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75歳以上は死を選べる制度『PLAN75』

75歳以上の高齢者に死ぬ権利を認める法案が可決され、通称「PLAN75」という制度が施行された日本。

75歳以上であれば、誰でも利用できる。住民票は不要で、支度金として10万円が出る(使い途は自由)。国が責任をもって安らかな最期を迎えるように手厚くサポートする制度だ。

この映画で最もクるのが、その生々しさ。

役所での手続き、コールセンターでのやり取り、いかにも「ありそう」な社会だ。劇中、制度への加入を促進するコマーシャルが流れるが、思わず信じ込んでしまえる。

あなたの最期をお手伝い

もちろん反対の声もあるだろうが、それを押し切って導入され、諾々と従ってしまうだろうなぁという肌感だ。

主人公は、78歳の角谷ミチ(倍賞千恵子)。夫と死別して以来、ずっと独りで暮らしてきた。つつましい暮らしを続けてきたが、あることがきっかけとなり、PLAN75を考えるようになる。

貧乏な老人は死ねというのか?

この物語のリアルさに拍車を掛けているのが、貧困の描き方だ。

もちろん生活保護という選択肢も残されているものの、そちらを選びにくいように描かれている。だんだんと彼女が追い詰められていくが、PLAN75を選ぶのはあくまでも自分、自己責任という社会だ。

撮り方によって、もっとおどろおどろしく描いてもいいし、ブラックユーモアをたっぷり混ぜてもいい。だが、そうしたケレン味を避け、ドキュメンタリータッチで淡々と描いている。

この映画を、「グロテスク」だの「あってはならない」と評するのは簡単だ。「良い映画だが、早く忘れたい映画」という評もある。

おぞましい、弱者切り捨てだとして、拒絶反応するのは楽だろう。自分の居心地の悪さを、そのまま「正しさ」として反発してしまえるのなら、とても簡単だから。不安を掻き立てる不協和音や、耳障りな電話のコールといった演出からも、そういったメッセージを読み取ることもできる。

だが、提示された社会が既視感ありまくりなのだ。「あってはならない」のではなく、自己責任という名のもとに切り捨てられる社会は、ここにある。自分がそこに立ったら、どうするだろう? と否が応でも考えさせられてしまう。それだけの説得力を持っている。

PLAN75が必要な理由

現時点でのわたしの結論はこうだ。

PLAN75を導入してほしい。なぜなら、わたしが利用したいから。75歳になったら「必ず」ではなく、75歳以上のいつでも好きな時に申し込めて、プランの実行中にいつでも好きな時にやめられる。死ぬときは選びたいと願っており、激烈でなく後始末の楽な奴を考えているから、願ったりかなったりである。

この映画では登場しなかったが、病気で苦痛だらけの毎日を過ごしている人や、あらゆる面で望みは絶たれ、ただ生きているだけの人がいる。考えてみると、貧困問題をクローズアップしていたものの、寝たきり・介護問題はスルーされていた(介護を受ける側は、あらかたPLAN75を実施済だと考えると寒くなってくるが)。

自分がその一人になる可能性は十分にあるため、そうなる前に、わたしが利用したいという独善的な理由だ。

しかし、親しい人がPLAN75を利用しようとするなら、それは全力で止めたい。たとえ何歳であったとしても、生きている限り、なにかしらの希望はあるはずだから(死んだらゼロだ)。苦しいことや辛いことも、後になって振り返ったら薄れて、代わりに、嬉しいことや楽しいことを思い出すだろうから。

矛盾しているだろ? 自分でも承知している。

「子のためなら、何だってする」

意図しているのかは不明だが、監督は、強烈な皮肉を利かせていることに気づいているだろうか?

フィリピンから出稼ぎにきた女性が登場する。故郷では夫と娘が待っており、病気の娘の手術代を稼ぐ必要があるのだ。だが、かなりの金額のため困っている。

それを、キリスト教の互助会でカンパしてもらうのだが、監督の意図としては、自己責任を押し付ける日本と対照的な存在とするためのエピソードらしい。

「フィリピンは9割がキリスト教徒で、助け合うという文化が根付いている。自分でなんとかしなさいという日本と対照的な存在として描きたかったのです」

早川千絵監督インタビュー

互助会のリーダーが、彼女を励ましてこう言う。

「私たち母親は、子どものためなら、何だってする」

だが、同じようなセリフを吐いて、PLAN75を選択した老母がいた。子どもや孫に迷惑がかからないよう、できるだけ身を小さくして生きて、そっと人生から退場する。溌溂とした若者ばかりのフィリピンの互助会メンバーと、老いた日本人グループが対照的だった。

老人は社会の「荷物」か?

