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「死にたくなったら読む本」は本当に辛いとき役に立つのか

読書は自殺の時間稼ぎになる。そう信じている人はいないだろうか。

自死を考えている人に本を渡し、「本を読んでいるあいだは、死のことを考えずにすむ」というコメントを目にしたことがある。

あるいは、「死にたくなったら読む本」と紹介される本がある。NHK「理想本箱」では、「大丈夫だ」と励ましたり、「自分の価値は自分で作ることができる」と支えてくれる本が紹介されている。

だが、本当に辛いときは、本を読んでられない。その苦しみや悲しさを、やり過ごすのに精いっぱいで、目は頁を滑り、文字を追うことすらままならない(経験あるだろう?)。

ただし、「この本がある」と思うことで支えになる、そんなお守りのような本は、確かにある。辛いとき、読まなくてもいい。触っているだけでも、その場所に目をやるだけでもいい。

例えば、クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか』という本を推す。

心に痛みを抱きながら、日々をなんとかしのいでいる人がいる。事故や病気、子どもや配偶者の死など、わが身に降りかかった突然の災厄に、文字通り「なぜ私がこんな酷い目に遭うのか?」と悲嘆に暮れる人がいる。

そんな人が望んでいることは、ただ傍にいて、嘆きを聞いてくれることだという。理不尽な不幸は、神の試練でもなく、神が引き起こしたことですらないという。神は災厄の側ではなく、犠牲者と共にいると説く。

人に運命を選ばせるという自由を与えた以上、人がどんな選択をするのかを、神はコントロールすることができない。たとえ、それが隣人や自分自身を傷つけるとしても。

だから、どんなに悲惨なときでも、怒りに我を忘れて「神よ、なぜわたしだけが苦しむのですか?」と問うのではなく、「神よ、この困難に立ち向かう勇気を、わたしにください」と祈れというのだ。

辛いとき、非道な目にあったとき、この本を読んだという記憶があれば、わずかでも和らぐことがあるかもしれない。そのときに、読まなくてもいい、「本棚のあそこにある」と思うだけでいいのだ。

あるいは、頭木弘樹『絶望読書』を知っておいてほしい。

辛いときが数日、数週間から数年になるとき、どうすれば良いか。大病を患った経験のある著者が、お薦めと、お薦めでないものを紹介する。

入院中に渡された、いわゆる「元気の出る本」はダメだという。ポジティブシンキングとか、引き寄せとか、「信じれば願いはかなう」系は、どんどん気分が沈んでいったという。

ほんとうに辛いときに必要なものは、激励や克服などではなく、ただ傍によりそってくれることだという。そして、ドストエフスキーから桂米朝まで、本に限らず「よりそってくれる」作品を選んでいる。

絶望の底では、本は読めない。それでも、「あそこにあの本がある」と心のどこかに引っ掛けておくことで、お守りにはなる。

数少ないそんな本を知っていることは、生きていく保険になる。

だいじょうぶ、本は待っていてくれる。

 

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12/25(土)youtubeで歴史本を紹介します

Dain_rekishi

テーマは「歴史」で、お薦めの本を紹介します。

シナリオライター・書評家のスケザネさんとお話しながら、youtubeの「スケザネ図書館」に出ます。

最近読んだスゴ本、鉄板のやつ、超期待しているシリーズなどを紹介するつもり。「お互いに3冊ぐらいを紹介しよう」と事前にお話しているんだけど、無理かも。とても絞れないので、なし崩し・ダダ洩れの形になりそう……

日時

  12/25(土)13:00~14:30ぐらい

場所・参加方法

  スケザネ図書館 から配信します(事前の申し込み・登録は不要です)

twitter

  スケザネさんわたし(Dain)からは、#スケザネ図書館 で連絡します。

生放送配信なので、「それがお薦めだったら、コレなんてどう?」なんてお薦めされると、主に私が喜びます。コメント欄から参加くださいませ。

お楽しみに~

 

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いかに良く生きるかは猫が知っている『猫に学ぶ』

  • 生きる意味とは何か
  • いまの自分に満足できない
  • 人生の価値が分からない
  • 自分は何者かになれるのか、あるいは、何者にもなれないのか

これらを考えている人に、「猫を見ろ」とそそのかす。人は猫にはなれないし、猫のように生きることもできない。

なぜこんな悩みを抱えているのかまで掘り下げると、超リアリスティックな解に行き着く。いかに良く生きるかは、猫に学べと。人は、猫のように生きることはできない。だが、猫が生きるように生きることはできるという。

人生に意味を求める理由

そもそも人は、なぜ生きる意味を求めるのか? 自分自身の生活を超えたところに「価値」だの「生きがい」を探すことをやめられないのはなぜか?

この疑問に、古今東西の哲学者や文学者を召喚する。プラトン、ピュロン、エピクロス、マルクス・アウレリウス、パスカル、スピノザ、モンテーニュ、ウィトゲンシュタイン、コレット、谷崎潤一郎、ゲイツキル……引き出しの数がハンパない。著者はオックスフォード、ハーバード、イェールで教鞭をとった政治哲学者で、博覧強記が服着ているようなもの。

様々なエピソードや引用を紹介しながら、人生に意味を求めるのは、死の意識が裏側にあると結論づける。人生が終わることを恐れるあまり、人は、哲学や宗教を発明したという。そこで説かれる「人生の意味」*は、自分が死んだ後も続いていくからだ。主義や宗派が説く物語に対し、ひとまず自分の人生を任せることで、安心を得ることができる。

その結果、自分が作り上げた人生の物語に支配されることになる。その物語の登場人物になろうと努力するあまり、人生は自分のものではなくしてしまうというのだ。

そして、大切な人を喪うとか、生活が危険にさらされるといった出来事が起きるたびに、物語は壊れる。自分の人生を悲劇に仕立てることも可能だが、最も恐ろしいのは、「そんな物語なんて、最初からなかった」ことに気づくことだろう(そうならないために、ますます強く、物語にしがみつくことになる)。

猫から学ぶ良い人生

著者は説く、猫を見ろと。

猫は哲学を必要としない。自分の本性に従い、自分の人生(猫生?)を肯定して生きている。

人間という動物は、自分ではない何かになろうとすることをやめようとせず、そのせいで、当然ながら悲喜劇的な結末を招く。猫はそんな努力はしない。人間生活の大半は幸福の追求だが、猫の世界では、幸福とは、彼らの幸福を現実に脅かすものが取り除かれたときに、自動的に戻る状態のことだ。

猫がやっていることは、良い人生を「選ぶ」のではなく、「発見」することだという。自分が望む人生を追い求めるのではなく、そこで自分が満たされる生き方を見出すことだというのだ。

猫は、「いまを生きる(carpe diem / seize the day)」を実践している。あるいは、「人生がレモンをくれるなら、レモネードを作りなさい」なのかも。レモンという不遇に「意味」なんて探すことが、苦悩の始まりかもしれぬ。

いかに良く生きるかについて、ヒントが10、まとめられている。哲学や宗教からではなく、著者が、猫から学んだヒントになる。

  1. 人生は物語ではない
  2. 理性的になれと説教しない
  3. 時間が足りないと嘆くのは馬鹿げている
  4. 苦しみに意味を見出すのはやめよ
  5. 他人を愛さなくてはならないと感じるよりも、無関心でいるほうがいい
  6. 幸福を追求することを忘れれば、幸福が見つかるかもしれない
  7. 闇を恐れるな。大事なものの多くは夜に見つかる
  8. 眠る喜びのために眠れ
  9. 幸福にしてあげると言ってくる人には気をつけろ
  10. 猫のように生きる術を学べなかったら、気晴らしという人間的な世界に戻れ

ヒント1は、この記事で紹介した。他は6章「猫と人生の意味」をあたってほしい。もっとも、猫と暮らしている人には自明すぎることなので、本書は必要ないかもしれぬ。

表紙は可愛いが、かなり深いところまで連れ込まれる哲学エッセイ。

 


* もちろん「人生に意味などない」という宗教もあるが、「『人生に意味は無い』という意味」は引き継がれている。

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神が創ったにしては杜撰すぎ、偶然にしては精緻すぎ『進化の技法』

生物は、神が創ったにしては杜撰すぎるし、偶然の進化にしては精緻にできすぎている。

進化と発生のメカニズムを解きほぐした本書を読むと、そう感じる。

本書によると、生物の進化は、転用と闘争の歴史らしい。それは、文字通りの食うか食われるかだけでなく、取り込むか取り込まれるかの歴史になる。

ヒトについて言えば、全体を構成するゲノムのうち、私たち自身の遺伝子が占める割合は、たったの2%に過ぎない。では残りの98%は何か? 太古のウイルスや、跳躍する遺伝子が暴走した配列になるという。

この太古のウィルスや跳躍遺伝子は、もとは「私」では無かったものになる。いや違うか、言い方がよろしくない。今は「私」とは不可分の要素だが、生命史を遡ると、「私」の外からやってきたものになる。

生命のM&A

例えばミトコンドリア。

生命は電動であり、そのエネルギーはミトコンドリアで生成されていることは、ニック・レーン『生命、エネルギー、進化』で学んだ。

そして、ミトコンドリアは「私」の細胞核のDNAとは似ておらず、むしろ、細菌の一種であるシアノバクテリアの近縁となる。つまり、「私」の中にいる別の存在なのだ。

生命現象として見た場合、シアノバクテリアを取り込み、エネルギー供給役として融合させることで、「私」は生きている。もとは別個の生物だったものが一つになり、より複雑な新しい生命になったという(細胞内共生説)。複数の企業が合併・併合する、いわば生命のM&Aといえるだろう。

