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単純化した構造で歴史を語る危うさ『グローバル・ヒストリー』

「開国」という言葉に違和感がある。

なぜなら、江戸時代は鎖国をしていたというが、オランダや中国、朝鮮や琉球、アイヌと交易を行っていたからだ。近代化に向けた啓蒙のニュアンスを感じるからだ。

確かに、鎖国方針の停止は大きな転換点だ。しかし、普通にあった西洋以外との交易を無視して、欧米との交易開始を、「国を開く」と強調することにもやっとしている。

ドイツの歴史学者・ゼバスティアン・コンラートによると、この「開国」というレトリックは、日本だけでなく、中国、朝鮮にも適用されているという。西洋以外とのつながりを無視し、欧米との関係の開始を際立たせるために用いられる表現になる。

コンラートは同様に、「国民」「革命」「社会」といった概念に注意を向ける。あまりに馴染んでしまっているので普通に見えるが、これらは、ヨーロッパの局地的な経験を、普遍的な理論として他の地域に押し付けるための用語になるという。

ヨーロッパ中心史観からの脱却

19世紀からの西洋のヘゲモニーの圧力の下で、ヨーロッパ中心史観が歴史記述を覆っているという。ウィリアム・マクニール『西洋の台頭』に代表されるように、ヨーロッパが独自に達成した成果が、周辺へと伝播する一方通行の世界史だというのだ。

この指摘は的を射ている。私が読んだのはマクニールの『世界史』だが、同じスタンスだったからだ。帝国主義を現金収支に換算したうえで、コスト/メリットが割に合わなかった(だから収奪という指摘は当たらない)という自己正当化は、ヨーロッパ中心史観による世界史の語り直しと言ってもいいだろう。

しかし、ヨーロッパが「ひとりでに」発展して近代社会が形成されたわけではなく、非ヨーロッパ世界との相互作用が決定的な役割を果たしているという。インドの歴史家のサンジェイ・スプラマニヤムはこう述べる。

近代とは、歴史的にグローバルに絡み合った現象であって、発生源から広がるウイルスのようなものではない。近代は、孤立していた社会を接続させる一連の歴史的プロセスのなかに位置づけられ、広範に及ぶさまざまな現象のなかに、その根を求めなければならない(※1)。

例えば、近代化の代名詞ともなっている「人権」という概念は、フランス革命を契機にヨーロッパから世界中に広まったと喧伝されているが、同時代のハイチでは権利の言説として普遍化されていたという(※2)。

「近代化」という用語それ自体も、西洋のヘゲモニーにあるといえる。これに取って代わる共通的な言葉が無いため、これからも使い続けられるだろう。だが、少なくともヨーロッパ中心的な価値観をまとっていることを自覚しながら使いたい。

ナショナル・ヒストリーの限界

一方で、近年の歴史学では、ナショナル・ヒストリーからの脱却も目指されている。

ナショナル・ヒストリーとは日本史、フランス史、ベトナム史といった国民史のことで、一国内だけで歴史的変化を説明するアプローチだ。

これは、教育のプロセスの中で、ナショナル・アイデンティティを形成し、国民国家を建設するプロジェクトとしては有効だったかもしれない。だが、イデオロギーや政治・経済活動、ウェブを基盤とするコミュニケーションの広がりが地球規模になっているいま、一国の歴史だけで自国を語るのは、現実的ではないだろう。

これを、無理やり統一的に語ろうとすると、羽田正『新しい世界史へ』で紹介されているような、奇妙な歴史記述になる。たとえば、中国における「漢民族による中華の統一と分裂」というStory(≠History)や、フランスにおける「自国史+植民地史」という「世界史」ができあがる。

現在、私たちの目に映る国境線で分けられた中の「国としてのまとまり」なんてものは、かなり人工的なもので、場所によっては恣意的とすら言っていい。言語や文化、民族と宗教、生物学的特徴、ライフスタイルから価値観といった、様々な重なりの結果にすぎない。