『PLAN75』はカンヌ国際映画祭でカメラドール特別表彰が授与されている。これに遡ること40年前に、同じくカンヌでパルムドールを受賞したのが『楢山節考』だ。

貧しい村での口減らしのため、70歳になると楢山参り(姥捨て)をする風習があった。息子のことを思いやる老母と、母を捨てに行く息子の葛藤を描いたドラマになる。原作は深沢七郎の処女作だったはず。

もし、ブラックユーモアに全振りするなら、筒井康隆『銀齢の果て』になる。70歳以上の老人に殺し合いさせるシルバー・エログロ・バトルロワイヤル。刃物と弾丸が飛び交い、「長生きは悪」という黒い哄笑に塗れる老人文学の金字塔なり。

あるいは、戸梶 圭太『自殺自由法』を思い出す。

「死ぬ自由」が公的サポートを得た世界で、「使えない国民を自殺まで誘導する」国家プロジェクトが実行された世界だ。公共自殺幇助施設「自逝センター」に向かう人々の人間模様が滑稽なり。安楽死できるカプセル装置が近所にあり、死にたくなった人は、コンビニ感覚で死ねる。もし、「グロテスク」という形容を用いるなら、この小説のラストがぴったりだろう。

コミックなら藤子・F・不二雄「定年退食」になる(「退職」ではなく「退」)。

地球規模の環境汚染により、食糧難が深刻化した未来のお話だ。稼ぎの無い年金暮らしをしているのだが、食糧を節約しようと努力する。この世界は定員制で、抽選でもれた人々は、年金、食糧、医療、保険一切が打ち切られるというディストピアだ。ここでは、未来を担う若者に、老人が席を譲る世界になる。


これをさらに過激にしたのが、浅野いにお「TEMPEST」だ。

少子高齢化社会に対処するため、国は「高齢者特区」を建設し、そこで集中的に介護することで医療の効率化を図る。85歳以上の「最後期高齢者」になると、「人権カード」を国に返還し、実質的に「人」でなくなる。ラストの重苦しさでいうならば、これが最重量級だろう。

PLAN75は実施済み

実は、PLAN75はヨーロッパで施行されたことがある。名前は「T4」と呼ばれている。

もともとは、治癒不能の重い病気を抱える患者に対し、慎重な診察のもと、安楽死がもたらされるよう、医師の権限を拡大するという、限定的な計画だった。

しかし、計画は暴走し、医師が「生きるに値しない」と選別・抹殺していくことになる。

対象となった人は多岐に渡り、うつ病、知的障害、小人症、てんかんに始まり、性的錯誤、アル中、ユダヤ人も含まれていた。こうした人びとが何万人も、ガス室に送られ、効率的に殺されていった。

歴史ではユダヤ人のホロコーストが有名だが、「社会の役に立たない」「弱者切り捨て」の立場を具体的に実行したのは、ナチスのT4と言える(『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』)。

最後に、劇中のコマーシャルより引用する。わりと近い未来に、わたしたちは居る、と思っている。

PLAN75は、75歳以上の方なら、どなたでも利用できます
ご利用者の皆さまの、一人一人に寄り添った終活のサポート
まずは、お気軽にお問い合わせください
24時間365日電話サポート
あなたの最期をお手伝いします

もし、映画を観ることがあったら、スクリーンに映し出される題字に注目してほしい。「PLAN」の文字列は明瞭に映し出されているけれど、「75」の文字がぼやけているように見えた。わたしの見間違いかもしれないので、ぜひ、確かめてほしい。いったん導入されたら、「75」は、入れ替え可能だということを暗示しているのかもしれない。

PLAN75オフィシャルサイト

 

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なぜ鬱な映画を観るのか

「鬱な映画」と呼ばれる作品がある。

「鬱」と一言でいっても、その意味は幅広く、不安、違和感、自己欺瞞、悔しさ、自己嫌悪、敗北感などのネガティブな感情を指し示す、便利な言葉でもある。

そして「鬱な映画」というと、鬱病そのものを正面きって描こうとしている映画や、精神的な病をスパイスとして投影しているもの、あるいは、観終わるとダウナーな気分にさせるような作品など、これまた種々様々だ。

