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歴史認識をアップデートする『世界史の考え方』

歴史を学ぶ意義について、物理学の教授と話したことがある。

  • 歴史とは、過去を扱う学問だ
  • 過去は既に確定しており、覆ることはない
  • 新たな史料が発見され、史実が変わることは滅多にない

だから、歴史を学ぶことは、昔の出来事を覚える作業になる。過去は確定しているから、教科書はほとんど変わらない―――そう教授は断言した。

「過去は変えられない、確定した出来事だ」という一言は妙に刺さり、なるほどなぁと納得したことを覚えている。

しかし、世界史を学びなおし、最近の教科書を読み直してみると、これは誤っていることが分かった。「過去は変えられない」は正しいが、「過去に対する認識」は変化するからだ。

現代は「平和な時代」か?

例えば、次の文を読んでみよう。

長い歳月のあいだに人間の暴力は減少し、今日、私たちは人類史上、最も平和な時代に暮らしている

スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』の主張で、かつては、頷いた方もいたかもしれない。だが、今は違う。緊迫したウクライナ情勢の報道に接し、認識が大きく変わっている。

以前は、当たり前に感じていたものに、違和感を覚える。過去は変わらない。だからこそ、認識の変化に自覚的になるために、世界史をアップデートすることは有効だ。

この認識の変化を歴史の本を使って実践したのが、『世界史の考え方』だ。

まず、歴史学の古典を挙げ、かつては常識とされていた考え方を紹介する。次に、その主張に疑義を呈し、ひっくり返すような書籍をぶつける。いわば、「歴史の歴史」を語ろうとする。

その中で、前提として常識だと思い込んでいたことが、相対化され、乗り越えられてゆく。古い思考に囚われていたことに気づかされ、文字通り、蒙が開かれる思いだ。

植民地主義は「ジェノサイド」か?

例えば、植民地主義の「罪」を問う動き。

第二次世界大戦後の世界秩序は、植民地主義の責任追及を回避することで成り立ってきた。そこへ援用されたのが、「人道に対する罪」になる。植民地における先住民の排除や、そこで行われてきた戦争を問う罪になる。

この「人道に対する罪」は、元はと言えば、ニュルンベルク裁判の際に、従来の戦争犯罪では捉えきれないナチスの犯罪を裁くために導入された概念である。罪刑法定主義という法の常識を超えて、事後的に作り出された、新しい「罪」の概念となる。

「ジェノサイド」の概念も同様だ。特定の集団の抹殺を目指した組織的な行動で、ナチスによるユダヤ人迫害を性格づけるために作り出された。

現代では、「人道に対する罪」も「ジェノサイド」も、当たり前の概念として扱っている。だが、これらは後から発明された「罪」であり、歴史をさかのぼってその罪を問い、償わせるために行使されてきた。

であるならば、その「罪」は、植民地における破壊行為にも適用できるのではないか、という考えも出てくる。もともとそこに住んでいた人々を排除し、収奪し、抹殺してきたことは、ジェノサイドであり、人道に対する罪ではないか、という考え方だ。

つまり、直接的な虐殺や物理的破壊だけではなく、土地の収奪は経済的ジェノサイドであり、先住民を隔離したり同化することは文化的ジェノサイドになる。程度の差こそあれ、「近代化」する上で必然の産物であることが炙り出されてくる。

そうしたことへの責任を問い、償いを求める動きが、アフリカや南北アメリカやアフリカ系の中から沸き上がっている。過去そのものではなく、過去に対する認識が変化した例と言えるだろう。

欧米は歴史の「先頭」なのか?

あるいは、欧米中心主義。

欧米を特別なものとし、他を劣位とみなす考え方だ。イギリス、フランス、アメリカが歴史発展のモデルを作り、後発の国はそれを追いかける、という構造になる。

私は、「先進国」「発展途上」という言葉を当たり前のように使う。もとは工業化や経済的発展の進み具合を示す用語だ。だが、あたかも国の発展が、ただ一つの方向に従っており、欧米が最も進んでいるかのように考えてしまっている。

この欧米中心主義は、歴史学に根を下ろしている。短冊状に国ごとの歴史を並べて、政治と経済の革命を順調に進めた国のパターン、遅れている国のパターンを比較するといった方法が流行していた。欧米的な普遍性から、どれくらい逸脱しているかによって、その地位を割り当てる考え方だ。

これに異を唱えるのは、川北稔『砂糖の世界史』。砂糖、茶、コーヒー、チョコレートといった「世界商品」を手がかりに世界史を読み解き、世界のつながりを説明する。

17世紀、カリブ海の島々のプランテーションによって砂糖きびが栽培され、ヨーロッパ諸国がその砂糖を消費していた。アフリカ(奴隷)、アメリカ(生産)、ヨーロッパ(消費)の三角貿易と結びついた非対称の関係は、現代のカリブ海の人々を「発展途上」に留めているという。

ウォーラーステインの世界システム論を援用しながら、世界商品の生産と消費の関係には、支配と従属の関係が入り込んでいる構造を解析する。資本集約的で先端技術を持つ「中心」と、労働集約的で時代遅れの「周辺」のグローバルな分業体制だ。

では、これは確定した過去なのか? いまの支配-被支配の構造は既に出来上がっており、欧米の覇権を印象付ける歴史叙述に過ぎないのか?

