は、誰が書いたのかは分からない(レスラーではない)。

どのストーリーラインも、夏から始まり、秋、冬、そして春に至る。並行する2つのラブストーリーを、巡る季節を永遠に封じ込めたといっていい。

4つの塩基の組み合わせと、4つの音の組み合わせ、暗号を解読するコードと、プログラミング言語のコード、音楽のコード(和音)、タンパク質の一次構造に対応する領域のコード、そして、ラテン語codexを語源とする、「法典」を意味するコード。全てのヒントは、冒頭の第1章のアリアに書かれている。なるほど!残りの30章は、アリアで書かれた4行詩の、様々なバリエーションなのだ。

そして、読みふける長い長い間、ずっと疑問に感じていた「1957年のレスラーのパートを書いたのは誰か?」という謎も解ける。レスラー自身ではなく、いわゆる神の目線でもない。

レスラーの記録と、オデイの手記が出会う時、一つの大きな物語が出来上がる。それが、いま私が読んでいる、『黄金虫変奏曲』になる。つまり、GBVを読み解くという行為そのものが、4つの季節、4つの音、4行の詩、4人の恋物語を解き明かすことになる。

物語の結末に至っても、隠されたものはまだある。いや、読み終えて分かったからこそ、次に読むべき箇所が見えてくる。バッハの調べや、ポーの暗号なんてまさにそうだ。実際、バッハとグールドをネットで調べ、『黄金虫』を読み直した後、本書をもう一度手に取った。

もう何度読んだことだろう。読むたびに新しい発見があり、別の謎が深まる。傑作は再読に耐えうるというが、これは再読でしか読めない稀有な小説だ。

リチャード・パワーズの小説はいくつか読んできた。『舞踏会へ向かう三人の農夫』で度肝を抜かれ、『囚人のジレンマ』で心震えまくり、『オーバーストーリー』で世界の見え方が一変したが、『黄金虫変奏曲』ではこれら全てを味わい、かつ凌駕ている。間違いなくベストワンなり。

この記事でどこまでその魅力が伝えられたか分からない。だが、これだけは自信を持って言える。噛むほどに面白く、スルメのように味わえる小説だ。

おまけ

8月にふくろうさん(@0wl_man)主催で、本作品の読書会に参加した。沢山の意見を聞いて、自分がいかに読めていなかったことに気づいた。ふくろうさん、参加された皆さん、ありがとうございました!

読書会で「年表を作りながら読む」アイデアを知ったので、やってみた。以下に公開する(完全にネタバレなのでご注意を)。

リチャード・パワーズ『黄金虫変奏曲』年表

エピグラフの暗号(?)みたいなメッセージについて。いろいろ試してみたけれど、ダメだった。これは献辞のイニシャルであり、最後の2つはバッハを指しているという説がある(Jay Labingerの”Connecting Literature and Science”のp.91で、パワーズがそう明かしたと述べている[Google Books]。また、J. T. Thomasも"Deciphering the code in Richard Powers's The Gold Bug Variations"で同様のことを述べている[Freelibrary.com])

JSB:Johann Sebastian Bach

SDG:Soli Deo gloria(Soli Deo gloria ; ラテン語、ただ神にのみ栄光)

これが正しいとするなら、EAP(Edgar Allan Poe ; エドガー・アラン・ポー)や、GHG(Glenn Herbert Gould ; グレン・ハルバート・グールド)などが無いことの説明がつかない。また、メッセージ全体に渡って、「A」が一つも存在しない。これだけの名前のイニシャルなのに、よく使われる「A」が無いのは、明らかにおかしい。なお、本文中で示唆されている、換字式暗号(黄金虫の出現頻度による置換と、塩基類とのAGCTのパターン)を試したがダメだった。

RLS CMW DJP RFP J?O CEP JJN PRG

ZTS MCJ JEH BLM CRR PLC JCM MEP

JNH JDM RBS J?H BJP PJP SCB TLC

KES REP RCP DTH I?H CRB JSB SDG

 

| | コメント (1)

一生ものの痛みとなる読後感『帰りたい/Home Fire』

最後の頁を読んだとき、頭に入ってこなかった。

何が起こったのか、一読して分からなかった(分かりたくなかった)。

ありえない、嘘であってほしいと願い、読み直す。目に力を入れて、一字一句を読み直すことで、この悲劇を免れる別の解釈が得られるかもしれないと願う。

しかし、いくら読んでも変わらない。どんなに読んでもラストは変わらないことに気づいた時、ざっくりと胸が抉られていた。

この痛みは一生もの。

悲劇は沢山読んできたが、これは苦しい。人並み以上に耐性はあり、たいていの物語は飲み込めるが、これはダメだ、辛い、辛すぎる。毒が血液にのって隅々にまで行き渡るように、苦しみが全身を這いまわる。この作品から被った痛みは、最高レベルになる。

これは、イギリスのムスリムの家族の物語だ。

「ムスリム」とはイスラム教徒のこと。イギリスでムスリムとして生きる人々は、およそ300万人、総人口の5%になる。豚食やアルコールを禁忌とし、公共の場所では女性は髪を覆うことが義務付けられ、その生活は戒律で細かく定められている。

