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悪用厳禁:論理戦に勝つ技術『レトリックと詭弁』

巧妙な詭弁は、それが詭弁だと分からないことが多い。

例えば夏目漱石『坊ちゃん』のここ。教頭の赤シャツが、坊ちゃんをやり込めるところだ。さらりと読むと、詭弁だと分からない。

赤シャツ「じゃ、下宿の婆さんがそう云ったのですね」

坊ちゃん「まあそうです」

赤シャツ「それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云うように聞えるが、そういう意味に解釈して差支えないでしょうか

赤シャツから「給料を上げてやる」と言われたものの、坊ちゃんが断りに行くシーンだ。

ふつうに考えたら、給料が上がるのは嬉しいことなのだが、坊ちゃんは納得しない。というのも、赤シャツの提案にはウラがあることを、下宿屋の婆さんに聞かされたからである。

赤シャツは教頭なので人事権がある。人の恋路に横恋慕して、邪魔者を転勤させた結果、巡り巡って坊ちゃんの給料が上がるというウラ事情である。

聞かされた坊ちゃんはカッとなって直談判に行くのだが、良いように手玉に取られる。このやり取りにおいて、赤シャツの質問が巧妙である。

赤シャツの欺術

まず赤シャツは、その話を誰から聞いたのか尋ねるのだが、その尋ね方が上手い。答える側が、Yes/Noでしか答えられないように誘導している。そして、坊ちゃんの言質(下宿屋の婆さんがそう言ってた)を取ってから、太字のトドメを刺しに来る。

 ①下宿屋の婆さんの言うこと→信じる

 ②教頭の言うこと→信じない

噂好きの婆さんと、社会的立場のある教頭先生とを比較するなら、後者に軍配を上げる他ない。坊ちゃんは「ぐぬぬ」となってしまう。

だが、冷静になって考えてみると②が変だ。「信じる」「信じない」で対になっているので気づきにくいが、「下宿屋の婆さん」と「教頭」とを比較しているのはおかしい。

焦点となっているのは、赤シャツの横恋慕である。赤シャツは教頭かもしれないが、ウラ事情の当事者そのものである。利害関係のある当事者が主張することと、第三者の言うことを比較するなら、どちらを信じるのかは問うまでもないだろう。むしろ、教頭という立場を利用する卑劣漢といっていい。

まだある。赤シャツが巧妙なのは、この太字部分を、質問形式、しかもYes/Noで答えるように仕向けている点だ。

あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云うように聞えるが、どうだろう?

もし、上記のようにYes/Noで答えないオープンな質問の形にしていたならば、まだ坊ちゃんも何か言えるだろう。下宿屋の婆さんを信じる理由を考えるだろうし、ひょっとすると、「教頭は関係ない、オマエ(赤シャツ)の話だ」と気づくかもしれない。

だが、Yes/No形式のクローズドな質問のため、どちらに答えても窮することになる。

Yesと答えると、教頭という立場ある人より、噂好きの婆さんを信じることになる。一方Noと答えると、前言を撤回することを認めることになる。額面通りに受け止めると負けだ。坊ちゃんは苦し紛れに「あなたの云う事は本当かも知れないですが――とにかく増給はご免蒙ります」と逃げる。

もし、誠実に話を進めるつもりであれば、「増給を断る」という主張に対し、賛成か反対かを述べ、その理由を説明する。だが赤シャツは、よく知らないフリをして、坊ちゃんに質問を投げかけ、話の焦点を誘導していき、がんじがらめにしてしまう。

いけ好かないが、上手いと言うほかはない。質問を用いて焦点を誘導し、人を欺く技術は、「質問の欺術」と言えるだろう。

悪用厳禁『レトリックと詭弁』

このような欺術は、いたるところにある。

誠実ではないし、正当ですらない。うっかりすると、騙されたことにも気づかずに、納得して引き下がってしまう。あるいは、「私が悪いのかも」と自分を責めてしまう。積み重なると、心が折れる。

香西秀信『レトリックと詭弁』は、こうした欺術の手口を紹介している。

表向きは質問の形式だが、論点すり替え、二者択一、沈黙を強いる問いだったりしたことはないだろうか。こちらに非がないにも関わらず、罠にハマって答えられなかったりしたことはないだろうか。

古今東西の様々な文献から、そうしたテクニックを紹介する。赤シャツの欺術、村上春樹の啖呵、兼好法師の嘘、ナポレオンの恫喝など、読んで面白く、騙すのに使える詭弁術である。

