なぜイヤな映画をわざわざ観るのか
いわゆる「胸糞映画」というジャンルがある。
下品だったり悪趣味だったり、観た後に気分が落ち込むような作品だ。
ずばり恐怖を主題としたホラーの枠に限らない。幽霊や殺人鬼がいなくても、おぞましく理不尽な展開を描いた映画はあるし、鮫やゾンビが出なくても、残虐バッドエンドに至る作品はある(体感だが、普通の人しか出てこない胸糞映画の方がエグい)。
わざわざお金と時間をかけるのだから、泣いて笑って感動するようなものを観たがるのではいのだろうか? もちろん普通はそうなのだが、胸糞映画も一定の需要がある(さもなくば、跡形もなく消えているだろう)。
私がそうだ。
読み手の心を抉り、読後感がトラウマになるものを「劇薬小説」と呼び、好んで摂取してきた(「危険な読書」にまとめた)。読書は毒書なのだ。
映画も然り。自ら切開することで、自分の皮膚という境界が分かるように、精神的に痛めつけることで、自分の心がどこにあるかを知らしめる子どもが酷い目に遭うシーンを観て「痛い」と感じる場所こそが、わたしの心の在処なのだ。
だが、なぜ、そういう作品を観るのか?
ただ「好きだから」だけでなく、その「好き」を支える動機は何か。私の個人的な好みを越えて、一定の需要がある理由はあるのか。
「ざまあみろ」という感情
よく言われるのが、「人の不幸は蜜の味」というやつ。
妬みの裏返しだ。他人の幸福―――例えば、お金、美貌、健康な身体、若さ、素敵な恋人や配偶者―――そういう「持てる」人に対し、羨ましいと感じる。その嫉妬が募りすぎると、やがて自分自身の身を焼くようになる。
だから、芸能人や政治化のスキャンダルが暴露され、みじめな姿を目にすると、この上もなく甘美に癒される。メシウマ(他人の不幸で飯がうまい)や、シャーデンフロイデ(ドイツ語)とも呼ばれる。
この「羨ましい」という感情と、「ざまあみろ」という感情は、苦痛と報酬のメカニズムだという研究がある(※1)。
若い男女が集められ、あるシナリオを読むように指示される。その際、主人公を自分に置き換えて読むように条件づけられる。シナリオの主人公は異なる設定になっている。
①被験者と同じような境遇だが、学業成績や能力に優れている
②被験者とは異なる境遇で、平均的な能力
様々なバリエーションの中で、上記①の場合に、被験者は強い羨望を感じ、前帯状皮質が活性化した。そして、妬まれた主人公が不幸になると、より強い活性化が見られたという。
前帯状皮質は、ACC(Anterior cingulate cortex)と呼ばれ、脳の左右の神経信号を伝達する脳梁を取り巻く"襟"のような形をしている。血圧や心拍数のような自律的機能、共感・情動といった認知機能、そして、身体の痛みに関係しているとされている。
この研究により、自分に似た境遇だが、自分よりも「持てる」人に対して、羨ましいという苦痛が生じ、その人が不幸になると報酬が得られるのではないかという仮説が立てられている。
では、この「ざまあみろ」という感情を味わうために、人が酷い目に遭う映画を観るのだろうか?
例えば、『ファニーゲーム U.S.A.』という作品で考えてみよう。ミヒャエル・ハネケ監督で、映画史上、最も”不快”な暴力が描かれている。ある家族が酷い目に遭うのだが、まったくもって楽しめない。
湖畔の別荘でバカンスを楽しむくらい裕福で、上品で教養のある3人家族だ。そこに現れたのが、純白の手袋をし、純白のポロシャツを着た2人の青年。最初は礼儀正しく振舞うものの、徐々に残忍な本性を露わにしていく……
もし、メシウマの副菜としてこの映画を観るのなら、その純粋な暴力に打ちのめされるだろう。観客を本気で嫌な気にさせようと、監督が本腰で悪意を込めているのが分かる。覚悟を決めないと、正視すら難しいかもしれぬ。
おそらく、「ざまあみろ」という感情が成り立つためには、他人に降りかかる不幸のバランスが必要となるのかもしれぬ。株価の暴落で成金が貧乏になるとか、出世頭だったのに不倫がばれてクビだとか、そういった幸・不幸のバランスだ。
そして、天秤の不幸側があまりに重すぎる場合、「ざまあみろ」と感じた自分すら含めて打ちのめされるに違いない。
不安の排泄「カタルシス」
哲学・演劇からのアプローチだと、カタルシスを得るために観ると言える。
アリストテレスが『詩学』の中で主張している、精神の浄化のことだ。
身体の中に溜まった感情から解放されるとき、快楽をもたらすという理屈だ。物語を通じ、不安や恐怖、哀切や怒りといった、様々な感情を抱く。それは、登場人物の感情が観客に伝染する場合もあれば、監督の演出によって掻き立てられるときもある。
そこで呼び起こされた「怖れ(ポボス)」と「憐れみ(エレオス)」によって、観客が抱いていた感情は排出され、魂の浄化を得ることになる。これがカタルシスである。
ポイントは、怖れや憐れみを引き起こすためには、「不幸」の要素が必要だということ。多かれ少なかれ、物語の中には不幸がある。観客は自分に似た人物が不幸な目に遭うのを見て、自分もそうなるのではないかと怖れる。あるいは、理不尽な不幸に遭うのを見て、憐れみを覚えるのだ。
登場人物の行動が観客に及ぼす影響については、ミラーニューロンの研究が傍証になる。
ミラーニューロンとは、自分が行動するときと、他人の同じ行動を見るときの両方において活性化する神経細胞を指す。他人の行動を見て、まるで自分が同じ行動をしているように、「鏡」のような反応をすることから名づけられている。
ミラーニューロンは、新生児が他者の行動を理解し模倣する助けとなるとされている。身体の運動や、相手の表情を観察し、それを真似ることで、複雑な動作や経験を伝達していくことができる(※2)。
また、最近の研究では、扁桃体を含む大脳辺縁系や島皮質にも関与していることが明らかになっている。この部位は、情動や共感に深く関わっている。
他人の感情を自分のことのように感じるメカニズムは、ミラーニューロンの研究によって、明らかにされつつある。映画を観て、私たちが怖れや憐れみを感じる時、ミラーニューロンが活性化しているのかもしれない。
では、このカタルシスを得るために、人は胸糞映画を観るのだろうか?
