« 2022年6月 | トップページ | 2022年8月 »

プロが教える「伝わる動画」の技法『動画の文法』

問題:以下の3つのカットを並べ替えて、次の文章を動画にしなさい。

「太郎くんは、花子さんを、愛している」

Youngman_27
太郎くん
Youngwoman_45
花子さん
Heart_multipleハート

解答:最初が太郎くん、次がハート、最後が花子さん。


Youngman_27

Heart_multiple

Youngwoman_45

最初に出てくるカットに映っている存在が、動作の主(主語)になる。そして、その次のカットが動作そのものになる。そして、その動作の対象(目的語)になる。

止め絵なので脳内で再生してみてほしい。

すると、確かに太郎くんが目に入って、次にハートがドキドキしていたら、太郎くんの心象だと感じるだろう。そして、次に映ったものが、ドキドキの対象だと想像がつくはずだ。

問題2:上のカットを並べ替えて、次の文章を動画にしなさい。

「太郎くんと、花子は、愛し合っている」

解答はこの記事の末尾に載せておくが、テレビを見て育ち、日常的に動画を見ている皆さんにとっては楽勝だろう。それくらい、動画を見ることは、ごく当たり前のことになっている。

動画には文法がある

動画は、言葉と同じコミュニケーションツールなのだから、言葉と同じようにルールがある。

動いている絵をバラバラにならべても、伝わらない(※)。視聴者に伝えたい意図があり、それを限られた時間内で、正確&効果的に伝達する。そのための「文法」のようなルールが、動画にもあるというのだ。

言葉を例にするなら、問題文の「太郎は花子を、愛している」、これは入れ替えが可能だ。主語や目的語を、助詞(てにをは)で示せるから。一方で英語の場合、順番は入れ替えができない。単語を入れ替えると、意味が変わってしまう。

・太郎は花子を、愛している
・花子を、太郎は愛している
・太郎は愛している、花子のことを
・Taro Loves Hanako.

動画は英語に似ており、順番が決まっている。ここではSVOで示されているが、他にも、「最初にアップで出てくるのは主役である」とか、「俯瞰で始まって、俯瞰で終わる」という、視聴者と作成者との間に、暗黙のお約束というのがある。

『動画の文法』は、そうしたお約束を言語化したものだ。

NHKのディレクターで長年培ってきた経験を、動画の普遍的なルールとしてまとめている。

基本的な動画の原理から、コラージュ編集、モンタージュ編集、ストーリーを成立させるための条件、カット順序の必然性、イマジナリーラインのルール、ジャンプカット、同ポジ、省略法、倒置法、音声編集、カラーグレーディング等……500ページ超の大ボリュームに、これでもかと詰め込んでいる。

もちろん、ルールを破ることもある。原則があるということは、例外もあるから。TVコマーシャルや映画の予告、番宣などで、約束事を守らない映像を見たことがあるだろう。

だが、それは「破ってもいい条件」を満たしたときだけに成立するテクニックになる。それを無視すると、「通じない動画」になる。文字通り、何を言いたいのか、さっぱり分からない動画だ。

もちろん、本書では、どういう動画が面白くないかについても、徹底的に教えてくれる。

動画が「おもしろい」とはどういうことか

「面白くない動画」は、何を伝えたいのか分かりにくく、余計なものが入っていてゴチャゴチャしている。見ててイライラしてくるので、スキップしたり倍速にして、「結論」を探そうとする。

しかし、たいていは最後まで見たとしても、何が言いたいのか分からない場合が多い。「いかがでしたか? ご視聴ありがとうございました」で締められてイライラMAXとなる。

一方で、「おもしろい」動画もある。いわゆる拡散される面白動画のことではない。あるテーマに沿って解説したり実況してみせる動画だ。伝えたいことが分かりやすく入ってくるし、ストレスなく見ることができる。

もちろん、ネタが優れているとか、解説の仕方が上手いという理由で、「おもしろい動画」になっているのもある。だが、同じ素材であったとしても、面白いのもあるし、つまらないのもある。

その違いは何か?