もちろん悪用は厳禁だ。上手に使えば議論を誘導し、思った所に着地させることができる。誠実でも正当でもないが、できてしまう。

だが、できるからといって、やっていいことにはならない。

本書は、いわゆる詐欺の技術のようなものだ。どんな風にカモを引っ掛け、どのようにカネを騙し取るかのノウハウである。もちろん詐欺はしないけれど、あらかじめ詐欺師の手口を知っておけば、カモになるのを避けることができる。

同様に、あらかじめ質問の欺術を知っておくことで、騙されるのを予防できる。たとえ罠にハマっても、「私が悪いのかも」とマイナスループに陥らず、心を守ることができる(著者は「護心術」と呼んでいる)。

質問の欺術の破り方

「質問をする」というのは非常に強力だ。なぜなら、質問をするとは、答えを求めることだからだ。

「なにを当たり前な……」と思った方は、ちょっと胸に手を当ててみて欲しい。次々と投げかけられる質問に答えているうちに、答えに窮したり、自分が責められていると感じたことはないだろうか。

思い出したくもないだろうが、それはYes/Noで答えを迫るクローズドな質問か、あるいは二者択一のような形式だったのではないだろうか。例えば、ミスをしたあなたに対し、上司が𠮟責する常套句がこれ。

  • おまえは会社に損害を与えたいのか!?
  • 自分で弁償するか、辞めるかだ、どっちだ?

前者の質問には、当然「与えたくないです」と答えるだろう。すると上司は、「じゃぁなんだってこんなミスをしたんだ?」と詰め寄る。後者の二択には、答えようがないだろう。

欺術を操る連中は、何かを知りたくて「質問」なんてしない。答えなんて分かりきっている。

しかし、「質問をする」ということは、「相手に答えさせる」という位置に立つことになる。自分が進めたい方向に焦点を絞り、自分に不利なことから目を背けさせることができる。あるいは、自分の主張を選択肢に紛れ込ませることができる。

つまり、「質問をする」ことは、表面上は何かを知りたい体裁を保ちつつ、話の主導権を握ることができるのだ。

いったん握られた主導権を、どうやって取り返すか?

本書では、「答える」(answer)ではなく「言い返す」(retort)方法を薦めている。Yes/Noで答えを迫る質問に対し、その問いそのものの妥当性を問題としたり、「Yes/Noを問う行為そのもの」の是非に焦点を当てるやり方だ。

  • 「損害を与えたい」なんて動機は一切ありません。今は動機ではなく、私の責任のお話をされたいのではないでしょうか?
  • 弁償かクビかの二つだけでなく、私の職務に応じて、責任の取り方はあると思いますが、間違っているでしょうか?

火に油かもしれないが、ミスを責めて激詰めしたい上司の思うツボには入らない。あくまで、ミスの影響と、それに伴う自分の責任について焦点を当てるように返すのだ。

冒頭の、赤シャツ v.s. 坊ちゃんであれば、こう返せば retort になっていただろう。

坊ちゃん「『あなたのおっしゃる通りだと』と言ってましたが、私はそんなことを言っていません。マドンナに横恋慕したあなた自身が、教頭という立場を利用しようとしているのに、僕が巻き込まれるのがイヤなんです」

ここでは質問の前提に疑いを投げかけ、Yes/Noの妥当性を解消させる言い返しとなっている(坊ちゃんらしくないけれどね)。

「多間の虚偽」のかわし方

Yes/Noで答えようとすると、どう答えても罠にハマるのが、「多問の虚偽」である。小難しい名前だが、例を挙げるほうが分かりやすい。

「君は、もう奥さんを殴ってはいないのか?」

この質問はYes/Noでの答えを求めている形式となっている。だが、どちらで答えても罠にハマることになる。Yesで答えると、「もう殴っていない」=「昔は殴っていた」ということになるし、Noと答えると、「今でも殴っている」ことを認めることになる。

これは分かりやすく示した古典的な例なので、かわし方も簡単だ。「失礼な!昔も今も殴ってなんかいない」「そんなことは一切していないのだが、そもそもなぜそんな質問をするのかね」。

だが、実際の現場では、もっと巧妙に紛れ込んでいる。

「あの嘘吐き政治家の言ってることを、本当に信じるの?」

信じるかどうかを問うているこの質問には、2つの誘導が紛れ込んでいる。

一つ目の誘導は、Yesと答えても、Noと答えても、「嘘吐き政治家」である前提があることを認めることになる。つまり、「嘘吐き政治家なんだけど、信じる」か、または「嘘吐き政治家だから、信じない」の回答になる。どちらに転んでも、その政治家が嘘吐きであることを認めてしまうことになる。