『世界史の考え方』では、この視点をさらに乗り越える。

世界の諸地域を、「支配する側」と「支配される側」に構造化していったのが資本主義の歴史と見て、その世界システムが、現代の格差問題につながっている見方を提示する。この考えには、かなりの人が頷くだろう。

すると、この議論の最初に掲げた「欧米は歴史の『先頭』なのか?」の設問そのものがおかしいことに気づくかもしれない。先頭、後続といった発展段階で一元化するのではなく、そこに住む人々の多様性が浮かび上がるような参照軸で考える必要が出てくる。

欧米を先端モデルとするのではなく、別の考え方で捉えなおせるようになる。過去は確かに変わらないかもしれないが、歴史認識を変えることによって、現在を見通しよくできるようになる。

中国は「自由」か?

例えば、「自由」について。

欧米と対比すると、中国には自由が無いように見える。国家の専制的な性格や束縛が強調され、自由市場とは程遠いと見なしていた。

本書では、清朝の社会政策を取り上げながら、中国の「自由」について興味深い視点を提示する。18世紀の清朝の時代は、自由放任で競争の激しい社会だったという。だが、本当に何もしない政府かというと、そうではなかった。

例えば、各地に穀物貯蔵庫を造っておき、食糧不足の問題が生じると、穀物を分配したり、価格調整を行ったりしている。同時代のヨーロッパと比べて、はるかに大規模なセーフティーネットを構築している。

ただし、介入の仕方に特色があった。国家が市場に入っていって、大規模に穀物を買い付ける。一種の特権的プレーヤーとして、直接介入するやり方になる。これは、ヨーロッパ諸国家と大きく異なる。

ヨーロッパの国家は、法制度を整備して、民間で競争するためのインフラ、いわば競技場を作り、その中で自由に競争させる。国家自らは民間と競争せず、競技場の秩序の維持者として振舞おうとする。

この対比は、現代でも見ることができる。現代の中国でも激しい市場的競争が行われている(テクノロジーや金融市場が顕著だ)。そこに「自由な」民間経済の活力を感じることができる。

だが、それを支えるのは、ジョン・ロックが唱えた不可侵の権利や、所有権に基づく経済的な自由とは異なった「自由」だ。国家が介入する余地は、大きく開かれている。同じ「自由」という言葉でも、それを支える歴史認識が異なっていることが分かる。

欧米の自由をモデルにして、それとは異なるから「遅れて」いるわけではない。中国には別の「自由」があると考えると、これはこれで興味深い。

ただし、反対に、欧米と比べて中国の「自由」が優れているというわけでもない。清朝のセーフティーネットが可能だったのは、財政的に豊かな時期だけであり、財政難になると放任せざるを得なくなったことは、歴史が物語っている。

財政難や国際ルールの圧力により、「いちプレイヤーとしての振る舞い」をかなぐり捨て、ルールを変えたり、市場を閉鎖する未来は、ありうる。それは、中国に自由が無いからというよりも、むしろ、中国の「自由」を支える基盤に、所有権の概念が存在しないから―――と理解すると、腑に落ちる。

高校科目「歴史総合」を実践する

私が、所与のものとして扱っていた考え方は、実は確定していた過去ではなく、それをどう見なすか―――歴史認識によって支えられていることが分かる。

本書は、小川幸司と成田龍一、さらにゲストを加えた鼎談形式になっている。どのテーマ、どのトピックでも、私が当たり前に感じていた考えに揺さぶりをかけてくる。「100%正しい」歴史認識なんて存在しない。だからこそ、対話を重ねながら、歴史認識を共有していくことが重要になる。

  • アメリカ合衆国の成長は、人種・民族に基づく「選び捨て」による移民の選別と、黒人を搾取可能な「自由労働者」することで、労働力創出に成功したことによる
  • パレスチナにおける非対称の紛争は、戦争ではなくテロとして扱われることによって、歴史教育から不可視化されている
  • ヘーゲルやマルクスが定式化した「国民国家を主体とした認識の枠組み」は、歴史学の前提として機能しており、移民の影響を捉えにくくしている