2005年に起きたロンドン同時爆破事件を始めとし、IS(イスラム国)のテロ活動が記憶に生々しい。過激派の活動と宗教が結び付けられて報道されることがあり、当局の監視や圧力を感じ取ることができる。

こうした背景から、イスラム系イギリス人として暮らしていく生きづらさを描いた物語だと感じていた。実際、空港の取調室で延々と待たされるシーンから始まり、会話や言葉の端々に、当局の監視の目が意識されている。

だが、これは家族の物語だ。

姉、妹、弟が、お互いを思いやり、いたわる感情は、国も宗教も関係ない。イスマ、アニーカ、パーヴェイズ……それぞれの名前が各章のタイトルとなっており、その人物に焦点を当てて物語が進められる。

そのため、すれ違う気持ちをもどかしく感じたり、何気なくつぶやかれた言葉の重みを後になって知ることになる。

父はジハード(イスラム戦士)として活躍した後、グアンタナモ収容所で虐待死に至ったとされている。亡き父に憧れてイスラム国に向かった弟を救うため、姉と妹は手を差し伸べるのだが―――というイントロが帯に書かれている。

そこから思いもよらない状況になり、運命の辛辣さと愛を感じさせる強烈な静寂が(一瞬だけ)訪れる。映画化の話は未だなさそうだが、このラストの静寂は、映画映えする。観た人はきっと、観たことを後悔しながら大切な思い出になってしまうだろう。

本書は、ふくろう(@0wl_man)さんのオススメで手にした(ありがとうございます!)。「万人には勧めづらい」のご指摘の通り、気軽にお薦めできないし、読む人を選ぶけれど、間違いなく傑作。

| | コメント (0)

徹夜小説『プロジェクト・ヘイル・メアリー』

プロジェクト・ヘイルメアリー上 プロジェクト・ヘイルメアリー下

読み始めたら最後、徹夜を覚悟する。あまりの面白さに、結末まで何も手につかなくなることを請け合う(私がそうだった)。

サイエンス・フィクションの「フィクション」に当たる嘘は2つだけ。あとは科学的に徹底的に考え抜かれ、エンターテインメントに全振りされた小説だ。

最新の科学ネタが満載で、これまでのSF小説や映画のいちばん美味しいところを、これでもかと詰め込んでいる。読み手の予想をことごとく裏切り、暴上げした期待を一切裏切らない、ごほうびみたいな作品となっている。

できればストーリーの予備知識ゼロで(帯やamazonの紹介文すら読まずに)いきなり読むほうがよいので、あらすじには触れない。

代わりに、「ヘイル・メアリー号」について書く。そうすることで、この作品がどれほど考え抜かれているかが伝わるだろう。「めちゃくちゃ面白い」だけでなく「めちゃくちゃリアル」な作品なのだ。

「ヘイル・メアリー号」は船の名だ。下巻の表紙に描かれている。Hail Mary の意味はアヴェ・マリア(Ave Maria)、天使の祝詞やね。アメフトの終盤で負けてる方が運を天に任せて投げるロングパスの意味もある。

宇宙船にしては奇妙な形をしているが、これは合理的な構造だ。もし、この物語のような状況になれば、人類はきっと、この形の宇宙船を作るに違いない。

以下に、ヘイル・メアリー号のロケット図①②を引用する。

Photo_20220903083001

左の図①を見てほしい。

いわゆる「ロケット」としてお馴染みの形をしている。下半分が燃料タンクでエンジンを駆動すると、推進力がかかり、下の方に人工的な重力が生じることになる。図では「推進モード」と説明されている。

面白いのは、図②だ。

ロケットの上半分が分離して、クルリと反転する。下半分とはケーブルでつながれており、互いにぐるぐる回ることで、遠心力により、人工重力が生じる。

なぜこんな構造なのか?

それは、行った先で「重力」が必要だからだ。

なぜ重力が必要なのか?そもそも宇宙を旅する船なのだから、全て無重力で動作が完結するように、全ての装置を開発すればいい。

ダメだ。単純に、「行く」だけではなく、そこで様々な調査や実験を行う必要がある。調査や実験をする装置や機材は、十分な実績があり、間違いなく動作する必要がある。

そうした、いわば「枯れた技術」が使われてきたのは、地球上、1Gの環境になる。

もちろん、無重力でも動くよう、実験設備を開発するプランもあった。だが、開発には時間がかかり、それだと間に合わない。さらに、無重力でも動く「かもしれない」というリスクに掛けるくらいなら、最初から回避しておいたほうがよい。

あるいは、行先の近辺に星があり、その重力を利用できるかもしれない。だが、そうした星を確認できる距離ではない(目的地は、うんと遠いところだ)。そんな不確かな期待に掛けるわけにはいかない。

限られた時間で、合理的な決断をした結果、ヘイル・メアリー号はこのような構造となっている。迫りくる危機から導かれた必然だが、この構造だからこそ成し遂げたことは、科学的運命と言ってもいい。

もちろん、この物語の主人公は、最初に目が覚め、記憶を失った男である。だが、私はヘイル・メアリー号と、これを飛ばすためのプロジェクトそのものにも、強く惹かれる。男がまきこまれる運命は偶然かもしれない。だが、ヘイル・メアリー号は人類の必然になる。

人類は、その気になれば、なんでもできる。

| | コメント (0)

« 2022年8月 | トップページ | 2022年10月 »