エロと美のあいだ『ヌー道』
みんながマスクをしてるから、人間の口がだんだん猥褻なものに見えてくる。
もちろん、私の性癖が常軌を逸していることは自覚してる(例:釘宮病)。
だが、「秘すれば花」と世阿弥が言う通り、隠されているという意識にエロスが発生することを止められぬ。
というのも、久しぶりに出社したとき、マスクをちょっとずらして、コーヒーを飲む同僚(女性)を目にしたから。そのとき、プライベートな場所を目撃したかのように感じたから。
私が異常なのか?
イエス。
だが、私だけなのか?
などと悶々としていたら、みうらじゅん&辛酸なめ子の対談に出会えた。同じことを考えてるみたいで、「マスクは口にはく下着」「尊さとエロは同じ」など、さらに発展させており、学ぶところが大きい。
タイトルは『ヌー道』、nudeと道をかけている。ハダカの芸術も、究めればそれは道になる。ロダン、ルノワール、裸の/着衣のマハ、グラビア誌などを俎上に、古今東西の裸談義を繰り広げる。
お二人の話を聞いていると、芸術だから無罪だったものが、時代の変化に曝されたり、当時はスルーされていたのに、今では惹起させるものになったことが見えてくる。
エロは変わる
典型的なのは、言葉だろう。かつて「猥褻(わいせつ、漢語)」と呼ばれたものは「エロ(Erōs、ギリシャ語)」になり、今じゃ「エッチ(HENTAI、日本語)」なものになっている。ポイントは、この3つの言葉は同一のものを指していない点にある。微妙に重なり合いながらもズレが生じており、さらにそのズレは動いている。
例えば、「抱かれたい男ランキング」だ。
雑誌やテレビなどでアンケート調査して、抱かれたい芸能人を格付けする。この「男」を「女」にした「抱きたい女ランキング」は今では完全にセクハラだが、なぜ「抱かれたい男」の方は許容されているのか。
この疑問への応答が面白い。
みうら:(世の男性は)悔しくは思うんでしょうが、それが励みにもなるからじゃないですかね。ま、妄想の中の「抱きたい、抱かれたい」をどこまで容認するかってことですよね。
辛酸:誰かを傷つけたり、犯罪になってしまったら問題ですが。そうでなければという風にも。
そのうち、「抱かれたい男ランキング」も程なく消えていくように思える、表からは。あるいは、「抱かれたい」を「癒されたい」にするなど表現を変えて生き延びるかもしれぬ。
さらに、「エロスクラップ」には度肝を抜かれた。
みうらじゅんは、雑誌のグラビアや写真集のページを切り貼りしているのだが、40年間欠かさず続けており、その量も膨大なものになる。これだ。
450巻を超えるというエロスクラップをカラーコピーして、横浜スタジアムの床一面に並べるとこうなる(コピー機が2台壊れたそうだ)。
単純に、「この娘いいなあ」と残しておくだけでなく、どういうレイアウトにすると、より「映える」とか、ストーリーになるような相手や場面、組み合わせを考えながら貼る。自分の性癖にトコトンつきあう熱量に脱帽する。
最初は自分のために始めたのだけれど、友人から「貸して欲しい」と頼まれるようになってから、編集者としての意識が芽生え、エンターテイメント性をも追求するようになる。まさにヌー道(どう)なり。
これ、風俗の史料になるのでは……と思えてくる。
もちろん、いち個人の性癖フルスロットルの集大成なのだが、そこに残されている画像は、その時代を切り取ったものになる。シチュエーション、ヘアスタイル、ポーズ、アングル、身につけているものと肌面積、露出、キャプションといった要素のデータベースともいえる。
未来のヌー道
ダヴィデの包茎からマハの乳輪の色づき、観音菩薩が微乳である理由など、エロとアートの共犯関係を見ていくと、未来のヌー道を考えたくなる。
その際、本書に加えて『官能美術史』を取り上げたい [レビュー]。
西洋美術における性愛の歴史に焦点をあてた名著だ。西洋の中で「愛」がどのように定義され、変化していったか、さらに美術史におけるヌードと身体意識の変遷を知ることができる。
レンブラントの冷たい裸体や、中性的なダヴィデ像の中で、ひときわ目立つのが、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた男女の輪切り図になる。表面を覆っているものを取り去るだけでなく、その奥にあるものを視覚化している。
タブーであるハダカは、世界じゅうにまみれている。具が見たいのなら、クリック一つで済む。そんな世界で、あえてハダカを見るのか?
なんて考えると、見たいのは、裸体なのではなく、覆われているものなのではないか、と思えてくる。マスクで隠された口唇のように、見えないからこそ、見たくなる。この追求は、ダ・ヴィンチの「性交断面図[リンク先注意]」を始めとし、現代のエロマンガでも脈々と息づいている。
その未来は、スタニスワフ・レム『虚数』にある[レビュー]。これは、実在しない本の序文集なのだが、未来のポルノグラフィーとして、セックスする人々のレントゲン写真集が紹介されている。衣服を脱がせたポルノと、肉を剥がしたレントゲンが合わさったポルノグラムと呼ぶらしい。
隠すほど、見たくなる。
世阿弥の「秘すれば花」の意味は、「花を隠しなさい」ではなく、「隠してあるからこそ花になる」になる。秘密にしなければ、花にはならないのだ。
ずっと見たくて仕方なくって、長い間追い求めていたものを、ようやく直に「見」たときの感動と達成感は、ハンパなものではなかったはずだ。
自分は何が見たいのか、現代は何が隠されているのかを考え直し、己の性癖と向き合うのにうってつけなのが、『ヌー道』だ。
健闘を祈る。
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コメント
dainさんにエロティックアナボリックをお薦めしてみたいと思いました。
青春漫画なのですが、方向性がアブノーマルな作風です。
投稿: Kyosai | 2022.05.24 23:23
>>Kyosai さん
ありがとうございます!!
予備知識ゼロで1巻読みました。
面白い! こんな世界ありなんだ、というのが第一印象で、快楽天なら最初の数ページで済ませてしまう設定を、これだけ濃密にフェティッシュに捻じ込んでくるのが楽しいです(方向性は全く違うけれど位置づけ的には蒼樹うめ『微熱空間』みたいな……)
ガチムチでなく筋肉の下の柔らかさがめっちゃ出てて好きです。
ただ、主人公が変な意味で賢者なので、「普通の高校生ならこんな状況はリビドーに屈するじゃろうに……」などとツッコミを入れたくなりますね。
投稿: Dain | 2022.05.26 00:24