いや、そうではない。その政治家は嘘吐きなんかじゃない。だから信じる、という回答ができるじゃないか!そう思う方もいるかもしれない。だが、それは術中にハマりかけている。これが二つ目の誘導だ。

二つ目の誘導は、「その政治家は嘘吐きじゃないから、信じる」という回答に対し、質問者は、こう返すだろう「なんでそんなことが言えるの?」。

するとあなたは、その政治家が嘘吐きじゃない理由を述べることになる。それぞれの理由に対し、反論する材料はあるだろうし、いつどんなタイミングで反論するかは質問者の自由だ。

ケチをつけ、揚げ足を取るのも自由である。あなたがよっぽど強固な理論武装をしていない限り、分が悪いだろう。

立証責任を買い取らせる

ではどうすれば良いのか?

ここまで読んできたあなたなら、「質問してきたのは、答えを求めているからだ」と無邪気に考えないだろう。質問の中に、話の焦点となる前提(嘘吐き政治家)を紛れ込ませたいからだ、と考えよう。

すると、簡単にYes/Noで答えてはいけない、と思いつくに違いない。そして、問いそのものの妥当性を吟味すると、こう返せるはずだ。

「信じる・信じないの前に、『嘘吐きの政治家』って言ったけれど、どうしてそう言えるの?」

すると質問者は、その政治家が嘘吐きである理由を述べることになる。それぞれの理由に対し、反論する材料はあるだろうし、いつどんなタイミングで反論するかは、あなたの自由だ。

さっきの流れと真逆になる。

その政治家を嘘吐きだと評価し、それを問いの前提にしたのは相手だ。だから、相手にこそ、説明する義務(立証責任)がある。従って正しい retort は、立証責任を相手に求めることになる。

何かを主張した場合、その主張した側に、その主張の根拠を論証する責任が課せられる。一方、その主張が間違っていることをこちらが論証する義務はない。あたりまえっちゃあたりまえなのだが、これに引っ掛る人が多い。

これは、あまりに簡単に反論できるため、勢い込んで、相手に負わせるべき立証責任を買って出てしまうからだという。

 ・〇〇党を支持するなんてアタマ大丈夫?

 ・まだ東京で消耗してるの?

これらは典型的で、質問形式の煽りでもあるため、反射的に反応してしまいがちだ。だが、前提に紛れ込んでいる「〇〇党を支持しない理由」「東京で消耗する理由」について、質問者自身に論証してもらう必要がある。

質問に紛れ込んでいる立証責任は、相手に買い取らせよう。

質問の形にして責任転嫁する欺術

これは悪用もできる。質問の欺術として紹介するが、悪用しないように。

上田秋成『雨月物語』に登場する、西行 v.s. 崇徳上皇(亡霊)が激しい。保元の乱を引き起こし、死してなお恨み骨髄の崇徳上皇(亡霊)に対し、西行はこう問いかける。

「そも、保元の謀反は天の神の教えたまふ理に違はじとておぼし立たせ給ふか。また、自らの人欲により計策り給ふか。詳に告らせ給へ」

西行は「保元の乱を起こしたのは、天の神の道理に適っていると言えるのか。あるいは、私欲私怨のためにやったのか」と質問する。この二択の中には、立証責任と西行の意志が隠されている。

もし亡霊が「天の道理に適っている」と答えるならば、その理由を説明する必要が出てくる。そして、私欲私怨で戦乱を引き起こすなどと答えるわけはない。だが亡霊は、西行の意思を見抜いて激昂することになる。

乱の原因は、崇徳上皇の私欲私怨だ―――そう西行は考えていたが、「オマエの私欲私怨のせいだ」とは直接言わず、選択肢の一つとして提示した。

だが、選択肢の一つとして挙げるということは、可能性として考えられることを示唆している。相手の建前を示す一つの主張(天の道理)と、本音を暴露するような選択肢(私欲私怨)を並べて、両者の開きがあまりに大きかったため、質問されたほうは侮辱を感じる。怒るのも当然だろう。