もちろん、心を動かされ涙を流したり、溜まった鬱屈が解放されることで、スッキリするラストになる映画はあるだろう。むしろ、そういう作品の方が普通だ。
だが、観客の感情を捉えたまま、最後まで離さず、そのまま沼に引きずり込むような映画もある。モヤモヤした心を抱えたまま、一生忘れないことになる。
ジャック・ケッチャム原作の『隣の家の少女』がそうだ。原作であれ、映画であれ、この物語に触れたら、傷痕が残り続けることになる。
主人公はアメリカの片田舎の少年だ。隣に引っ越してきた少女に、淡い恋心を抱くところから物語は始まる。この作品のテーマは「痛み」だ。虐待・監禁・陵辱を受ける少女を、少年は、ただ眺めることしかできない。そのもどかしさに、観客は大いにミラーニューロンが活性化するに違いない。
だが、観客は、カタルシスを得ることはない。少女に襲い掛かる不幸に、怖れや憐れみを感じるかもしれない。それにもかかわらず、ラストに至っても感情は排出されない。物語は終わるし、因果の決着はつくが、傷痕は開いたままだ。
「物語はカタルシスを得るためのもの」という思い込みを逆手にとった作品なのかもしれない。
まとめ
この記事では、「なぜイヤな映画をわざわざ観るのか」という疑問に対し、以下の観点からアプローチしてみた。
- 「ざまあみろ」という感情と、苦痛と報酬のメカニズム
- 哲学・演劇の「カタルシス」と、ミラーニューロンの研究
少し抽象度を上げて、「なぜ悲劇を見るのか」という設問にすると、さらに以下のアプローチが生まれる。次のテーマとして追いかけてみよう。
公正世界説の援用:悲劇には不幸が生じる。「幸福→不幸」か、あるいは、「不幸→幸福」の順番の違いはあるが、必ず不幸がある。幸福~不幸の推移は、何らかの因果が示される。通常その因果は聴衆にとっての正義(=世界がそうあるべき、必ず正義は勝つ)に則っている。それを観ることで、世界が公正であることを再確認できる。
人生の予習:悲劇をもたらすものには、普遍性がある。持てるものを失う(金、地位、若さ、信頼、健康など)ことが、物語の中心になる。そのとき、登場人物は、どう振舞うのか(どう振舞うと、どんな結果になるのか)を学習するため。自分に降りかからない安全な場所から、安心して悲しみを味わう知的な喜び。社会や人間の醜い部分、汚い側面を拡大し、2時間で消費できるくらいのストーリーとして提供してくれる。本来であれば、そうしたえげつない部分は、危険を伴ったり、起きてしまったら避けることができない不幸として遭遇する。だが、映画館のシートという安全な場所から眺めることができる。不幸に繋がりそうなことを予測したり、それを回避するために先人(映画の主人公たち)が何を考え・行動してきたかを学習することができる。現代社会での適応率を高める人生の予習としての悲劇。
悲劇は「悲しみ」でない:アウグスティヌス『告白』第3章の悲劇論より。悲劇は悲しみではなく、「偽りの悲しみ」を扱っている。悲しい曲が悲しみを歌っているのではなく、短調の曲であれば人は悲しいと感じる。熟した果物が甘いのは糖分を含んでおり、摂取する側は栄養効率がいいし、果物側は種子を遠くまで運んでもらえる。人はネガティブに反応しやすいため、物語を遠くまで伝達してもらえる。文化的ミーム論。
人はなぜ悲劇を愛するのか : アウグスティヌス『告白』Conf.3.1.2~3.1.3の悲劇論
https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282814198178816
悲しい音楽はロマンチックな感情ももたらす
https://www.riken.jp/press/2013/20130524_1/#note2
Why Do We Like Sad Stories?
https://www.verywellmind.com/why-do-we-like-sad-stories-5224078
Why do we love tragedy?
https://www.quora.com/Why-do-we-love-tragedy
注釈
※1
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/19213918/
Hidehiko Takahashi 1, Motoichiro Kato, Masato Matsuura, Dean Mobbs, Tetsuya Suhara, Yoshiro Okubo
When Your Gain Is My Pain and Your Pain Is My Gain: Neural Correlates of Envy and Schadenfreude,Science, 323,937-939,2009
※2
『進化でわかる人間行動の事典』p.210、小田 亮など、朝倉書店、2021
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