本書は、世界史と日本史を一体化した高校の必修科目「歴史総合」を学ぶ実践そのものとなる。読者は、歴史像の形成過程を学び、問いや対話に基づきながら、歴史認識をアップデートしていくことになる。

 

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物語を書く人・楽しむ人のバイブル『面白い物語の法則』

面白い物語には法則がある。

剣と魔法の冒険譚であれ、銀河帝国の逆襲であれ、身分違いの恋物語であれ、面白いとされる物語に共通する法則だ。

そんな魔法みたいなものがあるのか? もし面白さを形式化できるなら、AIに学ばせることだってできるだろう。眉唾しつつ読んだら腑に落ちた。確かに、面白い物語には法則がある。

『面白い物語の法則』は、ハリウッドの第一線の脚本家による、実践的な指南書だ。『美女と野獣』『ライオンキング』の一流のストーリーテラーが使っている手法が惜しげもなく解説されている。

物語やシナリオ、ネームを書く人のみならず、出来上がった映画やドラマ、小説作品を味わう人にとっても役に立つ。なぜなら、「その作品がなぜ面白いのか」を言語化することで、作品をより深く味わい尽くすことができるから。

テーマとログライン

最も私に刺さったのは、テーマとログラインだ。

テーマを決める、なんて当たり前のことに見えるが、本書はもっと徹底的だ。自分が書こうとしている物語について、3ページのシノプシス(あらすじ)、短い文のログライン、最終的には、人間の衝動や性質を言い表す一つの言葉にまで突き詰めよという。

たとえばマクベス。「大勢の人を殺して王になろうとしたスコットランドの領主のお話」なんて説明ではない。物語の感情を、たった一言で定義するなら何になるか。本書では、「野心」すなわち支配への衝動だと説明する。

『マクベス 』で「野心」は三回出てくる。まず、マクベス夫人が焚きつける「野心はあるが毒気がない」、そしてマクベス自身の「野心はないが野望はある」、最後は「おのれの命を食いつぶす愚かを極めた野心」の三回だ。

野心は避けがたい破滅を招くのだが、マクベス自身にはそう見えない。見えたときには手遅れになる。「無情になるための野心」ではなく「慈悲に抑制された野心」だって選べたはずだ。だがマクベスは、最後の人間性も切り離し、破滅への道をひた走ることになる。

では、なぜテーマが最重要なのか。

テーマは、物語を統一し、首尾一貫した感覚を与える要素だという。言い換えるなら、テーマさえはっきりしていれば、どんな雰囲気や感情を生み出せばいいのかが分かる。セットの基調色が何になるか、どんな音楽を使うかも考えやすくなる。

テーマに合わない部分はバッサリ斬ったり改変する必要も出てくるし、物語が複雑化したとき、テーマを頼りに本線に戻すこともできる。

テーマを抽出するトレーニング

自分が扱う作品のテーマは何か、徹底的に突き詰める。そして考え抜いたテーマを、様々な試練にさらすのが、物語作家の役割になる。

しかしテーマというもの、腕組みして考えると浮かんでくるものでもないし、口開けていると、空から降ってくるわけでもない。どうすれば突き詰めることができるのか? 

本書では、単純だが厳しいトレーニングが課されている。

100日で100本の脚本を読めという。そして、読み終えるごとに、シノプシス3ページ、ログラインを一文、そしてテーマを書くトレーニングだ。実際、やろうとすると、細部は大幅に割愛され、中心となるキャラクター、主眼となる対立とアクションなど、物語の根幹を見つけ出す作業になる。

ほとんどのテーマは、第一幕の早い段階で、示される場合が多い。登場人物が声高に口にする願いや主張に隠されており、それを受け容れるか否かはともかく、物語全体に反響し続ける。

テーマが響く箇所が物語の根幹であり、それを手繰っていくとシノプシスが出来上がる。そして、シノプシスを削いでゆけば、ログラインになる。著者はシェイクスピアを全て読んで実践したというが、四大悲劇だけでもやってみたい。

ログラインの重要性は、『SAVE THE CAT の法則』で何度も繰り返されていた。多くの人を巻き込み、商業的に成功するためには、一行でその気にさせなければならない。ログラインやテーマは、物語の背骨だと言っていい。そのトレーニング方法が詳述されている分、『面白い物語の法則』は実践的だと言えるだろう。

キャラクターの方程式

キャラクターの作り方は、方程式が紹介されている。これだ。

キャラクター=求めるもの+動き+障害+選択

言い換えるなら、キャラクターとは、何かを求めて物語に現れ、それを求めるために動きまわり、何らかの障害によって阻まれ、それを乗り越えるために選択を迫られる存在になる。

