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「みんな違って みんないい」が蔓延した世界

「みんな違って みんないい」という一節は、金子みすゞの詩「私と小鳥と鈴と」にある。1996年より小学国語の教科書に掲載され、「正しさは人それぞれ」「価値観の多様化」といった言葉がトレンドになる。

正義の反対はまた別の正義であり、絶対的な正しさなんて存在しない―――相対主義と呼ばれるこの考え方、現代の「新常識」とみなす人も多いだろう。

これに疑問を呈したのが本書だ。

「みんな違って みんないい」という言葉は、確かに他者を認め、多様性を尊重しているように見える。実際、こうした言葉は善意から生じた文脈で用いられている。

しかし、この言葉は安易に広められ、世間に蔓延しているという。単なる趣味の違い程度なら、「互いの価値観を認め合う」のはよいかもしれぬ。だが、エネルギー施策における原発の扱いや、社会保障制度の見直しといった、大勢を巻き込み、利害が対立する場合はどうなるのか。

この場合、現実として、権力者が押し通してしまうことになる。

そして、強引な態度を批判されても、「絶対正しいことなんてない」のだから、どの意見も等しく価値がなく、最終的に力のあるほうが通ることになる。「正しさは人それぞれ」という価値観は、権力者にとって大喜びだろうと説く。

「正しさは人それぞれ」という主張は、多様性を尊重するどころか、権力者と異なる見解を切り捨てることを正当化させることに繋がってしまうというのだ。

国家主導の「人それぞれ」がもたらしたもの

著者は、この新常識を「人それぞれ」論と名づける。そして、「人それぞれ」論がどこから来たのかを考察する。

紐解いてゆくと、デリダやドゥルーズを代表とするフランス現代思想になる。西洋文明の普遍主義における「絶対的な正しさ」を否定し、同時に多様な人が多様なまま連帯することを目指した運動だという。

この運動は、アメリカ発の新自由主義に取り込まれてゆく。フリードマンやノージックのリバータリアニズムを背景とする立場だという。個人の自由を尊重し、国家の介入を最小にする主張になる。

そして、1980年代以降、日米英など政府は新自由主義的な政策を推進してゆく。社会福祉や公共事業は国家の役割から切り離せという政府批判は、財政難に悩む各国政府にとって非常に都合がよかった。

これを受けた日本政府は、鉄道や通信事業を民営化し、公務員の数を削減し、小さな政府を目指してゆく。教育においても「個性尊重」と「自己責任」を旗印にしてゆく。金子みすゞの「みんな違って みんないい」は、こうした時流の中で、国語の教科書に採択されたことになる。

「正しさは人それぞれ」というフレーズは急速に日本中に蔓延していく。一見、多様性を尊重するよい言葉のように思えるが、権力者からすると、個々人を連帯から遠ざけ、支配しやすいバラバラの存在に留めておく都合の良いものだったという。

国家主導で「人それぞれ」を進めていった結果、経済格差や政治的立場の違いから分断される状況となっている。それが現在だというのだ。

そんなに人は違っている?

「人それぞれ」というけれど、そんなに人は違うのか?

著者は、様々な学問領域を渡り歩きながら、「人それぞれ」と言うほど人は違っていないことを指摘する。

例えば、言語における相対主義について。

「言語によって世界は違って見える」とするサピア・ウォーフ仮説を採りあげる。「エスキモーは雪の名前を沢山もっている」というエピソードが有名で、言語や文化によって世界の捉え方が異なっているという言語相対主義だ。「虹は日本では七色だが、フランスでは五色、台湾では三色」という説もある。

これに著者は反論する。

色の違いとは、物理学的には光の波長の違いであり、それは連続的に変化する。物理学からすると、光の波長に明確な境界は無い。ある波長をどう区別するかは、人の恣意的な判断になる。従って、その波長を何色に識別するかは、言語によって異なるはずになる。

ところが実際に調査したところ、色の名前や区分について、言語や文化を越えた普遍性が見出されたという。

出所は、ブレント・バーリン『基本の色彩語』になる。異なる言語の話者に、様々な色の紙片を渡し、「基本的な色」を選ぶように指示した。すると、言語に関係なく「基本的な色」は共通していたというのだ(白、黒、赤、緑、黄、青、茶、紫、ピンク、オレンジ、グレーの11色)。

ヒトの目の網膜にある錐体細胞は3種類あり、その反応によって色が認識される。色の見え方は生物学的な構造に依存するため、色の見え方や区別の仕方には普遍性があるのは当然のことになる。

日本で虹が7色なのは、よく観察した区分であることと、「七草」「七福神」といった慣用句によるものになる。フランスや台湾の虹に青色は無いが、青色が見えていないというわけではないのだ。

他にも、マーガレット・ミード v.s.デレク・フリーマンの論争を通じて、文化人類学の相対主義の推移や、ヒトは生まれながらに言語機能を備えているとするチョムスキーの普遍文法を採りあげながら、言語や文化の普遍的な側面に目を向ける。

著者は、「人それぞれ」と強調するほど違っていないという。そして、たとえ多様に見えたとしても、それそれの差異は理解可能な範囲内に留まっていると主張する。

「科学の正しさ」は絶対か?

