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水の中のタイムカプセル『世界の水中遺跡』

水の中には、すごい遺物が眠っている。

考えてみてくれ、地球の大部分は水に覆われている。しかも、風雨にさらされ、人が歩き回る地表と比べ、水の底は安定している。そう考えると、人の手が届きにくく、探し当てられなかっただけで、水中には数多くの遺物・遺跡があるはずだ。

それが、最新技術のおかげで、そうした遺跡が続々と見つかっている。『世界の水中遺跡』では貴重な画像とともに紹介している。

  • 縄文時代の貝塚(当時の有機物が残存している状態)
  • ヒエログリフが刻まれた紀元前300年の石碑
  • 古代ギリシャの暦の計算装置(アンティキセラ装置)
  • 元寇のモンゴル兵が用いた火薬兵器
  • 中世のヴァイキング船が丸ごと

縄文時代の有機物が大量に残っているのは、琵琶湖の粟津湖底遺跡だ。何千年も前なのに、なぜそんなに保存状態が良いのか? 遺跡の上には粒子の細かな粘土やシルトが積み重なっており、空気と遮断されていたためだという。

砂や泥が数十センチも堆積すると、バクテリアが生息できず、ほぼ完全に真空パックされた状態(不活性)になる。水中では温度も安定しているため、保存には最適な状態となる。いわば、水の中のタイムカプセルなのだ。

長崎県の鷹島海底遺跡には、元寇の新兵器も丸ごと残されていた。「てつはう」と呼ばれる火薬兵器で、鉄片が詰まった手りゅう弾のようなものだ。丸ごと残っていた発掘品をX線CTスキャンで解析し、3Dプリンタで復元したものまである。

20220529

Wikipedia:元寇『蒙古襲来絵詞』より。爆発している黒い欠片が「てつはう」

youtube【海底遺跡】海に沈んだタイムカプセル 水中考古学の世界 | ガリレオX 第28回

こうした遺物は、もし地表に残されていたとしても、風雨にさらされ朽ち果てるか、人の手によって持ち去られていただろう。だが、水中に没したからこそ、700年の時を経て再びまみえることができたのだ。

ビザンツ帝国の沈没船が大量にある黒海も有名だ。

かつて黒海は淡水湖だったが、気温上昇に伴う海水の流入で塩分濃度が急激に上がり、無酸素状態の海になった。生物にとっては過酷だが、60隻の沈没船を保存するには理想的な状態だという。歴史の教科書で学んだコグ船が、ほぼ完全な状態で見つかっている。

近年、こうした水中遺跡が続々と見つかっているのは、最新の科学技術による。

離れたところから対象物を分析するリモートセンシング技術や、水中ドローン(Underwater Drone)が多方向から撮影・実測したデータを再構成する技術(フォトグラメトリ)のおかげで、ダイバーが現地を「発掘」する前に、かなりの情報を手に入れることができる。

以前、人工衛星やドローン、航空機から遺跡を調査する技術のことを書いた(人工衛星から遺跡を探す『宇宙考古学の冒険』)。それと同じ技術革新が、水の中でも起きているのだ。宇宙から遺跡を探すのは、宇宙考古学と呼ばれているが、水中遺跡を探すのは、深海考古学とも、水中考古学とも呼ばれている(Deep Sea/Water Archaeology)。

歴史の手がかりとして残されているものは、文字情報が主なものだ。

石や竹に刻まれたり、皮や紙に残された文字が書き継がれて、今に至る。あるいは、宝飾品や美術品など、貴重なものとして保存されたものに限る。それ以外のものは、捨てられたり、朽ち果てることに任されてきた―――地上では。

また、水中の場合、盗掘されにくいという点も大きい。巨大な墳墓に隠された宝は、何百年、何千年もの間、人の手を免れるのは極めて困難だ。だが水の中なら、盗人も追ってはこない(ただし、潜水技術やソナーの普及により、海に沈んだ宝物を漁る輩がいることも事実だ)。

本来ならば決して見ることも叶わなかったものが、水の中から、続々と発掘されている。十字軍が交易したオリーブオイルの壺や、アラビア文字が墨書きされた唐代の茶碗、ドイツの潜水艇Uボート、沖縄戦で米艦隊に特攻した零戦など、歴史を語る「モノ」が現れている。