求めるものを手に入れて早く満足したいという欲求とは裏腹に、開始2ページで終わらせるわけにはいかない。物語作家はあらゆる障害を放り込み、同じものを求めるライバルを登場させ、第二の求めるものを出現させる。物語が「動く」とは、キャラクターが求めるものを手に入れようとすることと同義なのだ。

この辺り、カート・ヴォネガットの小説家の心得で聞いたことがある。「たとえコップ一杯の水でもいいから、どのキャラクターにも何かを欲しがらせること」というやつ。ポイントは、「たとえコップ一杯の水でも」だね。物語に出てくる人それぞれに、運命の重荷やあり得たかもしれない人生を背負わせる必要はない。たとえコップ一杯の水でも、それを求めることで動きが生まれる。

あるいは、『キャラクター小説の作り方』で知った、物語の原則を思い出す。この本によると、あらゆる物語には原理原則があり、それは、「主人公は何かが『欠け』ていてそれを『回復』しようという『目的』を持っている」になる。主人公が満ち足りてて、何も求めるものが無かったら、そもそも物語が始まらないからね。

しかし、「求めるもの」って何だろう? 大丈夫、本書には膨大なリストがある。「金」や「セックス」、「正義」といった分かりやすいものから、「記憶の再生」「アイデンティティ」「孤独」など、それだけで面白い物語になりそうなものまで、大量に並んでいる。

キャラクターは道具箱のようなものだから、沢山用意しておけという。ポピュラーソングは求めるものの宝庫だし、テオプラストス『人さまざま』には典型的なリストが網羅されているという。

ヒーローズジャーニー

本書の目玉の一つが、ヒーローズジャーニーだ。

慣れ親しんだ日常から離れ、冒険へ召喚される。賢者のアドバイスに従い、試練を乗り越え境界を超越し、力の源泉を得て、再び日常へと戻ってゆく。賜物を手にした後は、対決/チェイス/バトルがある。

メドゥーサの首級を持つペルセウスから、冥界に降りるイザナギ、フォースを使うルーク・スカイウォーカーなど、地域や時代によって異なるが、伝承で示される英雄像は、驚くほど似通っている。

本書では、『千の顔をもつ英雄』を俎上に、このヒーローズジャーニーを徹底的にしゃぶりつくす。この円環構造こそが、面白い物語の法則になるとして、ヒーローズジャーニーを12のパターンに分け、様々な映画への応用例と共に紹介する。

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重要なのは、アイテムやキャラや世界ではなく、この構造そのものだという。魔法の剣を手に入れる英雄、洞窟に潜むドラゴンとの戦いなどは、単なる象徴なのだ。

たとえば、年老いた賢者は、面倒見のいい上司やセラピストにしてもいいし、現代のヒーローは洞窟ではなく、宇宙や海底、自分自身の心を探索してもいい。自分の書く物語に合わせていくらでも差し替えることができる。

さらに、特定のキャラに機能を固定させる必要すらないとまで言う。賢者、ライバル、助言者は、キャラクターたちが交代で身につけてもいいという。人の根源的な感情を掻き立てる役目を果たしてくれれば、同じキャラが演じ分けるようにしてもいいのだ。

プロップの物語カタログ

本書のもう一つの目玉がこれ。ウラジミール・プロップの「物語のカタログ」だ。

誰でも直感的に理解できるお昔話・伽話を体系的に捉え、共通する機能や構造を30あまりに分類したのが、プロップだ。個々の機能から、物語の普遍的手法を読み取ることができる。

「主人公にあることを禁じるが、禁が破られてしまい、痛手を負う」とか、「難題を課された主人公が、見事に解き明かし、資格を得る」なんて、どこかで聞いたことがあるだろう。時代や場所を問わず、物語の原型が紹介されている。

 1. 家族の一人が家を留守にする
 2. 主人公にあることを禁じる
 3. 禁が破られる
 4. 敵が探りをいれる
 ……

『面白い物語の法則』が優れているのは、前述のヒーローズジャーニーの12パターンと、プロップの物語のカタログとを照らし合わせ、物語に共通する「機能」を炙り出す点にある。

極端なことを言うと、このカタログから適当にピックアップして組み合わせるだけで、誰にでも伝わる物語の骨格が出来てしまうのだ。順列組み合わせならコンピュータの得意とするところ。「それっぽい」お話なら、AI に書けてしまうだろう。

本書では、さらにプロップの応用を解説する。プロップは、登場人物の行動、すなわち「動詞」に着目する。動詞は行動を呼ぶ。強くて機能的な動詞は、そのまま良いシナリオにつながる。キャラクターを表現する動詞を吟味することで、そのキャラを定義しやすくなるという。

テーマを構造的に隠す仕掛け=環境的事実

私が一番学んだのは、環境的事実というやつ。ストーリーから手がかりを読み取り、結論を引き出す方法だ。自分の脚本について、それぞれの環境的事実を短文で書けという。6パターンある。