グローバル・ヒストリーとは何か

ヨーロッパ中心史観から脱却し、ナショナル・ヒストリーの限界を乗り越えるため、グローバル・ヒストリーが提案されている。

グローバル・ヒストリーは、研究対象ではなく、固有の視点だという。

例えば、グローバル・ヒストリーは、ある地域に着目して、その内因的な変化を追いかけたり、異なる地域を比較して、相似や異同を明らかにする歴史叙述ではない。代わりに、次のように述べている。

個人や社会が、他の個人や社会と相互作用する仕方にとりわけ注意をはらう。その結果、領域性、地政学、循環、ネットワークといった空間的メタファーが、発展、ずれ、後進性といった時間の語彙にとって代わる傾向がある(※3)。

この傾向は、必然的に、近代化を目的とした歴史叙述を否定するという。つまり、社会的な変化の方向は決まっており、古い伝統から、近代社会へ発展していく……といった観念を批判する。世界の全ては、ヨーロッパの歴史通りに経験していくという考えの否定である。

その実例は、コンラート自身が示している。

それは、「記憶をめぐる戦争」と名づけられた、日本の歴史教科書の問題だ(※4)。コンラートは1990年代の教科書の記述内容についての議論を俎上に、日本、中国、韓国と異なる場所で共時的に起きた構造を明らかにする。

冷戦の終焉に伴い、政治的・経済的な変容の中で、韓国や中国の犠牲者の声が日本で耳を傾けられるようになり、新しい政治的連携が国境を超えて生まれたという。これは戦争記憶の回帰ではなく、地政学的構造によって条件づけられた、新しいアジアの公共圏の到来だと示している。

ファシズムのグローバル・ヒストリー

一方で、ファシズムの歴史化を、グローバル・ヒストリーから試みる。

これまでの歴史家は、ファシズムを定義しようとし、カリスマ的リーダーや、大衆動員、あるいは超国家主義イデオロギーといった用語のリストを作り上げる。

だが、こうした特徴は、ヨーロッパが経験したファシズムに由来している。そのため、日本やアルゼンチンなどの事例を見ることを困難にしているという(できたとしても、ヨーロッパの劣化コピーになる)。

実際のところ、ドイツ国家社会主義(ナチズム)でさえ、イタリア・ファシズムによって据えられたモデルにしたがっているわけでもないし、その逆でもない。

だが、グローバル・ヒストリーからのアプローチの場合、ドイツやイタリアのモデルを踏襲して他の地域でファシズムが生まれたと考えるのではなく、ヨーロッパのモデルをどの程度着想の源泉としたかという観点から捉えなおすことができる。

その時代には、現代の歴史家が並べるファシズムの定義はなかった。当時の社会が共有していた情報の中で、各国政府は、自由主義と共産主義の間で第三の道を模索していた。こうした状況を踏まえ、物資や人民を動員するための新しい組織形態へと至らしめたものは何か……そこに焦点を当てて体系化することで、ファシズムについてグローバルな統合を図ることができるというのだ。

ビッグ・ヒストリーとの違い

グローバルな視点で歴史を捉えなおすなら、ジャレド・ダイアモンドやデヴィッド・クリスチャンの仕事が思い浮かぶ。

彼らの世界史は、戦争や革命など、人が関与する個々の歴史的事象を分析しない。代わりに、人類の営みを数千年スケールで捉えなおし、大陸を塊とした巨視的なレベルで分析する。地質学や疫学、進化生物学を援用し、科学的手法で歴史を記述しなおそうとする。

例えば、ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』なんて典型的だと思う。

「ヨーロッパがアメリカ大陸を侵攻できたのはなぜか?」という疑問に対し、武器や装備、文化や宗教、気質や独創性といったファクターから離れ、決定的な差異は地質学的なものだと指摘する。

すなわち、南北に広がるアメリカ大陸とは異なり、東西に広がるユーラシアの地塊では、気候的に似通った社会が数多く存在する。そのため、定住に必要な動植物がより速く伝播することになる。加えて家畜の伝播の副作用として、病原菌への耐性も培われていたというのだ。

これは、グローバル・ヒストリーではないのか?