もし西行が、「オマエの私欲私怨のせいだ」と主張したなら、その理由を説明しなければならなくなる(立証責任やね)。

相手の思惑を勘ぐり、選択肢に紛れ込ませることで暴露するテクニックは、非常に有効だ。問いの形で説明責任を転嫁することができるからだ。

それで仮に相手が怒ったならば、「私は質問しただけであって、そうだとは言っていない」と逃げ切れるし、「あなたがそんなに怒るのは、自分本心を暴露されたからじゃないですか」と反撃もできる。

極論を並べておき、食ってかかってくる人に、「そんなに怒るのは、心当たりがあるからじゃないですか」と涼しい顔で刺しに来る―――よく見かけるバトルだが、本書によると、アリストテレス『弁論術』まで遡ることができる。

『レトリックと詭弁』には、非常に巧妙な「ああ言えばこう言う」欺術が紹介されている。

くれぐれも、悪用しないように。

くれぐれも、悪用しないように。




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「みんな違って みんないい」が蔓延した世界

「みんな違って みんないい」という一節は、金子みすゞの詩「私と小鳥と鈴と」にある。1996年より小学国語の教科書に掲載され、「正しさは人それぞれ」「価値観の多様化」といった言葉がトレンドになる。

正義の反対はまた別の正義であり、絶対的な正しさなんて存在しない―――相対主義と呼ばれるこの考え方、現代の「新常識」とみなす人も多いだろう。

これに疑問を呈したのが本書だ。

「みんな違って みんないい」という言葉は、確かに他者を認め、多様性を尊重しているように見える。実際、こうした言葉は善意から生じた文脈で用いられている。

しかし、この言葉は安易に広められ、世間に蔓延しているという。単なる趣味の違い程度なら、「互いの価値観を認め合う」のはよいかもしれぬ。だが、エネルギー施策における原発の扱いや、社会保障制度の見直しといった、大勢を巻き込み、利害が対立する場合はどうなるのか。

この場合、現実として、権力者が押し通してしまうことになる。

そして、強引な態度を批判されても、「絶対正しいことなんてない」のだから、どの意見も等しく価値がなく、最終的に力のあるほうが通ることになる。「正しさは人それぞれ」という価値観は、権力者にとって大喜びだろうと説く。

「正しさは人それぞれ」という主張は、多様性を尊重するどころか、権力者と異なる見解を切り捨てることを正当化させることに繋がってしまうというのだ。

国家主導の「人それぞれ」がもたらしたもの

著者は、この新常識を「人それぞれ」論と名づける。そして、「人それぞれ」論がどこから来たのかを考察する。

紐解いてゆくと、デリダやドゥルーズを代表とするフランス現代思想になる。西洋文明の普遍主義における「絶対的な正しさ」を否定し、同時に多様な人が多様なまま連帯することを目指した運動だという。

この運動は、アメリカ発の新自由主義に取り込まれてゆく。フリードマンやノージックのリバータリアニズムを背景とする立場だという。個人の自由を尊重し、国家の介入を最小にする主張になる。

そして、1980年代以降、日米英など政府は新自由主義的な政策を推進してゆく。社会福祉や公共事業は国家の役割から切り離せという政府批判は、財政難に悩む各国政府にとって非常に都合がよかった。

これを受けた日本政府は、鉄道や通信事業を民営化し、公務員の数を削減し、小さな政府を目指してゆく。教育においても「個性尊重」と「自己責任」を旗印にしてゆく。金子みすゞの「みんな違って みんないい」は、こうした時流の中で、国語の教科書に採択されたことになる。

「正しさは人それぞれ」というフレーズは急速に日本中に蔓延していく。一見、多様性を尊重するよい言葉のように思えるが、権力者からすると、個々人を連帯から遠ざけ、支配しやすいバラバラの存在に留めておく都合の良いものだったという。

国家主導で「人それぞれ」を進めていった結果、経済格差や政治的立場の違いから分断される状況となっている。それが現在だというのだ。

そんなに人は違っている?

「人それぞれ」というけれど、そんなに人は違うのか?