 ・日付
 ・場所
 ・社会的環境
 ・宗教的環境
 ・政治的環境
 ・経済的環境

例えば「日付」。

よりによって、なぜ「その日」を描いた脚本なのかを考える。サメが大海を泳ぐだけでは何も起きないが、独立記念日に海沿いの街を襲ってくるとなると話が違ってくる。植物採集にやってきた異星人と「その日」に出会わなければ、エリオット少年の人生は平凡なままだっただろう。

普段とは違うある特定の日に、たまたまそこにいたせいで、がらりと人生が変わってしまう。これを自覚するために、自分の脚本が「その日」をどう位置付けているかを、できるだけ沢山の短文で表現せよという。

そうすることで、なぜ「その日」にしたのかを考え抜くことになる。そして、「その日」をどのように描けば面白くなるかを、自分自身に問いかけることになる。独立記念日はアメリカ人にとって特別な日だ。しかも、海水浴客でにぎわう日でもある。だから海開きを強行する他なかったという確執が生まれる。確執は物語を面白くする。

他にも、それぞれの観点から「なぜその場所か」「なぜその社会か」を考える。すると、「その場所」「その社会」ならではの理由が見えてくる。そして、その理由をテーマやログラインと結びつけることで、物語の中にテーマを隠すことができる(本書では、手がかりを脚本に埋め込むことで、構造を三次元化せよと説いている)。

物語作家のバイブル

面白い物語に共通する法則を理解し、身につけ、実現する方法が、大量の映画の紹介とともに解説されている。

ひょっとすると、これは手品のネタばらしのように見えるかもしれない。いや、それは大丈夫。本書を理解するほど、自分がどのように夢中になっているか、なぜそんなに面白いのかを、より深く知ることができるから。

そう、本書は、物語を書く人だけでなく、物語を楽しむ人にも役に立つ。

これ読みながら、アマプラの『SUIT/スーツ』を観ているのだが、本当に教科書通りに作ってある。

面白いかって?

もちろん! ニューヨークの法律事務所を舞台にした痛快なドラマなのだが、本書のおかげで一層楽しめるようになった。

なんとなく感じてた面白さの味が、ハッキリと自覚できるようになったから。セリフ回しやBGMに潜んでいるテーマに気づきやすくなっただけでなく、立ち位置やカメラアングルにまで、ログラインが徹底されていることが容易く分かるようになった。

それは、プロの料理を食べる前に、そのレシピを読むことで、料理の表現や奥行きが理解しやすくなるようなもの。

物語やシナリオ、ネームを書く人のみならず、出来上がった映画やドラマ、小説作品を味わう人にとっても役立つバイブルになる。

一点ご注意を。本書は『物語の法則 強い物語とキャラを作れるハリウッド式創作術』の新書版で中身は同じになる。

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良い記事を書く3つのコツ『誰よりも、うまく書く』

良い記事を書くコツは3つある。

 ①読みたくなるようなタイトルにする
 ②最初の文を読んだら、次を読みたくなるように書く
 ③次を読んだら、もっと読みたくなるようにして、最後まで読んでもらう

そんなことは分かっている。知りたいのは、最後まで読んでもらうには、具体的に何をどう書けばよいのか?

その答えは、物書きのバイブルである本書にある。

『誰よりも、うまく書く 心をつかむプロの文章術』は、全世界で150万部売上げ、50年近く読み継がれてきたロング&ベストセラーの文章読本だ。ライター・記者・作家志望が必ず紐解くノンフィクション・ライティングの名著とされている。

一読すると、すぐに分かる。最後まで読んでもらう文章を書く上で、必須のこと、NGのこと、ネタの探し方、書き方、推敲の仕方、お手本がそろっている。

ブロガーの端くれとして、このテの本は、さんざん漁ってきたつもりだった。だが、それでも沢山の気づきが得られたので、いくつか紹介してみよう。

どんな立場から書くのか

これは、書き始める前に答えを決めておく必要がある。

ある題材を記事にするとして、それを、自分(=書き手)がどんな立場から語り掛けようとしているのか、という質問だ。

  • 記者としてか、その道のプロとしてか、あるいは、一般人としてか
  • どんな代名詞、時制を使うのか(≒無個性な報告調か、個性的でくだけたものか)
  • 題材に対してどういう態度をとるのか(深くかかわるのか、距離をおくのか、皮肉っぽくあしらうのか)

これらを練っていくと、「この記事は、誰に向けて書くのか」も一緒に考えることになる。知らない人向けに解説するのか、既知なのに意外な事実を暴露するのか、あるある話として共感を集めるのかを考える。

