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単純化した構造で歴史を語る危うさ『グローバル・ヒストリー』

「開国」という言葉に違和感がある。

なぜなら、江戸時代は鎖国をしていたというが、オランダや中国、朝鮮や琉球、アイヌと交易を行っていたからだ。近代化に向けた啓蒙のニュアンスを感じるからだ。

確かに、鎖国方針の停止は大きな転換点だ。しかし、普通にあった西洋以外との交易を無視して、欧米との交易開始を、「国を開く」と強調することにもやっとしている。

ドイツの歴史学者・ゼバスティアン・コンラートによると、この「開国」というレトリックは、日本だけでなく、中国、朝鮮にも適用されているという。西洋以外とのつながりを無視し、欧米との関係の開始を際立たせるために用いられる表現になる。

コンラートは同様に、「国民」「革命」「社会」といった概念に注意を向ける。あまりに馴染んでしまっているので普通に見えるが、これらは、ヨーロッパの局地的な経験を、普遍的な理論として他の地域に押し付けるための用語になるという。

ヨーロッパ中心史観からの脱却

19世紀からの西洋のヘゲモニーの圧力の下で、ヨーロッパ中心史観が歴史記述を覆っているという。ウィリアム・マクニール『西洋の台頭』に代表されるように、ヨーロッパが独自に達成した成果が、周辺へと伝播する一方通行の世界史だというのだ。

この指摘は的を射ている。私が読んだのはマクニールの『世界史』だが、同じスタンスだったからだ。帝国主義を現金収支に換算したうえで、コスト/メリットが割に合わなかった(だから収奪という指摘は当たらない)という自己正当化は、ヨーロッパ中心史観による世界史の語り直しと言ってもいいだろう。

しかし、ヨーロッパが「ひとりでに」発展して近代社会が形成されたわけではなく、非ヨーロッパ世界との相互作用が決定的な役割を果たしているという。インドの歴史家のサンジェイ・スプラマニヤムはこう述べる。

近代とは、歴史的にグローバルに絡み合った現象であって、発生源から広がるウイルスのようなものではない。近代は、孤立していた社会を接続させる一連の歴史的プロセスのなかに位置づけられ、広範に及ぶさまざまな現象のなかに、その根を求めなければならない(※1)。

例えば、近代化の代名詞ともなっている「人権」という概念は、フランス革命を契機にヨーロッパから世界中に広まったと喧伝されているが、同時代のハイチでは権利の言説として普遍化されていたという(※2)。

「近代化」という用語それ自体も、西洋のヘゲモニーにあるといえる。これに取って代わる共通的な言葉が無いため、これからも使い続けられるだろう。だが、少なくともヨーロッパ中心的な価値観をまとっていることを自覚しながら使いたい。

ナショナル・ヒストリーの限界

一方で、近年の歴史学では、ナショナル・ヒストリーからの脱却も目指されている。

ナショナル・ヒストリーとは日本史、フランス史、ベトナム史といった国民史のことで、一国内だけで歴史的変化を説明するアプローチだ。

これは、教育のプロセスの中で、ナショナル・アイデンティティを形成し、国民国家を建設するプロジェクトとしては有効だったかもしれない。だが、イデオロギーや政治・経済活動、ウェブを基盤とするコミュニケーションの広がりが地球規模になっているいま、一国の歴史だけで自国を語るのは、現実的ではないだろう。

これを、無理やり統一的に語ろうとすると、羽田正『新しい世界史へ』で紹介されているような、奇妙な歴史記述になる。たとえば、中国における「漢民族による中華の統一と分裂」というStory(≠History)や、フランスにおける「自国史+植民地史」という「世界史」ができあがる。

現在、私たちの目に映る国境線で分けられた中の「国としてのまとまり」なんてものは、かなり人工的なもので、場所によっては恣意的とすら言っていい。言語や文化、民族と宗教、生物学的特徴、ライフスタイルから価値観といった、様々な重なりの結果にすぎない。