本書では、細胞内共生説を提唱したリン・マーギュリスが紹介されている。残念なことに、マーギュリスの主張は1970年代の生物学会では受け入れられず、嘲笑されるか無視されたという(『土と内臓』を読むと、生物学の泰斗スティーヴン・ジェイ・グールドは、一顧だにしなかったことが分かる)。

やがてテクノロジーが追いつき、DNA配列決定法により、マーギュリスの正しさが立証される。本書では、技術が学術を塗り替える様が、ドラマティックに描かれている。

ウイルスが私たちを作った

あるいは、シンシチン。

哺乳類に共通して存在するタンパク質の一種で、胎盤形成に大きな役割を果たしているという。子宮に胚を付着させ、栄養を供給するためには、シンシチンが不可欠なのだ。

興味深いのは、シンシチンの遺伝子配列がウイルスそっくりであるところ。だが、シンシチンはウイルスのように感染しない。そこから、次の説が導かれている。

すなわち、シンシチンとは、感染能力を奪われたウイルスになる。

つまりこうだ。太古の時代、とあるウイルスが、私たちの祖先の体内に侵入した。ゲノムを乗っ取って、自分のコピーを作らせようとしたのだ。ところが返り討ちに遭い、感染能力を奪われた、こき使われるようになった……その成れ果てが、シンシチンになる。

それだけではない。もっと「使える」ウイルスであれば、積極的に利用しようとするというのだ。本書ではフランスの研究が紹介されているが、東京大学の研究成果によると、同じ機能を別のウイルスにバトンタッチする、「Baton pass仮説」が提唱されている。

DNAというレシピ

この発想は面白い。

わたしの常識では、遺伝子とは「親から子へ」受け継がれていくイメージがある。だが、使えるものなら同世代でもコピーしていこうというのだ。『見えない巨人 微生物』で、同様のアイデアに触れた。遺伝子の水平伝達と呼ばれる事象で、抗生物質に耐性を持つDNA分子が、同世代間で伝播していくことに似ている。

このアイデアは、料理のレシピにも似ている。

親から子へ受け継がれていくのは、あくまでも「作り方」の情報であって、素材はその時にあるものであり合わせる。最初のタンパク質は親からもらうが、後は自前で調達する。

同世代からもっと良いものを教わったら、それを転用したり、手に入りにくいなら別のもので代用する。「もとはウイルスだったけれど、シンシチンとして働いてもらう」もありだ。

何を変えていくか、あるいは変えないかは、資源や栄養など物理的・環境的な制約によって左右される。つまり進化の方向はランダムではなく、特定の目が出やすいサイコロになっているというのだ。

各世代の生物は器官や体づくりにまつわる(遺伝子や細胞、胚に書き込まれた)レシピを受け継いでいる。こうした遺伝情報は未来を物語っていて、ある進化の道筋を別の道筋よりも選ばれやすくしている。すべての生物の体と遺伝子の内部では、過去、現在、未来が渾然一体となっているのだ。

進化とは、転用と闘争の40億年の歴史だ。私たちは、私たち自身の中に過去を見、未来をも見ることができるのだ。

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この本がスゴい!2021

「後で読む」は、あとで読まない。
「後で読む」は、あとで読まない。

「試験が終わったら」「今度の連休に」「年末年始は」と言い訳して、結局読まなかった。「定年になったら読書三昧」も嘘になるだろう。そもそも、コロナ禍で増えた一人の時間、読書に充てたか?(反語)

だから「いま」読む。

たとえ一頁でも一行でも、目の前の一冊に向き合う。いま元気でも、一週間後には、読めなくなるかもしれないから。

今年は、死を意識した一年でもあった。「やりたいこと」を先延ばしにしてるうちに、感染して望みが断たれる可能性が爆上がりした。

時の経つのは早い。人生が長いほど、一年は短くなる。体感時間は加速する一方、人生の可処分時間は、短くなる。

だから「いま」読む。

積読を自嘲したりマウント取るのもヤメだ。いま読まない理由を並べ立てて開き直る不毛も捨てよう。そして、ずっと取っておいた、とっておきの本を、いま読む。

そんなつもりで、今年読んできた中からスゴ本を選んだ。

どれも、わたし一人のアンテナでは出会えなかった作品ばかりだ。お薦めいただいた方、つぶやきで繋がれた方、ありがとうございます。

本は縁だ。このリストが、あなたの選書の手助けとなれば嬉しい。そして、あなたにとってのお薦めを伝えてくれると、もっと嬉しい。

 

ニヤニヤが止まらない甘酸っぱい恋
『14歳の恋』

甘酸っぱさに転がりまくる、悶死必至の初恋物語。

最初の一話で、心を持っていかれた([ここ]でお試しが読める)。そしてニヤニヤが止まらない。読んでるときもそうだし、思い出してもニヤついてしまう。思い出し笑いならぬ、思い出しニヤニヤしてしまう。

中学2年、思春期真っ盛りの14歳。

「14歳」はまだ子どもだけど、クラスの中では大人っぽいとされるこの二人、実は小学校からの友だちなのだ。周囲の「大人っぽい」というレッテルを守りながら、互いを意識しだすようになり、秘密の恋を始める……

……もうね、ずっとニヤニヤなんですよ。世間の泥に塗れ、自意識の膿に溺れたオッサンには、二人の初々しさとピュアピュアさが眩しすぎて苦しすぎる。

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『14歳の恋』第1話より

手が触れ合ったりとか、互いの体温を意識したりとか、アイコンタクトとか、うなじの色っぽさにふらっときたりとか、顔まっかっかになったりとかに、読んでるこっちもドギマギしてくる。

なので続けて何話も読めない。心が保たない。一話一話、読み終えるごとにドキドキが収まるまで休憩して、次の話にハートが耐えられるか自問しつつ進めていく。

この眩苦しさ、あれだ、「月がきれい」と同じだ。中学3年生で初めて同じクラスになり出会った二人が、ゆっくり恋を育てていくお話。

現実では、恋が終わってしまう分岐が沢山ある(というか、その方が多い)。クラスの皆にからかわれるエンド。すれ違いエンド。性欲に負けるエンド。そして、進路先の違いエンド……そんなバッドエンドをかわしながら乗り越えながら、二人の時間を重ねていく。その関係性を大事にしてくれーと切に願う。

結論。『14歳の恋』が好きな人には「月がきれい」をお薦めするし、「月がきれい」が好きな人には『14歳の恋』をお薦めする。どちらも知らない人がいたら、おめでとう! 羨ましいぞ。切なくて甘酸っぱくて、幸せな気分でのたうち回るがいい。

 

最近の古代遺跡は人工衛星から探す
『宇宙考古学の冒険』

イタリアやフランスで、畑に模様を見かけたら、そこに遺跡がある可能性が高い。

Utyuukoukogaku01Wikipedia ”Cropmark” より

かつて、そこには石壁や住居の基礎があった。そうした構造物は、長い時間をかけてゆっくり土に埋もれてゆく。

地表に牧草などが根付いた場合、その根は深く伸びることができない。そのため、牧草の生育が悪くなり、上空から見ると、奇妙な模様が浮かび上がる(考古学で、クロップマークと呼ぶ)。

Diagramm bewuchs.jpgWikipedia ”Cropmark” より

クロップマークは、航空写真で確認できるが、もっと微妙な、植生の健康状態の違いは、近赤外線データから読み取ることになる。人の目には同じに見えるが、近赤外線画像だと、クロロフィル(葉緑素)の違いは、赤色の違いによって判別できるからだ。

この発想を広げて、人工衛星から撮影した画像データを元に、地下に眠る遺跡を探すのが、宇宙考古学になる。

単なる解像度の高い写真ではない。地上 640km から撮影された電磁気スペクトルデータを解析し、肉眼では見えない地下の遺構を浮かび上がらせる。

あるいは、離れたところから、掘る前に、光学技術によって対象を把握する。

LIDAR(LIght Detection And Ranging)と呼ばれるリモートセンシングによって、莫大な数の遺跡が続々と見つかっている。人工衛星やドローン、航空機に搭載することで、何十年もかけてきた広大な面積のマッピング調査が、ほんの数週間で終わる。これにより、莫大な費用と時間をセーブして、ピンポイントで調べることができる。

『宇宙考古学の冒険』の著者サラ・パーカックは、人工衛星から遺跡を探し出すニュータイプの考古学者だ。宇宙から探すことで、これまでに、古代都市3,000ヶ所、古墳1,000ヶ所、ピラミッド17ヶ所の痕跡を見つけ出している。これは、一人の考古学者のキャリアで発見できる数ではない。

さらに、映画『レイダース・失われたアーク』に出てくる幻の古代都市タニスを特定している。タニスの路地や居住区の大部分は発掘されておらず、地上から見ることはできない。だが彼女は、人工衛星からの視点で、大規模な地下構造を明らかにする。

本書では、未来の考古学も描かれている。リモートセンシングや超音波を用いて、地下の構造物を三次元化する。必要な場所を絞り込み、小さな穴を穿ち、文字通りピンポイントで探索する。喩えるならば、腹腔鏡下手術のようなものかもしれない。

書評全文:人工衛星から遺跡を探す『宇宙考古学の冒険』

 

『君の名は。』とグレッグ・イーガンの関係
「貸金庫」(『祈りの海』所収)

きっかけは、グレッグ・イーガンのこのツイート。

イーガン:『君の名は。』を観ました(私の短編『貸金庫』にインスパイアされたらしいけど、プロットは全く違う)。ちょっと甘ったるい所もあるけれど、全体的に素晴らしく、美しいビジュアルでした。

おお! ハードSFの巨匠が、『君の名は。』を観たのか! 一挙に湧いた親近感と、”あの”イーガンがtwitterで呟いている気安さも相まって、おもわずこんな呟きをした。

Dain(筆者):グレッグ・イーガンの『貸金庫』、読んでないのですが、肉体を持たず、一日ごとに宿主(人間)が変わる意識が主人公の物語みたい。おそらく、イーガン先生、『とりかえばや』『転校生』『おれがあいつであいつがおれで』みたいな、男と女が入れ替わる物語を知らないのでは?