コンラートは慎重に言葉を分ける。彼らの仕事は、ビッグ・ヒストリーまたはディープ・ヒストリーだというのだ。

もちろん、グローバル・ヒストリーは、ある世紀全体を描くような時間幅を持たせ、地理的に離れた地域で同時代に起こった共時性に着目した研究を行う。だが、そこで扱われているのは、個人や集団の「人」を視野に入れている。

一方で、ビッグ/ディープ・ヒストリーでは、人の役割は後ろに退き、歴史は匿名のマクロな力に動かされているイメージを伝える。地理や環境の力は絶大で、人の行為主体性や偶発性といったものは考慮されない。ダイアモンド曰く、「主題は歴史学であるが、アプローチ的には科学的手法」(※5)なのである。

コンラートは、こうした手法の危うさを指摘する。地理的な要素や環境条件は人の営為にとって重要だが、人の活動のすべてを決定するわけではないからだ。

ホロコーストは「人」の所業

これを考える事例として、ナチス・ドイツを挙げている。

ある短い時間枠にズームすると、特定の個人や集団の行為が浮上する。1933年のヴァイマル共和政や、1942年のヴァンゼー会議と、そこで検討されたユダヤ人の殺害のプロトコルが研究対象になる。そこでは、出席者の個々人の責任が問われることになるだろう。

この時間枠を広げると、特定の個人や集団は退き、より多くの匿名のファクターが登場する。19世紀以前からのドイツにおける反セム主義の役割や、ルターまで遡る権威主義的傾向が考慮に入ってくるというのだ。

空間的尺度についても同様だという。諸地域の学校の教師が、ユダヤ系の子どもたちをどのように扱ったか、その動機は何であったかに焦点を合わせた研究もある。ズームアウトすると、党エリートや官僚制内部の競合や社会制度の責任に焦点を当てることもできる。

コンラートは、こうした個々のアクターを退け、グローバルなファクターを特権化することに疑問を呈する。すなわち、ホロコーストがグローバルな諸力によって説明されうるなら、ナチスへの焦点がぼやけてしまわないか? という疑問である。

グローバル・ヒストリーの課題

この疑問は、グローバル・ヒストリーの課題となる。

時空間の尺度を広げることにより、起こったことが不可避であり、あたかも必然であったかのようにミスリードする危険性がある。そこでは個人や集団の役割が存在しないかのように描き出され、説明責任や罪の問題を外部化してしまう恐れが出てくる。

全てをグローバルで捉えようとすると、歴史の中から固有名詞が失われていく。十字軍を開始したのは誰か、太平天国の乱で苦しんだのは誰か、そしてヴァンゼー会議の議長は誰かといった「人」の行為主体性が失われることになる。

こうしたミスリードに陥らないためには、グローバルなファクターと、「人」の行為主体性とのバランスが重視されることになる。歴史を単純化した構造で語りたい誘惑は、常につきまとう。だが、その構造だけでは語ったことにはならない。なぜなら、歴史は人の営為であるのだから。

コンラート『グローバル・ヒストリー』は、歴史を語る、その語り方についての考察を深めてくれる。

※1  Hearing Voices: Vignettes of Early Modernity in South Asia, 1400-1750

※2  Laurent DUBOIS ,”Avengers of the New World: The Story of the Haitian Revolution” Harvard University Press,2009

※3  『グローバル・ヒストリー』 ゼバスティアン・コンラート、岩波書店 p.65

※4  Sebastian Conrad, Remembering Asia: History and Memory in Post-Cold War Japan

※5  『銃・病原菌・鉄』ジャレド・ダイアモンド、草思社、上巻 p.46



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ピンチョン『ブリーディング・エッジ』読書会が楽しすぎて時が溶けた