エンターテイメントなのだから、胸躍らせワクワクさせる展開や、観ててスカッとするシーン、あるいは感動で涙が止まらなくなるラストを求めるのではないだろうか。お金と時間と集中力を使って、わざわざ落ち込むような映画を観るのはなぜか。

一つは、怖いもの見たさというか、悲劇を味わいたいという動機が挙げられる。

不運な出来事に巻き込まれ、抜け出そうと足掻くものの、ことごとく失敗し、ラストは絶望の中で最悪の選択をしてしまう……極限状態に放り込まれた普通の人々の悲劇を、自分は、安全な場所で鑑賞する。

極限状態に陥った人はどうなるか、そこから戻ってくることが可能かを描いた映画は数多くある。いくつかピックアップしてみた(カッコ内は監督と公開年)。ナチス成分多めだが、わたしのためのメモなので、他にも強力なものがあれば、教えてほしい。

  • ダンサー・イン・ザ・ダーク(ラース・トリアー、2000)
  • レクイエム・フォー・ドリーム(ダーレン・アロノフスキー、2001)
  • シンドラーのリスト(スティーヴン・スピルバーグ、1994)
  • 縞模様のパジャマの少年(マーク・ハーマン、2008)
  • ソフィーの選択(アラン・パクラ、1983)
  • ホテル・ルワンダ(テリー・ジョージ、2006)

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が嫌われる理由

たとえば、このテの中で真っ先に挙げられるのが、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』だろう。

女手ひとつで息子を育てている母親が主人公であり、苦しい家計の中で、必死になって貯金をしている。なぜなら、彼女は視力が弱ってゆく病気で、いずれ盲目になるからだ。病気は遺伝性で、息子も遠からずそうなる運命にある。

手術を受けさえすれば治るのだが、そのお金が高額のため、それこそ身を粉にして働き続ける。彼女の努力や誠実さは、実に残酷な形で裏切られることになるのだが、この映画を有名にも悪名にもしているのは、そこではない。

観始めるとすぐに分かるのだが、この映画は2つのモードで進行する。一つは、失明の運命に怯えながら働く日々を描いた現実モード。もう一つは、目を輝かせ、元気いっぱいに走り回り、歌い・笑い・踊るミュージカルだ。

現実モードのカメラは手持ちで、焦点が合わず、意図的にブレている。一方、ミュージカル調のときのカメラは固定されているか、あるいはクレーンで撮られており、「いかにも映画」な感じがする。

つまり、主人公の現実と妄想が、交互に重ねられながら、物語は進行してゆく。現実が彼女を追い詰め、逃げ場が無くなり、恐ろしい結末に向かって進むほかなくなる一方で、妄想の中の彼女は自信と魅力に満ち溢れ、運命なんて跳ね飛ばす勢いだ。

そして、ラストに近づくにつれ、現実と妄想が合わさってゆく。ひどい手ブレが無くなり、ピタリと焦点が合うようになってくる。彼女は妄想の中のように、いや、妄想よりも懸命に歌い続けようとするのだが、ついに現実に追いつかれる。

この時、観客は思い知る、「これが現実だ」と。自分は安全な場所から悲劇と向き合おうとしていたのに、その座っている場所は、彼女を見ていた人々と同じ椅子だったことに気づかされる。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を酷評する人は、これが後味の悪いバッドエンドだから、という理由だけではない(そんな映画は沢山ある)。悲劇に感動したがってた動機ごと殴りつけられたからこそ、怒り狂っているのである。

無辜の女性が酷い目に遭うのを見て、心を痛め、涙を流したい。そうすることで、自分自身が向き合っている現実から一時だけでも目を背けたい……意識する/しないに関係なく、悲劇を味わい、号泣する準備をしていた所が、安全でもなんでもなく、現実とピタリ一致することが分かってしまう。

監督の意図を悪趣味だとかサディスティックと批判するのは容易い。でもこれ、手加減しているよね。ラストに、「あるもの」が彼女に手渡され、それが希望であるかのように扱われるが、監督が本当に邪悪なら、その持ち主を連れてきて、彼女を凝視するように仕向けるだろう。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が批判される理由を掘り下げると、「人が悲劇を見る理由」を裏切っているからであることが分かる。