すると、こんなコメントをいただいた。

Hashimoto:こんにちは。『君の名は』を監督した新海誠さん自身がインタビューで「貸金庫」からの影響に言及しているんです。

紹介いただいたリンク先に行くと、新海誠のインタビューがある。お薦めのSFとして、「貸金庫」を挙げている。

「あり得たかもしれない自分」とか「こうではなかったかもしれない自分」、あるいは「災害などがなかったかもしれない日本」という言い方もできますけど、そういう並行世界的な想像力に貫かれた作品を初期の頃は書いていて、中でも短編集『祈りの海』に収録されている「貸金庫」という物語は、毎日、違う人になる話なので、少し影響があるかと思います。([FILMERS.2016.8.22]より)

さらに、イーガンのツイートに対し、『君の名は。』の初期プロットを紹介している。

新海誠:とても光栄です。あなたの『貸金庫』は、初期のプロットを作るうえで、インスピレーションを得た作品の一つです。目覚めるたびに違う身体になっているヒロインの物語です。

どうしても気になるのが「貸金庫」だ。

『君の名は。』と比べて、どこが似ており、どう違うのか? アイデアの源泉を探るべく、読んで分かった。「貸金庫」はロマンチックなものではなく、「自分とは何か?」という根源的な問いに向き合う、切なすぎる物語だと分かった。

30ページの、短い、ほんとうに短い短編だ。

奇妙な人生をモノローグで振り返り、最後に、ある決意をする男の話だ。男は、目覚める度に別の身体になっており、その身体の「ふり」をすることが「わたし」の日常になる。

睡眠がトリガーとなることは『君の名は。』と同じ。だが、三葉と瀧のように特定の人と入れ替わるのではなく、同年代の人に毎日乗り移る感じ。また、岐阜と東京という距離はなく、同じ街の人の身体になる。

身体の本来の持ち主を、「わたし」は宿主と呼び、宿主の特徴や住んでいる場所を、ノートに記録しはじめる。このノートを隠しておく場所が、「貸金庫」なのだ。

なぜ、こんなことが起きているのか、「わたし」とは一体誰なのか、全ての謎が明らかになとき、やるせない思いに苦しくなる。そして、それでも、「わたし」が踏み出そうとしている、明日という日に、胸を撃たれる。

「わたし」とは何か、記憶とは何か、自分という存在を定義するものは何か? ややもすると、哲学的思弁に陥りがちなこうした問いに対し、ひとつの男の決断という形で、応答している。

そして、「貸金庫」でイーガンが示した、「わたしとは何か?」への応答が、『君の名は。』になっていることに気づいて、再び胸が震える。この震えは、T. Hashimotoさんのおかげ、ありがとうございます。

書評全文:『君の名は。』の初期プロットと、グレッグ・イーガン『貸金庫』の関係

 

人はなぜ遊ぶのか
ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』

人は遊ぶ存在だ。

じゃんけんからサッカー、コスプレからワルツまで、古今東西、老いも若きも、人は様々な遊びを楽しんできた。「遊ぶこと」それ自体を目的とする行為を、なぜ人はするのか。

この疑問に対し、ロジェ・カイヨワが、神話や文化人類学、歴史学や社会学から解きあかしたのが『遊びと人間』だ。

「遊び」といってもその範囲は膨大だ。一人でするもの、複数でするもの、人数が決まっているものや、道具の有無、時間や場所が指定されているもの、厳密にルール化されているものから、自由度の高いものまで、つかみどころがない。

これを捌いていく手際が鮮やかだ。

まず、遊びを定義することで、外堀を埋める。つまり遊びとはこういうものなのだ。

  1. 強制されず、自由な活動
  2. 生活から隔絶され、予め決められた時空間に制限される
  3. 展開が決まっておらず、創意の工夫が残されている
  4. 富を生み出さない、非生産的な活動
  5. ルールがあり、そのルールだけがその場で通用する
  6. 非現実であり、虚構の活動である意識がある
  7. 次に、個々の遊びに共通する性質を示し、類型化する。さらに、この「共通する性質」こそが人を遊びに駆り立てる動機となり、遊びを通じて文化が生まれてきたのだと主張する。

この分析の中で、「人はなぜ遊ぶのか」に答えようとする。

遊びの原理は強力な本能(競争、幸運の追求、模倣、眩暈)に応じたものであり、遊びは本能を訓練し、それを強制的に制度化するという。同時に、本能は、遊びの教育のおかげで、文化の諸様式を豊富にするのだというのだ。

「遊びは本能」と言い切ってしまうと、なんだ、「本能」というそれ以上説明できない言葉に逃げているではないか、というツッコミが入ってしまう(今だと生得的モジュールとか適応と言われていそう)。

オオカミの仔がじゃれ合う「遊び」は、成長した後に必須となる狩りの予行演習である。誰に教わったわけでもないのだから、それは本能である。

この観察結果を人に当てはめ、その社会・文化的活動の予行演習に相当するものを遊びと定義するならば、「人はなぜ遊ぶのか」という問いへの答えは、結果的に「本能」になるだろう。

書評全文:人はなぜ遊ぶのか『遊びと人間』

 

サッカーの観方が180度変わる
『アオアシ』

何度も何度もトリハダが立つ。座って読んでたはずのに、いつの間にか立ち上がってるくらい興奮している。

それまで、敵陣を貫くキラーパスや、神技のようなボールコントロール、突き刺さるようなロングシュートなど、ボールを扱うプレイヤーを中心に観ていた。

だが、『アオアシ』読んだら、ボールの周りにいない選手の方が気になるようになった。ボールを持っていない選手がどこに居て、何を見て、何をしようとしているかを見たいと感じるようになった。

主人公は、サッカー大好き中学3年の青井葦人(あおいアシト)。粗削りながら特異な才能を秘めており、努力と根性でのし上がっていく王道マンガ……と思いきや、180度違ってた。

もちろん努力と根性もある。サッカーが好きな田舎の少年が、エリート養成のユースチームで技術的に通用するはずがない。それこそ寝る間も惜しんで練習する。

でも、当たり前だけど、みんな練習してきたんだ、積み上げてきた質と量が違う。そんな単純に、努力と根性でクリアできるはずがない。

だから葦人は考える。いまは「できない」、じゃあ「どうする」と問いを立て、考える。そして、仲間、監督、はたまた敵役からヒントを求め、考え抜き、実行する。葦人の名前は、パスカル「人は考える葦である」から採っているんだと思うくらい、考える。

葦人の武器は一つだけ。ストーリー開始時点、本人は気づかない能力で、フィールド全体を俯瞰し、記憶することができる。鳥の目を持っているのだ。

サッカーをテレビで観戦しているとき、「あそこスペースが空いてる」とか「反対サイドがフリーなのに」と、もどかしく感じることがあるだろう。その「目」だ。

足りない技術、高いハードル、限られた時間という制約の中で、葦人は、それを乗り越える以上のことをやってくれる。そういうシーンを目の当たりにすると、全身が総毛だつ。

Aoashi『アオアシ』第16話「クロウ」より

このゾッとする 場面はゴールだけじゃないんだ。もちろんゴールシーンも印象的だけど、ボールを持っていないときが多い。どのように自分が動き、周囲を動かすか、そのために何を見、どうやってメッセージを伝え、エリアを連携しあっていくかこそが醍醐味なんだ、ということが分かる。

これは、読書猿さんとのマンガ対談「ビジネスに役立つスゴいスポーツマンガ4冊!「戦略」「美意識」「言語化」が学べる」でお薦めされたのと、息子がドハマりしているので手にした。ありがとう読書猿&我が子よ!(自分のアンテナでは絶対に見つけられなかった)。

2022年4月よりアニメ放送されるとのこと。あの緊張感と解放感がどんな風に表現されるか、期待しかない。

書評全文:読書猿「大人のためのBESTマンガ36」から3つ選んだ

 

世界史をアップデートする
『詳説世界史B』『詳説世界史研究』

世界史をやり直したら、時代遅れの自分に気づいた。

「世界史やるなら、高校の教科書から入ると良いよ!」というスケザネさんのアドバイスを参考に、山川世界史を読破した。教科書だけだと単調なので、サブテキストの『詳説世界史研究』も並読したのが正解だった(スケザネさん、ありがとうございます)。

そして、わたしの歴史認識が、とても古いことを痛感した。

学校で習った「歴史」は、石油危機と東西冷戦のあたりで終わっている。そして当然のことながら、今に至るまでの間も歴史は書かれていく。

しかし、わたしはそれらを「ニュース」として知る。

メディアやネットを通じた出来事として接する。大きな事件や紛争の報道には、そこに至る経緯も解説されるが、ニュースは次々と上書きされてゆく。記憶に残るものもあれば、消費されるだけのものもある。

