« 2022年4月 | トップページ

「おいしい」を伝える技術『おいしい味の表現術』

「おいしい」としか言えないのがくやしい。

食べたときの、その「おいしさ」をどう伝えるか?

  • ふわとろ
  • 肉汁がジューシー
  • コクがあるのにキレがある

陳腐すぎて、何のコマーシャルだよ? とツッコミたくなる。

私のアタマが染まってしまっているのだろう。宣伝に洗脳されすぎて、自分が感じたことを言葉にする代わりに、グルメ番組の定番セリフをあてはめるだけのような気がしてくる(肉料理ならジューシー、麺類ならコクとか)。

それはクリシェ、常套句みたいなものなんだから、あまり考えず、手垢にまみれた言葉を使えばいいんだよ、という声も聞こえてきそうだ。あるいは、「筆舌に尽くしがたい」に逃げるとか。

だが、くやしいのだ。

「おいしい!」と感動したのなら、その感動をなんとかして伝えたい。具体的に想像できるような言葉で、同じ感覚を追体験できるような表現で伝えたい。

そんな人にとって、福音となる一冊が、『おいしい味の表現術』だ。

「おいしい」を体系化する

「おいしい」に関わる膨大なデータを分析して、その表現を体系化している。味覚や食感といった感覚的な側面だけでなく、食材や調理プロセスなど、「おいしさの情報」も含めて掘り下げる。

例えば、「おいしい」を表現する言葉は、こんな風に体系化される。

  1. 味評価:うまい、ヤバい、舌鼓を打つ、甘露、ほっぺたが落ちる
  2. 味覚:甘、酸、塩、苦、旨、辛、渋
  3. 共感覚:視覚(こんがりキツネ色)、嗅覚(こうばしい、芳醇)、聴覚(じゅうじゅう)、触覚(コリコリ、アツアツ)
  4. 味まわり:揚げたて、炭火焼き、三ツ星レストランの味、国産小麦100%の手打ち

食をめぐるエッセイや小説、マンガを例に、たくさんの表現技法が紹介されているが、特に参考になるのが、「共感覚」と「味まわり」だ。

まず、ジュージューといった音で期待値を上げ、たちのぼる香ばしさと温かさを顔面で感じ、こんがりついた焼き目を目で味わう。箸で崩せる柔らかさに感動しながら一口をほおばる。旨味を舌で受け止めるだけでなく、歯ぐきや口蓋でテクスチャ―を感じとる。

そして、噛むとともに変化する味わいと食感を惜しみながら、香りが鼻へ抜ける広がりに自然と笑顔になり、喉ごしを堪能する。さらに、素材やスパイス、調理プロセスを知り、「情報を食べる」ことで、より深く味を理解することができる。

以上、「おいしい」という言葉を使わずに書いてみた。これに、味のメタファー(広がる、閉じ込める、駆け抜ける、奥行きがある)を交えると、膨大な組み合わせになる。食べる場所の雰囲気や、合わせる飲み物との相乗効果も考えると、「おいしい」は好きなだけ再生産できそうだ(文章生成は、AI と相性がよさそうな気がする)。

「おいしい」をマンガで伝える

なるほどなぁ、と唸ったのは、マンガにおける「おいしさ」の表現方法について。

文章もそうなのだが、マンガは味もしないし、香りもない。でも確かに、マンガを読んで「おいしそう!」と思ったり、その味を想像することができる。

本書では、マンガの表現技法は3つに分類できるとする。

  1. 説明ゼリフ
  2. モノローグ
  3. 心象風景

説明ゼリフは、会話(フキダシ)の中で、おいしさを伝える方法になる。実際に食べたり飲んだりしながら、感じたものを説明する。代表例が『美味しんぼ』で、数多くのグルメ漫画で踏襲されている。オーソドックスな手法ながら、どうしても解説チックになってしまい、情報量が多く、わざとらしく不自然なセリフになる傾向があるという。