すると、文の調子や用語選び、一文とパラグラフの長さ、最終的には構成のアウトラインまで決まってくる。その題材を知らない人向けに紹介するのなら、なるべく興味を惹きそうなトピックを冒頭に持ってきたり、専門用語の後に例え話を添えるなど、文章そのものが変わってくる。

ほとんどの形容詞と副詞は不要

これマジ。わたしは開高健から「文は形容詞から腐る」と教わったが、本書でも釘を刺してくる。

文をリッチにするため、形容詞を加えたくなる気持ちはわかる。だが、やるほど逆効果になる。

例えば、「茶色い土」や「黄色いスイセン」など、よく知られた目的語の色をわざわざ書く必要は無い。文章が無駄に長くなるだけだから。

形容詞を使うことは、その目的語に書き手の価値判断を加えることだ。だから、書き手の価値判断が、読み手と似たようなものになるのなら、その形容詞は冗長になるだけだ。削れ。

その上で、名詞単独だと、自分の価値判断が伝わらないのであれば使えばいい。どうしてもスイセンを価値判断したいなら、「けばけばしい」のような形容詞を選ぶべきだ。

同じことは副詞にも言える。

動詞と似た意味の副詞を加えると、文章は乱雑になり、読者をうんざりさせる。「ラジオが喧しくがなり立てる」がダメなのは、「がなり立てる」の中に「喧しさ」が含まれているから。「歯をきつく噛みしめる」がダメなのは、「噛みしめる」中に、「きつく」が入っているから。

さらに、限定子も消せという。「いささか」「少しの」「一種の」「ある意味では」といった言葉だ(※)。書き手が見たこと、感じる、考えていることに条件を付けるこうした言葉は、文体を薄め、説得力を弱めてしまうという。

かっこ( )に括れ

では、どうすればよいか?

無駄なセンテンスを削って、読みやすい文章にするには、具体的にどうすれば良いか。本書には、沢山の方法が紹介されているが、わたしにとって白眉だったのは、かっこ( )に括る方法だ。

完全に削除するのは精神的にダメージがくる。だからいったん、役に立っていない構成要素を全て、かっこ( )に括る。

分かり切った形容詞「(高い)摩天楼」や、動詞と同じ意味を持つ副詞「(楽しそうに)微笑む」、文を薄める修飾語「(いささか)分かりにくい」、無意味なフレーズ「ある意味」を丸ごとかっこ( )に入れてしまう。

さらに、一文全体を括ることもあるという。前文のくり返しだったり、読者が知る必要のないことが書かれていると、丸ごとかっこに入れられる。

推敲前の第一稿は、だいたいの場合、半分に削っても情報や著者の声が失われることはない

本当か!? と思うかもしれない。でも本当だ。なぜそう断言できるかというと、わたし自身がそうしてきたから。

自分の文章が良くないことに気づく人はほとんどいない。過剰さや曖昧さがどれだけ自分の文体に忍び込み、どれだけ自分の伝えたいことを邪魔しているかを誰も教えてくれないからだ。

かっこに括るのは、なくても意味は通じることを、自分自身の目で確認するため。自分の文章を組み立てなおす前に、徹底的にそぎ落とし、縮めることをお薦めする。

また、お手本となるノンフィクションが大量に紹介されており、わたしの既読 or 積本リストに照らし合わせても、鉄板でお薦めしたい(以下ほんの一部をご紹介)。

  • ステ ィーヴン・ジェイ・グールド『パンダの親指』
  • オリヴァー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』
  • フランク・マコート『アンジェラの灰』
  • ウラジーミル・ナボコフ『ナボコフ自伝 記憶よ、語れ』

他にも、「ユーモアをいつ、どのように使うか」「上手な終わらせ方」「受動態の使いどころ」など、記事を書く上で役立つ手法が並んでいる。

わたしがよく使っている「面白いことに~」という前フリはダメだという。面白いことがあるなら、もったいぶらずに、さっさと書け、というわけ。

サマセット・モームは、「書くことには3つのルールがあるが、それが何なのか、誰も知らない」と言った。3つに限るなら、冒頭の①②③だ。増やしてもいいなら、本書をお薦めする。


※文中では、以下の英単語が並んでいる
a bit, a little, sort of, kind of, rather, quite, very, too, pretty much, in a sense

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科学は人間にとっての約束事にすぎない『科学と仮説』

10進数が一般的なのは、手の指が10本だからだ。

指の数が8本なら8進数だったろうし、四足歩行のままなら20進数かもしれない。〇進数の〇の中にどの数字が入ったとしても、表記が違うだけで、数は同じだ。単に10が人にとって自然に見えるだけである。10進数なら真で、8進数なら偽なんてことはない。