『Cake ケーキ~悲しみが通り過ぎるまで』で予習する

もう一つ、鬱な映画を見る理由としては、精神を病んだ人が、どのようになるかを見たい、というものがある。「もし自分が心を壊したらどうなるか」を、映画でシミュレートするわけだ。

過酷な毎日に心をすり減らしている中、愛する人や大切な存在を失ったことがきっかけとなり、自暴自棄になる。何をやっても上手くいかなくなり、殻に引きこもり、自分を痛めつけるようになる。さらには生きる気力すら失い、茫然自失となる。

そこから、周囲の手助けにより自分を取り戻すようになるか、さらに酷い展開になるか、作品によって異なる。

だが、どれほどの負荷をかけると心が壊れて、そこから日常を取り戻すためにどんなプロセスがあるのかを、ひと連なりのストーリーで向き合うことができる。

鬱をリアルに描いた映画としてよく挙げられるのは、こちらになる。『鬱な映画』にあった。これも自分用のメモとして。

  • Cake ケーキ~悲しみが通り過ぎるまで(ダニエル・バーンズ、2014)
  • 普通の人々(ロバート・レッドフォード、1980)
  • めぐりあう時間たち(スティーブン・ダルドリー、2003)
  • シルヴィア(クリスティン・ジェフズ、2003)
  • リトル・ミス・サンシャイン(ヴァレリー・ファリス、2006)
  • なんだかおかしな物語(ライアン・フレック、2010)
  • メランコリア(ラース・トリアー、2011)
  • スケルトン・ツインズ 幸せな人生のはじめ方(クレイグ・ジョンソン、2014)
  • アノマリサ(チャーリー・カウフマン、2015)

たとえば、鬱状態の寛解を描いた作品として、『Cake ケーキ~悲しみが通り過ぎるまで』がある。

我が子を交通事故で失った母親が主人公だ。

自身も事故に巻き込まれ、肉体的にも精神的にも後遺症を負った彼女は、生きる理由を見出せず、周囲への怒りといら立ちを支えに、なんとか生き延びている。セラピーの会の中で人間的なつながりを見出そうとするのだが……という展開らしい。

もし、我が子を亡くしたなら、きっと耐えられなくなるだろう。だが、わたしがどのように苦悩するか、そしてどう回復するか(あるいはしないか)は、映画を通じて、予習することができる。

あるいは、わたしの親しい人がそういう目に遭ったなら、わたしはどう振舞うのか。正解なんて無いだろうが、どんな言葉があるのか、どういう振る舞いができるのかは、予め知っておくことができる。

当たり前なのだが、鬱病になった場合、きっと何もできないだろう。

以前、鬱に効く映画として『シネマ・セラピー』を紹介したことがある。だが、これは、気分が落ち込んだときにお薦めの作品であって、鬱病ではない。

実際に鬱病になったら、薬を飲んで横になるだけで、何かを能動的にしようという気力は全く出てこないに違いない。もちろん、映画を観ることすらできない。

映画を見る元気がある状態で、自分に降りかかる悲劇への振る舞いをシミュレートすることで、わたしは、家族も含め、現代を生きる適応度を高めているのかもしれない。




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『ゾンビ(’78完全版)』を観ると人生が豊かになる理由と、荒木飛呂彦が選ぶホラーBest20

まだ小学生だった息子を連れて、サッカー観戦したことがある。

試合が始まるのは少し先で、選手たちはシュート練習をしていた。プロを生で観るのは初めてなので、息子はえらくはしゃいでいたことを覚えている。

ボールにインパクトが加わると、すこし遅れて「キィン」という金属音が響いたり、ゴールを外したボールが飛んでくる「シューッ」という音が印象的だった。

その音で、ある映画のシーンを思い出した。トラックに積んだガラスが横滑りして、そこにいた男の首が切断されてしまう場面だ。

ほとんど意識せず、息子の顔の前に、私の右手を差し出した。同時に強い痛みが走り、「キィン」という音が届いた。

シュートを外した選手、練習を観ていた人、そして私自身が一番驚いていた。ボールが当たっていたら、子どもの頭は吹き飛んでいたと言えば大袈裟だが、ただでは済まなかったはずだ(後ろはコンクリの階段だった)。