グローバル・ヒストリーとは何か

ヨーロッパ中心史観から脱却し、ナショナル・ヒストリーの限界を乗り越えるため、グローバル・ヒストリーが提案されている。

グローバル・ヒストリーは、研究対象ではなく、固有の視点だという。

例えば、グローバル・ヒストリーは、ある地域に着目して、その内因的な変化を追いかけたり、異なる地域を比較して、相似や異同を明らかにする歴史叙述ではない。代わりに、次のように述べている。

個人や社会が、他の個人や社会と相互作用する仕方にとりわけ注意をはらう。その結果、領域性、地政学、循環、ネットワークといった空間的メタファーが、発展、ずれ、後進性といった時間の語彙にとって代わる傾向がある(※3)。

この傾向は、必然的に、近代化を目的とした歴史叙述を否定するという。つまり、社会的な変化の方向は決まっており、古い伝統から、近代社会へ発展していく……といった観念を批判する。世界の全ては、ヨーロッパの歴史通りに経験していくという考えの否定である。

その実例は、コンラート自身が示している。

それは、「記憶をめぐる戦争」と名づけられた、日本の歴史教科書の問題だ(※4)。コンラートは1990年代の教科書の記述内容についての議論を俎上に、日本、中国、韓国と異なる場所で共時的に起きた構造を明らかにする。

冷戦の終焉に伴い、政治的・経済的な変容の中で、韓国や中国の犠牲者の声が日本で耳を傾けられるようになり、新しい政治的連携が国境を超えて生まれたという。これは戦争記憶の回帰ではなく、地政学的構造によって条件づけられた、新しいアジアの公共圏の到来だと示している。

ファシズムのグローバル・ヒストリー

一方で、ファシズムの歴史化を、グローバル・ヒストリーから試みる。

これまでの歴史家は、ファシズムを定義しようとし、カリスマ的リーダーや、大衆動員、あるいは超国家主義イデオロギーといった用語のリストを作り上げる。

だが、こうした特徴は、ヨーロッパが経験したファシズムに由来している。そのため、日本やアルゼンチンなどの事例を見ることを困難にしているという(できたとしても、ヨーロッパの劣化コピーになる)。

実際のところ、ドイツ国家社会主義(ナチズム)でさえ、イタリア・ファシズムによって据えられたモデルにしたがっているわけでもないし、その逆でもない。

だが、グローバル・ヒストリーからのアプローチの場合、ドイツやイタリアのモデルを踏襲して他の地域でファシズムが生まれたと考えるのではなく、ヨーロッパのモデルをどの程度着想の源泉としたかという観点から捉えなおすことができる。

その時代には、現代の歴史家が並べるファシズムの定義はなかった。当時の社会が共有していた情報の中で、各国政府は、自由主義と共産主義の間で第三の道を模索していた。こうした状況を踏まえ、物資や人民を動員するための新しい組織形態へと至らしめたものは何か……そこに焦点を当てて体系化することで、ファシズムについてグローバルな統合を図ることができるというのだ。

ビッグ・ヒストリーとの違い

グローバルな視点で歴史を捉えなおすなら、ジャレド・ダイアモンドやデヴィッド・クリスチャンの仕事が思い浮かぶ。

彼らの世界史は、戦争や革命など、人が関与する個々の歴史的事象を分析しない。代わりに、人類の営みを数千年スケールで捉えなおし、大陸を塊とした巨視的なレベルで分析する。地質学や疫学、進化生物学を援用し、科学的手法で歴史を記述しなおそうとする。

例えば、ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』なんて典型的だと思う。

「ヨーロッパがアメリカ大陸を侵攻できたのはなぜか?」という疑問に対し、武器や装備、文化や宗教、気質や独創性といったファクターから離れ、決定的な差異は地質学的なものだと指摘する。

すなわち、南北に広がるアメリカ大陸とは異なり、東西に広がるユーラシアの地塊では、気候的に似通った社会が数多く存在する。そのため、定住に必要な動植物がより速く伝播することになる。加えて家畜の伝播の副作用として、病原菌への耐性も培われていたというのだ。

これは、グローバル・ヒストリーではないのか?