著者は、様々な学問領域を渡り歩きながら、「人それぞれ」と言うほど人は違っていないことを指摘する。

例えば、言語における相対主義について。

「言語によって世界は違って見える」とするサピア・ウォーフ仮説を採りあげる。「エスキモーは雪の名前を沢山もっている」というエピソードが有名で、言語や文化によって世界の捉え方が異なっているという言語相対主義だ。「虹は日本では七色だが、フランスでは五色、台湾では三色」という説もある。

これに著者は反論する。

色の違いとは、物理学的には光の波長の違いであり、それは連続的に変化する。物理学からすると、光の波長に明確な境界は無い。ある波長をどう区別するかは、人の恣意的な判断になる。従って、その波長を何色に識別するかは、言語によって異なるはずになる。

ところが実際に調査したところ、色の名前や区分について、言語や文化を越えた普遍性が見出されたという。

出所は、ブレント・バーリン『基本の色彩語』になる。異なる言語の話者に、様々な色の紙片を渡し、「基本的な色」を選ぶように指示した。すると、言語に関係なく「基本的な色」は共通していたというのだ(白、黒、赤、緑、黄、青、茶、紫、ピンク、オレンジ、グレーの11色)。

ヒトの目の網膜にある錐体細胞は3種類あり、その反応によって色が認識される。色の見え方は生物学的な構造に依存するため、色の見え方や区別の仕方には普遍性があるのは当然のことになる。

日本で虹が7色なのは、よく観察した区分であることと、「七草」「七福神」といった慣用句によるものになる。フランスや台湾の虹に青色は無いが、青色が見えていないというわけではないのだ。

他にも、マーガレット・ミード v.s.デレク・フリーマンの論争を通じて、文化人類学の相対主義の推移や、ヒトは生まれながらに言語機能を備えているとするチョムスキーの普遍文法を採りあげながら、言語や文化の普遍的な側面に目を向ける。

著者は、「人それぞれ」と強調するほど違っていないという。そして、たとえ多様に見えたとしても、それそれの差異は理解可能な範囲内に留まっていると主張する。

「科学の正しさ」は絶対か?

では、「人それぞれ」は誤りで、普遍的な正しさというものが存在するのか? 「真実はいつも一つ」なのか?

人の恣意性に左右されない、「客観的な正しさ」というものがあるはずだ。

そう考える人もいるだろう。客観的な実験を積み重ねて導かれる物理学の正しさなんて、まさに普遍的なものではなかろうか。文化や社会のみならず、ヒトという種を越えて、宇宙のどこであったとしても、物理法則は同じはずだ―――と考えるかもしれぬ。

著者は、科学哲学の観点から、物理学を始めとする「科学の正しさ」に揺さぶりをかける。

科学における「正しい事実」は、人間がある対象を思い通りに動かすことができる「技術」と表裏一体のものとして発明される

例えば、科学の正しさの一つとして、落下の法則がある。ガリレオが導き出した「重さの違う鉄球を落としたとき、落下速度は同じ」という法則だ。

だが、人の手によって同じタイミングで落とすのは難しい。しかも、地面に到達するときのスピードはかなりのものだから、同時に到達するのを測定するのは困難になる。

ガリレオは、「落とす」代わりに「転がす」工夫をする。滑らかで長い傾斜を作り、そこを転がる鉄球を観察することで、法則の正しさを証明した。

しかし、鉄球と羽根を比較すると、鉄球の方が速く落ちる。落下の法則は誤りではないか?

答えを知っている私たちならすぐに思いつくが、空気を抜けばいい。だが、「空気を抜いた空間で、羽根と鉄球を同時に落とす様子を観察する」ためには、相応の装置を作る必要がある。

試行錯誤をくり返すことで、精度の高い装置が作られ、いつ何度行っても、同じ結果が得られるようになる。そうすることで、落下の法則が「正しい」ものとして認められるようになる。

ひとたび認められると、それまでの試行錯誤は忘れ去られる。精度の高い観察から導かれた数式は、もはや実験しなくても結果を導くことができるようになる。そして、「自然法則は人間と関わりなしに存在している」という実在論的な見方が正しいような気がしてくる。

しかし、この見方は、法則や数式を導くための発明や試行錯誤という人間側の事情に依存していることを見落としているという。機械が法則通りに動いているのではなく、そうなるように機械を改良してきた技術の裏付けがあるというのだ。

正しさはみんなで作っていく

この考え方には賛成できる。

科学における法則や数式の発見は、技術の進歩と軌を一にしている。ミクロであれマクロであれ、素粒子の振る舞いから宇宙全体の構造まで、同じ事が言える。

観測機器の精度の向上や、実験設備の開発の進展によって、より正確でより多くの法則や数式が作られているから。ヒトの手で作れない装置によって導かれる物理法則は、存在しえないといえる。

科学法則の実在を、絶対的・普遍的なものと「見なしたい」という動機は分かる。だが、あくまでそれらは、科学者が理解し扱える範囲内でのこととなる。

本書ではさらに、科学者の間での合意が必要となると述べている。「科学的に正しい」とされるためには、一部の科学者が勝手に決めることはできず、科学者のコミュニティの中での合意が形成される必要があるという。