最悪を予感して人生を楽しむ

たまたま不幸を免れたものの、突然の不運は起こり得る。

見通しの悪い交差点からは自転車が飛び出してくるものだし、老人はブレーキとアクセルを踏み間違えるものだ。工事中のビルから落ちてくるのは鉄骨で、急ブレーキを踏んだトラックから滑り出るのは強化ガラスである。

そこに居合わせたとき、不運は不幸になる。

これを、ありえない、と切って捨てることも可能だ。

旅先の田舎でチェーンソーを持った男に襲われたり、偶然に乗り合わせた客船が沈没したり、致死力の高い疫病に感染する、なんてあり得ない。そう考える人もいる。

だけど、どこまでの「ありえなさ」だろうか? 最悪のことはいつだって起こり得る。そう考えて生きている。

世の中は危険で醜くて、不運はそこここで起きているけど、たまたま不幸になっていないだけ。巧妙に隠されているだけで、死は、いつだってそこにある。だから、最悪を予感しつつ人生を楽しむようにしている。

この「最悪を予感して人生を楽しむ」上で、最も役に立つのが、ホラー映画だ。

人を怖がらせることを目的として作られたホラーは、「ありえなさ」に振り切って描かれている。人の命は現実世界ほどの価値をもたず、残酷さ、非道さ、おぞましさをありありと見て取ることができる。

誰でもウンコはするし、身体には大量の血が詰まっている。それが見えにくいだけで、確かにそれは存在する。ホラーは、ナイフや牙やチェーンソーを使って、明るいところに出してくれる。社会や人間の厭な面や、キレイでないほうの真実を暴き立ててくれるのだ。

安全圏から暗黒面を見る

『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』で同じような熱い主張に出会った。

ホラー映画の良いところは、「世界の醜く汚い部分をあらかじめ誇張された形で、しかも自分は安全な席に身を置いて見ることができる」点にあるという。人生のキレイでない部分に向き合う予行演習としては、ホラーは最高の教材となる。

倫理学の問題で「5人の命を救うために1人を見殺しにできるか?」という問いがある。何が正義なのかは選択肢があるが、そこからさらに「その1人が君の愛する人ならどうするか?」という形で、主人公が追い込まれていく。ホラーの醍醐味はそこにあるという。

極限状態が描かれているので目を覆いたくなるかもしれませんが、自然災害や犯罪に遭遇したらそういう選択を迫られることもあり得るという現実の可能性を、フィクションの形でエンタメとして見せてくれるのがホラー映画なのです。

だから皆さんには、せめて映画の中だけでも、きちんとそういうものに向き合ってほしい。「見るべき」映画という以上に、「見なければならない」のがホラー映画とまで言っていいかもしれません。

そして、ロメロ監督の『ゾンビ』の魅力を滔滔と語る。

ノロノロとした動き、人を襲って食べる様子は、それまでのホラー映画のモンスター(狼男、吸血鬼)と大きく異なり、徹底的に無個性な存在になる。それは、サラリーマン集団や街を歩く人々を遠くから眺めたときの無個性性に通じるものがあるという。

無個性な、人っぽく見えない存在だから、ためらいなく頭を打ち抜くことができる。むしろ、撃たないとこちらが殺られるルールになっている。人なのに人ではないという矛盾、元は人間なのにゾンビは殺してもいいパラドックスが、ゾンビ映画の世界観になる。

荒木飛呂彦が選ぶホラー映画Best20

実は、「ジョージ・A・ロメロ監督のゾンビ」といっても複数ある。どのゾンビを見るべきなのか。

  1. Night of the Living Dead
  2. Dawn Of The Dead
  3. Dawn Of The Dead (The Directors Cut) 

1と2は視聴済みだが、氏曰く、3こそ必見だという。いわゆる『ゾンビ(完全版)』らしい。これは観る。『ゾンビ』から始まって、『サンゲリア』『バタリアン』『ブレインデッド』『死霊のはらわた』『28日後…』とゾンビの傑作を語りつくす。

さらに、「田舎に行ったら襲われた」系のホラー(テキサスチェーンソーとか)、13金などの猟奇殺人、SFホラー(エイリアン)や構築系ホラー(CUBE)など、縦横無尽に語っている。「荒木飛呂彦が選ぶホラー映画Best20」を挙げるので、このリストでピンと来る人はぜひどうぞ。