では、「人それぞれ」は誤りで、普遍的な正しさというものが存在するのか? 「真実はいつも一つ」なのか?

人の恣意性に左右されない、「客観的な正しさ」というものがあるはずだ。

そう考える人もいるだろう。客観的な実験を積み重ねて導かれる物理学の正しさなんて、まさに普遍的なものではなかろうか。文化や社会のみならず、ヒトという種を越えて、宇宙のどこであったとしても、物理法則は同じはずだ―――と考えるかもしれぬ。

著者は、科学哲学の観点から、物理学を始めとする「科学の正しさ」に揺さぶりをかける。

科学における「正しい事実」は、人間がある対象を思い通りに動かすことができる「技術」と表裏一体のものとして発明される

例えば、科学の正しさの一つとして、落下の法則がある。ガリレオが導き出した「重さの違う鉄球を落としたとき、落下速度は同じ」という法則だ。

だが、人の手によって同じタイミングで落とすのは難しい。しかも、地面に到達するときのスピードはかなりのものだから、同時に到達するのを測定するのは困難になる。

ガリレオは、「落とす」代わりに「転がす」工夫をする。滑らかで長い傾斜を作り、そこを転がる鉄球を観察することで、法則の正しさを証明した。

しかし、鉄球と羽根を比較すると、鉄球の方が速く落ちる。落下の法則は誤りではないか?

答えを知っている私たちならすぐに思いつくが、空気を抜けばいい。だが、「空気を抜いた空間で、羽根と鉄球を同時に落とす様子を観察する」ためには、相応の装置を作る必要がある。

試行錯誤をくり返すことで、精度の高い装置が作られ、いつ何度行っても、同じ結果が得られるようになる。そうすることで、落下の法則が「正しい」ものとして認められるようになる。

ひとたび認められると、それまでの試行錯誤は忘れ去られる。精度の高い観察から導かれた数式は、もはや実験しなくても結果を導くことができるようになる。そして、「自然法則は人間と関わりなしに存在している」という実在論的な見方が正しいような気がしてくる。

しかし、この見方は、法則や数式を導くための発明や試行錯誤という人間側の事情に依存していることを見落としているという。機械が法則通りに動いているのではなく、そうなるように機械を改良してきた技術の裏付けがあるというのだ。

正しさはみんなで作っていく

この考え方には賛成できる。

科学における法則や数式の発見は、技術の進歩と軌を一にしている。ミクロであれマクロであれ、素粒子の振る舞いから宇宙全体の構造まで、同じ事が言える。

観測機器の精度の向上や、実験設備の開発の進展によって、より正確でより多くの法則や数式が作られているから。ヒトの手で作れない装置によって導かれる物理法則は、存在しえないといえる。

科学法則の実在を、絶対的・普遍的なものと「見なしたい」という動機は分かる。だが、あくまでそれらは、科学者が理解し扱える範囲内でのこととなる。

本書ではさらに、科学者の間での合意が必要となると述べている。「科学的に正しい」とされるためには、一部の科学者が勝手に決めることはできず、科学者のコミュニティの中での合意が形成される必要があるという。

そして、科学のみならず、道徳や倫理的な正しさといったものも同じだと説く。そこに関わる人々どうしで話し合い、合意してはじめて「正しさ」になる。つまり、正しさはみんなで作っていくものなのだという。

たとえ差異があろうとも、話し合うことで理解は可能だと説く。「正しさは人それぞれ」だとして切り捨てず、対話を続けていくべきだという。

安易な切り捨てはダメだという点については同意するが、ハードルは高い。

対話を続けるための時間や集中力が限られていること、相手の理解度や情報の非対称性、関係者の数が多すぎる問題など、メゲそうな課題が山積みである。

「より正しい」正しさがある、と著者は述べているが、「正しい」という言葉を目にするたびに、それは誰にとっての正しさか?という疑問が付いて回る。「みんなで作る正しさ」の「みんな」とは誰なのか。

「正しさ」を合意形成する努力は必要だと考えるが、その具体的な方法は、読者であるわたしに委ねられている。

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