そして、科学のみならず、道徳や倫理的な正しさといったものも同じだと説く。そこに関わる人々どうしで話し合い、合意してはじめて「正しさ」になる。つまり、正しさはみんなで作っていくものなのだという。

たとえ差異があろうとも、話し合うことで理解は可能だと説く。「正しさは人それぞれ」だとして切り捨てず、対話を続けていくべきだという。

安易な切り捨てはダメだという点については同意するが、ハードルは高い。

対話を続けるための時間や集中力が限られていること、相手の理解度や情報の非対称性、関係者の数が多すぎる問題など、メゲそうな課題が山積みである。

「より正しい」正しさがある、と著者は述べているが、「正しい」という言葉を目にするたびに、それは誰にとっての正しさか?という疑問が付いて回る。「みんなで作る正しさ」の「みんな」とは誰なのか。

「正しさ」を合意形成する努力は必要だと考えるが、その具体的な方法は、読者であるわたしに委ねられている。

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料理観を揺さぶり、変化させる『料理の意味とその手立て』

自炊歴も30年になると、料理も適当になってくる。

テキトーという意味ではなく、あり合わせのものでなんかするイメージ。レシピ通りに作らないし、調味料も目分量になる。代わりに、食費と洗い物の最小化を目指したり、極限までサボったり、変わった料理に挑戦したりする。

自分の中で、「料理とはこんなもの」という料理観みたいなものが出来上がっている。そのため、普通のレシピは、レパートリーを増やすためにチラ見する程度になる。

一方で、私の料理観を揺さぶり、変化させるような本もある。何気なくやってた一手間が、実は深い意味を持っていたり、伝統&科学に裏打ちされた本質が見えてきたりする。

ウー・ウェン著『料理の意味とその手立て』が、まさにそんな一冊だ。

中国家庭料理を紹介しているのだが、いわゆるレシピ集というよりも、料理についての考え方をまとめたエッセイと言ったほうがしっくりくる。料理する人には見慣れたことかもしれないが、これらは、本質的なことだと思う。

  • 大事なのは、塩の味を表に出さないで、素材の味を表に引き出すこと
  • 炒めものとは、加熱したボウルで素材を和えること
  • どう食べたいのか考えながら切る
  • 混ぜない。まんべんなく味つける必要はない

料理の本質=塩する

塩についてはかなりの分量を割いている。

これは、かなり信頼できる。世界各国の料理を食べ歩き、料理の本質を追求した『料理の四面体』に、「料理の原則=素材に塩したもの」とあった。

世の中の大半のレシピには、「最後に味をととのえる」ために塩を入れろとある。それはそれで大切なのだが、むしろ準備段階での、「素材の味を引き出すための塩」が大事だと説く。

味噌を使えば味噌味、醤油を使えば醬油味になる。けれども、「塩味」と感じさせない程度の塩しか使わない。そのため、ウー・ウェンさんのレシピでは、塩が極端に少ない。ほんの少量を上手に使って、肉や野菜の味そのものをはっきりさせる。

料理を始める前に塩しておく。肉や野菜が「汗をかいている」と表現されるのがこれだ。下味としての塩ですらない。この加減は目分量では無理なので、分量と時間をきちんと量って(計って)上手くなりたい。

切り方ひとつで「おいしさ」が変わる

「どういう風に食べたいか考えながら切る」という指摘が鋭い。

切り方ひとつで味がガラリと変わるのは、『おいしく食べる 食材の手帖』にあった。肉であれ野菜であれ、繊維に沿って切るか、繊維を断つように切るかの違いだ。

繊維を断つということは、素材が保持している水分が出やすく、少ない調味料でしっかり味付けできる。さらに、火が通りやすくなり、柔らかくなる。逆に、繊維に沿うように切れば、無駄な水分が出ないため、歯ごたえが出てくる。

これ、チンジャオロースを作るときに気をつけている。ピーマンやパプリカは、繊維に沿って切り、牛肉は繊維を断つようにしている。野菜モノはさっと火を通して歯ごたえを楽しむ一方、肉に下味をしっかりつけて、口当たりよくするには、繊維を断つ方が良いから。