  1. ゾンビ完全版(’78)
  2. ジョーズ
  3. ミザリー
  4. アイ・アム・レジェンド
  5. ナインスゲート
  6. エイリアン
  7. リング(TV版)
  8. ミスト
  9. ファイナル・デスティネーション
  10. 悪魔のいけにえ(’74)
  11. 脱出
  12. ブロブ/宇宙からの不明物体
  13. 28日後…
  14. バスケットケース
  15. 愛がこわれるとき
  16. ノーカントリー
  17. エクソシスト
  18. ファニー・ゲーム U.S.A.
  19. ホステル
  20. クライモリ

本書で知った、私が見るべきホラーを挙げておく。

『プレシャス』

「ホラー」というジャンルではない。ニューヨークのハーレムという過酷な環境で、16歳の黒人少女がありとあらゆる不幸の中で生きている。ジャンクフードで育ったことをうかがわせる肥満した体、母親からの虐待、もう十分悲惨なのに、それだけでは終わらない。これは殺人鬼も怪物も出てこないけれど、まぎれもなくホラー映画。

『REC/レック2』

ドキュメンタリータッチで描かれた作品。テレビ局のレポーターが取材中のアパートで事件に巻き込まれ、そこで起きる惨劇と脱出劇が、手持ちカメラで撮影した体で映し出される。最初の『REC/レック』を観たとき、たいへん怖い思いをしたのだが、氏曰く、2は1のラストシーンから始まっており、よりパワーアップしているので、通しで観ろとのこと。観る。

『ホステル』

「痛み」の映画。想像力が及ぶ限界に近いくらい「痛い」映画。東欧を旅する若者があるホステルを訪れて、そこで悲惨な目に遭う。プロット、ストーリー含めて語り口が非常にうまく、不気味さ100点満点。製作総指揮がクエンティン・タランティーノだから作れた映画で、普通の投資家なら、企画段階で、「これを作っちゃまずいだろう」と思うはずの内容とのこと。観る。

よいホラーを観た後は、「生きてるッ」って実感がする。生き延びたというか、死を免れた嬉しさがジワる。残酷な結末に「私はこうはならないぞ」と思いつつも、「運が悪けりゃしょうがないか」と諦めもつく。生きているなら、必ず起こり得るのは死だ(今の私がゾンビでないかぎり)。

よいホラーで、よい人生を。

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なぜイヤな映画をわざわざ観るのか

いわゆる「胸糞映画」というジャンルがある。

下品だったり悪趣味だったり、観た後に気分が落ち込むような作品だ。

ずばり恐怖を主題としたホラーの枠に限らない。幽霊や殺人鬼がいなくても、おぞましく理不尽な展開を描いた映画はあるし、鮫やゾンビが出なくても、残虐バッドエンドに至る作品はある(体感だが、普通の人しか出てこない胸糞映画の方がエグい)。

わざわざお金と時間をかけるのだから、泣いて笑って感動するようなものを観たがるのではいのだろうか? もちろん普通はそうなのだが、胸糞映画も一定の需要がある(さもなくば、跡形もなく消えているだろう)。

私がそうだ。

読み手の心を抉り、読後感がトラウマになるものを「劇薬小説」と呼び、好んで摂取してきた(「危険な読書」にまとめた)。読書は毒書なのだ。

映画も然り。自ら切開することで、自分の皮膚という境界が分かるように、精神的に痛めつけることで、自分の心がどこにあるかを知らしめる子どもが酷い目に遭うシーンを観て「痛い」と感じる場所こそが、わたしの心の在処なのだ。

だが、なぜ、そういう作品を観るのか?

ただ「好きだから」だけでなく、その「好き」を支える動機は何か。私の個人的な好みを越えて、一定の需要がある理由はあるのか。

「ざまあみろ」という感情

よく言われるのが、「人の不幸は蜜の味」というやつ。

妬みの裏返しだ。他人の幸福―――例えば、お金、美貌、健康な身体、若さ、素敵な恋人や配偶者―――そういう「持てる」人に対し、羨ましいと感じる。その嫉妬が募りすぎると、やがて自分自身の身を焼くようになる。

だから、芸能人や政治化のスキャンダルが暴露され、みじめな姿を目にすると、この上もなく甘美に癒される。メシウマ(他人の不幸で飯がうまい)や、シャーデンフロイデ(ドイツ語)とも呼ばれる。

