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ダメージからの「回復」に焦点を当てた医療福祉の物語『ビター・エンドロール』

大きな病気をした人が、どうやって立ち直るか。そこに焦点を当てたドラマが『ビター・エンドロール』だ。

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病気のほうは医者に任せる。だが、ダメージを負うのは、身体だけではない。

後遺症で仕事を続けるのが困難になったり、家族や友人との人間関係が変わったり、さらには、生きていくために必要なもの―――お金―――の問題が浮き彫りになる。病気「以外」の問題を、どう扱えばいいのか。

そんなとき、医療ソーシャルワーカー(通称MSW)の出番になる。MSWは、医師や看護師と連携しながら、社会福祉の観点から患者を支援する。患者の社会復帰の支援や、医療費・などの経済的問題への助言、患者や家族の精神的な負担の軽減など、病気「以外」の様々な問題を扱う。

  • 脳梗塞で倒れ、一命を取り留めたものの、体が不自由になった28歳の男性
  • 家事と育児に疲れ果て、お酒がやめられなくなった一児の母
  • 多発性骨髄腫で入院しているが、無保険・無年金の68歳の男性
  • 頭脳明晰・容姿端麗で仕事も充実していたが、乳がんになった27歳の女性

脳梗塞、がん、アルコール依存など、他人事ではない。病気は平等で公平だ。リスクの軽重があるだけで、私がいつなってもおかしくない。

そうなったとき、どう病気と向き合えばよいのか。それだけでなく、家族や周囲の人への負担や申し訳なさを、どう扱えばいいのか。

もちろん、正解なんて無い

だが、『ビター・エンドロール』は、新人のMSWが、患者や家族と一緒に考え、答えを見出そうとする。自分の人生に起きるかもしれない出来事の予行演習になる。

これを強く薦めたい理由の一つとして、「家族」の存在がある。病気になるのは、私だけではない。私の家族が病気になる可能性は、私以上にある

そのとき、私は、どういう態度を取ればよいのか。

私が病気になったら、覚悟は決められる(決めようとしている)。でも、私が大切にしている人が病気になったら、私はどうすればよいのか、分からない(そして、もちろん正解なんて無い)。

MSWは、患者本人だけでなくその家族も含めて支援する。『ビター・エンドロール』では、家族も巻き込み、主人公は考える。

もう一つ、これが一番重要なのかもしれない。それは、私がいちばん撃たれた「元に戻らなくてもいい」という言葉である。

早く治りたい、回復したい……そう願うのは、間違いじゃない。病院とは、そういう場所だ。ダメージを負った身体を回復させ、一刻も早く社会復帰するためのところ。

でも、それだけだったら、「この辛い思い」を抱えていることが、まるで許されないかのように思えてくる。いまの、この辛い立場、傷ついている事実のほうが大切だ……この言葉は刺さった。

先のこととか、家族のこととか、自分のこの不自由な身体を受け入れられないこととか、前を向けなくて苦しいって思ってて、本当にいいのか……?

「それでもいいんだ」と受け容れられる。許してくれる、そんな言葉を、予め受け取っておけるのが、素晴らしい。

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私が大きな病気になって、身体が不自由になったり、回復が思わしくないとき、この本を思い出すことができるから。辛いとき、この作品で出会った言葉を、もう一度読めば良いから。

脳卒中のお話は無料で読める。いま、あなたが元気なら、ぜひ、今のうちに読んでほしい。病気やケガでダメージを負ったとき、この物語を思い出せるように。

無傷で人生を終えられる保証なんてない。病気のことはひとまず医者に任せるとしても、病気「以外」を予行するために『ビター・エンドロール』を薦める。

 

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歯を食いしばって読んだので血の味がする小説『アニマ』(この記事には残虐描写があります)