ありのまま、起こったことを話すと、読書会が始まったかと思ったら、いつのまにか終わってた。何を言ってるのか分からないかもしれないが、私も何が起きたのか分からない。

トマス・ピンチョンの最新作『ブリーディング・エッジ』のオンライン読書会に参加したら、時間が溶けた。みなさんのオリジナルな斬り口、読者目線、ネタ、面白解釈、論争発火点を次々と聞いているうちに、あっという間に4時間が過ぎた。


ウェブで死者と出会う意味

もちろんピンチョンだから、どこをどう料理しても面白い。

百科全書な小説で、神話や歴史から始まって文学、数学、物理学、暴力と陰謀とパラノイア、都市伝説と幻想怪奇、洒落と地口、メタフィクション、セルフパロディなど、いくらでも、どれだけでも話せる。

たとえば誰かが「ここ良いよねー」と言うと、皆でふむふむと読み直しながら、あーでもない、こーでもないと同意したりツッコんだり。オンラインだから各人の画面で見ているけれど、これ、同じ画面をスクリーンに映しながら検索結果や Youtube や GoogleMap を眺めながら話したら、無限に語り合える気がする。

しかも今回、『ブリーディング・エッジ』は2000年代のTech系(しかもウェイ系)を俎上に乗せているから、IT関連の皆さんからすると大好物だったかもしれぬ。

たとえば、ウェブで死者と出会うこと。

あの時代は、本人とアカウントが紐づいていた。匿名性を盾にネット人格を作る人がいる一方で、プロフィールに住所や連絡先をカジュアルに書く人も少なからずいた。だから、ネットで本人だといえば、向こう側に本人がいると考えるのが自然だった。

では、ネットの海の深~いところで、死んだはずの人が接触してきたら、どう考える? 物語の後半、主人公と深~い仲になったある男と話し合うところがある。そいつしか分からないような情報を持っているし、いかにも彼なら言いそうなセリフを吐く。

いまの感覚なら、なりすましやbotを疑う。

あるいは、パラノイア的に、彼女の偏執が生み出した妄想に過ぎないと考えることができる。一方で、ロマンティックなものとして読み取った方もいた。彼の魂じみたものがいっときとどまる場所として、ディープ・ウェブがあると考えると美談になる。私はここ、惑星ソラリスの「海」的なものを想起していたが、同じことを考えてる方がいて安心した。

パラノイア or ロマンティックと、どちらでも両義的に読めるように仕掛けてあるのが楽しい。

この「ディープ・ウェブ」、2000年代に物議をかもした「セカンドライフ」をモデルにしている(ような気がする)。ネット最大(?)という噂の仮想世界で、今でもサーバが生きてて驚いた。

ピンチョン・マゾヒズム度は低め

死者の痕跡を探すところで、昔の、フィルムノワールやスパイものの型を踏襲している、という指摘が鋭い。

シニカルな男の主人公、謎めいた女、冷酷な悪役が出てくる犯罪映画だが、その男女を逆転させている。

絶妙なタイミングで救いの手が差し伸べられたり、ドンピシャのタイミングで危機一髪を切り抜けるなど、昔のスパイ映画まんまなのだが、ピンチョンはこれを意図的にオーバーライドしているというのだ(確かにボンドガールを逆転させたような役回りのトミー・リー・ジョーンズみたいなキャラが出てくる……)。

ピンチョン「らしからぬ」物語構造への指摘も鋭かった。

ピンチョンといえば、ページをめくるたびに新しいキャラが登場し、今までの脈絡と無関係のエピソードが際限なく連なり、全く違う空間と時間で物語が展開されるなど、読者の鼻先を掴んで振り回すのが十八番だ(ピンチョン・マゾヒズムと呼ばれていたが、激しく同意するwww)。