この「羨ましい」という感情と、「ざまあみろ」という感情は、苦痛と報酬のメカニズムだという研究がある(※1)。

若い男女が集められ、あるシナリオを読むように指示される。その際、主人公を自分に置き換えて読むように条件づけられる。シナリオの主人公は異なる設定になっている。

①被験者と同じような境遇だが、学業成績や能力に優れている

②被験者とは異なる境遇で、平均的な能力

様々なバリエーションの中で、上記①の場合に、被験者は強い羨望を感じ、前帯状皮質が活性化した。そして、妬まれた主人公が不幸になると、より強い活性化が見られたという。

前帯状皮質は、ACC(Anterior cingulate cortex)と呼ばれ、脳の左右の神経信号を伝達する脳梁を取り巻く"襟"のような形をしている。血圧や心拍数のような自律的機能、共感・情動といった認知機能、そして、身体の痛みに関係しているとされている。

この研究により、自分に似た境遇だが、自分よりも「持てる」人に対して、羨ましいという苦痛が生じ、その人が不幸になると報酬が得られるのではないかという仮説が立てられている。

では、この「ざまあみろ」という感情を味わうために、人が酷い目に遭う映画を観るのだろうか?

例えば、『ファニーゲーム U.S.A.』という作品で考えてみよう。ミヒャエル・ハネケ監督で、映画史上、最も”不快”な暴力が描かれている。ある家族が酷い目に遭うのだが、まったくもって楽しめない。

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湖畔の別荘でバカンスを楽しむくらい裕福で、上品で教養のある3人家族だ。そこに現れたのが、純白の手袋をし、純白のポロシャツを着た2人の青年。最初は礼儀正しく振舞うものの、徐々に残忍な本性を露わにしていく……

もし、メシウマの副菜としてこの映画を観るのなら、その純粋な暴力に打ちのめされるだろう。観客を本気で嫌な気にさせようと、監督が本腰で悪意を込めているのが分かる。覚悟を決めないと、正視すら難しいかもしれぬ。

おそらく、「ざまあみろ」という感情が成り立つためには、他人に降りかかる不幸のバランスが必要となるのかもしれぬ。株価の暴落で成金が貧乏になるとか、出世頭だったのに不倫がばれてクビだとか、そういった幸・不幸のバランスだ。

そして、天秤の不幸側があまりに重すぎる場合、「ざまあみろ」と感じた自分すら含めて打ちのめされるに違いない。

不安の排泄「カタルシス」

哲学・演劇からのアプローチだと、カタルシスを得るために観ると言える。

アリストテレスが『詩学』の中で主張している、精神の浄化のことだ。

身体の中に溜まった感情から解放されるとき、快楽をもたらすという理屈だ。物語を通じ、不安や恐怖、哀切や怒りといった、様々な感情を抱く。それは、登場人物の感情が観客に伝染する場合もあれば、監督の演出によって掻き立てられるときもある。

そこで呼び起こされた「怖れ(ポボス)」と「憐れみ(エレオス)」によって、観客が抱いていた感情は排出され、魂の浄化を得ることになる。これがカタルシスである。

ポイントは、怖れや憐れみを引き起こすためには、「不幸」の要素が必要だということ。多かれ少なかれ、物語の中には不幸がある。観客は自分に似た人物が不幸な目に遭うのを見て、自分もそうなるのではないかと怖れる。あるいは、理不尽な不幸に遭うのを見て、憐れみを覚えるのだ。

登場人物の行動が観客に及ぼす影響については、ミラーニューロンの研究が傍証になる。

ミラーニューロンとは、自分が行動するときと、他人の同じ行動を見るときの両方において活性化する神経細胞を指す。他人の行動を見て、まるで自分が同じ行動をしているように、「鏡」のような反応をすることから名づけられている。

ミラーニューロンは、新生児が他者の行動を理解し模倣する助けとなるとされている。身体の運動や、相手の表情を観察し、それを真似ることで、複雑な動作や経験を伝達していくことができる(※2)。

また、最近の研究では、扁桃体を含む大脳辺縁系や島皮質にも関与していることが明らかになっている。この部位は、情動や共感に深く関わっている。

他人の感情を自分のことのように感じるメカニズムは、ミラーニューロンの研究によって、明らかにされつつある。映画を観て、私たちが怖れや憐れみを感じる時、ミラーニューロンが活性化しているのかもしれない。

では、このカタルシスを得るために、人は胸糞映画を観るのだろうか?