決定的な要素として、「編集による表現(モンタージュの効果)」だという。個々のカットを巧みに組み合わせることで、特定の感情を伝えたり、名演技をしたかのように視聴者に思い込ませることができる(クレショフ効果と呼ばれる)。

例えば、飯テロの「空腹感」や、目まぐるしく切り替わる「スピード感」といった直接的な感覚から、「嫉妬」や「慈しみ」といったストーリーをもつ感情がある。そうした感覚や感情を、カットの組み合わせによって、視聴者が無意識に関連付けて解釈してもらう。

このとき、視聴者の心は動かされている。動画が面白いというのは、この心の動きのことになる。

イマジナリーラインの本質

動画を見るほう(私だ)にとっても、得るものが大きかった。今まで、漠然と「テンポが悪い」「展開が面白くない」等と思っていたことが、なぜそうなのか、どうすれば良くなるのか、具体的に言語化されているからだ。

なかでも最も腑に落ちたのが、「イマジナリーライン」だ。丸1章費やして、イマジナリーラインの本質を解説してくれたおかげで、いくつかのドラマがなぜ面白くないか分かった。

イマジナリーラインは想定線とも呼ばれている。「2人の対話の間を結ぶ仮想の線」と定義され、この線を越えたカメラの移動や編集をしてはいけない、とされている。

Topview_man

…………………

Topview_woman

最初に出てくるカットに映っている存在が、動作の主(主語)になる。そして、その次のカットが動作そのものになる。

被写体が、1人だろうが複数だろうが、人だろうがモノだろうが、被写体同士を結ぶのではなく、被写体が「方向性をもつ動作」をしているとき、イマジナリーラインはその動作の方向に設定される、と考えます。

そして、動作の方向だから「ライン」と読んでいるものの、ルールとしては、これは、「線」というより「面」と考えるほうが理解しやすいというのだ。カメラは、イマジナリーラインの「面」のこちら側では自由に動けるけれど、面をすり抜けるのは、原則的に禁止されている。

なぜか。

私たちが動画を見る時、(あたりまえだが)被写体を撮影したカメラの方からしか、撮影された世界を見ることができない。そのため、被写体がどんな位置・方向にいるかは、カメラが切り取った位置関係から把握している。

動画は複数のショット・アングルを切り替えて進めるけれど、そのとき、イマジナリーラインの面を突き抜けてしまうと、対象がいるべき方向が(脳内と)合わなくなってしまう。

心地よく世界を眺めていたのに、辻褄が合わなくなった対象を再構築する必要が出てくる。これは非常にストレスフルだし、何よりも、動画の世界から現実に戻されてしまう。だから、イマジナリーラインの面をすり抜けるのは、原則的に禁止されている。

では、イマジナリーラインの破り方はあるのか?

本書でいくつか紹介されているが、代表的なのは、ヒキ(話者から引いた)画を入れることだという。ヒキ画とは、シーンの状況説明をするための俯瞰画像のことだ。これにより、イマジナリーラインは再設定することができる。

だが、ヒキ画を入れることでストーリーの進行も滞るし、見ている方も冷めてしまうというデメリットもある。イマジナリーラインを破るなら、それなりの理由が必要だと釘を刺すが、ごもっともなり。

20220723_230858

私自身、あまり自覚してこなかったが、この説明でピンときた。世間で評判とされて、とりあえず第一話だけ見るのだが、その一話で切ってしまうドラマが多々ある。漠然と「展開がダルい」と思っていたが、これ、イマジナリーラインの破り方が下手なだけだったのかもしれぬ。

動画を作る人にとって、本書は教科書みたいな存在になるだろう。守るべきルールと、破っていい条件の両方が詳述されており、実践するだけで、良質の動画が編集できる一冊。

問題2の解答:最初が太郎くん、次が花子さん、そして最後をハートにすると、「太郎くんと、花子さんは、愛し合っている」になる。

Youngman_27

Youngwoman_45

Heart_multiple

これは、日常的に動画を見ている人には当然すぎて、「なぜこれが問題として成立するの?」と、逆に疑問に思えてくるかもしれない。

しかし、動画を見慣れていない人や、自分で動画を編集しようとする人には、途端に難しくなってくるだろう。

「やりたいこと」が先にあって、それをどうやって編集すれば視聴者に伝わるかという逆引き辞典のようなデザインパターン集があれば、人気を博するかもしれない。

 

| | コメント (0)

炎上プロジェクトの火消し術『プロジェクトのトラブル解決大全』

飛び交う怒号、やまない電話、不夜城と化した会議室。

集められたホワイトボードが衝立のように立ち並び、全員が立って仕事をしている(座る間が無いから)。週をまたぐとメンバーの疲弊が目に見えはじめ、月を跨げば一人二人といなくなり、仕事場はお通夜となる。