地球最後のフロンティアで、活躍が著しいのは水中考古学だ。そう確信させられる一冊。



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なぜ空からの大量虐殺が許されるのか『空爆の歴史』

無抵抗な人に向けて、殺傷力の高い武器で、一方的に攻撃する。される側は、男女・子ども関係なく、住んでいる場所を焼かれ、家族を殺され、命が奪われる。

空爆がそれだ。無防備の市民を、空から皆殺しにする。これほど残虐で、非人道的な行為はないだろう。

しかし、なぜか、空爆は「普通に」まかり通って来たように見える。市街地一帯、ひいては都市全体を火の海にするために実行されてきた。

非難や反対の声は挙がるものの、それにより空爆が制限されたり抑止されるかというと、そうはならない。

なぜ、空爆による大量虐殺が正当化されるのか?

この疑問に応えたのが、『空爆の歴史』だ。

空からの植民地支配を振り出しに、ゲルニカ、重慶、ドレスデン、東京、広島、ラオス、コソヴォと続く空爆の歴史を辿りながら、空爆する側のロジックと、黙殺された抗議の両方を知ることができる。

空爆は戦争犯罪

もちろん、空爆による大量虐殺は、戦争犯罪だ。

加害側の圧倒的な優位性を背景に、一般市民を一方的に殺戮する。いくら戦争という非常時とはいえ、そんなことは許されるわけがない。

だから、空爆は何度も禁止されてきた。ハーグ平和会議(1899年)、空戦に関する規則(1923年)、ジュネーヴ諸条約(1949年)と、くり返し宣言されてきた。人口稠密な都市に対し、空から無差別に攻撃することは、明確に国際法に違反するものとみなされていた。

特に、1923年の空戦規則は、当時のルーズベルト米大統領、イギリス政府、日本政府、ドイツのヒトラーでさえ、守るべき規則だと宣言していた(ヒトラーは議会演説および米大統領宛の回答書で約束している)。

ただし、この規則には抜け穴がある。

第22条 普通人民を威嚇し、軍事的性質を有しない私有財産を破壊もしくは毀損し、または非戦闘員を損傷することを目的とする空中爆撃は禁止する。

軍事用でない施設や、一般の市民に対しては攻撃を禁止する、とある。ということは、軍事設備や戦闘員に対してはOK、という理屈だ。

そして、どれが軍事用で、どれが軍事用でないか、あるいは、誰が市民で誰が兵士かを判別してターゲットとするのは、攻撃する側が決める

そして、空爆側のロジックにより、無差別な爆撃は繰り返された。

空爆側のロジック

本書には、空爆する側の「理屈」が紹介されている。

まず、植民地主義における「文明」から「未開」への攻撃になる。帝国主義の時代には、重化学工業の発展に伴い、ヨーロッパが圧倒的な軍事力を持った。同時にヨーロッパ中心的な世界観が普及し、「文明vs未開」の構造のもと、飛行機が軍事利用される。

「未開」側の対空戦力がゼロであり、「文明」側の人命コストを考えると、空爆が高く評価されるのは当然の成り行きとなる。スペインやイタリアが植民地に対して行った空爆が、その嚆矢となる。従来の地上兵力と異なり、機動力に優れ、低コストで攻撃できるという理屈だ。

さらに、「未開」に対して恐怖を与えることができるという。戦線から遠く離れて暮らす人たちを恐怖に落とし、心理的なダメージを与えることができる。空爆には、敵の戦意をくじくテロ効果があるというのだ。

このロジックは、日本軍における重慶爆撃(1938)、イギリスによるドイツ諸都市爆撃(1945)および米軍における日本の諸都市爆撃(1945)、そして広島と長崎への原子爆弾投下(1945)に引き継がれる。

地上部隊の場合の膨大なコスト(戦費および人命)に比べると、より安上がりに、敵国の人命を(兵士・民間人限らず)殺傷することができるからだ。161のドイツの都市から60万人の人間を殺害したイギリス、日本の67都市から60万人を殺したアメリカ合衆国の被害は、(殺された人々の数と比較すると)軽微なものだった。

空爆側のロジックの現実

では、空爆する側の「理屈」は正しかったのだろうか。

本書によると、真逆の結果を招いているように見える。より安く、より大量の市民を効率的に殺害できる、という点においては正しい。しかし、敵国の戦意をくじくことで、戦争を早期に終わらせるという点においては、間違っている。