冒頭で、妻が殺されているのを見つける。くり返し刺され、血だまりの中で絶命している。

妻は暴行されていた。普通ではなく、腹部を裂いた傷口を性器代わりにしてレイプされていた。最後に刺したナイフは性器に深々と潜り込んでいた。その刃先は、二人の初めての胎児の頭に打ち込まれていた。

奇妙なのは、「妻を殺された夫」が主人公なのに、それを語るのが飼い猫であること。あくまでも猫の視点で、凄惨なシーンが描写される。夫が受けている衝撃は相当なものだろうが、いかんせん猫経由なので隔靴搔痒の思いだ。

警察が来て、夫は入院し、精神的ケアを受ける。警察は犯人捜査を始めるのだが、描写は、スズメの視点になる。夫と警察の一連のやり取りは、病院の窓に集まるスズメの物語として表現される。

猫、スズメ、犬、金魚、ウマ、キツネ、クモなど、様々な生き物たちの目を通して、「妻を殺された男が犯人を探す旅」が語られる。生き物たちには生き物たちの生活があり、事情があり、そこを通り過ぎていく男は、非日常として扱われる。

どうやら男は罪悪感を抱いており、もっと早く帰っていれば妻を救えていたはずだと後悔している。だから、自分が妻を殺したようなものだと思い込み、犯人が自分でないことを確かめるために、会おうとする。

読み手としては、男の悲しみに寄り添いたい思いや、犯人への憤り、警察は何をしているのかという歯がゆさを感じたい。だが、男の行動、会話の断片ともに、生き物たちを経由しているため、部分的にしか分からず、もどかしい。

モントリオールからカナワク、レバノンと、悲しみと痛みをひきずっていく男の足取りを追いかけていくうちに、全く違う、でも同じ話に円環していることに気づく。

たくさんの生き物たちの「語り」から離れ、この物語が真の姿を表わすとき、わたしは、ようやく血の味に気づく。ずっと長いあいだ、歯を食いしばって読んでいたのだ。

そして、「妻を殺された男の話」で終わっていたら、どんなによかったかと思う。生き物たちの、断片的で変遷する描写は、人の倫理を超えたものを語ろうとする意図だと思い知り、むしろ感謝したくなる。

なぜなら、これは直視できない地獄だから。

『アニマ』は、オデュッセイアのように帰還する物語でもあり、神曲のように地獄を巡る話でもある。だが、決して目的地へ辿り着くことはできない物語に化ける。このとき、本は爆発物になる。

物語によって傷つけられることは可能だ。これがその証拠になる。読みながら吐くような経験は、おそらく、ジョー・サッコ『パレスチナ』以来だろう。

本書は、ふくろうさんの[【2021年まとめ】海外文学の新刊を読みまくったので、一言感想を書いた]で気になって手にした。「2021年で、最もえぐられた小説」という評に激しく同意する。ありがとうございます、何物にも代えがたい経験でした。

 

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寝る前の眠れなくなるボルヘス『記憶の図書館』

「もし愛だと言われなければ、抜き身の剣と思ったことだろう」

ボルヘスが記憶の底から汲み出したセリフだ。キプリングの短篇に出てきたという。驚くべき言葉だ。この一行は、私に<届いた>。

ボルヘスは続ける。驚くべきは形式だと。

もし、「愛は剣のように容赦がない」と直喩で言ったなら、何も言ったことにならない。あるいは、愛を武器に喩えたとしても同様になる。もちろん、愛と抜き身の剣を取り違える人なんていない。

ただ、ありえない混同が、想像力にとってありえるものになり得る。しかも、文の構造のおかげで、混同が起こっている。なぜなら、「最初はそれを剣だと思ったが、やがて愛なのが分かった」と言っても馬鹿馬鹿しいものになる。

確かに、ボルヘスの指摘する通りだ。このセリフは、このシンタックスでないと成立しない。ちょっとでも言い換えたり、構造をいじっても、私には届かなくなる。「もし愛だと言われなければ、抜き身の剣と思ったことだろう」は、これで完璧になる。