トラブルの無いプロジェクトは存在しない。炎上するかボヤで済むかの違いなだけで、大なり小なりトラブルは付きものである。

自分が所属する部署は大丈夫かもしれない。だが、隣のブースだとか、同期がいるチームで炎上しているのを横目で見ながら仕事する、なんてことがある。ホワイトボードは目につくし、大きな声はイヤでも耳に入ってくるので、プロジェクトが炎上⇒鎮火するパターンなんてものも、なんとなく伝わってくる。

消火作業のイロハとか、怒った客をあしらう方法、リカバリ計画の立て方なんてのも、肌感覚で分かってくる。

そして、トラブルの扱いが分かってくる頃には、「応援要員として2週間、サポートに行ってくれ」なんて片道キップが渡される(2週間で終わった試しがないが)。

トラブル解決にはセオリーがある

トラブルの解決法は、現場から現場へ、暗黙知のノウハウのように伝えられる。

だが、今はリモートワークが中心だ。

なので、そうした伝達が難しくなっているのではないかと感じる。ネットを賑わすような大炎上を噂に聞くだけで、自社内で起きているトラブルや火消しに気づかない人が増えているのではないだろうか。解決法も知らないまま、キャリアを重ねているのではないか。

そして、火を見たこともないまま、「応援要員として2週間、サポートに行ってくれ」と肩をたたかれる。

火を見たこともない人に、消火を任せるようなことはさせたくない(第一、危険だ)。さりとてオンラインで肌感覚は伝えにくい。

などと考えていたら、暗黙知を言語化してまとめた本があった。

書いた人は、日本IBMの中の人。10億円の破綻プロジェクトを半年で再生させたり、600名のメンバーを引っ張ってきた、スゴ腕のPMである。

そんな人が、プロの火消し術を惜しみなく伝えてくれる。「トラブル解決にはセオリーがある」と断言し、自身が培った経験を言語化してくれている。

現場で見るべき最初のポイント:ホワイトボード

例えば、ホワイトボード。

著者は、「現場で見るべき10のポイント」を掲げ、その一番にホワイトボードを挙げている。これは完全同意。

ホワイトボードには、進捗報告書やプロジェクト計画書に載っていない、生の情報が書かれている。

そして、ホワイトボードが集まっているエリアには、課題表が書かれているはずだ。いつ、どんな問題が起き、誰が、どこまで解析し、影響範囲の特定と対策が(不完全ではありつつも)存在するはずだ。それを見ることで、火事場の中心はどこか、キーマンが誰かが分かってくる。

トラブルに陥っているプロジェクトでは、資料はほとんどメンテされていない。対応に大わらわなので、きちんとした報告にまとめられるわけが無いからだ。代わりにホワイトボードに殴り書かれた骨子が重要になる。

課題管理で【絶対】やってはいけないこと

課題管理表のポイントが強調されているが、どれもその通りだと思う。

「課題の期限は意志をもって決める」や「課題管理はリーダー胆力が試される」など、いちいち頷くことが、理由をつけて説明されている。

担当者をアサインするのは嫌われ役だし、「いつまでならできるの?」と詰めるのは精神安定上よろしくないのは承知の上で、やるべきこと、やってはいけないことが書いてある。

中でも、一番やってはいけないことがあるのだが、そこもきちんと説明されている。少し考えれば誰しも容易に想像がつくのだが、なぜかこのNGをやってしまう人が多い。

それは、「課題提起人を担当者にする」ことだ。

ある事象が問題だと指摘し、その理由を説明してきた人に、「じゃぁその担当者としてよろしく」と課題をアサインしてしまう。これは最悪オブ最悪だ。

なぜなら、「言い出しっぺが引き受ける」ことになり、課題が出てこなくなるから。雉も鳴かずば撃たれまい。プロジェクトが悪化しているのに、その「症状」が見えなくなり、デスマーチまっしぐらになる。

課題管理でやるべきこと

本書では、「課題対応に適した人を割り当てよ」でまとめているが、一点、補足したい。

ふつう、課題を指摘する人は、その課題に近い人が多い。直接的な被害を受けていたり、原因の近辺を担当していることで、事象を上手く説明できる。だが、課題に詳しいからといって、その人をアサインするのは愚の骨頂だ。