日本軍の空爆後の、中国・台湾の人々の調査結果や、ドイツ爆撃後のイギリスの爆撃調査班の報告によると、真逆になる。同じ場所を攻撃されたことで、団結心を得て、ナショナリズムを高揚させる効果があった。

これは、アフガニスタンにおける対露感情、ベトナムにおける対米感情も然り。空爆をする側は、週・月単位でのプロジェクトになる。

しかし、空襲を被る側は、何十年に渡って敵愾心を燃やし続けることになる。ここで強調する必要すらないだろうが、2001年9月11日にニューヨークとペンタゴンで起きたことは、その証左だろう。

非人道的なだけでなく、効果の面から見たとしても、空爆する側のロジックは正しくないのだ。

空爆のダブルスタンダード

ロジックの矛盾は、日本やドイツの戦争犯罪を裁く場においても噴出する。

戦後の東京裁判やニュルンベルク裁判において、「人道に対する罪」で日本やドイツが裁かれた。だが、その中に空爆における罪は含まれていなかったというのである。都市を爆撃し、一般市民を殺害したことは、正当化できない。

「人道に対する罪」は、従来の戦争犯罪では捉えきれないナチスの犯罪を裁くために導入された概念だ。罪刑法定主義という法の常識を超えて、事後的に作り出された、新しい「罪」の概念となる。

国家による大量殺人が人道に対する罪であるならば、その第一等に当たるのが、空爆だろう。日本は中国各地で、ドイツはイギリスやフランスに対し、大量の爆弾を落としてきた。それが、なぜ裁かれなかったのか。

答えは、「同じ罪を連合国側でも問われることになるから」だろう。だから、俎上にすら乗らなかったのだ。

ニュルンベルク裁判で訴追主席であったテルフォード・テイラーは、裁判から25年後にこうコメントしている。

都市破壊のゲームは、連合軍のほうがはるかに成功をおさめたので、ドイツや日本を訴追する根拠がなく、事実そのような訴追は持ち出されなかった。連合国側も枢軸国側も空爆をきわめて広範かつ残酷におこなったので、ニュルンベルクでも東京でも、この問題は戦犯裁判の一部にもならなかった。

空爆は、低コストで一方的に殺戮を行うことができる。戦闘で死亡する兵士としての「戦死者」の数を、極小にすることができる。これは、軍部にとっては何者にも得難いメリットだろう。

そして、「軍事施設のみを目標にする」という名目でありながら、何をターゲットにするかは攻撃側に委ねられている。さらに「早期に戦争を終わらせることで互いの被害を最小化できる」という理屈は、未来の火種を無視し続ける限り、有効になる。

空爆のダブルスタンダードを暴き出す一冊。

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説明を「押し付ける」技術と「押し返す」技術

説明を「押し付けられた」経験はないだろうか。


「この変更は、今月中に対応してリリースすべきです。お客さんも喜ぶし、ウチの利益につながるので、絶対に必要です。逆に、なぜできないのでしょうか? できない理由を聞きたいのではありません。どうすれば間に合わせることができるのか、そのために何をすればよいのか、それを考えるのは、エンジニアの仕事でしょう!」


逃げられない会議の席上で、こんな風に言われたことはないだろうか。私はある。しょっちゅうだ。

  • そもそもスケジュール的に無理がある

  • 変更のインパクトがどの程度なのか分からない

  • 当初の予算内に収まるかも分からない

できない理由をしどろもどろに言わされて涙目になる。できないことが私の罪で、その罪を免れるための言い訳をしているような気にさせられる。


そんな私に、ぜひお薦めしたい本を、レバテックLABにまとめた。


詳細はリンク先に任せるが、私が失敗したのは、「なぜできないのでしょうか?」という質問に、答えようとしたから。


人というのは不思議なもので、「なぜですか?」と聞かれると、反射的に答えてしまうもの。そしてエンジニアというのは真面目なもので、できるだけ正確に答えようとしてしまう。


それは罠だ。 


できない理由を裏返すと、それさえクリアすればできるから、それをクリアするための方法を皆で考えよう、という流れになってしまうから。「詳細が分からないから回答できない」と正確に答えようとすると、「じゃぁ明日じゅうに回答してね」と宿題になる。それおかしくない!?