結果、わたしの歴史認識は更新されず、穴だらけとなる。どこかのニュースで聞きかじった情報で、頭ン中をお花畑にしていたのだ。

例えば、飢餓人口について。

どこかで「飢えに苦しむ人は大幅に減少している」と耳にしたことがあった。バイアスを克服し、データを元に世界を正しく見るならば、食糧問題や貧困は大きく改善されているという主張だ。影響力のある人が広め、かなり話題になったニュースだと記憶している。

しかし、サハラ以南ではここ半世紀一貫して増加していることを知った(下図参照)。また、世界全体から見ても、2014年を境に増加に転じていることが分かった(世界の食料安全保障と栄養の現状2020年[PDF])。

食糧問題は解消されたと思ったが、それこそわたしの願望でありバイアスだったようだ。一部のデータだけを見て、そのファクトで満ち満ちているように思い込むなんて、どれだけ御目出度いんだろうね。

Sekaisi 『詳説世界史B』 p.417より

あるいは、各地の紛争について。

ベルリンの壁が崩壊し東西冷戦が終結してから、大きな戦争は起きておらず、テロリズムの脅威はあるものの、比較的平和な時代だと考えていた。

しかし、これまでの国家間の通常戦とは異なる性格の紛争が増大していることが分かった。

『詳説世界史研究』では大きく5つの分類に分けている。

  1. 国民国家体制の再編要求:スリランカ、西アジアのクルド人、パレスチナ問題、北アイルランド問題
  2. アフリカ新興国の分裂と主導権抗争:モザンビークの反政府組織、アンゴラのアパルトヘイト、ソマリア、ルワンダ内戦
  3. ソ連邦解体により生まれた領域設定の争い:アゼルバイジャン紛争、チェチェン、ボスニア=ヘルツェゴビナ軍事介入
  4. 経済構造の多極化に伴う権益争い:石油利権をめぐるアメリカとベネズエラ紛争
  5. イラン革命以降の宗教的覚醒:911同時多発テロ、対テロ戦争、アフガニスタン紛争
  6. どれも辿ってゆくと、植民地問題や帝国主義、第二次大戦からの負の遺産であることが分かる。そして、いわゆる私が理解している「戦争」とはずれている。

一元的な統治体制を有する国家どうしが、宣戦を布告し、武力で問題を解決することを「戦争」と呼ぶのであれば、上記のほとんどは当たらない。代わりに、内乱、紛争、武力介入、軍事制圧になる。

血が流れ、住むところは破壊され、難民は増大しているにもかかわらず、単に呼び名が戦争でないから、私は、「比較的平和」などと能天気なことを言っているのだ。この時代錯誤を改めなければならない。

世界史とは、「これで決定版」というものは存在しない。

日々のニュースがどんどん歴史に重なっていく。その上で、今までの世界史の中でどのように位置付けられていくかによって、歴史認識そのものがアップデートされていくのだ。

「食糧問題が解決してほしい」「世界が平和であってほしい」と願い、それに貢献しようと尽くすことは大切だ。だが、願望と現実は異なる。願いでもって、認識を歪めることは避けねばならない。

具体的には、地域や宗派、民族や言語が掲げられたニュースが、歴史の中でどのように位置付けられていくのかを、定期的にアップデートしていく必要がある。教科書は、改版のタイミングで再読していこう。

書評全文:世界史をやり直したら、自分の時代錯誤に気づいた

 

「読み専」として英語をやり直す
『英文解体新書』“Merriam-Webster's Vocabulary Builder”

何度も挫折した英語だが、これが最後の挑戦だ。

かつては漫然と「できたらいいな」だったが、無意味なことに気づいた。そして、「論文・記事やtweetが読める」という目標に絞った。

そこで、読書猿さんとの対談「10年ぶりの独学でも英語がすらすら読めるようになる「スゴ本」厳選5冊」で教わった『英文解体新書』をコツコツ読んだ。



これは、英文読解の思考プロセスに特化した参考書だ。

どこに着目し、どういう風に考えると、正しく読解できるかを体系化し、100語~200語程度の例題を実際に読むことで、その力を身につける。

一つ一つの例文は短いが、ものすごく濃い。カズオ・イシグロの小説やオバマ大統領の演説、ジャレド・ダイアモンド、スティーヴン・キングなど、硬軟取り揃えている。レベル的には難関大学の受験~院試なので、かなり歯ごたえがある。ちょっとキツいという人には、入門編『英語の読み方』がお薦め。

めちゃくちゃ腹落ちしたのが、情報の流れと文章の構造だ。受動/能動態が切り替わったり、省略されたり、語順の入れ替わりが発生するのは、ちゃんと目的がある。それは、受け手への情報をコントロールしたいからだ。

例えば受動態。あまり使うなと学校で教わったが、「なぜ」なのかは覚えていない。それが本書ではこれ以上ないほど明確に解説されている。

まず、英語の基本的なルールとして、主語が文のトピックであり、動詞句が構成する述語部分は、そのトピックに対するコメントになる。つまり、トピックが変わらないのであれば、主語は変わらない(超重要)

The castle is one of the most beautiful buildings in the world. It was built in the Edo period and has since been a symbol of our country.

これは、The castle についての説明だ。一文目の主語は The castle で、文のトピックになる。そして、2文目に移っても、文のトピックは変わらない。

しかし、もし2文目で能動態の文を使おうとすると、「城を建てた人」という新しい情報が入ることになる。伝えたいのは The castle というトピックなので、新しい情報は余分だ。こんな場合に、受動態が必要になる。

受動態は、「あまり使うな」ではなく、使うタイミングがあるのだ。情報を出す際に余分なものを省き、流れをコントロールする仕組みとして用いられているのだ。これを熟読するだけで、読解力の不安が消える。

読解に加え、ボキャブラリーをなんとかしたい。語彙力こそパワー。

目標は2万語。

おそらく学校でやったのを最後に何もしていないので、数千語だろう。こいつを2万までビルドアップする。これも、フツーにやっていてはダメだ。

これも読書猿さん直伝なのだが、“Merriam-Webster's Vocabulary Builder” が素晴らしく良い。語源から関連語句を広げていく構成となっているのだが、目からウロコがボロボロと落ちていく。

例えばPHON 、「音」「声」「話す」という意味がある。 telephone = tele + phone でイメージする通り、「遠く+声」で電話やね。そこからこう広げる。

microphone = micro(小さい) + phone(声)
   → マイクロフォン

xylophone = xylo (木製の) + phone(音)
 → シロフォン、木琴

phonics = phon (声) + ics (~学、~法)
 → 音声学習法(綴りと発音の規則法)

polyphonic = poly (多) + phonic (声)
 → 多声性、ポリフォニー

これまで学んできて、記憶の底に沈殿していた知識の欠片が、次々と繋がっていくのが楽しい。

ビビビとキたのが、PEDだ。

ラテン語で「足」という意味がある。足にするからペディキュア(pedicure)だし、足で踏むからペダル(pedal)だね、という説明で、ピンと来たのが、pedestrian(歩行者)。どうしても覚えられなかったのが、これで完璧になった。ついでにquadruped(四足獣)、biped(二足歩行)、も覚えた。

これらをバラバラに覚えていたら、きっと、もっと苦労していただろう。現在進行中だが、これはモノにしたい。

書評全文:英文読解の思考プロセスに特化した『英文解体新書』

 

物理学と「美しさ」の罠を疑う
『数学に魅せられて、科学を見失う』

数学的に美しい ≠ 科学的に正しい。

美しい数式で書き表せるからといって、それが正しいわけではない。にもかかわらず、両者を混同する物理学者がいる。

科学実験から得られたデータというのは、ノイズだらけで、混沌としており、それらをきれいに説明する数式やモデルを作るのは簡単ではない。

そのため、データを説明する数式の候補をいくつか検討することになる。このとき、よりシンプルに実験を説明する、美しい数式の方が、正しいような気がする(オッカムの剃刀、という言葉があるくらい)。

しかし、数学的に美しいことは、科学的に正しいことを保証しない。ひょっとすると、数学的に美しくない数式やモデルの方が、科学的には正しいのかもしれないのだ。

にもかかわらず、数学的に美しい方が科学的に正しいとする誘惑に駆られ、それに合わせて実験データの取捨選択まで手を染める科学者がいる―――現役の物理学者である著者は、そう告発する。

例えば、CERNの大型ハドロン衝突型加速器(LHC)での実験について。

高エネルギーでの物理現象から生じる粒子を観測する実験では、アルゴリズムが「興味深い」と判断したデータのみ記録され、他の大部分の莫大なデータは捨てられる。そのため、記録された結果からして「実験結果」から程遠いものになる。

あるいは、複数の観測結果を整合性が取れるように行う「微調整(fine-tuning)」という手法について。

「微」という言葉とは裏腹に、ガッツリと調整する。外れ値を除外するとかいうレベルではなく、何十乗も桁が違うものが、巧妙に打ち消し合えるようにチューニングするのだ。

著者は、実験現場で行われる様々な欺瞞に焦点を当てながら、物理学者が引き合いに出す「美しさ」「自然さ」「エレガントさ」にツッコミを入れる。それって主観的な基準ではないの? 客観的であるべし、という科学者の義務を逸脱しているんじゃないの?