だが、別の人をアサインするといっても、その人は課題に詳しいわけではない。その結果、アサインされた人が課題提起人に何度も聞きに行くことで、非効率的になってしまう。

じゃぁどうするか?課題を分割するのだ。かつてのローマ帝国のごとく、分割してマネジメントする。

でも、どうやって課題を切り分ける? そのときこそ、課題提起人を呼ぶ。誰よりもその課題に対して問題意識を持っており、原因となりそうなところや影響範囲、解析方針もアタリがついているだろう。だから、どうやって分ければよいか、一番アテにできる。

そうして、課題を小さく分けて、扱いやすくした上で、別の人に対処してもらうといい。

他にも、「軌道修正は朝会で伝えよ」「悪い報告を歓迎しろ」「現場は定時パトロールせよ」「課題管理表は、対応すると決めた1~2割増しで報告しろ」など、すぐに使えるノウハウを詰め込んでいる。

もちろん、炎上しないに越したことはない。だが、プロジェクトはトラブる。炎上かボヤかの違いなだけで、大なり小なり燃える。だから、本書で予習しよう。

炎上を食い止め、プロジェクトを前に進める一冊。

| | コメント (0)

難民キャンプ、被災地、スラム街を「観光」する『不謹慎な旅』

不謹慎な観光ガイド。

風光明媚な観光スポットとは言い難い。戦争や天災、公害、差別、事故現場など、大きな悲劇を経験した「負の遺産」となっている場所になる。

さらに、遠い過去ではなく、まだ記憶に生々しい場所をわざわざ選んでいる。そのため、いまだ悲しみの傷が癒えない人が居たりする。そうした人たちの声を拾い上げ、カメラも向けている。

そういう、嫌な記憶となっている所を観光するなんて、失礼で悪趣味だという誹りを免れない。なので、タイトルから先回りして、「これは不謹慎な旅です」と言い切る。

普通の観光地は、旅行ガイドやTV番組等で紹介し尽くされている。GoogleMapを使えば、居ながらにしてそこの景色を見ることだってできる。そんな「普通の」観光地では飽き足らない人のための、不謹慎な観光ガイド。

エジプト・カイロ「豚の場所」

「世界で一番ゴミだらけの首都」とされている、エジプト・カイロを訪れる。

中でもゴミが集中しているのは、マンシェイェト・ナーセル地区だという(通称「豚の場所」)。1日に運び込まれるゴミの量はトラックにして2000台、5000トンとも言われる(※)。

地区の住民6万人の大半は、ゴミ処理業に従事している。収拾し、分別し、再利用できる資源は売り、生ごみはブタの餌にする。ブタの飼育は、豚肉食を禁忌としないコプト教徒が行い、肥やした後、食べたり売ることで生計の足しにしている。

驚くべきは、そのリサイクル率。85%を越えるという(ヨーロッパの平均は32%)。住民は、ゴミの中で暮らし、ゴミによって生計を立てているともいえる。

アラブの春から10年、エジプトの政治は激変し、大規模デモや暴動、クーデター、テロが続いた結果、旅行客は激減し、エジプトの観光業は冷え込むことになる。経済の冷え込みは社会の混乱を招き、回収されないゴミの山に如実に表されるようになる。

行政破綻が表立って見えるのは、ゴミの山だと聞いたことがある。レバノンの首都ベイルートでは、都市機能が麻痺するほどゴミ問題が深刻化している。「観光」として出かけなくても、近い未来、あちこちで見られるようになるのかもしれぬ。

岩手県大槌町役場

東日本大震災の津波被害を受け、ボロボロの姿をさらしている大槌町役場が紹介されている。

鉄筋二階建ての庁舎で、大破して焦げた外壁がむき出しになり、止まった時計が張り付いている。窓ガラスは喪失し、エアコンのダクトやケーブルが垂れ下がっている。

著者が訪れた当時、庁舎の扱いについて、解体派と保存派と、意見が対立していたという。

解体派は、使い物にならない建物を取り壊して更地にし、再利用すれば良いという意見だ。「助けられなかった後悔や、つらい記憶が蘇る」という声もある。

一方、保存派は、災害の脅威や教訓を伝える「震災機構」として残すべきと考える。建物を壊しても、「つらい気持ち」は無くならない。だったらむしろ、後世に伝えるべきだという。