これを改良したのが、モノローグになる。マンガ手法だと、白枠の中で表現したり、フキダシを雲状にすることで、「心の中」を伝える。『孤独のグルメ』や『ワカコ酒』のように、ひとりで食べる/呑む設定に見られ、食べた感想を、思考の形で伝えることができる。

説明であれ、モノローグであれ、どちらの場合も、言葉=文字で「おいしさ」を伝えるしかない。この限界を、マンガならではの手法で打ち破るのが、心象風景だ。

料理そのものではなく、それを感じ取った内面を比喩的な絵で表現する。極上のワインを飲んだ瞬間、森の奥に古城が見えたり、おいしさが全身を駆け巡るあまり、全裸になったりするあれだ。『神の雫』や『食戟のソーマ』が思い浮かぶ。読者の視覚そのものに訴えることができる。

実際のところ、料理をテーマにした漫画は、これらの組み合わせで「おいしい」が表現されている。第5章「マンガな味」を読むと、グルメ漫画がよりいっそう「おいしく」感じるだろう。

他にも、おいしさにまつわる様々なテーマについて掘り下げている。どれも、それだけで一冊の本になりそうなほどの濃厚で味わい深いネタばかりだ。

  • よく使う割によく分かっていない「コク」と「キレ」の正体は、どんな味なのか
  • 男は「うまい」、女は「おいしい」といったジェンダー差異はあるか
  • 生ビール、生チョコレート、生醤油、生味噌などの「生」をめぐる表現

各章の末尾には大量の参考文献が紹介されており、それらを押さえるだけでも、おいしそうなグルメレポートが出来上がることを請け合う。

特に、「『おいしい』を感じる言葉Sizzle Word」レポートと、『おいしさの表現辞典』は有用だろう。AI に学習させて、画像からレポートを出力させるようにすれば、食べずに「おいしさ」を伝えることができる(本末転倒だが)。

最後に注意する点を一つ。

カレーについての第6章と、ラーメンについての第7章だ。1章を丸々使って、おいしさの表現技法を徹底的に解説する。普通、「飯テロ」は画像だが、これは読む「飯テロ」である。くれぐれも、深夜に開かぬよう、忠告する。




| | コメント (0)

エロと美のあいだ『ヌー道』

みんながマスクをしてるから、人間の口がだんだん猥褻なものに見えてくる。

もちろん、私の性癖が常軌を逸していることは自覚してる(例:釘宮病)。

だが、「秘すれば花」と世阿弥が言う通り、隠されているという意識にエロスが発生することを止められぬ。

というのも、久しぶりに出社したとき、マスクをちょっとずらして、コーヒーを飲む同僚(女性)を目にしたから。そのとき、プライベートな場所を目撃したかのように感じたから。

私が異常なのか?

イエス。

だが、私だけなのか?

などと悶々としていたら、みうらじゅん&辛酸なめ子の対談に出会えた。同じことを考えてるみたいで、「マスクは口にはく下着」「尊さとエロは同じ」など、さらに発展させており、学ぶところが大きい。

タイトルは『ヌー道』、nudeと道をかけている。ハダカの芸術も、究めればそれは道になる。ロダン、ルノワール、裸の/着衣のマハ、グラビア誌などを俎上に、古今東西の裸談義を繰り広げる。

お二人の話を聞いていると、芸術だから無罪だったものが、時代の変化に曝されたり、当時はスルーされていたのに、今では惹起させるものになったことが見えてくる。

エロは変わる

典型的なのは、言葉だろう。かつて「猥褻(わいせつ、漢語)」と呼ばれたものは「エロ(Erōs、ギリシャ語)」になり、今じゃ「エッチ(HENTAI、日本語)」なものになっている。ポイントは、この3つの言葉は同一のものを指していない点にある。微妙に重なり合いながらもズレが生じており、さらにそのズレは動いている。

例えば、「抱かれたい男ランキング」だ。

雑誌やテレビなどでアンケート調査して、抱かれたい芸能人を格付けする。この「男」を「女」にした「抱きたい女ランキング」は今では完全にセクハラだが、なぜ「抱かれたい男」の方は許容されているのか。