そしてついに、「理論物理学者がみな、自分たちの非科学的な手法を認めたくなくて、集団的幻想に陥っているのではないか」とまで言い出す。

これは、物理学が哲学を見失っているから生じていることは分かる。そして、どうすれば物理学が正気を取り戻すのかを考えるのは、哲学の勉強になる。おそらく、実在論と知識の哲学をやり直すことになるだろうが、来年の勉強にしよう。

本書は、@rmaruyさんの書評のおかげで出会えた一冊。原書から読み解いたまとめは、ブログ「重ね描き日記」にある。@rmaruyさん、ありがとうございます!

書評全文:数学的に美しいと、科学的に正しいのか?『数学に魅せられて、科学を見失う』

 

男同士の恋愛にときめく
中村明日美子『同級生』

2人の男の子が恋に落ちる、ピュアすぎるラブストーリー。

ひとりは学校一の秀才。入試で全科目満点を叩き出すぐらい優秀で、真面目がメガネをかけた理知的な印象がある。すぐ赤面する。

もうひとりはバンドマン。ライブでギター弾いてて、女の子にも人気者。くしゃっとした明るい髪と人好きのする顔立ちだ。すぐ赤面する。

そんな、普通なら決して交わることのない2人が、あることをきっかけに互いを意識し、距離を近づけてゆき、思いを伝え合う。

初々しく、可愛らしく、読んでるこっちが甘酸っぱい気持ちで一杯になる。あふれ出すリビドーを持て余していた自分と比べると、なんとも純粋な恋で、痛苦しくなる。そこに欲望があるのだが、互いに相手のことを慮るのが素晴らしい。

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中村明日美子『卒業生』-春-「京都にて」より

そして、身構えていたのが、彼らの日常が幸せすぎること。

男同士の恋愛というハードルが、もっと高いものだと構えていた。「男性が好き」ということに気づき、戸惑い、苦悩するといった展開があるのではないか? と不安に思いながら読んだ。

なぜなら、同性愛が犯罪だった時代や国もあったから。例えば、E.M.フォースター『モーリス』は、文字通り「禁断の恋愛小説」として隠れるように読まれてきた。

100年前の英国、ケンブリッジ大学で出会った2人の恋を描いた小説だ。同性愛が罪とされ、社会的に抹殺される厳しい状況だった。愛の深さゆえに傷つき、傷の深さゆえに慰めあう青年たちの恋は苦しく、美しい。

『モーリス』と比べると、『同級生』は、同性愛に苦悩したり傷つけあったりするような場面は無いに等しい。そこに違和感を抱いているわたし自身が、実はおかしいのだ。

「同性愛者は自分の性嗜好に苦悩するのが普通だ」という思い込みがあるからこそ、ゲイの幸せな日常を描いた作品に違和感を抱いている。そして、苦悩しないゲイに、物足りなさを感じてしまっている。

このわたしの価値観が、情けないんだろうな、ということに気づく。「男が好き」とか「女が好き」とかじゃない。「あなたが好き」なんだなと。

好きになった人が、同性だったり、異性だったりするだけなんだと。

本書は、スケザネさん、タケハルさんとの読書会で知り合えた作品。読書会の様子は、「ボーイズラブには葛藤があるべきか、「普通の」ラブストーリーとは何か、BLの主役はネコなのか、アニメ『同級生』をテーマに2時間語り合ったことを8000字ぐらいでまとめる」に書いた。スケザネさん、タケハルさん、ありがとうございます!

書評全文:「普通のBL」とは何か?

 

『チェンソーマン』を10倍楽しく読む方法

めちゃめちゃ面白い(語彙力

息止めて一気読みした。

「悪魔を身に宿して悪魔を狩る少年・デンジのダークヒーローもの」ぐらいの予備知識で始めたが、読めば読むほど総毛立つ。

もし、未読の方がいるならば、この幸せもの! ぜひともこの傑作を一気読みする贅沢を味わってほしい。

最初はデビルマンめいた展開を予感してたが、軽々と超えてくる。そして、わたしが楽しんだ作品の様々なイメージや設定を惹起させてくる。

例えば、『モンスターズ・インク』や『ドロヘドロ』の「扉」とか、ギュスターヴ・ドレの版画、鮫+台風=シャークネード、敵の血で回復するBloodborne、五十嵐大介『魔女』のネズミ、ワシントンD.C.にあるベトナム退役軍人記念館の58,318人の名前が刻まれた壁、ボルヘスのバベルの図書館(インターステラーの書架群も可)、涼宮ハルヒのエンドレスエイト、『フリクリ』のタバコ、アリ・アスター監督『ヘレディタリー』の儀式(ラストのやつ)、榎本俊二ばりのカッティング。あるいは大友克洋『童夢』の壁ズンや、冷蔵庫にストックしたお肉を食べるところなんて、「NOTHING WILL BE AS IT WAS」まんまじゃねーか!

昔見た作品のネタ・構図・カット・演出・ライティング・脚色・オマージュ・コラージュ・イマージュの、一番美味で最高のやつが、これでもかと惜しげもなく詰め込まれている。読むたびに記憶から宝が発掘されてくる。わたしが知らないだけで、もっとずっと沢山あるはず。

初読時は物語の面白さに惹きこまれて気づかなかったが、これ、もの凄く計算して作っている。

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『チェンソーマン』第44話「バン バン バン」より

例えばここ。空いっぱいに打ち上げられた花火を逆光にしたキスシーンなのだが、これ普通、ボーンとかドカーンとか凄い大音響のはず。そこを一切、音を入れない。次のページも、その次のページも、音がないシーンが続く。

無音にするのは意味がある。

これは、次の予告なんだ。読み手はこの後、空白を埋め尽くすほどの音圧にさらされる。ボーンとかドカーンが、時間差のように激しく耳を撃つことなる(マンガなのにうるさく感じる)。

音の演出ひとつとってもこんな風に、読み手にどんな経験をしてもらうかを計算し尽して、このマンガは描かれている。

そこで、『チェンソーマン』を10倍楽しく読む方法。いますぐ、デカいディスプレイにつなげるんだ。

私自身、ふだんはパソコン、もしくはスマホで読むのだが、ふと思い立ち、ディスプレイで読んだら凄まじい画圧になった。見てくれこのキスシーン。デカい方がドラマティックでしょ?

画面がデカいと、チェーンソーのスピード感もハンパなくなる。「スピード感」を出すためには、画面を横切る効果線が必要だ。だが、小さい画面だと、(あたりまえだが)効果線も物理的に短い。これがデカい画面になると、線がギュィーンと伸び、よりダイナミックに視覚効果が与えられる。

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28型で読むと圧を感じる

おかげで、最初に読んだとき、このシーンで胸がキューンとなった。そして、デンジいーなーと思った。

この後の展開も、デカい画面のおかげで音圧や風圧すら感じられる(マンガなのに!)。そして、この後は何度読んでも胸がギュイィーンとなる。そして、デンジみたいな目には遭いたくないなーと思う。

アニメをディスプレイで見るのは慣れているのに、マンガでそうしない理屈はない。

結論:チェンソーマンは大きなディスプレイで読もう

 

奇妙で異様な読書体験入門
ピンチョン『ブリーディング・エッジ』

トマス・ピンチョン作品には、中毒性がある。

他のどの作家にも似ていない、異様な読書体験になる。ピンチョン作品は普通に殴れる堅牢なハードカバーが多いので、鈍器本として有名だ。上下巻に分かれているものは両手装備ができ、殺傷能力も十分に期待できる。

そんな中、一巻本として完結しており、ピンチョン・マゾヒズムも楽しめる『ブリーディング・エッジ』は、入門として適切かもしれない。

出てくるキャラは100人を超える。ページをめくるたび新キャラが増殖し、好き勝手にしゃべりまくり、動き回る。ディープ・ウェブを徘徊する3Dインタフェース、戦闘少女サブカルチャーのスパイクヒール、バスケットボールの先祖となるマヤ文明の儀式、ヒトラーが愛用したアフターシェーブローション、誘拐した子どもをスパイに育てる施設、LSAが起動する創造性、「私を見ろ」と話しかけるペニス……ギャグ、挿話、エピソードトーク、戯れ歌、いいまつがい、百科全書的なネタの1割しか分からなくても、5分おきに笑わせられる。次から次へと奔流のように翻弄されながら、訳注や GoogleMap を頼りにストーリーをつかみとる。

主人公はマキシーン、おせっかい母ちゃんだ。小学児童2人を育て、円満離婚の<元>夫と付き合い、ベレッタをバッグに、詐欺調査のエキスパートとして働く。主役も脇役もキャラが入り混じる『逆光』や『ヴァインランド』とは異なり、マキシーンだけ見てればいい。彼女が、次から次へと首をツッコみ、マンハッタンを駆け回り、事件と事故の目撃者となる様を見てればいい。

舞台は2001年のニューヨーク。春分の日から始まるから、同時多発テロの半年前。00年のドットコム・バブルが弾けた直後で、Google は IPO前、マイクロソフトが「悪の帝国」と呼ばれていた時代だ(懐かし―!)。会計検査士の資格を剥奪されたものの、不正を見る目は超一流のマキシーン。ひょっこり見つけた変なお金の流れから、アメリカの闇にうっかり踏み込んでゆく。

対する敵役は大金持ちのゲイブリエル・アイス。バブル崩壊に乗じて、膨大な量の光ファイバーケーブルとサーバを買占め、検索エンジン(Yahoo! だ!!)のクロールから隠れた深淵「ディープ・ウェブ」に進出して、巨万の利益を吸い上げる。秘匿していた情報を嗅ぎまわるマキシーンは邪魔っちゃ邪魔なんだけど、家族や会社も含めて入り組んだ妙な関係になってしまっているのが笑える。

プロットの奔流も様々で、後期資本主義の構造的な悪を糾弾する流れもあるし、インターネット監視社会を幻視するハードボイルドな光景も見られる。バーチャル・リアリティが、ミート・リアリティを浸食する怪談チックな演出も入っているし、洗脳装置としてのテレビジョンが定期的に浮上してきたり、やってることはドロドロなのに、妙にスタイリッシュな不倫とか、ワケが分からないよ(でも楽し―)。

デフォルメされ戯画化されたキャラ造形や、マキシーン完全ご都合主義的なストーリー展開、陰謀&パラノイア小説だと思っていたら、完璧な家族小説だったとか、臨界突破した伏線のせいで2回以上読む必要が出てくる物語構造など、規格外の異様な小説となっているが、ピンチョンならば平常運転やね。

これがピンチョンの最新作『ブリーディング・エッジ』の紹介だ。

ん? わけ分からんって?