正しくは、「その質問に、なぜ私が答えなければならないのか?」という視点だ。


いま進行しているプロジェクトは、決められたリソース内で、合意された成果物を生み出すためのものだ。それを、わざわざ変更したい、と言い出しているのは、営業(ないし客)だ。だったら、なぜ変更しなければならないのかについて、答えなければならないのは、言い出しっぺの営業(もしくは客)になる。


その変更に対応できる/できないとかの議論の前に、それを今しなければいけない理由を、きちんと説明してもらおう。


これは「立証責任のルール」と呼ばれている。要するに、言い出しっぺが証明しなければならないというルールだ。議論が上手い人は、立証責任を押し付けるのが上手い人だと言える。


これは悪用もできる。たとえ自分が言いだしっぺで、立証しなければならない場合でも、「あなたは反対なのですか? なぜ反対なのですか?」と質問することで、立証責任を相手に負わせることができる。本書では、立証責任の負わせ方、かわし方が沢山の事例とともに紹介されている。


私がぶつかってきた様々な障壁は、書籍という形で、抜け路・回り道・バックドアがあった。一人泣きながら何日も苦悩したり、周りとぶつかってぎすぎすしてきたことは、実は、数千円と数時間で「答え」が既にあったのだ。


そんなお薦め6冊をレバテックLABにまとめたので、ぜひ読んで欲しい。

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「おいしい」を伝える技術『おいしい味の表現術』

「おいしい」としか言えないのがくやしい。

食べたときの、その「おいしさ」をどう伝えるか?

  • ふわとろ
  • 肉汁がジューシー
  • コクがあるのにキレがある

陳腐すぎて、何のコマーシャルだよ? とツッコミたくなる。

私のアタマが染まってしまっているのだろう。宣伝に洗脳されすぎて、自分が感じたことを言葉にする代わりに、グルメ番組の定番セリフをあてはめるだけのような気がしてくる(肉料理ならジューシー、麺類ならコクとか)。

それはクリシェ、常套句みたいなものなんだから、あまり考えず、手垢にまみれた言葉を使えばいいんだよ、という声も聞こえてきそうだ。あるいは、「筆舌に尽くしがたい」に逃げるとか。

だが、くやしいのだ。

「おいしい!」と感動したのなら、その感動をなんとかして伝えたい。具体的に想像できるような言葉で、同じ感覚を追体験できるような表現で伝えたい。

そんな人にとって、福音となる一冊が、『おいしい味の表現術』だ。

「おいしい」を体系化する

「おいしい」に関わる膨大なデータを分析して、その表現を体系化している。味覚や食感といった感覚的な側面だけでなく、食材や調理プロセスなど、「おいしさの情報」も含めて掘り下げる。

例えば、「おいしい」を表現する言葉は、こんな風に体系化される。

  1. 味評価:うまい、ヤバい、舌鼓を打つ、甘露、ほっぺたが落ちる
  2. 味覚:甘、酸、塩、苦、旨、辛、渋
  3. 共感覚:視覚(こんがりキツネ色)、嗅覚(こうばしい、芳醇)、聴覚(じゅうじゅう)、触覚(コリコリ、アツアツ)
  4. 味まわり:揚げたて、炭火焼き、三ツ星レストランの味、国産小麦100%の手打ち

食をめぐるエッセイや小説、マンガを例に、たくさんの表現技法が紹介されているが、特に参考になるのが、「共感覚」と「味まわり」だ。

まず、ジュージューといった音で期待値を上げ、たちのぼる香ばしさと温かさを顔面で感じ、こんがりついた焼き目を目で味わう。箸で崩せる柔らかさに感動しながら一口をほおばる。旨味を舌で受け止めるだけでなく、歯ぐきや口蓋でテクスチャ―を感じとる。

そして、噛むとともに変化する味わいと食感を惜しみながら、香りが鼻へ抜ける広がりに自然と笑顔になり、喉ごしを堪能する。さらに、素材やスパイス、調理プロセスを知り、「情報を食べる」ことで、より深く味を理解することができる。

以上、「おいしい」という言葉を使わずに書いてみた。これに、味のメタファー(広がる、閉じ込める、駆け抜ける、奥行きがある)を交えると、膨大な組み合わせになる。食べる場所の雰囲気や、合わせる飲み物との相乗効果も考えると、「おいしい」は好きなだけ再生産できそうだ(文章生成は、AI と相性がよさそうな気がする)。