もちろん、心を動かされ涙を流したり、溜まった鬱屈が解放されることで、スッキリするラストになる映画はあるだろう。むしろ、そういう作品の方が普通だ。

だが、観客の感情を捉えたまま、最後まで離さず、そのまま沼に引きずり込むような映画もある。モヤモヤした心を抱えたまま、一生忘れないことになる。

ジャック・ケッチャム原作の『隣の家の少女』がそうだ。原作であれ、映画であれ、この物語に触れたら、傷痕が残り続けることになる。

主人公はアメリカの片田舎の少年だ。隣に引っ越してきた少女に、淡い恋心を抱くところから物語は始まる。この作品のテーマは「痛み」だ。虐待・監禁・陵辱を受ける少女を、少年は、ただ眺めることしかできない。そのもどかしさに、観客は大いにミラーニューロンが活性化するに違いない。

だが、観客は、カタルシスを得ることはない。少女に襲い掛かる不幸に、怖れや憐れみを感じるかもしれない。それにもかかわらず、ラストに至っても感情は排出されない。物語は終わるし、因果の決着はつくが、傷痕は開いたままだ。

「物語はカタルシスを得るためのもの」という思い込みを逆手にとった作品なのかもしれない。

N/A

まとめ

この記事では、「なぜイヤな映画をわざわざ観るのか」という疑問に対し、以下の観点からアプローチしてみた。

  • 「ざまあみろ」という感情と、苦痛と報酬のメカニズム
  • 哲学・演劇の「カタルシス」と、ミラーニューロンの研究

少し抽象度を上げて、「なぜ悲劇を見るのか」という設問にすると、さらに以下のアプローチが生まれる。次のテーマとして追いかけてみよう。

公正世界説の援用:悲劇には不幸が生じる。「幸福→不幸」か、あるいは、「不幸→幸福」の順番の違いはあるが、必ず不幸がある。幸福~不幸の推移は、何らかの因果が示される。通常その因果は聴衆にとっての正義(=世界がそうあるべき、必ず正義は勝つ)に則っている。それを観ることで、世界が公正であることを再確認できる。

人生の予習:悲劇をもたらすものには、普遍性がある。持てるものを失う(金、地位、若さ、信頼、健康など)ことが、物語の中心になる。そのとき、登場人物は、どう振舞うのか(どう振舞うと、どんな結果になるのか)を学習するため。自分に降りかからない安全な場所から、安心して悲しみを味わう知的な喜び。社会や人間の醜い部分、汚い側面を拡大し、2時間で消費できるくらいのストーリーとして提供してくれる。本来であれば、そうしたえげつない部分は、危険を伴ったり、起きてしまったら避けることができない不幸として遭遇する。だが、映画館のシートという安全な場所から眺めることができる。不幸に繋がりそうなことを予測したり、それを回避するために先人(映画の主人公たち)が何を考え・行動してきたかを学習することができる。現代社会での適応率を高める人生の予習としての悲劇。

悲劇は「悲しみ」でない:アウグスティヌス『告白』第3章の悲劇論より。悲劇は悲しみではなく、「偽りの悲しみ」を扱っている。悲しい曲が悲しみを歌っているのではなく、短調の曲であれば人は悲しいと感じる。熟した果物が甘いのは糖分を含んでおり、摂取する側は栄養効率がいいし、果物側は種子を遠くまで運んでもらえる。人はネガティブに反応しやすいため、物語を遠くまで伝達してもらえる。文化的ミーム論。

人はなぜ悲劇を愛するのか : アウグスティヌス『告白』Conf.3.1.2~3.1.3の悲劇論

https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282814198178816

悲しい音楽はロマンチックな感情ももたらす

https://www.riken.jp/press/2013/20130524_1/#note2

Why Do We Like Sad Stories?

https://www.verywellmind.com/why-do-we-like-sad-stories-5224078

Why do we love tragedy?

https://www.quora.com/Why-do-we-love-tragedy

注釈

※1

 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/19213918/

Hidehiko Takahashi 1, Motoichiro Kato, Masato Matsuura, Dean Mobbs, Tetsuya Suhara, Yoshiro Okubo

When Your Gain Is My Pain and Your Pain Is My Gain: Neural Correlates of Envy and Schadenfreude,Science, 323,937-939,2009

※2

『進化でわかる人間行動の事典』p.210、小田 亮など、朝倉書店、2021




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