『蛇の言葉を話した男』の面白さを、あらすじ抜きで伝える
まず証拠。この小説が面白い証拠だ。
背表紙を見てほしい。少しナナメに歪んでいることが分かるだろうか。あるいは、小口(開くところ)だと斜めにひしゃげている。これが、一気に読んだ証拠だ。
説明する。
まっさらの本は、背表紙も小口もまっすぐで、上からのぞいたら、長方形に見える。
扉を開くと、開いたほうに背表紙が引っ張られ、斜めに歪む。扉を閉じれば、歪みは元に戻る。そして、閉じている間は、本は元の形に戻ろうとする。
ところが、開きっぱなしだと、背表紙はずっと引っ張られたままとなり、歪みが戻りにくくなる。その時間が長いほど、歪みは強化される。つまり、一気に読まれるような本であるほど、このようにひしゃげてしまうのだ。
読み始めたら止まらない、そういう本は、確かにある。巻を措く能わずとか、page-turnerと形容される、中毒性の高い物語。
それが、『蛇の言葉を話した男』だ。
あらすじなんて野暮なネタバレはしない。だが、帯文に違和感があるので、そのツッコミでもって紹介としよう。
帯にはこうある。
これがどんな本かって?
トールキン、ベケット、M.トウェイン、宮崎駿が
世界の終わりに一緒に酒を呑みながら
最後の焚き火を囲んで語ってる、そんな話さ。
だいたいあってる。不条理と諧謔と異形を折り込んだ、壮大なファンタジーという趣旨なのだろう。だけどこれだと、エンタメ(プラス寓話)に留まってしまう。
それでも十二分に面白いのだが、痛切に刺さった印象(味・匂い・肌感覚)がいくつかあって、それこそがこの物語を極上の逸品にしている。
たとえば、蛇の言葉を話す「ぼく」。
「ぼく」が、全く異なる価値体系で、世界を問い直しているところがすごい。私たちが常識だと考えていること、重要だと見なしていることは、「ぼく」に言わせると、馬鹿で哀れなものにすぎない。逆に、私たちからすると、「ぼく」のほうこそ頭が足りないと見えるだろう。
『すばらしい新世界』と同じ味
この価値観の倒錯は、ハクスリー『すばらしい新世界』と同じ味がする。
西暦2540年のディストピアを描いた傑作古典だ(もう「古典」って言ってもいいよね)。工場で生産された人間を飼い馴らす完璧な管理社会に、一人の「野蛮人」が連れてこられる―――そんなストーリーなのだが、この「野蛮人」の指摘が、そのまんま『蛇の言葉』と好対照を成す。
人間性が喪失した世界で、それでも人であろうとすると、どんな目に遭うか―――『すばらしい新世界』の黒いユーモアに笑った人は全員、まちがいなく、『蛇の言葉』で爆笑するだろう。
『悪童日記』と同じ匂い
倒錯した価値観の語られ方は、アゴタ・クリストフ『悪童日記』と同じ匂いがする。
『悪童日記』は、双子が「ぼくたち」として綴る日記形式の物語だ。戦火を逃れて田舎へ疎開するが、非情な運命に向き合わされる。読者はすぐに気づくのだが、「ぼくたち」は普通ではない。非常に賢いが、倫理性の欠片もなく、人間ぽく見えない。
その言動は奇異に見えるかもしれないが、戦争によって狂わされた日常にとってはむしろ、合理的に見える―――『悪童日記』の「ぼくたち」にそう感じた人は、『蛇の言葉』の「ぼく」にも同じ思いを抱くだろう。そして、再度感じるかもしれぬ、狂気と正気は多数決だということに。
『百年の孤独』とシンクロ
神話の誕生を垣間見る感覚は、ガルシア=マルケス『百年の孤独』とシンクロする。
衰退が運命づけられ、「最後の〇〇」や「△△と最後に会った男」など、ラスト・オブ・〇〇臭が漂う中で、過剰で濃厚で圧倒的な密度で騙られる物騙り。その展開に漫然と身を任せ楽しんでいるうち、そこに仕込まれた寓意に気づくと驚愕する仕掛けになっている。
運命から全力疾走した先に運命が待ち構えている構図や、叙事的に言葉を重ね、丁寧に現実を語っているのに幻想に誤読できてしまう描写など、ぜんぜん違う物語なのに、新しい『百年の孤独』を読んでいるかのような気になる。
他にも、マイク・レズニック『キリンヤガ』、イタロ・カルヴィーノ『不在の騎士』など、これまで読んできた様々な傑作と、同じ舌触りでありながら、まるで違う物語である。
読み始めたら止まらない、そういう本は、確かにある。巻を措く能わずとか、page-turnerと形容される、中毒性の高い物語。
それが、『蛇の言葉を話した男』だ。
| 固定リンク
コメント