しかし、『ブリーディング・エッジ』は主人公のマキシーンだけにライトが当たっていて、読み手は彼女だけを追いかけていれば筋が追えるようになっている。

新キャラがどんどん出てくるのは通常運転だけど、新キャラ登場→(マキシーン脳内の)回想シーン→新キャラとマキシーンの絡み→退場というシークエンスをきっちり守っており、分かりやすい。「これ誰?」にならずに読めるのは珍しい。さらに、現代のアメリカ合衆国を舞台にしているという点でも、世界に入りやすいと言える。

ピンチョン「にしては」読みやすいのも手伝って、本書は、ピンチョンの入門書としても良いかも、という意見もあった。確かにピンチョン未読の方に『メイソン&ディクソン』や『逆光』はお薦めできないなぁ……

ピンチョンの、ピンチョンによる、ピンチョンのためのセルフパロディ

ずっと引っ掛ってた謎に決着がついたのも良かった。

マキシーン、とある男に抱かれるのだが、あれほどシニカルでロジカルで辛口な彼女が、なぜ(分かったうえで)ノコノコと男の部屋に行くのが、どうしても理解できなかった。

だって、第一印象最悪だぜ? さらに某所で手に入れた情報によると、その男、南米で色々と後ろ暗いことをしていたらしく、(かつ既婚で)どう見てもお近づきにならないほうが良い経歴なのに、なぜ?

猛者たちに問うてみたところ、意外と惹かれている描写があったよとか、最初は嫌いなキャラが好きになるってマンガとかでよくあるよとか意見がもらえる。あるある、「こいつ、おもしれー女」とか、少女漫画に典型のパターンやね。

なかでもユニークなのは、恋愛モノの典型パターンを踏んだ上で、それをパロってぃるのではないか、という指摘だ。なるほど! これコミックとして軽く読んでもらうため、と考えると、その後の〇〇〇な展開が楽になってくる。物語を重くさせないための仕掛けなのかなぁ……

他にも、死ぬ死ぬフラグが立ちまくっているのに死なないキャラとか、(勃起するとミサイルが落ちてくるから)尿意が起きると情報が飛びこんでくるとか、現実と幻想の境目が分からなくなったとき、現実との錨となるのが家族といった、さまざまな視点を教えてもらう。

いわれてみると、確かにそう読める。同じ小説を読んでたのに、そう取るのか!? と何度も驚かされる。笑うポイントが微妙にずれてたり、ピッタリ合致してたり、いろいろあって楽しい。

読者の数だけ物語を成立させてみせる神技を、あらためて知らされる。たいへん楽しい読書会でした! 主催のふくろうさん、参加された皆さん、ありがとうございました。コロナ禍が落ち着いたら(これも常套句になりつつある)、酒盛りしながら本談義をしたいですね。

以下自分メモ。

ピンチョンwiki

https://pynchonwiki.com/

重力の虹wiki

https://scrapbox.io/GravitysRainbow/

ふくろうさんの『重力の虹』レビューが狂ってて好き。

https://owlman.hateblo.jp/entry/2019/12/30/192042

山形浩生さんの「トマス・ピンチョン東京行」、お手本にしたいくらい最高の嘘。

https://cruel.org/talkingheads/pynchon.html



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中学のとき国語でやった『最後の授業』は、中年になって世界史を学んだら解釈が変わった

中学のとき、国語の授業で、アルフォンス・ドーデ『最後の授業』をやった。

フランス領アルザス地方に住む少年の目を通して、ドイツに占領される悲哀を描いた短編だ。明日からフランス語は禁止され、ドイツ語で教わることになる。だから今日は、フランス語の最後の授業なのだ、という話だ。

先生はフランス語の素晴らしさを伝えながら、国語を守ることの大切さを説く。ずっと勉強をさぼっていた少年は恥じ入るが、やがて授業の終わりを告げる鐘が鳴る。先生は蒼白になりながらも、黒板に大きく、「フランスばんざい」と書く……

少年と同じくらいの年頃だったわたしは、いたく感動したことを覚えている。特に、先生の語る「ある民族が奴隷となっても、国語を守っている限り、牢獄のカギを握っているようなものだ」という一節は、長く記憶に残っている。