「おいしい」をマンガで伝える

なるほどなぁ、と唸ったのは、マンガにおける「おいしさ」の表現方法について。

文章もそうなのだが、マンガは味もしないし、香りもない。でも確かに、マンガを読んで「おいしそう!」と思ったり、その味を想像することができる。

本書では、マンガの表現技法は3つに分類できるとする。

  1. 説明ゼリフ
  2. モノローグ
  3. 心象風景

説明ゼリフは、会話(フキダシ)の中で、おいしさを伝える方法になる。実際に食べたり飲んだりしながら、感じたものを説明する。代表例が『美味しんぼ』で、数多くのグルメ漫画で踏襲されている。オーソドックスな手法ながら、どうしても解説チックになってしまい、情報量が多く、わざとらしく不自然なセリフになる傾向があるという。

これを改良したのが、モノローグになる。マンガ手法だと、白枠の中で表現したり、フキダシを雲状にすることで、「心の中」を伝える。『孤独のグルメ』や『ワカコ酒』のように、ひとりで食べる/呑む設定に見られ、食べた感想を、思考の形で伝えることができる。

説明であれ、モノローグであれ、どちらの場合も、言葉=文字で「おいしさ」を伝えるしかない。この限界を、マンガならではの手法で打ち破るのが、心象風景だ。

料理そのものではなく、それを感じ取った内面を比喩的な絵で表現する。極上のワインを飲んだ瞬間、森の奥に古城が見えたり、おいしさが全身を駆け巡るあまり、全裸になったりするあれだ。『神の雫』や『食戟のソーマ』が思い浮かぶ。読者の視覚そのものに訴えることができる。

実際のところ、料理をテーマにした漫画は、これらの組み合わせで「おいしい」が表現されている。第5章「マンガな味」を読むと、グルメ漫画がよりいっそう「おいしく」感じるだろう。

他にも、おいしさにまつわる様々なテーマについて掘り下げている。どれも、それだけで一冊の本になりそうなほどの濃厚で味わい深いネタばかりだ。

  • よく使う割によく分かっていない「コク」と「キレ」の正体は、どんな味なのか
  • 男は「うまい」、女は「おいしい」といったジェンダー差異はあるか
  • 生ビール、生チョコレート、生醤油、生味噌などの「生」をめぐる表現

各章の末尾には大量の参考文献が紹介されており、それらを押さえるだけでも、おいしそうなグルメレポートが出来上がることを請け合う。

特に、「『おいしい』を感じる言葉Sizzle Word」レポートと、『おいしさの表現辞典』は有用だろう。AI に学習させて、画像からレポートを出力させるようにすれば、食べずに「おいしさ」を伝えることができる(本末転倒だが)。

最後に注意する点を一つ。

カレーについての第6章と、ラーメンについての第7章だ。1章を丸々使って、おいしさの表現技法を徹底的に解説する。普通、「飯テロ」は画像だが、これは読む「飯テロ」である。くれぐれも、深夜に開かぬよう、忠告する。




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エロと美のあいだ『ヌー道』

みんながマスクをしてるから、人間の口がだんだん猥褻なものに見えてくる。

もちろん、私の性癖が常軌を逸していることは自覚してる(例:釘宮病)。

だが、「秘すれば花」と世阿弥が言う通り、隠されているという意識にエロスが発生することを止められぬ。

というのも、久しぶりに出社したとき、マスクをちょっとずらして、コーヒーを飲む同僚(女性)を目にしたから。そのとき、プライベートな場所を目撃したかのように感じたから。

私が異常なのか?

イエス。

だが、私だけなのか?

などと悶々としていたら、みうらじゅん&辛酸なめ子の対談に出会えた。同じことを考えてるみたいで、「マスクは口にはく下着」「尊さとエロは同じ」など、さらに発展させており、学ぶところが大きい。

タイトルは『ヌー道』、nudeと道をかけている。ハダカの芸術も、究めればそれは道になる。ロダン、ルノワール、裸の/着衣のマハ、グラビア誌などを俎上に、古今東西の裸談義を繰り広げる。

お二人の話を聞いていると、芸術だから無罪だったものが、時代の変化に曝されたり、当時はスルーされていたのに、今では惹起させるものになったことが見えてくる。

エロは変わる

典型的なのは、言葉だろう。かつて「猥褻(わいせつ、漢語)」と呼ばれたものは「エロ(Erōs、ギリシャ語)」になり、今じゃ「エッチ(HENTAI、日本語)」なものになっている。ポイントは、この3つの言葉は同一のものを指していない点にある。微妙に重なり合いながらもズレが生じており、さらにそのズレは動いている。