それで合ってる。ピンチョンの小説を読むということは、説明できない体験をすることだから。

ピンチョンの小説体験に代わる何かを説明するのは難しい。ちょっと見てみな、ピンチョンの感想を語る人は、ピンチョンの他の作品を引き合いにあれこれ述べている。他の何かと比べられない、唯一無二の存在なのだ。ドストエフスキーのおしゃべりの響き合いと、千夜一夜のてんこ盛りエピソードと、白鯨の脱線と引用が交じり合い、足して割らない濃密な物語に揉みしだかれ、惑い、迷い、ビクつき、笑い、憤る。

そういう、異様な体験なのだ。

これ、独力で取り組もうとすると、けっこう大変だ。そういうとき、読書仲間がいると捗る。「鈍器本を読もう」という読書会があって、それに参加するために読んだ。また、その読書会そのものがカオスで楽しい。顛末は、「ピンチョン『ブリーディング・エッジ』読書会が楽しすぎて時が溶けた」に書いた。これ読めたのは、主催者のふくろうさん(@0wl_man)のおかげ。ありがとうございます!

書評全文:ピンチョン『ブリーディング・エッジ』を読むという異様な体験をした

 

単純化した構造で歴史を語る危うさ
『グローバル・ヒストリー』

「開国」という言葉に、違和感がないだろうか? 世界史を学びなおし、世界の中での日本を見直すと、「開国」という表現が奇妙に見えてくる。

なぜなら、江戸時代は鎖国をしていたというが、オランダや中国、朝鮮や琉球、アイヌと交易を行っていたからだ。近代化に向けた啓蒙のニュアンスを感じるからだ。

確かに、鎖国方針の停止は大きな転換点だ。しかし、普通にあった西洋以外との交易を無視して、欧米との交易開始を、「国を開く」と強調することにもやっとしている。

著者であるドイツの歴史学者・ゼバスティアン・コンラートによると、この「開国」というレトリックは、日本だけでなく、中国、朝鮮にも適用されているという。西洋以外とのつながりを無視し、欧米との関係の開始を際立たせるために用いられる表現になる。

同様に、「国民」「革命」「社会」といった概念もまた、ヨーロッパの局地的な経験を、普遍的な理論として他の地域に押し付けるための用語になる。

この背景には、歴史を記述する際、ヨーロッパを中心とするヘゲモニーが横たわっている。ウィリアム・マクニール『西洋の台頭』に代表されるように、ヨーロッパが達成した成果が、周辺へと伝播する一方通行の世界史だというのだ。

一方で、近年の歴史学では、ナショナル・ヒストリーからの脱却も目指されている。

ナショナル・ヒストリーとは日本史、フランス史、ベトナム史といった国民史のことで、一国内だけで歴史的変化を説明するアプローチだ。

これは、教育のプロセスの中で、ナショナル・アイデンティティを形成し、国民国家を建設するプロジェクトとしては有効だったかもしれない。だが、イデオロギーや政治・経済活動、ウェブを基盤とするコミュニケーションの広がりが地球規模になっているいま、一国の歴史だけで自国を語るのは、現実的ではないだろう。

ヨーロッパ中心史観から脱却し、ナショナル・ヒストリーの限界を乗り越えるため、グローバル・ヒストリーが提案されている。

グローバル・ヒストリーは、研究対象ではなく、固有の視点になる。

個人や社会が、他の個人や社会と相互作用する仕方にとりわけ注意をはらう。その結果、領域性、地政学、循環、ネットワークといった空間的メタファーが、発展、ずれ、後進性といった時間の語彙にとって代わる傾向がある。

この傾向は、必然的に、近代化を目的とした歴史叙述を否定するという。つまり、社会的な変化の方向は決まっており、古い伝統から、近代社会へ発展していく……といった観念を批判する。世界の全ては、ヨーロッパの歴史通りに経験していくという考えの否定である。

その実例は、コンラート自身が示している。

「記憶をめぐる戦争」と名づけられた、日本の歴史教科書の問題だ。コンラートは1990年代の教科書の記述内容についての議論を俎上に、日本、中国、韓国と異なる場所で共時的に起きた構造を明らかにする。

冷戦の終焉に伴い、政治的・経済的な変容の中で、韓国や中国の犠牲者の声が日本で耳を傾けられるようになり、新しい政治的連携が国境を超えて生まれたという。これは戦争記憶の回帰ではなく、地政学的構造によって条件づけられた、新しいアジアの公共圏の到来だと示している。

グローバルヒストリーには課題もある。

個々の人物への焦点から、グローバルなファクター(領域性、地政学、循環、ネットワーク)に視点を切り替えることによって、あたかも個人や集団の役割が存在しないかのように描かれてしまわないか、という懸念だ。

例えば、ホロコーストがグローバルな諸力によって説明されうるなら、ナチスの所業や責任を、外部化してしまわないか、という恐れである。時空間の尺度を広げることで、起こったことが不可避であり、あたかも必然であったかのようにミスリードされる危険性がある。

全てをグローバルで捉えようとすると、歴史の中から固有名詞が失われていく。十字軍を開始したのは誰か、太平天国の乱で苦しんだのは誰か、そしてヴァンゼー会議の議長は誰かといった「人」の行為主体性が失われることになる。

こうしたミスリードに陥らないためには、グローバルなファクターと、「人」の行為主体性とのバランスが重視されることになる。歴史を単純化した構造で語りたい誘惑は、常につきまとう。だが、その構造だけでは語ったことにはならない。なぜなら、歴史は人の営為であるのだから。

書評全文:単純化した構造で歴史を語る危うさ『グローバル・ヒストリー』

 

経済学は「科学」なのか?
『社会科学の哲学入門』

経済学は「科学」だろうか?

経済学者は好きなことを勝手な方法で分析し、主張する。何やら数式やモデルは出てくるが、客観性も再現性も無さそうに見える。

頻繁に書き変わる教科書は、更新のたびに理論が書き変わり、新しいモデル(あるいは例外)が追加される。

そしてひとたび、想定外の事象が起きたら、「ブラック・スワン」などというカッコイイ名前を付けて説明できたことにする。現実の経済に経済学が追いついていない証拠に見える。かくして理論を疑わずに済み、経済学者の心は守られる。

そして、経済学の教科書は順調に厚みを増し、理論やモデルの補注だらけ、パラメーターまみれになる。

経済学の古典とも言えるマルクスやケインズを齧ると、別の疑いが出てくる。

教科書の元となる彼らの思想そのものが、なんら客観性もなく、個人の人生観で歪められたバイアスではないか、という疑いだ。

例えば、大学教授への道が閉ざされ、借金に追われて住居を転々としたマルクスが構想したのは、「破滅へ向かう資本主義」だった。一方で、絵画や古書への造詣も深く、裕福なパトロンとして人生を愛したケインズは、「持続可能な資本主義」の立役者となった。

同じ「資本主義」でも偉い違う。これは、二人の生きた時代の違いだけでなく、二人の出自や生活環境、持てる者/持たざる者に因る歪みではないか。

そして、時代ごとの為政者の思惑に、「たまたま」マッチした思想がもてはやされ、一世を風靡した後、共に消えていく(そして時が流れ、また流行や思惑に合いそうなとき、ゾンビのように復活する)。

そういう疑いを抱いているのは、わたしだけだと思っていた。

だが、吉田敬『社会科学の哲学入門』では、この疑いが検証されている。経済学を始めとする社会科学への欺瞞は、何十年も前から議論されており、現在進行形で続いているのだ。

例えば経済学には、パラダイムがない。その分野で支配的規範となる「物の見方や捉え方」が無く、ミクロ、マクロ、学派、主義、流派によってバラバラである。

あるいは、数式をありがたがる理由は、物理学への羨望だ。数学のおかげで、物理学や天文学が成功してきた。そのため、数式を用いて形式的に説明することが「科学的」である証だと見なされている。

また、科学者も人であり、人である限り何らかの価値観を持っている。本書では、マックス・ヴェーバーやアーネスト・ネーゲルを引きつつ、科学的論証には、研究者者の価値判断が混入している事例を紹介している。

科学哲学の観点から、社会科学の営みの根本へとガイドしてくれる。これも読書猿さんにお薦めされた一冊。ありがとうございます。

書評全文:経済学は「科学」なのか?『社会科学の哲学入門』

 

「人はなぜ〇〇するのか?」への最新回答
『進化でわかる人間行動の事典』

人はなぜ〇〇するのか?