コンラートは慎重に言葉を分ける。彼らの仕事は、ビッグ・ヒストリーまたはディープ・ヒストリーだというのだ。

もちろん、グローバル・ヒストリーは、ある世紀全体を描くような時間幅を持たせ、地理的に離れた地域で同時代に起こった共時性に着目した研究を行う。だが、そこで扱われているのは、個人や集団の「人」を視野に入れている。

一方で、ビッグ/ディープ・ヒストリーでは、人の役割は後ろに退き、歴史は匿名のマクロな力に動かされているイメージを伝える。地理や環境の力は絶大で、人の行為主体性や偶発性といったものは考慮されない。ダイアモンド曰く、「主題は歴史学であるが、アプローチ的には科学的手法」(※5)なのである。

コンラートは、こうした手法の危うさを指摘する。地理的な要素や環境条件は人の営為にとって重要だが、人の活動のすべてを決定するわけではないからだ。

ホロコーストは「人」の所業

これを考える事例として、ナチス・ドイツを挙げている。

ある短い時間枠にズームすると、特定の個人や集団の行為が浮上する。1933年のヴァイマル共和政や、1942年のヴァンゼー会議と、そこで検討されたユダヤ人の殺害のプロトコルが研究対象になる。そこでは、出席者の個々人の責任が問われることになるだろう。

この時間枠を広げると、特定の個人や集団は退き、より多くの匿名のファクターが登場する。19世紀以前からのドイツにおける反セム主義の役割や、ルターまで遡る権威主義的傾向が考慮に入ってくるというのだ。

空間的尺度についても同様だという。諸地域の学校の教師が、ユダヤ系の子どもたちをどのように扱ったか、その動機は何であったかに焦点を合わせた研究もある。ズームアウトすると、党エリートや官僚制内部の競合や社会制度の責任に焦点を当てることもできる。

コンラートは、こうした個々のアクターを退け、グローバルなファクターを特権化することに疑問を呈する。すなわち、ホロコーストがグローバルな諸力によって説明されうるなら、ナチスへの焦点がぼやけてしまわないか? という疑問である。

グローバル・ヒストリーの課題

この疑問は、グローバル・ヒストリーの課題となる。

時空間の尺度を広げることにより、起こったことが不可避であり、あたかも必然であったかのようにミスリードする危険性がある。そこでは個人や集団の役割が存在しないかのように描き出され、説明責任や罪の問題を外部化してしまう恐れが出てくる。

全てをグローバルで捉えようとすると、歴史の中から固有名詞が失われていく。十字軍を開始したのは誰か、太平天国の乱で苦しんだのは誰か、そしてヴァンゼー会議の議長は誰かといった「人」の行為主体性が失われることになる。

こうしたミスリードに陥らないためには、グローバルなファクターと、「人」の行為主体性とのバランスが重視されることになる。歴史を単純化した構造で語りたい誘惑は、常につきまとう。だが、その構造だけでは語ったことにはならない。なぜなら、歴史は人の営為であるのだから。

コンラート『グローバル・ヒストリー』は、歴史を語る、その語り方についての考察を深めてくれる。

※1  Hearing Voices: Vignettes of Early Modernity in South Asia, 1400-1750

※2  Laurent DUBOIS ,”Avengers of the New World: The Story of the Haitian Revolution” Harvard University Press,2009

※3  『グローバル・ヒストリー』 ゼバスティアン・コンラート、岩波書店 p.65

※4  Sebastian Conrad, Remembering Asia: History and Memory in Post-Cold War Japan

※5  『銃・病原菌・鉄』ジャレド・ダイアモンド、草思社、上巻 p.46



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