ラジオ対談をまとめた『記憶の図書館』の一節なのだが、ボルヘスの記憶の深さ、魅力的な語り、無尽蔵の洞察に驚く。

ポー、ワイルド、カフカ、メルヴィル、ダンテなど、偏愛する作家への想いや、創作のインスピレーションの源泉、一つの挿話をどう育てるかといった指南など、汲めども尽きない118の対話を一冊に集成したものがこれだ。

枕元に置いて、夜、眠る前に二つ三つ読むのだが、ついつい耽ってしまう。気になる作品をネットで検索したり(深夜テンションで注文したり)、夜更かしの友やね。

blanc(仏)とblack(英)で意味が真逆な理由

ラジオ番組なので、話の転がっていく先が突拍子もなくて面白い。

たとえば、ポーの最高傑作として『アーサー・ゴードン・ピム』を挙げて、そこに登場する「白を怖がる人々」から、メルヴィルがこれを読んでいたはずだという。そして、『白鯨』のクジラがなぜ白色だったか、という話につながる。

さらに「白」という言葉そのものに注意を向ける。白は、ロマンス語圏でどう言われているかを次々と挙げる。

フランス語ではブラン(blanc)

ポルトガル語ではブランコ(branco)

イタリア語ではビアンコ(bianco)

スペイン語ではブランコ(blanco)

そして、英語でブラック(black)は「黒」であることを指摘する。白と黒が逆の意味になっている!?

ボルヘスは解説する。これらの語は、もともとは同じ意味―――色が無いこと―――を持つという。例えば、英語のブリーク(bleak)は、「色を失った」という意味になる(※)。

最初、ブラックは「黒」そのものではなく、色の無いことを意味していた。色が無いことが、影の方に転んで、ブラックが黒になったのが英語になる。一方で、光の方、澄明さに転んだのが、ロマンス諸語になるというのだ。

確かに、言われてみれば英語にもblank(空白)という語がある。「無い」ということの語源はここにありそうだ。

天の賄賂から解放される

もう一度、読み直そうと思ったのが、バーナード・ショー。

ボルヘスはショーを高く評価しており、さまざまな警句やエピソードを紹介してくれる。中でもピカイチだったのが、「わたしは天の賄賂から解放された」だ。

ここで言う賄賂とは、「善行には報いがある」という考えだ。あるいは、同じことになるが、「罪は罰せられる」という恐怖だという。信心を強化する上で、まさに天国は賄賂であり、地獄は脅迫になる。ボルヘスは、ショーの言葉を続ける(ボルヘスは盲目なので、諳んじていることになる、すげぇ!)。

「神の務めをそれ自体として果たそう。その遂行のために神はわれわれを創造された。なにしろ今生きている男女だけがそれを遂行できるのだから。わたしが死んだとき、借りがあるのは神であって、わたしではありませんように」

この発想が凄い。

これは、プラトンやカントが回避した問題への最適解になる。因果応報を神意と徳の問題にすり替えたプラトンや、幸せと徳が一致する条件として、理性を持ってきたカントには合意できない(なぜなら、2人は「運」の問題をスルーしているから)。

神は万能とされているらしい。だが、その神に向かって「借り」を作ることができるという発想が秀逸だ。人どころか、人が住まう世界そのものを創り出した神に向けて、何か贈り物ができる……そう考えるだけで、嬉しくなる。

寝る前の眠れなくなるボルヘス

以下、お気に入りのボルヘスの言葉を引用する。射程が広くて深すぎるので、どこが刺さるかは人によるが、少なくとも私にぶっ刺さったやつばかり。

おそらく未来は取り消しがきかないものです。しかし過去は違います。過去は思い出すたびに―――記憶の貧しさや豊かさのおかげで―――望みのままに、どこかしら修正されますから。