国が支給する復興交付金をどう使うのかについて、「不幸で稼ぐのか?」「どうせ町を出て戻らない連中が言うな」など、町を二分する意見を丹念に拾い集めてゆく。

世界最大の難民キャンプ・ロヒンギャ

100万人が避難生活をする難民キャンプ、ロヒンギャが凄まじい。

2017年のロヒンギャ武装勢力と治安部隊の衝突を機に、周辺の住民がバングラデシュに逃れて作った町だ。丘から眺める場所の全てがバラックやテントに埋め尽くされている。巨大な「都市」と言っていい。

Kutupalong Refugee Camp (John Owens-VOA)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kutupalong_Refugee_Camp_(John_Owens-VOA).jpg

John Owens (VOA), Public domain, via Wikimedia Commons

ただし、これは横へ広がる都市だ。

通常であれば、一つの場所に人が集まってくると、建物は上へ向かう。つまり、2階建やビルのように縦方向に伸びてゆく。だが、難民キャンプではそうはゆかず、人々は横へ横へと広がっている。

難民相手に商売をする露店や出店も出現しているという。援助物資を売って得た資金を元手にして、嗜好品等を外部から調達し、難民どうしで経済をまわす。祖国の情報を求める人々がインターネットカフェに集うし、難民キャンプを案内するツアーまである。

著者は難民商店で「ショッピング」をし、そこでミネラルウォーターを「グルメ」と称して飲み干す(中身は井戸水だそうだ)。いささか露悪的な表現だが、そうでもしないと正視すらままならないのかもしれぬ。

見世物としてのミゼットプロレス

いわゆる見世物小屋を巡る旅もある。

見世物小屋とは、珍奇さや禍々しさを売りにして、普通では見られない芸や獣、人間を見せる興行のことだ。海外だと「フリークショー(Freak show)」と呼ばれている。

花園神社酉の市(東京都新宿区)、神宮例祭(札幌市中島公園)、筥崎宮放生会(福岡県福岡市)を巡りながら、悪食、珍獣、危険な曲芸など、奇怪でグロテスクな芸を紹介する。

しかし、最近では世間の風当たりは強く、世間が許容しない・風紀を乱すといった理由で、興行場所を確保しづらくなっている。生きた蛇を食べるヘビ女などは、動物愛護団体の猛反発を受け、虫に代わってしまったという。

そんな中、ミゼットプロレスの歴史にライトが当てられている。

ミゼットプロレスは、その名の通り、小人どうしのプロレスになる。小さな体から繰り出される高度な技や、コミカルな動きに、プロレスファンのみならず魅了された人も多かったらしい。女子プロレスの興行に組み込まれ、広く人気を博したという。

特に、スター選手のミスターボーンは、「8時だヨ! 全員集合」にも出演し、お茶の間の爆笑をかっさらう。

脈絡もなく登場し、舞台を駆け抜ける小人を、わたしも見た記憶がある。今ならその役割が分かる。デウス・エクス・マキナ(お芝居が混乱したとき降臨して、物語を収束させる役)だね。

しかし、同時に非難も殺到する。曰く「かわいそう」「身体障碍者を笑いものにするな」等など。「善意の」投書にメディアは自主規制を始め、女子プロレスの中継があっても、「小人たちの闘い」は存在しないことになる。

負の遺産を巡るダークツーリズム

他にも、女人禁制の山(大峰山)、国産アヘン・ケシ畑(小平市)、牛久入管収容所など、普通ではない場所を観光する。

最近では、アウシュビッツ強制収容所や原爆ドームなど、人類の負の遺産を訪れることは「ダークツーリズム」と呼ばれ、新しい旅行のスタイルとして注目されている。

悲劇の現場へ物見遊山に行くことに、危うさ・ミスマッチを感じる。「不謹慎な旅」という言葉に、一種の開き直りを感じるが、近所でない限り、そういう場所の必要性が語られるのだろう。

※本書では5000トンだが、National Geographic の動画では9000トンと紹介されていた。いずれにせよ、膨大な量になる。

| | コメント (2)

見えるのに見えていない最大の臓器『皮膚、人間のすべてを語る』

私たちの顔には、ニキビダニが寄生している。

0.2ミリぐらいのダニで、肉眼では見えない。ポケモンで言うなら、8本足のヤドランみたいな姿をしている。分類だと昆虫ではなく、節足動物になる(画像検索しないほうがいい)。

主な生息地は鼻や頬。眉毛やまつ毛、皮脂腺の奥深くに潜んでおり、にじみ出る脂質や微生物を食べて暮らしている。8本の太くて短い足で時速16ミリ移動し、つがいを求めてたまに出てくる。