〇〇には、様々なものが入る。「笑う」「遊ぶ」「描く」「踊る」「歌う」「助ける」「学ぶ」など、44の行動をピックアップして、それぞれについて、進化的観点から、最新の論文を集めたのがこれだ。

例えば、人はなぜ笑うのか?

本書は、この問いを、「『笑い』には、どのような機能があるのか」という問いに置き換え、さらに笑いの役割からアプローチする。

つまり、人類が生き延びていく上で、笑いがどのような役目を果たしているかを考察する。その行動が適応度にどれだけ影響したのかという観点から、「人はなぜ笑うのか」を考えるのだ。すると、笑いの様々な役割が見えてくる。

生まれたばかりの赤ん坊は、ニッコリと笑うことがある。生理的微笑と呼ばれるもので、自分の意志ではなく、反射神経の働きともいわれている。これは、親からの養育行動を引き出す機能を持つと言われている。

霊長類の遊びにおける「笑い」(play face)は、攻撃的な追う・咬むといった動作が、「本気の攻撃ではない」ことを明確にするシグナルとされている。カイヨワの『人はなぜ遊ぶのか』にも通じる「笑い」だ(ただし、本書にカイヨワは出てこない)。

他にも、様々な問いついて、現時点での暫定解が得られる。これまで読んできた本と重なるところが多い。

  • 人はなぜ火を用いて料理をし、集団で食事をするのか(食べる) → 料理はヒトの生存戦略「火の賜物」
  • 人はいつから歌っており、なぜ歌うのか(歌う) → 人は歌で進化した『人間はなぜ歌うのか』
  • 教える/教わることで、人はどのように優位になったか(教える、学ぶ、まねる)
  • 人はなぜ装い、見せびらかすのか(飾る、見栄を張る)
  • 人はなぜ結婚をするのか、いつから一夫一婦制なのか(結婚する、恋愛する) → 結婚のスゴ本
  • 人を殺すことが適応的になる場合があるのか、またそれはどんな場合か(殺す)

人の心は自然淘汰によって形成されたという前提から、「人とは何か」について、具体的に迫る一冊。本書は、shorebirdさんの書評で知り、その足で書店へ走った。これまで読んできた人間行動の科学を一望できる本に出会えてよかった。shorebirdさん、ありがとうございます。

書評全文:「人はなぜ笑うのか」への最新回答『進化でわかる人間行動の事典』

 

人生を変えるのは音楽かもしれない
『楽園ノイズ』

恋と音楽と青春を一冊に圧縮したラノベ。いわば、読むセッションだ。

それも、肌が泡立つやつ。ヒリヒリする緊張感と、想いをぶちまける解放感が混ぜこぜになって、確かに昔に聴いた曲があふれ出す。これは、釘宮ボイスで再生するのが正しい。

「僕」の趣味は音楽。

といっても、いわゆる「バンドマン」ではなく、薄暗い自室に閉じこもって画面をにらんでマウスで音符を切り貼りする。できた曲をYoutubeにアップロードして反応を待つ音楽オタクだった。

「だった」と過去形なのは、出来心で女装した動画をアップロードしたから。一部のマニアにウケて十万視聴を突破したのはいいけれど、よりにもよって音楽の先生にバレてしまう。で、授業の準備やら問題児の様子見やら、面倒を押し付けられるハメになる。

先生を通じて出会う女の子たちは、コンプレックスを抱えるピアニストや、複雑な家庭のドラマー、不登校のヴォーカリストだ。共通するのは、超一流の才能を持っていること。音楽オタクの僕には二重の意味で高嶺の花だ。

これが普通のラノベなら、彼女たちの厄介ごとを「僕」が解決しちゃうのだが、その辺リアルに出来ていて、彼は踏み込まない。

ただ、音楽が好きだからこそできる方法、つまり一緒にセッションすることで、彼女たちにあるきっかけをもたらす。そして、彼女たちは自分で変えてゆく。その様子を見ていると、人生を変えることもできるのは、音楽なのかも……と思えてくる。

10章に渡って駆け抜ける青春は、騒がしく悩ましく彩られた大切な時間だ。

アップテンポな会話で愉快にさせた後、急転直下でキツい展開へ。終盤で回収される伏線は、交響曲の後半で冒頭のフレーズが「戻ってくる」かのような既視感だし、クライマックスとなる第9章では、文字列から音圧が伝わってくる。

そして、最終章、めちゃくちゃ胸にクる。瞳から汗を、体中に涙を感じる。

音楽が、私が私だったことを思い出す。

落ち込んだとき、慰められたCDがあった。試練を目の前に、自分を鼓舞するために歌った歌があった。なにもかも忘れて「無」になるためにヘビロテした曲があった。そのどれも、今は聴いていないことに気づいた。

だが、この小説を読むと、それらが全部いっぺんに思い出してくる。音楽が、自分を支え、変えてきたことに気づく。

音楽の力を思い出す一冊。

書評全文:人生を変えることもできるのは音楽かもしれない『楽園ノイズ』

 

だまされたと思って読んでほしい
『インド夜想曲』

「だまされたと思って読んで欲しい、読まずに死んだらもったいないから」と手渡された一冊。

150ページほどの、ほんとうに短い小説だから、後で読もうと放置して幾年月、昨今のコロナ禍で死が身近になった今、読まずに死ねるかと開いたらあっという間だった。

静謐で、濃密で、これ以上ないほど贅沢な一時間となった。

インド、ボンベイ。主人公がタクシーに乗るところから始まるので、紀行文学の体をした小説というのが第一印象。地の文が「僕」で語られる点は村上春樹に似ているけれど、「僕」が雰囲気に流されない点は似ていない。

読み始めてすぐ、「僕」は誰かを探していることが分かる。どうやら失踪した友人のようだが、彼のほうは会いたくないらしい。だが「僕」は、手がかりを丹念に集め、手繰り寄せ、近づいていく。

ボンベイ、マドラス、そしてゴアと、友人の痕跡をたどってゆく。夜のバス停で出会う美しい目をした少年、もと郵便配達のアメリカの青年、5つ星ホテルで隣り合わせた女など、様々な人々と交流する。「僕」は、地図上の移動だけでなく、階層をも上下しつつ、インドを探ってゆく。

12章の断片に分かれるどのシーンどのシーンも印象的で、いかに醜悪な光景でも、はっとする一瞬を切り取っている。読み進めるうち、ほんとうに友人に会えるのか、そもそもなぜ、彼を探しているのか、気になってくる。

だが、作者は、要所要所にヒントを残している。私が一番好きなのはこれだ。

「肉体のことです」僕がこたえた。「鞄みたいなものではないでしょうか。われわれは自分で自分を運んでいるといった」(p.48)

過ぎ去った現実は、大体において、実際にそうだったよりも改善される。記憶はおそるべき贋作者だ。その気がなくても、時間の汚染は避けられない。こうして、いくつものホテルが僕たちの空想の世界を満たしている。(p.110)

最初はふらついていた足取りは、ラストに近づくにつれ、だんだん確かなものになってゆく。「僕」が目指しているものが、だんだん私にも見えてくる。ほんとうに短いので、惜しみ惜しみ進みながら、最後のページに達する。

そうやって読んだいま、わたしからもお薦めする。読まずに死んだらもったいない。だまされたと思って読んで欲しい、と。

書評全文:だまされたと思って読んでほしいアントニオ・タブッキ『インド夜想曲』

 

この本がスゴい!2021フィクション
『蛇の言葉を話した男』

今年読んだフィクションNo.1。

読み始めたら止まらない、そういう本は、確かにある。巻を措く能わずとか、page-turnerと形容される、中毒性の高い物語。

これがそれ。

どれくらい止まらないかというと、この写真を見て欲しい。

Hebinokotoba

背表紙を見てほしい。少しナナメに歪んでいることが分かるだろうか。あるいは、小口(開くところ)だと斜めにひしゃげている。これが、一気に読んだ証拠だ。

説明する。

まっさらの本は、背表紙も小口もまっすぐで、上からのぞいたら、長方形に見える。

扉を開くと、開いたほうに背表紙が引っ張られ、斜めに歪む。扉を閉じれば、歪みは元に戻る。そして、閉じている間は、本は元の形に戻ろうとする。

ところが、開きっぱなしだと、背表紙はずっと引っ張られたままとなり、歪みが戻りにくくなる。その時間が長いほど、歪みは強化される。つまり、一気に読まれるような本であるほど、このようにひしゃげてしまうのだ。

文字通り、「蛇の言葉を話した男」のお話だ。不条理と諧謔と異形を折り込んだ、壮大な寓話になる。帯にはこうある。

これがどんな本かって?
トールキン、ベケット、M.トウェイン、宮崎駿が
世界の終わりに一緒に酒を呑みながら
最後の焚き火を囲んで語ってる、そんな話さ。

確かに、ジブリ風味やトールキン的世界はある。

だが、わたしはむしろ、異なる価値体系で、世界を問い直している点に、ハクスリー『すばらしい新世界』を感じる。

人間性が喪失した世界で、それでも人であろうとすると、どんな目に遭うか―――『すばらしい新世界』の黒いユーモアに笑った人、まちがいなく、『蛇の言葉』で爆笑するだろう。