今は世界大戦と呼ばれる最初のヨーロッパの内戦

記憶は嘘をつくでしょうけれども、その嘘もすでに記憶の一部であって、わたしたちの一部なのです。

音楽と同じく詩は翻訳できない。

わたしたちがシェイクスピアを読むとき、一時的にであれ、わたしたちはシェイクスピアなのです。

多くの本は各々のページではなく、その本が残す記憶のために書かれます。

寝る前の、眠れなくなる一冊としてどうぞ。


※「blue」も同じ語源という説もあり

http://hidic.u-aizu.ac.jp/result.php?tableName=gokon&word=bhel-1




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知識は料理を美味しくする『おいしく食べる 食材の手帖』

ブロッコリーの塩ゆで、私がするのと、妻のとでは、味が違う。

妻がゆでると、コリッとした食感の中にピリッと辛みが交じり、何もかけなくても美味しい。一方、私のだと、ただの「茹でた野菜」になり、ドレッシングが必須だ。

同じ西友なのに、どうして違うのか?

『おいしく食べる 食材の手帖』に、その秘密があった。これだ。

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私は、沸騰させた熱湯に放り込んで、ぐらぐら煮たてながら茹でていた。一方、妻は、ふつふつ程度のお湯で、少し時間をかけていた。その違いだ。

ブロッコリーの「ブロッコリー感」は辛み成分にあるという(生で食べてみると分かる)。この持ち味を生かすには、熱湯ではなく、80℃で茹でると良いという。お湯の温度が80℃だと、野菜の芯温が40℃になる。この温度でブロッコリーは火が通り、かつ、辛みが働く。

「ゆでる=熱湯に放り込んで柔らかくする」だけの発想だったので、これは目鱗だった。単に「ゆでる」一つとっても、温度と時間を工夫するだけで、こんなに美味しくなるとは……知ると知らぬとで、かなり違ってくる。

こんな感じで、先人の知恵と科学の知識を合体させ、より美味しくする工夫を紹介する。なんでもかんでも「こうすべし」と押し付けるのではなく、原則と応用という形にしているのもいい。

  • ゆでたら水にとる/とらない野菜の基本ルールとケースバイケース
  • ホウレンソウは熱湯で、小松菜は80℃でゆでる理由
  • 白菜は焼け、もしくは干して水分を飛ばせ
  • 水からゆでる野菜と、湯でゆでる野菜の原則(土もの/葉もの)
  • 野菜の縦横の切り方で美味しさをデザインする
  • 肉調理のコツは保水性のある65~80℃
  • まぐろは万能、刺身だけではもったいない
  • えびは殻付き70℃で5~6分、殻と背わたは冷めてから

いわゆる「レシピ」は検索すればいい。だが、美味しくするためのベストプラクティスを集めたものは、なかなかお目にかかれない。

知ってるだけで美味くなるTipsばかり。凝った料理ではなく、一工夫で美味しくなる知識だ。料理上手とは、献立のレパートリーを増やす前に、食材の力を引き出せる人なんだね。

ちゃんとやろうと考えを改めたのが、肉料理だ。

肉の美味しさとは、ジューシーさ。そして、ジューシーさとは保水性。保水性を保ちつつ、かつ、火を通すには、65℃(肉が固まり始める)から80℃(肉から水分が脱け出る)が最適だという。

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80℃を保つため、フライパンなら冷たいうちに入れて火をつける。煮るなら、後入れ/途中取り出しする。ゆでるなら水からにする。揚げるなら余熱で火を通す。それぞれのコツには、ちゃんと理由があったのだ。

今までは、沸騰したお湯に放り込んでガンガン加熱していたが、これだと、表面が一気に過熱され、「よろいを着てしまう」状態になるという。なので、水から火にかけ、湯気が立つか立たないかぐらいの状態で、ゆっくりゆらゆらゆでるのが良いという。

今晩はゆで豚、やってみよう。

 

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