ところが、『詳説世界史研究』を読んだら、印象が変わった。

物語の舞台となったアルザス地方は、もともと神聖ローマ帝国の領土であり、言語的にはドイツ語圏に属していた。石炭資源が豊富なこともあり、フランスの侵略先となり、編入と割譲の歴史をたどっている。

アルザス地方における歴史的展開をまとめると、こうなる

  1. 中世以降、ハプスブルク領(神聖ローマ帝国領)によるゲルマン語派の言語が浸透(ドイツ化)
  2. フランス領となる(1648年ウェストファリア条約)。フランス革命を経て生活様式がフランス化
  3. ドイツ帝国領となる(1871年普仏戦争)。アルザス住民に国籍選択条項が適用され、フランス国籍選択者は退去(★)
  4. ドーデ『最後の授業』を発表(1873)

アルザス地方は、ドイツ圏とフランス圏の中間にあり、一種の緩衝地帯として成り立っていた。そのため、状況によってドイツ領となったり、フランス領となったりしていたのだ。

問題は3.★だ。

普仏戦争の結果、アルザス地方はドイツ領となる。住民は国籍の選択を迫られ、フランス国籍を選択した場合、退去することとなる。『最後の授業』をするアメル先生がまさにそうだ。だが、実際にフランス国籍を選択した人は、住民の9%だったという。

つまり、ほとんどの住民は、ドイツ国籍を選んだことになる。考えてみると、この少年、フランス語はダメで、まともに読んだり話したりできないといった一節があった。じゃぁ何語を話していたんだ? ということになる。作中では言及されていないが、少年の名前―――フランツ―――が全てを物語っているように思える。

ドーデが『最後の授業』を書いたのは理解できる。彼はフランスのブルジョア階級であり、愛国心を持っていたのだろう。普仏戦争の結果によるアルザス地方の割譲に危機感を抱き、書いたのだろう。

確かに、国語を守ることの大切さはその通りだ。同じフランス人である、エミール・シオランは、「祖国とは、国語だ」と言った。私たちは、ある「国」に住むのではなく、ある「国語」に住むのだというのだ。

だが、この物語はむしろ、その「国語」がイデオロギーによって歪められる好例として読んだ方がよいかもしれぬ。ドーデは彼なりの愛国心に従ってこの物語を書いた。だが、この物語が海を渡り、時を超え、「国語」の教科書に採択されることによって、美談は、欺瞞に変わったのだ。

『最後の授業』は、1985年を最後に、教科書から姿を消している。

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BRUTUS「大人の勉強案内」が良かった

なぜ勉強するのか?

わたしの場合、知りたいことを知ろうとしているだけで、「勉強している」という意識は少ない。それを知るのに英語が必要だから学んでいるだけだし、より深く知るために背景知識に当たっているだけ。

だから、より効率の良い学習法や、学びなおしが必要なジャンルを紹介されると、嬉しい。そんなわたしにピッタリの特集を、BRUTUSでやっていたのでご紹介。

好きなものを好きなだけ学ぶ(読書猿)

学ぶための動機付けから始まり、時間管理、資料の探し方、暗記術、継続して学ぶヒントなど、「独りで学ぶ」ためのあらゆる技法が詰まった『独学大全』(レビュー)。その著者の読書猿さんのインタビューが紹介されている。

『独学大全』は700ページを超える辞書並みのぶ厚い本で、その形状から「鈍器本」と呼ばれている。あまりのぶ厚さに敬遠している人は、この記事を読むといいかも。この記事そのものが、『独学大全』の良いイントロダクションとなっているから。

例えば、スキミングの技術。本は全部ちゃんと読まなくてもいいという。一冊の本、一つの文章から、必要な箇所だけを掬いとって(スキミングして)読む方法が紹介されている。だから、この記事を手がかりに、『独学大全』そのものをスキミングしてもいいわけだ(著者自身も推奨している)。

