人生は残酷だが美しい『地上で僕らはつかの間きらめく』
この小説は、母に宛てた手紙の形で綴られている。
もう一度、最初から始めよう。
母さんへ
僕は今、あなたに声を届けたくて手紙を書いています―――ここに言葉を一つ記すたびに、あなたから遠ざかることになるのだけれど。僕が手紙を書いているのは、あの時に戻るためだ。
「母さん」は読み書きができない。ベトナムからアメリカに渡り、女手一つで家族を養っている。きちんとした教育を受けていないので、英語はほとんどできない。
そんな母に向けて、「僕」は、母との思い出とともに今の思いを綴る―――
―――こんな設定だと、すれっからしの私にピンとくる。ケン・リュウ『紙の動物園』みたいじゃないかと。中国系移民である母の自己犠牲が、涙腺を刺しにくる話だ。
この小説は、そんなお手軽な展開にならない。
「僕」は、母から割とパワフルな虐待を受けていたからだ。じゃぁ、暴力を振るっていた母への恨みつらみの物語かというと、そっちでもない。「僕」は、母が受けてきた痛みも分かるからだ。
人生を擦り減らす痛み、生きるために身体を差し出す苦しみ、この小説には、様々な痛みが描かれている……読んでいると、まるで生きることは痛みだ、と思えてくる。
『地上で僕らはつかの間きらめく』は、ベトナム系詩人であるオーシャン・ヴォンの、最初の小説になる。
語り手の「僕」は、ヴォンとよく似た境遇の、ベトナム系アメリカ人の青年になる。
学校ではいじめられ、家では母から暴力を振るわれた子供時代、バイト先で知り合った青年に恋をしたハイスクール時代、そして詩人となった現在までの、さまざまな出来事が、母への手紙の中で綴られてゆく。
生きることは痛みだという通底音の中に、時折、恐ろしいほど美しい一瞬が輝きを放つ。それは、海と空の広がりを喚起させるイメージだったり、欲望の輪郭を逆光のように染め上げる光景だったりする。
美しいな、と感じたのは、タバコ農場で出会ったトレヴァーの視線だ。
でも、僕がそのとき感じたのは欲望ではなく、静かに蓄積する電荷のような可能性だった。僕をその場にとどめたまま、自身の重力を発散する感情みたいなもの。畑で僕を見たときのあの目。目の前に積み上がっていく緑色のたばこの葉を見ながら、肩を並べて作業をしたあの短い時間、僕たちの腕は時々互いに触れ合った。
人を好きになり始める「あの感覚」を、「静かに蓄積する電荷のような可能性」という表現に撃たれた。
まだ自分の「好き」に気づいていない感覚……これ、切り取った引用だけで伝わるか不安だが、人を好きになったプロセスに注意を払ったことがある人なら分かるだろうか。
スイッチのON/OFFのようにデジタルに切り替わるのではなく、身体の内側を満たしていくなにか―――普通だと「熱」として描かれることが多いが、この熱は発散するのではなく方向を持っている―――を感じたことがあるなら、分かるかもしれない。
「僕」とトレヴァーとの恋が美しい。
自分の中の性的志向に戸惑いながらも、おずおずと歩み寄り、自分の殻を破り、外へ出ると同時に、自分の欲望にも踏み込む。僕もトレヴァーも同じものを欲望していることを自覚して、実行する。その決然たる所作の一つ一つが、美しい。
そうした輝きも束の間の出来事になる。
フラッシュバックやフラッシュフォワードを織り交ぜ、「僕」の語りは行きつ戻りつしながら、現在に向かう。ベトナム戦争のナパーム攻撃やオピオイドの薬害や全身をがんに蝕まれ迎える壮絶な死を描き、生きることは痛みだという基底に戻ってゆく。
読み手は、埋め込まれた輝きの一つ一つを拾い上げるように進めてゆく。私が見つけたきらめきをいくつか並べよう。
だってあなたは覚えているのだから。そして思い出は二度目のチャンスだから。
永遠に続くものなんて存在しない、と人は言う。でも本当は、何かが自分の愛より長続きするのを恐れているだけだ。
本当のことを言うと、アメリカは神の下にある一つの国ではなく、薬物の下、ドローンの下にある国だ
本当は「あなたは幸せなの?」と言いたいのに、いつも「元気?」と言ってしまってごめんなさい
美しいものには命をかける価値がある、と僕は学んだ
私が一番気に入っているのはこれ。
完璧な喜びは、うれしいという感覚さえ排除する。なぜなら、対象によって満たされた魂には、"私"という部分さえ残されてはいないからだ。
これは、「僕」がトレヴァーに乗られた状態での言葉だ。自分がまだそこに存在していること、僕が僕であることを確認するため、背後に手を伸ばす。そこで手に触れたのが、自分の身体ではなく、トレヴァーだったことに気づく。そこには、「僕」すらいないのだ。
人生は残酷な痛みでできている。そこにきらめきを見いだす、詩のような小説。
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