ポアンカレは、ユークリッド幾何学で同じことを考える。

三次元に座標がマッピングされた空間で、個体として運動する生命にとって、最も使い勝手の良い幾何学が、ユークリッド幾何学の空間になる。非ユークリッド幾何学が今の人間に支配的ではないのは、単純に、ユークリッド幾何学のほうが便利だからにすぎない。

ユークリッド幾何学と、非ユークリッド幾何学の、どちらが真かを考えるのは、メートル法とヤードポンド法のどちらが正しいかを議論するようなもので、ナンセンスだという。

人間が空間を認識する上で、三次元で、一様かつ連続的であるといった性質を前提としている。その性質を本質として備えているのがユークリッド幾何学のため、人間に採用されている規約にすぎないのだ。

ただし、人間が意図的に採用したというのであれば、適切ではないだろう。人間が数学を始めるとき、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の2つがあって、どちらにするかを選べたわけではないのだから。

ヒトが存在する環境だとか、ヒトの身体や認知のデザインによって、ほとんど必然的にユークリッド幾何学になったというのが実際のところだろう。

偽装された定義

この「人間にとっての規約」を出発点として、幾何学から力学、電磁気学にまで及ぶ幅広い分野に共通する客観性を掘り下げたのが、『科学と仮説』だ。人間がする営みであるにもかかわらず、人間が抱く主観を取り去った「客観」なるものの存在が疑わしくなる。

科学理論とは、人間というフィルターで濾された観察の蓄積から、人間が把握しやすい約束事の移り変わりに見えてくる。科学とは、自然の真理なんてものではなく、観察結果を上手に説明できたり、再現させるのに使いやすい約束事に過ぎないのだ。

ポアンカレはこれを、偽装された定義と呼ぶ。

例えば、ニュートンの運動法則がある。世界を統べる原理のように扱われてきたが、これは物理現象を統一的に説明するための約束事にほかならないという。

あるいは、「エーテル」という媒体は、光の性質を説明するために導入された後、捨てられた。宇宙の質量を説明するために導入された「ダークマター」は、それが本当にあるかどうかはどうでもよく、人が理解できる範囲の理屈に合わせるための約束事なのだ。

「力とは何か」を形而上学で語ろうとすると議論は終わらない。だからいったん、質量と加速度の積だと定義して、そのフィルターで世界を観察しなおすのだ。そこで再現性のあるもの、定義の組み合わせで矛盾なく説明できそうなものを選び取って体系化したものが、その時代の科学になる。科学がトートロジカルに見えるのは、こうしたわけなのだ。

しかし、時代と共に技術が洗練され、より細かく、より遠く、より精密に観察できるようになるほど、定義の組み合わせでは説明するのが困難になる。

なぜ科学は複雑化するのか

あたりまえだ。人間が理解できる範囲に留めるべく、単純な定義とシンプルな組み合わせで始まった理屈のため、より精密な観察結果を説明しようとすると、辻褄が合わなくなる。

だから、パラメーターを追加したり、定数を加えることをくり返し、なんとか理論を存続させようとする。結果、オッカムの剃刀はどこへやら、複雑怪奇な体系ができあがる。

この体系を存続させるため、体系に合わないデータは捨てられることになる。

例えば、CERNの大型ハドロン衝突型加速器(LHC)が象徴的だ。

ホッセンフェルダー著『数学に魅せられて、科学を見失う』によると、この実験では莫大なデータが捨てられているという。

高エネルギー下での粒子を観測する実験では、毎秒10億回もの陽子-陽子衝突が起こる。CERNのスパコンでも、全ての衝突データは保存できない。衝突が起きている間、リアルタイムで選別され、アルゴリズムが「興味深い」と判断したものが保存される。その数はせいぜい100~200程度だという。

著者はこれを、悪夢のシナリオと呼ぶが、仕方がないだろう。別に科学者の怠慢なのではなく、今の技術ではこれが限界であり、人間が説明できる範囲での理屈に合わせるためには、こうした取捨選択が必須となる。結果、現在の理論に基づいて説明できそうなデータを集めたものが「エビデンス」となる。

理論を逆算する

技術とともに複雑化する科学を、逆手に取ることもできる。

この100年で、どれほど遠くまで観測することができ、どれほど小さいものまで観察することができるようになったかを考えてみよう。言い換えるなら、宇宙の果てから素粒子の奥まで、どれくらいのスピードで把握できるようになったか。

『ズームイン・ユニバース』が参考になる。極大だと10^27まで、極小だと10^-35になる。これは、観測可能な宇宙の果てから、「場」に満ちた世界までになる。

一人の科学者のキャリアを四半世紀とすると、25年後に観測・説明可能な極大・極小の範囲は、これまでの技術のスピードから推計できる。そして、その世界で立証できる範囲で理屈を組み立てるのだ。