この疑問への応答が面白い。

みうら:(世の男性は)悔しくは思うんでしょうが、それが励みにもなるからじゃないですかね。ま、妄想の中の「抱きたい、抱かれたい」をどこまで容認するかってことですよね。

辛酸:誰かを傷つけたり、犯罪になってしまったら問題ですが。そうでなければという風にも。

そのうち、「抱かれたい男ランキング」も程なく消えていくように思える、表からは。あるいは、「抱かれたい」を「癒されたい」にするなど表現を変えて生き延びるかもしれぬ。

さらに、「エロスクラップ」には度肝を抜かれた。

みうらじゅんは、雑誌のグラビアや写真集のページを切り貼りしているのだが、40年間欠かさず続けており、その量も膨大なものになる。これだ。

Nudou

「みうらじゅんフェス:エロスクラップ」より

450巻を超えるというエロスクラップをカラーコピーして、横浜スタジアムの床一面に並べるとこうなる(コピー機が2台壊れたそうだ)。

単純に、「この娘いいなあ」と残しておくだけでなく、どういうレイアウトにすると、より「映える」とか、ストーリーになるような相手や場面、組み合わせを考えながら貼る。自分の性癖にトコトンつきあう熱量に脱帽する。

最初は自分のために始めたのだけれど、友人から「貸して欲しい」と頼まれるようになってから、編集者としての意識が芽生え、エンターテイメント性をも追求するようになる。まさにヌー道(どう)なり。

これ、風俗の史料になるのでは……と思えてくる。

もちろん、いち個人の性癖フルスロットルの集大成なのだが、そこに残されている画像は、その時代を切り取ったものになる。シチュエーション、ヘアスタイル、ポーズ、アングル、身につけているものと肌面積、露出、キャプションといった要素のデータベースともいえる。

未来のヌー道

ダヴィデの包茎からマハの乳輪の色づき、観音菩薩が微乳である理由など、エロとアートの共犯関係を見ていくと、未来のヌー道を考えたくなる。

その際、本書に加えて『官能美術史』を取り上げたい [レビュー]

西洋美術における性愛の歴史に焦点をあてた名著だ。西洋の中で「愛」がどのように定義され、変化していったか、さらに美術史におけるヌードと身体意識の変遷を知ることができる。

レンブラントの冷たい裸体や、中性的なダヴィデ像の中で、ひときわ目立つのが、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた男女の輪切り図になる。表面を覆っているものを取り去るだけでなく、その奥にあるものを視覚化している。

タブーであるハダカは、世界じゅうにまみれている。具が見たいのなら、クリック一つで済む。そんな世界で、あえてハダカを見るのか?

なんて考えると、見たいのは、裸体なのではなく、覆われているものなのではないか、と思えてくる。マスクで隠された口唇のように、見えないからこそ、見たくなる。この追求は、ダ・ヴィンチの「性交断面図[リンク先注意]」を始めとし、現代のエロマンガでも脈々と息づいている。

その未来は、スタニスワフ・レム『虚数』にある[レビュー]。これは、実在しない本の序文集なのだが、未来のポルノグラフィーとして、セックスする人々のレントゲン写真集が紹介されている。衣服を脱がせたポルノと、肉を剥がしたレントゲンが合わさったポルノグラムと呼ぶらしい。

隠すほど、見たくなる。

世阿弥の「秘すれば花」の意味は、「花を隠しなさい」ではなく、「隠してあるからこそ花になる」になる。秘密にしなければ、花にはならないのだ。

ずっと見たくて仕方なくって、長い間追い求めていたものを、ようやく直に「見」たときの感動と達成感は、ハンパなものではなかったはずだ。

自分は何が見たいのか、現代は何が隠されているのかを考え直し、己の性癖と向き合うのにうってつけなのが、『ヌー道』だ。

健闘を祈る。

| | コメント (0)

« 2022年4月 | トップページ