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『バイオハザード ヴィレッジ』の怖さを、ホラー作品で喩えてみる

何かに追いかけられている。

暗く、不慣れな場所で、どこへ行けばいいか分からない。闇雲に逃げ惑い、扉の鍵をガチャガチャやっているうちに捕まる。そして、死ぬよりもおぞましい目に遭うことになる。はやくGAME OVERにしてくれ、と死を願う。そんな悪夢を体感できる。

あるいは振り返り、その「何か」と対峙する。

試す価値はある。手持ちの火器をとっかえひっかえ叩き込む。「何か」を直視したくないが、攻撃が効いているかは観察しないと。さっき手に入れた武器が効いてるようだ。このまま倒せるかもしれない。期待と不安と高揚感が押し寄せてくる。

『バイオハザード ヴィレッジ』は、そういう恐怖と快楽の両方をいいとこどりしたゲームだ。


その「何か」は、さまざまな作品を彷彿とさせる。

たとえば、トビー・フーパ―監督『悪魔のいけにえ』。チェーンソーを掲げ、耳障りな大音響とともに、まっしぐらに駆け寄ってくるレザーフェイス。追いつかれたらひとたまりもなく切り刻まれ、絶命するまで絶叫しつづけるだろう(今ならアマプラで観れるゾ)。

または、スタンリー・キューブリック監督『シャイニング』。逃げるためには見通しの良いロビーを横切る必要がある。だが、見通しが良いということは、こちらの姿も目に留まりやすいということだ。すぐに見つかって、罵りながら向かってくる「何か」。かろうじてドアで締め切るが、進入してくるまで、時間の問題だろう。

あるいは、スティーヴン・スピルバーグ監督『ジョーズ』。水中を自在に動き回る「何か」の姿は捉えられない。水に落ちたらアウトなら、落ちなければいい……そう考えていると裏をかかれる。「何か」はずる賢いのだ。そして、ひとたび水に落ちると、ようやく「何か」を見ることができる。巨大な口に飲み込まれるまでのわずかな間だが。

もっとも怖いと感じたのは、自分が求めていたものが「何か」になって、逆に追いかけられるシーンだ。

自分が探索し、謎を解き、敵を倒す「理由」になっていた存在が、見知らぬ、おぞましい「何か」になって襲ってくる(『声』が同じであることが、怖さを何倍にもする)。ようやく出会えたはずなのに、悲鳴しかでてこない。変わり果てた姿に、それでもなお、面影を探してしまう。

この、怖さと悲しさが混ざり合うこの気持ちは、スティーヴン・キング著『ペット・セマタリー』で味わった。家族への愛と、よみがえりを描いた傑作だ。

 

著者のスティーヴン・キングが、「あまりにも恐ろしくて忌まわしいので、出版を見送ってきた」と述懐せしめるほどの作品である。半信半疑で手にした後、本当にそうだと納得した。愛するものを失う悲しみは、計り知れないものがある。

そして、失ったものを取り戻そうと足掻く姿は、どこまでが愛で、どこからが狂気か、判別できない。その意味で、『バイオハザード ヴィレッジ』は、『ペット・セマタリー』と深いところでつながっている。

もちろんゲームだから、やられっぱなしでは済まない。機を見て、謎を解いて、反撃しないと。自分が味わってきた、さまざまな怖さを反すうし、なおかつ、それぞれの怖さを斃す、そんなゲームなり。

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