いつも同じ切り方しかしてこなかったが、今後は、その食材をどういう風に食べたいかによって、切り方を意識するようにしよう。

混ぜない、いじらない

本書で心がけるようになったのは、「火入れのとき、触るのは最低限」だ。

焼いたり炒めるとき、菜箸を使って混ぜたり、フライパンをあおりたくなる。これをガマンしろという。味がまんべんなく行き渡る必要はないというのだ。

一つの料理で、味が濃かったり薄かったり、リズムがあるほうが美味しい。もちろん、生焼けの肉があるのはダメだが、火が通っていれば、多少ムラがあったりコゲ目が強かろうと、かまわない。「均一」を目指さなくてもいい。

嗅覚同様、味覚もすぐに慣れる(鈍感になる)。だから味が均一になるほど、飽きやすくなる。それなら、少しムラがあるほうが味に変化が出るという発想だ。

パスタソースの乳化は例外として、この考え方を取り入れている。基本、放り込んだら放置気味にして、最後にぐるりと回すくらいにしている。

味をつける必要があるものは、フライパンに入れる前に下味を付けている。だから、火を入れる時には味のことを心配しなくてもいい。

料理の意味=身体を養うこと

料理の意味は「身体を養う」ことだという。

身体によいものを食べることで健康を目指す医食同源の考え方だ。一回の食事でパーフェクトに栄養を取らなくてもいいし、一日や数日のサイクルで、だいたいバランスが取れていればいい。

その考えは、陰陽五行に裏打ちされている。

古代中国の五行思想で、万物は5種の元素から成立し、互いに影響を与え合い、循環するという思想だ。日曜と月曜を除いた五つの曜日(火水木金土)や、五臓六腑の五臓など、日本でも馴染みのある考え方だ。

これをレシピに適用し、五味を目指せという。すなわち、苦、鹹(塩辛い)、酸、辛、甘の五つだ。献立を考える時、どの料理がどの味を中心にするのかを考え、その味が重ならないようにすれば、自ずとバランスが取れ、食卓が茶色にならない(←これ重要)という。

我が家の場合、「酸」が足りない。もう少し黒酢を取り入れてみよう。本書の酢鶏のレシピが参考になりそうだ。

■材料

  鶏もも肉 1枚

■下味

  こしょう 少々
  酒 大さじ1
  しょうゆ 大さじ1
  片栗粉 大さじ1

■合わせ調味料 (ミツカンのカンタン黒酢で代用できそう)

  黒酢 大さじ1
  しょうゆ 大さじ1
  はちみつ 大さじ1
  しょうがすりおろし 大さじ
  こしょう 少々

■その他

 揚げ油 カップ1
 パセリ 適量

~作り方~

 1 鶏肉を一口大に切り、下味をつけて20分程度おく
 2 肉に片栗粉をまぶし、180度の油で揚げて、油をきる
 3 炒め鍋に合わせ調味料を入れて煮立たせ、2を入れて絡める
 4 刻んだパセリをたっぷりかける

 

人生で食べる数は決まっている。
より料理で、よい人生を。

 

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生きるとは死を食べること、死ぬとは食べられること『死を食べる』『捕食動物写真集』

生きるとは何か、死とはどういうことか。

生きる「意味」とか「目的」を混ぜるからややこしくなる。複雑に考えるのはやめて、もっと削いでいくと、この結論に至る。

 ・生きるとは、他の生き物を食べること
 ・死とは、他の生き物に食べられる存在になること

見た目がずいぶん変わるから、気づきにくくなっているだけで、私たちが口にしているもの全ては、他の生物である。

ひょっとすると、幾重にも加工され尽くしているから、それは「肉」ではないと主張する人もいるかもしれない。だが、葉肉であれ果肉であれ、生きていた存在を食べることで、わたしたちは生きている。

死を食べて生きている

誰かの死を食べることで、私たちは生きていることを理解するなら、『死を食べる』をお薦めする。

動物の死の直後から土に還るまでを定点観測した写真集だ。

死んだ直後のキツネから、まずダニが逃げ出し、入れ替わるようにハエや蜂が群がってくる(スズメバチは肉食だ)。膨れ上がった体から蛆が飛び出し、その蛆を食べるために他の動物がやってくる―――いわば九相図の動物版で、どんな死も、誰かが食べることで土に還るのだ。

キツネからクジラまで、さまざまな死の変化を並べることで、「死とは、誰かに食べられる存在になること」であり、そして「生とは、誰かの死を食べること」が、ごくあたりまえのように理解できる。