名前からしてニキビの原因になりそうだが、むしろ逆。脂質や微生物を分解する酵素を持ち、皮膚の常在菌を一定に保ってくれる、共存共栄の関係とも言える。睡眠不足やストレスによるニキビが出そうな場所で、脂や細菌を食べに集まるので、ニキビダニと呼ばれているのかもしれない。

授乳や抱っこで人から人へ伝染し、家族に特有な系統は、何世代にも渡って受け継がれる。たとえ海を渡り、別の大陸に移住しても、そのダニの系統は代々受け継がれ、宿主の乗り換えは滅多にないという。

ヒトと何千年も共存してきたニキビダニのDNAは、一種のタイムカプセルとも言える。つまり、このダニのDNAを解析することで、海を越えた祖先の足跡を追うことも可能だからだ。近い将来、私たちが何者であるかは、ニキビダニの研究によって明らかになるかもしれない。

『皮膚、人間のすべてを語る』の魅力

ニキビダニの研究は、『皮膚、人間のすべてを語る』で知った。読むと痒くなってくる本である。鼻のあたまを鏡に写したり、目を近づけて指紋を眺めたり、脇の下をクンクン嗅いだり、ち〇ち〇をマジマジと観察しながら読んだ。

そして、同じ皮膚なのに全然違うこと、何十年も付き合ってきた「わたし」の皮膚が、実に精妙に出来ていることを、改めて思い知る。皮膚は「わたし」の表面を覆い、外側の環境から守る一方で、赤くなったり青くなることで、心身の調子を外側へ知らせてくれる。皮膚は、最大の臓器なのだ。

著者はオックスフォード大学の皮膚科医なので、皮膚の精妙なメカニズムを平易に語ってくれる。本書が素晴らしいのは、それだけではなく、哲学や宗教、歴史や言語にまで、単なる物質的なあり方をはるかに超えた影響力を語ろうとする点にある。

ワニの崇拝者が身体に刻むタトゥーの話や、マイアミビーチでする日焼の悪影響、あるいは肌色の濃度と緯度/風土の文化人類学的な考察など、皮膚を通じて人を見ると、実に面白い側面が見えてくる。

アポクリン汗腺は「惚れ薬」

例えば、アポクリン汗腺と性的魅力について。

腋の下や乳首の周り、性器の周辺に分布するアポクリン汗腺には、性機能との関りがあるという。他の汗腺と異なり、アポクリン腺からは皮脂成分が分泌される。汗そのものは無臭だが、皮膚表面にいる細菌には、特別なごちそうになる。細菌によって分解されたものが、体臭となる。

2010年にフロリダ州立大学で行われた「におい」の実験が紹介されている(※1)。

女性が着ていたTシャツの「におい」(あえて漢字にしない)を、男性のグループに嗅いでもらう実験だ。すると排卵期の女性が着ていたTシャツを嗅いだ男性は、高いレベルのテストステロンを示したという。

テストステロンとは、男性の主要な性ホルモンであり、生殖組織の発達に深くかかわっているホルモンになる。女性の生殖能力は、「におい」によって、男性のホルモン分泌に影響を与えているといえる。

この「におい」が放出されるメカニズムについては、キャサリン・ブラックリッジ『ヴァギナ 女性器の文化史』で学んだことがある。ココナッツや白桃を想起させる、豊かで甘く深みのある香りだ。あからさまな「におい」というよりも、むしろ「圧」という感じで気づくことが多い。

「人は見た目が10割」という輩がいるが、見る以前に、においによって魅力が形作られていると考えると興味深い。

感動したときの「ゾクゾク感」を測定する

クラシック音楽のクライマックスに引き込まれたり、懐かしいポップソングを耳にすると、背中がゾクゾクしてきたり、首や顔、二の腕にトリハダが立つのを感じることがある。

これはゾクゾク感、鳥肌感と呼ばれている(tingling sensations)。

感動的な映画のラストや、美しい絵画を見た時にも生じるが、特に音楽による刺激が効果的に引き起こすことができるという。皮膚における電気活動(EDA:Electro Dermal Activity)によって測定され、心と皮膚の関係を研究する要となっている(※2)。

