宇宙、生命、心と進化を一気通貫に語る『時間の終わりまで』
新卒が「一生やりたい仕事が見つかった」というのは、離乳食が終わったばかりの2歳児の「カレーの王子様は世界で一番おいしい食べ物である」と同じぐらい説得力がない(※)
本人が真顔であるほど、微笑ましい。自分の知る狭い世界でもって、それが全てであると言い切ることに無理がある。新しい仕事やカレーマルシェに出会って、世界が拡張されることを願う。
物理学に触れるようになって、同じ可笑しみを抱くようになった。
原子や中性子、クォークなど、どんなに小さいモデルを考えても、それだけでは説明しきれず、これまでの研究と矛盾する現象が生じる。
より巨大な望遠鏡を作り出し、宇宙の果てまで見渡そうとしても、私たちが知る宇宙とは、光が届く範囲でしか観測できない。
それにもかかわらず、現代の物理学でもって、物質や宇宙の全てがそうなっていると結論づけるのは、早すぎる一般化ではないだろうか。
「いやいや、素粒子論は何千回もの実験によって確かめられているし、シュレーディンガー方程式は10億分の1より高い精度で実験データと合致する。数学に裏付けられた物理学ほど確かなものはない」
素粒子物理学の第一人者ブライアン・グリーンは、そう主張する。確かに、その通りだと思う。研究や方程式については文句のつけようがない。
しかし、だからといって、その理論を、まんま絶対真理であるかのごとく断言されてしまうと、新卒や2歳児を見るように、微笑んでしまう。
「いやいや、2歳児と物理学を同じと見なすのは変だろう」
その通り。100年以上の歴史を持つ素粒子論と、離乳食が終わったばかりの2歳児を比べるのは変だし失礼だろう。
『時間の終わりまで』の魅力
だが、ブライアン・グリーンの『時間の終わりまで』を読むほどに、私たちが知っていることがいかに限られているかが見えてくる。
本書は、自然科学における素粒子や原子、分子といったミクロな観点から、ブラックホールや銀河、宇宙全体までを一気通貫で説明する。その旅路の中で、生命誕生における遺伝子や進化といった生命科学、心や自由意思、芸術や宗教といった人文科学にも目くばせしつつ、壮大なスケールで語り上げる。
数式は登場せず、記述は平易で、何よりも喩えが上手い。予備知識ゼロでどんどん入ってくるのが愉しく、知的好奇心がMAXに満たされる(物理学や数学の素養がある人には、巻末の脚注に数式が用意されている)。
特に興味深いのは、「分子ダーウィニズム」と呼ばれる化学的な闘争だ。
エントロピーと進化という切り口から、物理学の観点から生命誕生を語る試みである。
世代を下るごとに、より安定した分子配置が生じていくうち、「最初の生命」といえる分子集団が誕生したという。カオスな状態から、丁度良いサイズで分子が組織化されていく姿は、ビックバン以来、粒子が集まり、星や惑星や銀河を形成していくダイナミズムに重ねるように描かれており、知的興味を掻き立ててくれる。
エンパイアステートビルで宇宙の時間を喩える
喩え話で面白かったのが、「もしエンパイアステートビルで宇宙の時間を喩えたら」である。
宇宙の時間が、エンパイアステートビルの高さだと考えて、各フロアが時間の長さを示すと見なす。そして、ある階が表す時間の長さは、その下の階の時間の10倍と仮定する。
1階はビックバン直後の最初の10年になる。2階はその10倍の100年だ。3階は1000年になる。フロアを上へ行くほど、急激に長い時間が経過することになる。
ビルを上へ昇ったり下へ下りたりしながら、ビッグバンの影響、惑星や銀河の誕生、太陽系の誕生からその死、そして文字通り「時間の終わりまで」を探索する。
エンパイアステートビルの喩えのおかげで、最新の物理学が見せてくれる宇宙の歴史や宇宙全体の姿を、より生々しく体感することができる。
一方、物理学のおかげで体得した感覚からすると、物理学そのものの狭さに気づくようになる。
現在は、ビッグバンから始まって138億年ほど経過したとされている。エンパイアステートビルなら、10階から上にいく階段を上り始めたぐらいだ。人類の歴史は、階段の一段分にも満たない、あっという間の出来事になる。
このスケールで考えるならば、2歳児と物理学の長さは同じくらい瞬時のことになる。
さらに、エンパイアステートビルを上り下りしながら、宇宙の広大さを体感できるようになった。時間のスケールを自在に変えることで、そこで働く力(引力・斥力)を見える化するのは、惑星であり、恒星系であり、銀河であるからだ。
地球という惑星が巨大に見えるのは、せいぜい2メートルのヒトのサイズだから。カメラを引いて見るならば、太陽と比べ、地球はちっぽけな存在になる。太陽系が視野に収まるならば、太陽そのものも針先の点になる。銀河サイスだと、見ることすらできなくなる。
それほど宇宙は大きいのだが、その宇宙すらも、せいぜい光が届く範囲からの観測にすぎず、その外側にあるものは「分からない」が正解になる。
物理学の限界
ゴリゴリの還元主義者であるブライアン・グリーンは、「私たちは物理法則に支配されている粒子たちが詰め込まれた袋にすぎない」と言い放つ。
還元主義とは、基本的な構成要素を把握することで、宇宙のあらゆることを完全に説明できるという立場だ。惑星や銀河だけでなく、生命の誕生、意識や心、宗教や芸術など、あらゆることは粒子の振る舞いに過ぎないという。
それは物質としてなら正しいかもしれないが、説明にならないのではないだろうか? 美人はタンパク質で構成されると言うのは正しいかもしれないが、なぜ美しいのかは説明したことにならない。
そして、還元主義が「還元」できるのは、ヒトが理解できるサイズでしかない。コンピュータの助けを借りたとしても、要素が多すぎたり複雑すぎてモデルにできなかったり、そもそも測定/計算不能な対象であるならば、物理学として成立できない。たとえ正しくてもだ。
物理学に対する解釈が、まるで違っていて面白い。物理学が「正しい」のではなく、正しくなるように物理学は書き変わってきた、と見なす方が自然だ。
惑星の観測結果から得られたニュートンを元にした教科書が、観測技術の進展により得られた結果と合わなくなった。定数を足したりパラメーターを加えても成り立たなくなると、新たな分野として、ハイゼンベルクの教科書を作ろうとしているが、わたしには、「繕う」としているように見える。
ハイゼンベルクが正しくないと言っているわけではない。ある一つの理論で全てを説明できるという態度が妥当なのかと感じるようになった。
『時間の終わりまで』は、物理学で全てを説明しようとする、たいへん野心的な一冊だ。私たちが何を知っているかについて、これほど原理的に語ろうとしたサイエンス本は稀有だろう。一方で、私たちが知っていることがいかに小さいかについても、よく見えるようになった。

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