誰かの死を食べて生をつなぐことは、人間だって同じだ。

私たちが毎日食べる、魚も、牛や豚や鶏の肉であれ、突き詰めていけば動物の死骸なのだから。キレイに血抜きされ、清潔にパックされているから気づきにくいだけなのだ。だが、私たちは「死」を食べて生きている。この写真集の最後のページを見ると、つくづくそう思えてくる。

『死を食べる』は、食べられる側の「死」を一枚ずつ撮影して、その変化をタイムラプス的に眺めたものだ。一方、食べる側を撮影したのが、『捕食動物写真集』である。

肉食生物の食事風景

『捕食動物写真集』は、肉食生物が、他の生き物を捕えて食べる瞬間を切り取っている。

最初のページに、注意書きがある。

以下のジャンルごとに、比較的ソフトな映像から始めて、次第に刺激が強いものになるように並んでいるとのこと。見るのがキツいようなら、そのジャンルの写真はやめて、他のジャンルに進むなど、無理のないように見て欲しいとある。

 ・魚類
 ・虫
 ・爬虫類・両生類
 ・鳥類
 ・哺乳類

過激さの基準は、食われる側の描写だろう。

魚を頭から丸呑みにしたウツボは、比較的ソフトだと判断されている。一方、カエルを半分咥え込んだヘビは、刺激が強いとされている。ちなみに、表紙の写真は、最もソフトなレベルなので、これで無理なら止めた方が良い。

そこに至るまで長時間の格闘があったのだろうが、下半身を呑まれたカエルの目が、諦めたかのように見える。食われる側の「目」が見えてしまうと、途端に残酷に見えてしまうのかもしれない。

一方で、食う側の姿は美しい。鋭くぶ厚いくちばしで力強くついばむコンドル、ガリガリという音さえ聞こえてきそうな頭骨を噛み砕くカワウソ、顔中を血まみれにして髄をすするライオンなど、「生きてるッ」感がダイレクトに伝わってくる。

どれも至近距離で、どうやって撮ったのか不思議なくらいのクローズ・アップになっている。クモやハエの複眼なんて、顕微鏡写真レベルの解像度である。びっしりと毛に覆われたクモの頭は、「ヒッ」と声がでるくらい迫力がある。

「残酷」も「美しい」も、ヒトから見た価値にすぎない。生き物はただ、他の生き物を捕えて食べているだけなのだから。

本書はK.F.さんのお薦めで手にした一冊。K.F.さんのおかげで、素晴らしい本に出会えました、ありがとうございます!

 

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実際の炎上プロジェクトを通して学ぶ。ITエンジニアが修羅場をシミュレートできる3冊+α

ITエンジニアが修羅場をシミュレートできる3冊+α」

……という記事を書いたのだが、長いのでまとめをここに記す。

  • 火消しのセオリーと、初見殺しの見分け方
  • お客の反応(否定、怒り、懐疑)の傾向と対策
  • 炎上プロジェクトで真っ先にすべきこと
  • 「やらないこと」の決め方
  • みずほ勘定系基幹システムMINORIに見る修羅場
  • 2021年2月のATMシステム障害の原因

実際の炎上プロジェクトを通して学ぶ、修羅場シミュレーターとしての3冊+αだ。

『問題プロジェクトの火消し術』はリカバリーするために何が必要で、どうやって話を持っていけばよいかが、具体的に書いてある。そのまま使える言葉がゴシック体で強調表示されているため、なんならメールにコピペして使えるくらい生々しい。

『プロジェクトのトラブル解決大全』は修羅場でどう動けばよいのかがまとめられている。いわゆる「正解」があるというより、上手く動けるPMは、たいていこんな言動を取るという、ベストプラクティス集だと思えばいい。

『みずほ銀行システム統合』は、修羅場まっしぐらのアンチパターン集としてお薦めする。ここでは、「片寄せしないシステム統合」と「現状把握の禁止令」の2例しか紹介していないが、あなたが読めば、もっと出てくるに違いない。

『システム障害特別調査委員会の調査報告書』は、その答え合わせとして読むといい。「どのように失敗したのか」を知っておけば、同じ轍を踏もうとするお客に、「みずほの障害はこれでした」と告げることができる。

これらを読みながら、「自分ならどう動く・話すだろう?」と考えると良いかも。できうることなら、一生涯、そんな目に遭いたくないものの、来るべき本番に備えて、予習だけはしておこう。経験で学んでいたら、命がいくつあっても足りない。初見殺しは、過去の修羅場で学ぼう。

次のプロジェクトの生存率を上げるために。

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