音楽と鳥肌感の研究は、たいへん「おもしろい」結果が得られている。

音楽を聞いてゾクゾクする人というのは、いわゆる情に篤い人と思われるかもしれないが、その人の性格とは関係が薄いらしい。

その代わりに、ゾクゾク感を引き起こすのは、音楽への認知的エンゲージメント(没頭、集中度)によるという。聴き手が予期していなかった方向へメロディやピッチが変化し、その後収束するとき、ゾクゾク感が生まれやすくなる(※3)。

さらに、不協和音がすぐに解消されると、聴き手の期待をよい意味で裏切り、ゾクゾク感が増す効果があることが明らかになっている(※4)。著者はこれを、「脳のくすぐりを皮膚で感じ取る」と述べているが、言い得て妙なり。

皮膚は、わたしたちを覆い、日光や微生物から守るためのバリアだけなく、感情を表し、シワや傷痕、入れ墨などにより、わたしたちが何者であるかを表現するスクリーンのようなものでもあるという。

皮膚を通じ、ヒトという存在を改めて知ることができる一冊。


※1 Miller, S. L. and Maner, J. K., 'Scent of a woman: Men's testosterone responses to olfactory ovula pilaris: tion cues', Psychological Science, 21 (2), 2010, pp. 276-83.

https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/20424057/

※2 Goldstein, A., 'Thrills in response to music and other stimuli', Physiological Psychology, 8 (1), 1980, pp. 126-9.

https://link.springer.com/article/10.3758/BF03326460

※3 Timmers, R. and Loui, P., 'Music and Emotion', 32) L Foundations in Music Psychology, eds. Rentfrow, P. J. and Levitin, D. J., MIT Press, 2019, pp. 783 826.

※4 Blood, A. J. and Zatorre, R. J., 'Intensely pleasurable responses to music correlate with activity in brain regions implicated in reward and emotion', Proceedings of the National Academy of Sciences, 98 (20), 2001, pp. 11818-23. 25) 

| | コメント (0)

宇宙、生命、心と進化を一気通貫に語る『時間の終わりまで』

新卒が「一生やりたい仕事が見つかった」というのは、離乳食が終わったばかりの2歳児の「カレーの王子様は世界で一番おいしい食べ物である」と同じぐらい説得力がない(※)

本人が真顔であるほど、微笑ましい。自分の知る狭い世界でもって、それが全てであると言い切ることに無理がある。新しい仕事やカレーマルシェに出会って、世界が拡張されることを願う。

物理学に触れるようになって、同じ可笑しみを抱くようになった。

原子や中性子、クォークなど、どんなに小さいモデルを考えても、それだけでは説明しきれず、これまでの研究と矛盾する現象が生じる。

より巨大な望遠鏡を作り出し、宇宙の果てまで見渡そうとしても、私たちが知る宇宙とは、光が届く範囲でしか観測できない。

それにもかかわらず、現代の物理学でもって、物質や宇宙の全てがそうなっていると結論づけるのは、早すぎる一般化ではないだろうか。

「いやいや、素粒子論は何千回もの実験によって確かめられているし、シュレーディンガー方程式は10億分の1より高い精度で実験データと合致する。数学に裏付けられた物理学ほど確かなものはない」

素粒子物理学の第一人者ブライアン・グリーンは、そう主張する。確かに、その通りだと思う。研究や方程式については文句のつけようがない。

しかし、だからといって、その理論を、まんま絶対真理であるかのごとく断言されてしまうと、新卒や2歳児を見るように、微笑んでしまう。

「いやいや、2歳児と物理学を同じと見なすのは変だろう」

その通り。100年以上の歴史を持つ素粒子論と、離乳食が終わったばかりの2歳児を比べるのは変だし失礼だろう。

『時間の終わりまで』の魅力

だが、ブライアン・グリーンの『時間の終わりまで』を読むほどに、私たちが知っていることがいかに限られているかが見えてくる。

本書は、自然科学における素粒子や原子、分子といったミクロな観点から、ブラックホールや銀河、宇宙全体までを一気通貫で説明する。その旅路の中で、生命誕生における遺伝子や進化といった生命科学、心や自由意思、芸術や宗教といった人文科学にも目くばせしつつ、壮大なスケールで語り上げる。

数式は登場せず、記述は平易で、何よりも喩えが上手い。予備知識ゼロでどんどん入ってくるのが愉しく、知的好奇心がMAXに満たされる(物理学や数学の素養がある人には、巻末の脚注に数式が用意されている)。