あるいは、「独学は挫折する」と言い切っているところ。「僕も毎日どころか10分ごとに挫折してますから」と苦笑ぎみに答えている。大事なのは、挫折も織り込んだ上で、失敗からの立ち直りを早くすること。今はダメでも、「未来の自分は今より賢い」という姿勢を保ち続けること。これは勇気づけられる。

『独学大全』の紹介だけにとどまらず、彼自身がやってきた失敗談も交えつつ、最終的には「なぜ学ぶのか」への実質的な答えが記されている。全面同意するが、ここでは書かないので、BRUTUSでチェックしてほしい。

対話で学びが深まる(山本貴光・吉川浩満)

そうだよなーと最近、実感しているのがこれ。一人で机に向かうだけでは限界がある。知ったことを誰かに話し、フィードバックを受けることで、さらに広げ・深める。

文筆家の山本貴光さんと吉川浩満のお二人の対談が紹介されているが、この記事がそのまま学びを深めるヒントとなっている。お二人は、古くからの友人であり、共著者であり、共に学ぶ仲間でもあるという。最近では、Youtubeで対談しつつ、まとまったものを著書にして出すというスタイルで活動している。

この記事では、お二人が対談しながら、「ドゥルーズ&ガタリ」や「荒川修作&マドリン・ギンズ」を例に、対談しながら学びを深めるエピソードが紹介されている。

「結論」が決まってるなら、そのまま書けばいい。だが、そこへ至るまでの紆余曲折やプロセス自体が重要な場合が出てくる。これを対談形式で進めることで、想定される反論を吟味したり、議論を修正することで、よりブラッシュアップすることができる。

例えば、共著である『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』がそうだ。古代ローマの賢人・エピクテトスの教えを、お二人で読み解いてゆく。生きていく上で、悩ましいこと、煩わしいことが出てくる。どうすれば良いか? 結論を言うだけなら簡単だ。

コントロールできることと、コントロールできないことに分ける。そして、コントロールできないことには関心を持たない。

そんなことは分かっている。それができたら苦労はしない。じゃぁ、どうすればこの結論を活かせるか、が問題になる。本書では、新任の年下の女上司に対するモヤモヤや、電車遅延に怒鳴り込むオッサンを例に、対話しながら領域展開していく(レビュー)。

図書館司書から学ぶ検索術(小林昌樹)

図書館のレファレンスサービスをご存知だろうか。知りたいことはあるけれど、それをどうやって調べれば良いかが分からない場合、調べもののプロである司書が手助けしてくれるサービスだ。

ググればよい、という人。じゃぁ、「最近の若者はダメだというグチは、どれくらい古くからあるか?」という疑問をググってみるといい。エジプトの壁画など怪しげなネタを取り除くと、プラトン『国家』に行き着く。これ、わたしが書いた[この記事]を出所としている。そしてこの記事は、品川図書館のレファレンスサービスで調べてもらったものだ。

BRUTUSでは、図書館情報学の小林昌樹さんが、レファレンスサービスを紹介している。司書の目から見ると、ネットでは探せない情報が確実に2つあるという。

一つは、ネット普及以前の情報。1995年以前の事柄全般は、ネットには無い。あったとしても、それは何か(たいていは書籍)を元にした情報となる。もう一つは、Googleが情報収集していないデータベースの類いになる。そうした情報は、国会図書館のリサーチ・ナビから分野ごとのデータベースに列挙されている。

ネットは便利だが、調べ方によってノイズだらけになったり、エコーチェンバーになることもある。司書がネットをどのように使っているかは、『プロ司書の検索術』がよさそう。

他にも、松岡正剛編集『情報の歴史21』の紹介や、図鑑の図鑑、地球外生命体を探求する関根康人さんの話、Youtube大学、Wikipediaの歩き方など、もう一度学びたい人のための役に立ちそうな情報が集められている。優れた独学人を探す、「人のカタログ」としても有用なり。これ、シリーズ化してほしいなぁ……

 

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