倒錯した価値観の語られ方は、アゴタ・クリストフ『悪童日記』と同じ匂いがする。語り手は、わたしたちの価値観とはまるで異なるのだが、その世界に付き合っていくうちに、狂気と正気は多数決だということに気付く。

神話の誕生を垣間見る感覚は、ガルシア=マルケス『百年の孤独』とシンクロする。

終末が運命づけられ、「最後の〇〇」や「△△と最後に会った男」など、ラスト・オブ・〇〇臭が漂う中で、過剰で濃厚で圧倒的な密度で騙られる物騙り。その展開に身を任せ楽しんでいるうち、仕込まれた寓意に気付いて驚愕する仕掛けになっている。

運命から全力疾走した先に運命が待ち構えている構図や、叙事的に言葉を重ね、丁寧に現実を語っているのに幻想に誤読できてしまう描写など、ぜんぜん違う物語なのに、新しい『百年の孤独』を読んでいるかのような気になってくる。

「面白い小説とはセックスのようなもので、途中でやめるわけにいかない」と阿刀田高が言った。まさにこの小説のためにある言葉だ。

これは、冬木糸一さんの[基本読書ブログの記事]と、ふくろうさんの『蛇の言葉を話した男』に眉間を撃ち抜かれる!で、居ても立っても居られずに読んだ。このお二方が太鼓判を押した小説は間違いないぞ。心して眉間を撃ち抜かれるべし。

書評全文:『蛇の言葉を話した男』の面白さを、あらすじ抜きで伝える

 

この本がスゴい!2021ノンフィクション
『反穀物の人類史』

人類は、狩猟採集から農耕牧畜へと進歩した。

穀物による安定した食糧生産が人々の健康を増進し、余暇を生み、文字や文明を育んでいった。文明を狙う野蛮人は、狩猟採集のままの生活で、文字を持たぬ遅れた未開の人々だった。

……と思っている? だったら本書をお薦めする。

著者はジェームズ・C・スコット、イェール大学の人類学部教授だ。メソポタミア、秦・漢、エジプト、ギリシア、ローマなど、文明の初期状態を検証することで、わたしが刷り込まれてきた「常識」に疑義を投げかける。

まず、農耕社会が豊かだったというのは誤りだということが分かる。少なくとも、初期の農業は酷いもので、反対に豊かで多様性に富んでいたのは狩猟採集の人々になる。

その証拠として、残されている農民の骨格を、同時期に近隣で暮らしていた狩猟採集民と比較する。

すると、狩猟採集民の身長が、平均で5センチ以上も高いことから、栄養状態が良かったことが伺える。海洋、湿地、森林、草原、乾燥地など、複数の食物網にまたがっていたうえ、それぞれの季節に応じて移動していたため、食べものは多様で豊かだったと考えられる。

一方、農民の大半は栄養不足による骨の変形が見られ、歯のエナメル質の形成不足や、感染症に関連した病変が見られたという。これは、初期の農民の栄養状態が不安定だったことを示している。

では、どうして農耕生活でこれほど発展できたのか? という疑問が残る。著者は、農耕生活ではなく、農耕するための「定住」で説明を試みる。

狩猟採集民と比べて不健康で、幼児や母親の死亡率が高かったにもかかわらず、定住農民は繁殖率が高く、死亡率の高さを補っても余りあるほどだったという。

まず、定住しない人々は、野営地を移動するため、意図して繁殖力を制限することになる。対照的に定住農民は、短い間隔で子どもを作る負担が軽減される。この違いが、5000年という期間に渡って、複利計算のように大きなアドバンテージとなったというのだ。

次に著者は、古代の初期の農耕についてある共通点に着目する。

それは、全て穀物国家だったという点だ。麦や米、ヒエ・アワ、トウモロコシなど、一定の時期に地上に実が成る穀物が、主要な食物であり、現物税の単位であり、農事暦の基盤を提供していた。

著者は、穀物だけが課税の基礎となるという仮説を立てる。定期的に作物を収奪する人にとっては、麦や米の方が都合がいい。

なぜなら穀物は、地上で育ち、ほぼ同時に熟すからだ。徴税官にとっては、収穫時期に一回遠征するだけで、必要な分を収奪できる。農民は収穫、脱穀までしてくれるから、タイミングよく出向いて、倉庫から徴税すればいい。

地上で実っているのが目視で分かる。粒が細かいので分割や運搬に便利。保存が利いて、兵への分配も容易。さらに、同時に熟すので効率的に収奪できる―――こうした理由で、穀物はコスパのいい課税作物になったのだという。

そして、言い換えるなら、課税に不適な作物で暮らしている人々にとっては、「国家」の範囲外になる。

つまりこうだ。狩猟採集や漁労、焼畑農業、遊牧を生業とする人々から課税するのは難しい。分散して移動している上に、生産物は多様で傷みやすい。

こうした人々を追跡し、課税することは、ほとんど不可能になる。国家の外側には、こうした収奪不可能な生業活動が、多種多様に広がっていたというのである。

著者はさらに、メソポタミア「文明」から見た「辺境」のコミュニティに着目する。

狩猟採集を生業としていたため、文字として記録されなかった人々だ。こうした人々は、文字の使用を拒絶していたという。これは、文字を持つだけの知性が無かったからではなく、むしろ、文字に備わる課税と支配の構造を回避しようとしていたからかもしれない。

文字を記す側である行政官からすると、国家という枠の外にある、徴税が及ばない連中になる。「文字を記す側=中央」と「徴税できない連中=辺境」の構図が出来上がる。

文字を記す側は、自分たちの権力の正当性や血統をプロパガンダする必要がある。自らを中央とするために、課税を逃れ、臣民にならない連中を、「辺境」として非難する必要がある。

この発想は、『遊牧民から見た世界史』で学んだ、中華思想そのものになる。中国皇帝が世界の真ん中で最高の価値を持ち、周辺に行くにつれ程度が低くなり、辺境より先は蛮族として卑しむ華夷思想だ。そしてこの傾向は、中国に限らず、文字を残したあらゆる文明に共通する。

わたしたちは、残された文字に書かれた内容から、当時を想像する他はない。だが、文字として残っていなかったからといって、存在しなかったことにはならない。

定住社会において、「中心」として自らの正当性を記録するのであれば、それは岩や石、粘土に刻んで焼くといった遺し方をするだろう(そして、まさにそれらが、いま見ることができる史料だ)。

だが、移動を中心とした社会では、たとえ記録を残すとしても、運搬に適さない重量物には刻まなかったはずだ。もっと軽い、竹や皮、繊維を編んだものに印をつけるといった手段を取ったに違いない。数千年の時を経て、どちらが残りやすいかを考えると、火を見るよりも明らかだ。

他にも、「暗黒時代」や「野蛮人」という言葉が刷り込んでいるバイアスを解いたり、文明の「発展」と、そこに生きる臣民の「幸福」を実証的に考察する。最新の考古学・人類学の論文や文献で、わたしの常識を揺さぶってくる。

常識を問い直し、自分で考え直す観点と材料が得られる。

本書は、尾登雄平さんの[歴ログの書評]で頭ガツンとやられて手にした。尾登さんが薦める歴史本にハズレなし。特に面白いネタは『あなたの教養レベルを劇的に上げる驚きの世界史』にまとめてくれている。このスゴ本に出会えたのは尾登さんのおかげ、ありがとうございます!

書評全文:文明と穀物の深い関係『反穀物の人類史』

 

スゴ本2022

「後で読む」は、あとで読まない。
「後で読む」は、あとで読まない。
「後で読む」は、あとで読まない。

これは、わたし自身に言い聞かせてる。

「いずれ」「そのうち」「今度の休み」「定年後」読・ま・な・い。

だから「いま」読む。

去年の「この本がスゴい!2020」を振り返ってみる。

『バクマン』終わって『ドロヘドロ』『エマ』に手を出している。R.R.マーティン『氷と炎の歌』は翻訳待ちで、ドラマはシーズン7の佳境(徹夜小説&徹夜ドラマだ)。マルセル・シュウォッブはちびちび読んでる。プルースト『失われた時』は絶賛挫折中なので、次の鈍器ならピンチョン『重力の虹』だな。

去年はエリアーデ『世界宗教史』、大江一道『世界近現代全史』を掲げていたけど、『岩波講座 世界歴史』が出たので、これを最優先に読む!(宣言)。上原亮『実在論と知識の自然化』を進めるためには、定期読書会かラーニングログのような仕掛けが必要だ。

ベイトソンの『精神の生態学』は合わないので損切り、洋書で挑戦していた ”Lost in Math” は、翻訳された『数学に魅せられて、科学を見失う』がまさに今年のスゴ本になっている。

「面白いとは何か、面白いと感じる時、何が起きているのか」というテーマは取り組み中。骨しゃぶりさんお薦めの『ヒットの設計図』『好き嫌い』を手がかりに、今年のスゴ本『進化でわかる人間行動の事典』を加え、レイコフ『レトリックと人生』、デネット『ヒトはなぜ笑うのか』を再読している。物語構造としての面白さや、視線誘導としての面白さは、『ストーリーボードで学ぶ物語の組み立て方』から分析する。

人生の持ち時間は少ない。やりたいことは、「いま」やろう。

これからも、わたしを震わせ、揺るがせ、行動を変えていくようなスゴ本は、このブログや、twitterで発信していくつもり。

もしあなたが、「それが良いならコレなんてどう?」なんてお薦めがあれば、ぜひ教えて欲しい。それはきっと、わたしのアンテナでは届かない、素晴らしい本に違いない。

なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

 

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