このとき、ポアンカレの偽装された定義を思い出そう。あくまで、25年後の人間に理解できる範囲での約束事にするのだ。科学者としてのキャリアの間に立証できない絵空事は描けない。一方、複雑怪奇な理屈の正当性を擁護すべく弥縫策に奔走するのも馬鹿馬鹿しいだろう。

科学を、客観的な事実の集積としてではなく、人間が取り決めた規約の集積とみなす。そうすることによって、「科学」の見通しはうんと良くなるだろう。

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ヨーロッパ偏重のローマ帝国から離れる『岩波講座 世界歴史 03』

皇帝ネロの時代、ローマは火の海となった。炎は6日と7晩かけて、首都の大半を焼き尽くした。

「都を新しくしたいネロの陰謀」という風評をもみ消そうとして、ネロ帝はキリスト教徒を放火犯に仕立て上げ、火刑に処したという。

しかし、本書よると、これはキリスト教徒のプロパガンダらしい。

ネロの時代において、ユダヤ教とキリスト教は、はっきりと分化しておらず、「キリスト教徒」という集団では認知されていなかった。あくまでユダヤ教内での対立として、暴動を引き起こしていたという。

暴動の首謀者としてクレストゥス(Chrestus)とユダヤ人たちが追放されたという記録があるが、写本を引き継ぐ中で、イエス・キリスト(Christus)に書き換えられたのではないか、という説だ。つまり、刑に処せられたのはユダヤ人集団であり、キリスト教徒だけを狙い撃ちしたわけではないというのだ(※)。

一方、キリスト教徒に対する「迫害」が量産されるのは、4世紀以降になる。

それまでに記されなかった過去を振り返って「当時のキリスト教徒は迫害された」という文書が大量に残されるようになる。

なぜか? 教会指導者たちは、迫害を耐え抜いた、殉教の後継者としてのアイデンティティを確立するために、こうした「伝説」を創りあげたというのだ。

頭をガツンとされたような衝撃を受けた。

ローマ大火やキリスト教徒の迫害については、塩野七生『ローマ人の物語』や徹夜小説『クオ・ワディス』で、歴史的事実だと思っていた。

だが、歴史的事実とは、各時代の書き手が取捨選択したものの集積であり、そのまま受け取る前に、それぞれの書き手のバイアスを意識して読み解く必要が出てくる。4世紀から見るローマと、21世紀から振り返るローマは、別物だと思ったほうがいい。

例えば、近代におけるローマは、自由と文明の象徴として描かれていた。帝国を拡張することを「正義の戦い」と主張し、征服した「野蛮人」に「自由と文明」をもたらすのが、ローマになる。これは、植民地における「支配-被支配」の構造に落とし込み、帝国主義を正当化させるレトリックとしてのローマだろう。

あるいは、20世紀末になると、ヨーロッパ統合の進展を受けて、政治面においてローマ帝国が脚光を浴びることになる。統合された広大な領域と、ローマ全体で通用する共通通貨を踏まえて、「EUは古代ローマ帝国に匹敵」(プロディ欧州委員会委員長)とされる。

「ローマ帝国をどう見るか」というテーマは、そのまま「ローマをどう見たいか」につながり、それぞれの時代の写し鏡になる。

『世界歴史03 ローマ帝国と西アジア』は、前3~7世紀のローマ帝国がテーマとなる。特徴的なのは、昔ながらのヨーロッパ偏重から離れ、西アジアとのつながりが重視されている点にある。

ヨーロッパにとってのローマは精神的な故郷のようなものだろう。そのため、ローマ的なものを受け継ぐのは自分たちだという意識から、西側に重心がかかった「支配側からのローマ帝国」が描かれることになる。

しかし、実像としてのローマは、圧倒的多数かつ多様な「被支配者」や、その外側の西アジアの人々とのつながりの中で成り立っていた。こうした実態を踏まえ、本書では、女性やマイノリティからの視点や、ユーラシア規模での経済活動から、多角的にローマを活写する。

ヨーロッパ人が見たいローマではなく、逆側・裏側・外側からのローマが見えてくる一冊。お試しは、ここ[PDF]で読める。面白さは保証する。

 


The Historicity of the Neronian Persecution: A Response to Brent Shaw,Christopher P. Jones,Cambridge University Press,2016

https://www.cambridge.org/core/journals/new-testament-studies/article/historicity-of-the-neronian-persecution-a-response-to-brent-shaw/72A73656C0F1372963C197F8945D38D3

この論文の結論は、「『大火の責で、ネロがキリスト教徒を罰した』というタキトゥスの主張を反証できなかった」になる。この記事の主旨と合わないため、削除する。
(@JEREMIA10732539 さん、ありがとうございます)

 

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