例えば、「抱かれたい男ランキング」だ。

雑誌やテレビなどでアンケート調査して、抱かれたい芸能人を格付けする。この「男」を「女」にした「抱きたい女ランキング」は今では完全にセクハラだが、なぜ「抱かれたい男」の方は許容されているのか。

この疑問への応答が面白い。

みうら:(世の男性は)悔しくは思うんでしょうが、それが励みにもなるからじゃないですかね。ま、妄想の中の「抱きたい、抱かれたい」をどこまで容認するかってことですよね。

辛酸:誰かを傷つけたり、犯罪になってしまったら問題ですが。そうでなければという風にも。

そのうち、「抱かれたい男ランキング」も程なく消えていくように思える、表からは。あるいは、「抱かれたい」を「癒されたい」にするなど表現を変えて生き延びるかもしれぬ。

さらに、「エロスクラップ」には度肝を抜かれた。

みうらじゅんは、雑誌のグラビアや写真集のページを切り貼りしているのだが、40年間欠かさず続けており、その量も膨大なものになる。これだ。

Nudou

「みうらじゅんフェス:エロスクラップ」より

450巻を超えるというエロスクラップをカラーコピーして、横浜スタジアムの床一面に並べるとこうなる(コピー機が2台壊れたそうだ)。

単純に、「この娘いいなあ」と残しておくだけでなく、どういうレイアウトにすると、より「映える」とか、ストーリーになるような相手や場面、組み合わせを考えながら貼る。自分の性癖にトコトンつきあう熱量に脱帽する。

最初は自分のために始めたのだけれど、友人から「貸して欲しい」と頼まれるようになってから、編集者としての意識が芽生え、エンターテイメント性をも追求するようになる。まさにヌー道(どう)なり。

これ、風俗の史料になるのでは……と思えてくる。

もちろん、いち個人の性癖フルスロットルの集大成なのだが、そこに残されている画像は、その時代を切り取ったものになる。シチュエーション、ヘアスタイル、ポーズ、アングル、身につけているものと肌面積、露出、キャプションといった要素のデータベースともいえる。

未来のヌー道

ダヴィデの包茎からマハの乳輪の色づき、観音菩薩が微乳である理由など、エロとアートの共犯関係を見ていくと、未来のヌー道を考えたくなる。

その際、本書に加えて『官能美術史』を取り上げたい [レビュー]

西洋美術における性愛の歴史に焦点をあてた名著だ。西洋の中で「愛」がどのように定義され、変化していったか、さらに美術史におけるヌードと身体意識の変遷を知ることができる。

レンブラントの冷たい裸体や、中性的なダヴィデ像の中で、ひときわ目立つのが、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた男女の輪切り図になる。表面を覆っているものを取り去るだけでなく、その奥にあるものを視覚化している。

タブーであるハダカは、世界じゅうにまみれている。具が見たいのなら、クリック一つで済む。そんな世界で、あえてハダカを見るのか?

なんて考えると、見たいのは、裸体なのではなく、覆われているものなのではないか、と思えてくる。マスクで隠された口唇のように、見えないからこそ、見たくなる。この追求は、ダ・ヴィンチの「性交断面図[リンク先注意]」を始めとし、現代のエロマンガでも脈々と息づいている。

その未来は、スタニスワフ・レム『虚数』にある[レビュー]。これは、実在しない本の序文集なのだが、未来のポルノグラフィーとして、セックスする人々のレントゲン写真集が紹介されている。衣服を脱がせたポルノと、肉を剥がしたレントゲンが合わさったポルノグラムと呼ぶらしい。

隠すほど、見たくなる。

世阿弥の「秘すれば花」の意味は、「花を隠しなさい」ではなく、「隠してあるからこそ花になる」になる。秘密にしなければ、花にはならないのだ。

ずっと見たくて仕方なくって、長い間追い求めていたものを、ようやく直に「見」たときの感動と達成感は、ハンパなものではなかったはずだ。

自分は何が見たいのか、現代は何が隠されているのかを考え直し、己の性癖と向き合うのにうってつけなのが、『ヌー道』だ。

健闘を祈る。

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