特に興味深いのは、「分子ダーウィニズム」と呼ばれる化学的な闘争だ。

エントロピーと進化という切り口から、物理学の観点から生命誕生を語る試みである。

世代を下るごとに、より安定した分子配置が生じていくうち、「最初の生命」といえる分子集団が誕生したという。カオスな状態から、丁度良いサイズで分子が組織化されていく姿は、ビックバン以来、粒子が集まり、星や惑星や銀河を形成していくダイナミズムに重ねるように描かれており、知的興味を掻き立ててくれる。

エンパイアステートビルで宇宙の時間を喩える

喩え話で面白かったのが、「もしエンパイアステートビルで宇宙の時間を喩えたら」である。

宇宙の時間が、エンパイアステートビルの高さだと考えて、各フロアが時間の長さを示すと見なす。そして、ある階が表す時間の長さは、その下の階の時間の10倍と仮定する。

1階はビックバン直後の最初の10年になる。2階はその10倍の100年だ。3階は1000年になる。フロアを上へ行くほど、急激に長い時間が経過することになる。

ビルを上へ昇ったり下へ下りたりしながら、ビッグバンの影響、惑星や銀河の誕生、太陽系の誕生からその死、そして文字通り「時間の終わりまで」を探索する。

エンパイアステートビルの喩えのおかげで、最新の物理学が見せてくれる宇宙の歴史や宇宙全体の姿を、より生々しく体感することができる。

一方、物理学のおかげで体得した感覚からすると、物理学そのものの狭さに気づくようになる。

現在は、ビッグバンから始まって138億年ほど経過したとされている。エンパイアステートビルなら、10階から上にいく階段を上り始めたぐらいだ。人類の歴史は、階段の一段分にも満たない、あっという間の出来事になる。

このスケールで考えるならば、2歳児と物理学の長さは同じくらい瞬時のことになる。

さらに、エンパイアステートビルを上り下りしながら、宇宙の広大さを体感できるようになった。時間のスケールを自在に変えることで、そこで働く力(引力・斥力)を見える化するのは、惑星であり、恒星系であり、銀河であるからだ。

地球という惑星が巨大に見えるのは、せいぜい2メートルのヒトのサイズだから。カメラを引いて見るならば、太陽と比べ、地球はちっぽけな存在になる。太陽系が視野に収まるならば、太陽そのものも針先の点になる。銀河サイスだと、見ることすらできなくなる。

それほど宇宙は大きいのだが、その宇宙すらも、せいぜい光が届く範囲からの観測にすぎず、その外側にあるものは「分からない」が正解になる。

物理学の限界

ゴリゴリの還元主義者であるブライアン・グリーンは、「私たちは物理法則に支配されている粒子たちが詰め込まれた袋にすぎない」と言い放つ。

還元主義とは、基本的な構成要素を把握することで、宇宙のあらゆることを完全に説明できるという立場だ。惑星や銀河だけでなく、生命の誕生、意識や心、宗教や芸術など、あらゆることは粒子の振る舞いに過ぎないという。

それは物質としてなら正しいかもしれないが、説明にならないのではないだろうか? 美人はタンパク質で構成されると言うのは正しいかもしれないが、なぜ美しいのかは説明したことにならない。

そして、還元主義が「還元」できるのは、ヒトが理解できるサイズでしかない。コンピュータの助けを借りたとしても、要素が多すぎたり複雑すぎてモデルにできなかったり、そもそも測定/計算不能な対象であるならば、物理学として成立できない。たとえ正しくてもだ。

物理学に対する解釈が、まるで違っていて面白い。物理学が「正しい」のではなく、正しくなるように物理学は書き変わってきた、と見なす方が自然だ。

惑星の観測結果から得られたニュートンを元にした教科書が、観測技術の進展により得られた結果と合わなくなった。定数を足したりパラメーターを加えても成り立たなくなると、新たな分野として、ハイゼンベルクの教科書を作ろうとしているが、わたしには、「繕う」としているように見える。

ハイゼンベルクが正しくないと言っているわけではない。ある一つの理論で全てを説明できるという態度が妥当なのかと感じるようになった。

『時間の終わりまで』は、物理学で全てを説明しようとする、たいへん野心的な一冊だ。私たちが何を知っているかについて、これほど原理的に語ろうとしたサイエンス本は稀有だろう。一方で、私たちが知っていることがいかに小さいかについても、よく見えるようになった。

@yokichiさんのtweetより引用

| | コメント (0)

« 2022年6月 | トップページ | 2022年8月 »